All Chapters of 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します: Chapter 81 - Chapter 90

123 Chapters

第81話 同じ棚の前で

 本屋の中は、雨音が少し遠かった。 入口近くには新刊の平積み。 奥には文庫棚。 雑誌コーナーの前では学生らしい二人組が話していて、レジの方から紙袋の音が聞こえる。 普通の本屋。 普通の平日の夕方。 そのはずなのに、隣に玲央さんがいるだけで、妙に落ち着かない。「琴葉さんは、普段どんな本を読むんですか」「小説が多いです。あとは仕事関係の本を少し」「小説」「はい。疲れてる時ほど、他人の人生に逃げたくなるので」「逃げる、ですか」「悪い意味ではなく。自分と違う場所に行ける感じです」 玲央さんは少し考えてから頷いた。「面白いですね」「玲央さんは?」「仕事関係の本が多いです。あとは資料として必要なものを」「でしょうね」「でしょうね、ですか」「期待を裏切らない回答でした」 玲央さんが少し困ったように笑う。「小説も読んだ方がいいでしょうか」「義務で読むものではないですよ」「琴葉さんが好きなものを知りたいと思いました」 私は文庫棚の前で足を止めた。 まただ。 玲央さんは、こういうことをまっすぐ言う。 甘い言葉というより、こちらの逃げ場をなくすくらい正直な言葉。「……そういうのは、普通の本屋の会話に混ぜるには少し強いです」「すみません」「謝らなくていいですけど」「では、控えます」「控えすぎなくてもいいです」「難しいですね」「はい」 最近、このやり取りばかりしている気がする。 普通は難しい。 距離も難しい。 でも、難しいと言いながら続けている。 それが嫌ではないから、なおさら困る。 私は棚から一冊の文庫を手に取った。「こういうの、好きです」
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第82話 感想文ではありません

 その夜、私はベッドの上で本屋の紙袋を開いた。 雨に濡れないように抱えて帰ってきた文庫本。 静かな恋愛もの。 大きな事件は起きない。 ただ、少しずつ言葉が変わり、距離が変わり、相手を見る目が変わっていく話。 私は表紙を撫でてから、しばらく動けなかった。 玲央さんも、同じ本を持っている。 それだけのことなのに、妙に落ち着かない。 同じ映画を見るとか、同じ店で同じものを食べるとか、そういうことはいくらでもある。 でも同じ本を読むというのは、少し違う気がした。 同じ文章を、別々の場所で読む。 同じ場面で、何を思うのかはわからない。 それをあとで聞く。 普通のことのはずなのに、なぜかとても近い。 スマホが震えた。 玲央さんからだった。『読み始めました』 私は思わず笑う。『早いですね』『琴葉さんが好きな本なので』 また、さらっと甘い。 私は文庫本で口元を隠した。 誰に見られているわけでもないのに。『感想は仕事のレビューにしないでくださいね』『気をつけます』『構成分析も禁止です』『承知しました』『登場人物の行動改善案も禁止です』 既読がついたあと、少し間が空いた。『それは少し難しいかもしれません』 私は声を出して笑ってしまった。 真面目。 真面目すぎる。『感想文ではなく、ただの感想でお願いします』『わかりました。努力します』 努力するものなのだろうか。 玲央さんにとっては、きっと努力なのだ。 誰かの好きな物語を、正しくではなく一緒に楽しむこと。 それは彼にとって、まだ慣れない普通なのかもしれない。 私は本を開いた。 読み始めると、すぐに物語の空
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第83話 寝不足の理由が一冊です

