All Chapters of 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します: Chapter 121 - Chapter 130

174 Chapters

第121話 線を引いても嫌われない

 別部署からの相談は、少しずつ増えていた。 増えていたと言っても、一日中呼ばれるほどではない。けれど、資料の構成で迷った時、住民向けの文言が固くなりすぎた時、現場向けと管理者向けの説明が混ざった時に、「朝比奈さんに一度見てもらおう」という声がかかるようになっていた。 頼られることは、嬉しい。 でも、嬉しいだけでは済まないことも、私は少しずつ分かってきていた。 その日、相談されたのは事業者向けの説明資料だった。 最初に見る約束だったのは、説明会の冒頭で配る一枚だけだったはずだ。けれど会議室に入ると、机の上には分厚いファイルが置かれていた。「すみません、朝比奈さん。ついでにこの想定問答も見てもらえますか。住民向け案内ともつながるので」 担当者は急いでいる様子だった。 月末の説明会に間に合わせたいのだろう。焦りは分かる。私も、以前ならその焦りを見ただけで、引き受けなければと思っていた。 けれど、私はファイルに手を伸ばす前に一度止まった。 想定問答には、制度の判断が入る。 問い合わせ対応には、担当部署としての責任がある。 私が言葉の順番だけを見ているつもりでも、うっかり内容に踏み込めば、後で誰かを困らせるかもしれない。
last updateLast Updated : 2026-09-11
Read more

第123話 二件目の記録

 結和ケアの定例打ち合わせは、前回より少しだけ空気が柔らかかった。 もちろん、すべてが順調というわけではない。机の上には、職種別に分けた確認カードの修正版と、現場から届いた指摘の一覧が並んでいる。連絡先の書き方は少し分かりやすくなったけれど、緊急性の判断はまだ揺れていたし、家族連絡欄を入れるかどうかも決まりきっていない。 それでも、宮坂さんの表情には、最初の頃とは違う温度があった。「朝比奈さん、二件目が出ました」 その言葉に、私は資料から顔を上げた。「二件目、ですか」「はい。今回は配食ではなく、訪問支援側からです」 宮坂さんが共有資料をこちらへ向ける。個人が特定される情報は伏せられている。そこにあるのは、記録の流れと、誰がどこで迷ったかだけだった。「訪問支援のスタッフが、利用者さんの室内でいつもと違う様子に気づきました。すぐに緊急対応が必要というほどではありません。ただ、服薬の確認が少し曖昧で、ご本人の説明も日によって違っていたようです」 私はペンを握り直した。「その場で記録してくださったんですね」「ええ。確認カードの通り、対応したことを一つだけ残しました。ただし、ここで迷いが出ています」 宮坂さんは資料の下部を指した。
last updateLast Updated : 2026-09-13
Read more

第126話 三段階だけ

 翌朝、私は結和ケア用の新しい資料を開いた。 迷った時の確認表。 そうタイトルを打ってから、しばらく画面を見つめる。 三行カードは、入口だった。 いつもと違うことに気づいたら記録する。 対応したことを一つだけ残す。 迷ったら地域連携室へつなぐ。 けれど二件目の記録で分かったのは、その「迷ったら」の先にも、まだ迷いがあるということだった。緊急なのか、翌日確認でいいのか、通常記録として残せばいいのか。そこが人によって揺れれば、せっかく記録が残っても、次の動きにつながりにくくなる。 私は表を作り、項目を三つだけ並べた。『すぐ確認する』『翌日までに確認する』『通常記録として残す』 最初は、それぞれの欄に詳しい説明を入れようとした。けれど書き始めた途端、表がどんどん重くなっていく。例を増やしたくなる。注意書きを足したくなる。判断に迷わないように、あれもこれも入れたくなる。 でも、それをすればまた最初に戻ってしまう。 現場で見てもらえない資料になる。「琴葉、また削る顔してる」 朱音が隣から声をかけてきた。「削る前に、増やしそうになってる顔かも」「危ないね」「危ない」 私は画面を朱音に見せた。「迷った時の確認表を作ってるんだけど、説明を入れすぎると重くなる。でも少なすぎると判断できない」「間を取るの、難しそう」「うん。しかも三段階って決めてる」「四にしたら?」「高梨さんに、たぶん見ませんって言われた」「強い」「すごく強かった」 朱音は少し笑ってから、表を覗き込んだ。「これ、三つの名前は分かりやすいけど、最初に見る人は“自分のケースがどれか”で迷いそう」「そこなんだよね」「じゃあ、説明じゃなくて、問いかけにしたら? “今すぐ誰かに確認が必要?”みたいな」 私はその言葉に、少
last updateLast Updated : 2026-09-16
Read more