 翌朝。 私は会社のデスクで、コーヒーのカップを両手で包んでいた。 眠い。 とても眠い。 理由は分かっている。 昨夜、玲央さんと同じ本を読み始めたからだ。 最初は少しだけ読むつもりだった。 三章まで。 せめて半分まで。 区切りのいいところまで。 そうやって自分に言い訳しているうちに、気づけば最後まで読んでいた。 そして読み終えたあと、玲央さんから感想が届いた。『最後まで読みました』 私も読みました、と返したのがまずかった。 そこから、ただの感想が始まった。 ただの感想。 のはずだった。 主人公が相手に傘を差し出す場面について。 最後に名前を呼び方を変える場面について。 好きだと言わずに、でももう全部伝わっているようなラストについて。 玲央さんは構成分析をしなかった。 登場人物の行動改善案も出さなかった。 ただ、静かに言った。『言葉にしない優しさは、相手に届かないこともあるのだと思いました』 その一文が、妙に胸に残ってしまった。 結局、寝るのが遅くなった。「琴葉」「はい」 隣の朱音が、出社早々こちらを見ている。「寝不足?」「少しだけです」「仕事?」「いえ」「じゃあ例の知人?」「知人ではなく、本です」「本」「本です」「へえ」 朱音は、まったく信じていない顔をした。「その本、一人で読んだ?」「……紙面上は一人です」「紙面上」「物理的には一人です」「精神的には?」「質問が鋭すぎます」 朱音は椅子に座り、にやりと笑った。「同じ本、読んだんだ」
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第84話 選書にも御曹司が出る

 その日の夕方。 仕事を終えて会社を出ると、玲央さんからメッセージが届いていた。『仕事関係以外の本を探しています』 私は駅へ向かいながら、少し笑ってしまった。 探しています。 まるで業務報告だ。『どんな本を探しているんですか』『琴葉さんと感想を共有できるものです』 足が止まりかけた。 この人は本当に、何でもまっすぐ言う。 駅前の人混みの中で、私はスマホの画面を見つめたまま、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。『難しく考えなくて大丈夫ですよ。玲央さんが読みたいものを選んでください』『俺が読みたいもの』『はい』 既読がついたあと、少し間が空いた。『それが一番難しいかもしれません』 短い文なのに、妙に胸に残った。 玲央さんは、たぶん選ぶことに慣れていないわけではない。 仕事なら、いくらでも選んできたはずだ。 正しいもの。 利益が出るもの。 リスクが少ないもの。 誰かに説明できるもの。 けれど、自分が読みたいから選ぶ。 ただ好きだから手に取る。 そういう選び方には、少し不慣れなのかもしれない。『では、直感で選んでみてください』『直感』『表紙が気になるとか、タイトルが気になるとか』『判断基準が不安定ですね』『そこが楽しいんです』 返事はすぐに来なかった。 私は電車に乗り、つり革につかまりながら画面を見る。 数駅進んだ頃、スマホが震えた。『候補を三冊まで絞りました』 私は嫌な予感がした。『三冊』『はい』『まさか比較表は作っていませんよね』 既読。 沈黙。 その沈黙で、すべてを察した。『玲央さん』『作り
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第85話 玲央さんが選んだ本

 その夜、私は玲央さんが選んだ本を開いた。 表紙で選んだ。 そう言っていた一冊は、思っていたより静かな物語だった。 小さな町の古い洋館で、季節ごとに手紙が届く話。 恋愛小説というより、人と人の距離が少しずつ変わっていく話だった。 玲央さんがこれを選んだのだと思うと、不思議な気持ちになる。 正しさでも必要性でもなく。 表紙が気になったから。 ただそれだけで選んだ本。 そのこと自体が、少しだけ特別に思えた。 スマホが震えた。『一章まで読みました』 私は時計を見る。 約束通り、一章で止まっている。『偉いです』『褒められることですか』『昨日の玲央さんなら最後まで読んでいたと思うので』『否定できません』 私は小さく笑った。『どうでした?』 送ると、少し間が空いた。 感想を仕事の報告にしないよう、考えているのかもしれない。『不思議な話です』『不思議?』『何か大きな事件が起きるわけではないのに、先を読みたくなります』『そういう本もあります』『人が変わる瞬間は、大きな出来事より、小さな言葉の積み重ねで起きるのかもしれません』 私は指を止めた。 本の感想。 たぶん、本の感想だ。 けれど、最近の玲央さんの感想は、いつも少しだけ私たちの話に似ている。『いい感想ですね』『仕事のレビューになっていませんか』『なっていません』『安心しました』 画面の向こうで、本当に少し安心している玲央さんの顔が浮かんだ。 その想像が自然にできることが、また私を落ち着かなくさせる。『琴葉さん』『はい』『俺は、自分が読みたいものを選ぶのが苦手なのだと思います』 急に届いた言葉に、
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第86話 普通の夕食、失敗しかける

 金曜日の夕方。 私は会社を出る前に、玲央さんから届いたメッセージを見ていた。『夕食の店を選びました』 ついに来た。 玲央さんが、自分で食べたいものを選ぶ練習。 普通の夕食。 高級店ではなく、普通のお店。 比較表なし。 候補一店舗。 そういう条件だったはずだ。『どんなお店ですか』『落ち着いて食事ができる和食店です』 私は少し身構えた。 落ち着いて食事ができる和食店。 この表現は危険だ。『個室ですか』『半個室です』『戻りかけています』『完全個室ではありません』『そういう問題ではありません』 既読。 沈黙。 私は会社のエントランスで足を止めた。 数秒後、返事が来る。『琴葉さんの普通からは外れていますか』 素直に聞かれると、少し言葉に詰まる。 責めたいわけではない。 でも、今日は本当に普通の夕食がよかった。 私が普段の生活で入るような店。 玲央さんにとって正解の店ではなく、一緒に少し戸惑える店。『少し外れています』 私はそう送った。『では、選び直します』『今からだと大変では?』『大丈夫です』 大丈夫。 この人の大丈夫は、かなり大規模に動く可能性がある。 私は慌てて打った。『では、私が選んでもいいですか』『もちろんです』 私は駅前へ向かいながら、前から気になっていた定食屋を思い出した。 会社帰りの人がよく入っていて、店先に手書きのメニューが出ている。 焼き魚定食。 生姜焼き定食。 唐揚げ定食。 味噌汁と小鉢付き。 とても普通だ。『
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第87話 好きの手前

 月曜日の昼休み。 私は社員食堂で定食を前にしていた。 週末に玲央さんと行った定食屋のことを思い出す。 食券の前で真剣に悩む玲央さん。 水を自分で取りに行く玲央さん。 焼き魚定食を食べて、少し嬉しそうにする玲央さん。 普通の夕食。 たったそれだけのことが、どうしてこんなに残っているのだろう。「琴葉」「はい」 向かいの席に座った朱音が、私をじっと見ていた。「週末、何食べた?」「なぜ食べ物から入るんですか」「顔がおいしいもの食べた顔だから」「私の顔、グルメレポートもできるんですね」「できる。で、何?」「焼き魚定食です」「普通」「はい。普通です」「誰と?」「……知人と」 朱音が箸を止めた。「まだ知人って言う?」「言います」「知人と本屋行って、同じ本読んで、感想送り合って、雨の日に相合傘して、定食屋に行ったの?」「相合傘は、人が多くて雨だったので」「言い訳が細かい」「事実です」「で、楽しかった?」 その問いに、私はすぐ答えられなかった。 楽しかった。 それは間違いない。 でも、その言葉を口にすると、何かが一つ進んでしまう気がした。「……楽しかったです」 結局、答えた。 朱音は満足そうに頷く。「もう好きじゃん」 味噌汁を飲みかけて、私は止まった。「違います」「違わないでしょ」「事情があるんです」「事情で人はそんな顔しない」「顔の証言能力が高すぎます」「じゃあ聞くけど、その人から連絡来たら嬉しい?」 私は黙った。 朱音は容赦なく続ける。「次の約束があ
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第88話 一か月目の名前

 契約婚約が始まって、一か月が過ぎようとしていた。 一か月。 言葉にすると短い。 けれど、その中身を思い返すと、とても短いとは思えなかった。 水族館に行った。 玲央さんのお母様とお祖母様に会った。 お父様にも会った。 普通のカフェに行き、雨の日に本屋へ行き、同じ本を読んだ。 定食屋で、玲央さんが食券の前で真剣に悩む姿も見た。 こうして並べると、普通とは何なのか分からなくなる。 少なくとも、私が以前想像していた契約婚約とは違う。 もっと事務的で、もっと距離があって、必要な時だけ並ぶものだと思っていた。 それなのに最近は、玲央さんから届く何気ないメッセージに、自然と返事を考えている。 まだ、好きとは言わない。 言えない。 でも、嫌ではない。 楽しい。 その二つは、もう誤魔化しきれなくなっていた。 仕事の方は、恋愛小説のようには進まない。 結和ケアとの試験導入準備は、派手な前進よりも細かな確認の積み重ねだった。 利用者への説明文。 現場スタッフが入力する項目。 誰がどこまで判断し、どこから本部へ確認するのか。 聞けば聞くほど、簡単には進められないことが増えていく。 でも、不思議と嫌ではなかった。 目の前の面倒な確認が、誰かの負担を少しだけ減らすかもしれない。 そう思うと、資料の細かい修正にも意味がある気がした。「朝比奈さん、結和ケア側から修正版の確認が来ています」「はい。今日中に見ます」「あと、来週の事業連携交流会の出席者リストも共有されました」「ありがとうございます」 私は受け取ったファイルを開いた。 事業連携交流会。 鷹宮グループと外部企業、地域事業者、関連団体の担当者が集まる場らしい。 私の名前も、出席者欄にあった。
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第89話 知らない肩書き