第127話 コンビニデザートの難易度

 週末の前日、玲央さんからメッセージが届いた。『本日、コンビニのデザートを選ぶ練習をしてもよろしいでしょうか』 画面を見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。 ラーメン、傘、そしてコンビニデザート。 正解ではなく、好きで選ぶ練習は、少しずつ生活の中に降りてきているらしい。「何笑ってるの」 朱音がすぐに気づいた。「水族館の人が、今日はコンビニのデザートを選ぶ練習をしたいって」「水族館の人、育成ゲームみたいになってきたね」「本人は真剣だから」「真剣にコンビニスイーツを選ぶ大人、嫌いじゃないよ」 朱音はそう言ってから、にやっと笑った。「で、琴葉は行くんでしょ」「少しだけ」「最近の“少しだけ”、だいぶ楽しそうだけどね」「……行ってきます」「はいはい。普通の約束、楽しんでおいで」 退勤後、駅近くのコンビニへ行くと、玲央さんはすでに店の外で待っていた。手には何も持っていない。どうやら、本当に私が来るまで選ばずに待っていたらしい。「お疲れさまです、琴葉さん」「お疲れさまです。もう見ましたか?」「棚の前までは行きました」「選ばなかったんですか」「選択肢が多すぎました」 あまりにも真面目な表情で言うので、私は笑いをこらえながら店内へ入った。 デザート棚には、プリン、シュークリーム、ロールケーキ、チーズケーキ、和菓子、季節限定のパフェまで並んでいる。たしかに、慣れていない人には難易度が高いかもしれない。 玲央さんは棚の前で、まるで重要な資料を比較するように一つずつ見ていた。「価格、容量、賞味期限、原材料、持ち帰り時の崩れにくさを考えると」「玲央さん」「はい」「今日は、食べたいかどうかです」「分かっています。ですが、情報が多いです」「コンビニデザートに圧倒される人、初めて見ました」「
last updateLast Updated : 2026-09-17
Read more

第128話 三段階の境目

 迷った時の確認表を試験版として出してから、最初の反応が届くまでに二日かかった。 二日。 待つには短い時間だと思う。 けれど、自分が作ったものが実際に使われるかもしれないと思いながら過ごす二日は、思っていたより長かった。 共有フォルダを開くたびに、まだ反応はないと確認してしまう。何も届いていないなら問題がないのかもしれない。けれど、見られていないだけかもしれない。そう考え始めると、画面の前で何度も同じ場所を見てしまった。「琴葉、フォルダを見守りすぎ」 朱音が隣から言った。「育つかなと思って」「フォルダは育たないよ」「反応は育つかもしれない」「詩人みたいなこと言い出した」 朱音に笑われて、ようやく少し肩の力が抜けた。 昼過ぎ、宮坂さんから連絡が入った。『確認表について、現場で一度使われました。短く共有できますか』 私はすぐにオンライン打ち合わせを入れた。 画面に映った宮坂さんの横には、高梨さんもいた。いつも通り、表情だけで簡単には判断できない。私は手元に試験版の確認表を開き、二人の話を待った。「朝比奈さん、まず前提として、三段階にしたこと自体は良かったです」 宮坂さんが言った。「ありがとうございます」「ただ、やはり境目で迷いました」 高梨さんが続ける。「すぐ確認する、翌日までに確認する、通常記録として残す。この三つは見やすいです。でも、現場で起きることはきれいに三つに分かれません」「はい」「今回迷ったのは、翌日まででいいようにも見えるけれど、今日のうちに誰かへ共有だけはしておきたいケースでした。緊急ではない。でも、通常記録だけにすると埋もれるかもしれない」 私はメモを取りながら、確認表の真ん中の欄を見た。 翌日までに確認する。 言葉としては分かりやすい。 でも、そこには「今日共有して、明日確認する」という動きが入っていない。
last updateLast Updated : 2026-09-18
Read more
PREV
1
...
1112131415
...
18
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status