 交流会まで、あと数日。 ノヴァリンク株式会社では、参加者向けの最終打ち合わせが行われていた。「今回は鷹宮グループとの共同交流会です。自治体や地域事業者の担当者も参加します」 担当者が資料をめくる。「新しい生活支援連携事業についても意見交換がありますので、各自、事前資料には目を通しておいてください」 会議は十分ほどで終わった。 参加者たちが席を立つ中、陽斗だけは資料を閉じなかった。 もう一度、出席者一覧を見る。 朝比奈琴葉。 その名前の横には、会社名と担当業務が書かれている。 生活支援連携案担当。 以前なら、そこに違和感は覚えなかったかもしれない。 けれど今は違う。 琴葉が担当者として呼ばれている。 それが妙に引っかかった。「まだ見てるの?」 後ろから声がした。 振り返ると、莉愛が資料を片手に立っていた。「珍しいね。陽斗が会議資料を何度も見返すなんて」「少し気になることがあって」「仕事?」 陽斗は一瞬だけ答えに迷った。「……仕事かな」 莉愛は隣の席へ腰を下ろした。「さっきから、そのページばっかり見てるよね」「そう見える?」「見える」 陽斗は苦笑しながら資料を閉じた。「昔の知り合いの名前があっただけだよ」「朝比奈さんのこと?」 莉愛が言った。 陽斗は思わず視線を上げた。「覚えていたんだ」「忘れるわけないでしょう」 莉愛は軽く笑った。 けれど、その笑みは少しだけ硬かった。「あの場にいたもの。あなたが婚約を解消した相手で、私の前で静かに立っていた人」 陽斗は資料に視線を戻した。「……そうだったね」「それに最近、玲央さんの周りでも少し名前を聞くの」
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第90話 交流会は仕事です

 交流会までの三日間は、思っていたよりも早く過ぎた。 資料の確認。 結和ケアとの連携案の説明整理。 想定質問への回答。 社内で共有された参加者一覧。 その全部を見直しているうちに、気づけば当日の朝になっていた。 私は鏡の前で、いつもより少しだけきちんとした服を整える。 派手ではない。 けれど、頼りなくも見えない。 今日の私は、誰かの元婚約者として行くのではない。 玲央さんの契約婚約者として行くのでもない。 生活支援連携案の担当者として、会場に立つ。 そう何度も自分に言い聞かせた。 スマホが震える。 玲央さんからだった。『本日は会場でお会いします』 その一文を見て、少しだけ肩の力が抜けた。 迎えに行く、ではない。 一緒に入る、でもない。 会場でお会いします。 それが今日の距離なのだと、玲央さんは分かってくれている。『はい。今日は担当者として頑張ります』 送ると、すぐに返事が来た。『はい。担当者としての琴葉さんを、俺も見ています』 私はスマホを伏せた。 甘い言葉ではない。 でも、胸の奥が熱くなる。 見守られることと、守られることは違う。 玲央さんは、その違いをちゃんと分けてくれている。 会社に着くと、朱音が私を見て目を細めた。「今日、交流会だよね」「はい」「顔が戦場に行く人」「交流会です」「社会人の交流会は、時々戦場でしょ」 否定できなかった。 朱音は私の手元の資料にちらりと視線を落とす。「元婚約者、来るんだっけ」「来ます」「その相手の人も?」「来ます」「……なかなか濃いね」「濃度は高めです」
last updateLast Updated : 2026-08-13
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