Todos os capítulos de 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Capítulo 111 - Capítulo 120

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第110話:線の引き方

新しい案件が始まったのは、イベントの熱がようやく落ち着いた頃だった。大型クライアント。制作、メディア、営業が全部絡む。しかも進行がかなりタイトで、最初のキックオフから空気が少し張っていた。自然と、正人と一緒に動く時間が増えた。増えたはずだった。なのに、前とは少し違った。正人は変わらず助けてくれる。資料も見てくれる。先方との調整も早い。抜けそうな論点があれば、ちゃんと拾ってくれる。でも、前みたいな近さがない。たとえば、以前なら。「先これやっとく」そう言って、私が詰まりそうなところを自然に拾ってくれていた。私がまだ言葉にする前に、正人の方が気づくことも多かった。それが今は違う。「一回整理して」「愛子はどう考えてる?」「そこ、先に前提置いた方がいい」返ってくるのは、問いだった。突き放されているわけではない。助けてくれないわけでもない。でも、自分で考えさせる。前みたいに先回りして守らない。それが、仕事としては正しいことも分かっている。分かっているのに、胸のどこかが落ち着かなかった。雑談も減った。夜の残業中、コンビニへ行く時に、「タバコ行くけど」と言われることもなくなった。以前は、私は吸わないのに、なんとなく一緒についていっていた。外の空気を吸って、どうでもいい話をする。新商品の話とか、会議で少し面白かった発言とか。本当に意味のない会話。でも、あの時間が、気づかないうちに休憩になっていた。そういうものが、静かになくなっていた。最初は、正人なりに距離を取っているのだと思った。告白された。私はすぐに答えを出せなかった。だから、正人が線を引こうとするのは分かる。分かるけど。仕事まで急に変わらなくてもいいじゃん。そう思ってしまう自分もいた。その日、会議室に残ったのは、もう二人だけだった。時計を見ると、二十二時半を少し過ぎている。外のフロアは静かで、空調の音だけが妙にはっきり聞こえた。正人はモニターを見ながら、淡々と言った。「これ、訴求ズレてる」私は眉を寄せる。「ズレてないよ。クライアントの優先順位考えたらこっちでしょ」正人が静かに首を振る。「感情で押してる」その言葉に、私の中の空気が少し止まった。「……何それ」「愛子、多分今、自分の成功体験に寄ってる」言い方は冷静だった。
last updateÚltima atualização : 2026-07-26
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第111話:告白されて

窓を開けてベランダに出ると、夜風が頬に触れた。少し冷たい。けれど、部屋の中にいるより息がしやすい。隣のベランダから、声がした。「珍しい」翔太だった。黒のスウェット。少し疲れた顔をしている。でも、私を見る時だけ、目元が少し柔らかくなる。最近、それに気づくようになった。昔みたいに分かりやすく近づいてくるわけではない。でも、距離の取り方が前よりずっと静かになっている。踏み込まない。でも、見ている。「何かあった?」低い声だった。決めつけない。ただ聞く。私は少し笑った。「顔に出てる?」「わりと」翔太も少し笑った。昔より余裕がある。でも、こういう時の空気の入り方は変わらない。話しやすい。少しだけ安心する。最初は、仕事の話だった。新しい案件。忙しさ。残業。クライアントの優先順位。制作との調整。話しているうちに、言葉が少しずつほどけていった。そして、気づけば正人の話になっていた。「なんかさ」私は缶を持ちながら言った。「最近、仕事だとすごい厳しいんだよね」翔太はすぐに返さなかった。缶に口をつけるわけでもなく、こちらを見るわけでもなく。ただ、ちゃんと聞いている。その間が、妙に安心した。「正人は最近、冷たいっていうか」自分で言いながら、少し違うとも思った。正人は冷たいわけではない。ただ、遠い。「告白されてから、明らかになんか違くて」言ってから、少しだけ心臓が跳ねた。前にジムで会ったときに、濁しながら話したけど。正人に告白された、とはっきり言ったのは初めてだった。翔太の動きが、一瞬だけ止まった。缶を持つ指先。ほんの少し。でも、すぐに戻る。「へえ」低い声だった。静かだった。「で、距離取ってるように見えるんだけど」私は続けた。「今日、仕事でぶつかって」翔太は少し考えるように、夜景の方へ目を向けた。風が吹く。沈黙が少しだけ挟まる。それから、静かに言った。「……でも」「うん」「正人さんの言ってること、ちょっと分かる」私は止まった。「え?」味方してくれると思っていた。少なくとも、少しは。翔太は私を見る。少しだけ困ったような顔だった。でも、誤魔化さなかった。「愛子、結構甘えるじゃん」責める言い方ではなかった。事実を置くみたいな声。だから余計に、少し刺
last updateÚltima atualização : 2026-07-26
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第112話:隣にいる人

翌朝。通勤中の電車で、私はぼんやりスマホを見ていた。画面には、開きっぱなしの資料。でも、文字はほとんど頭に入ってこなかった。昨夜のベランダ。夜風。翔太の声。それから、正人の言葉。頭の中で、何度も同じ場面をなぞってしまう。愛子、結構甘えるじゃん。あの言い方は、責めるものではなかった。むしろ、ただ事実を置かれた感じだった。だからこそ、少し刺さった。思い返してみれば、正人は今までかなり歩み寄ってくれていた。私が詰まりそうになれば、先に気づいてくれた。言葉にする前に拾ってくれた。少し感情的になっても、最後は正人が受け止めてくれた。私は、それを当たり前みたいに受け取っていたのかもしれない。正人だから。分かってくれるから。いつも隣にいる人だから。そんなふうに。でも、今の正人は違う。告白をして。私がすぐに答えられなくて。それでも仕事はちゃんとやろうとしている。前と同じ距離でいる方が、たぶん正人にとってはずっと苦しい。そう思った瞬間、昨日の言葉が少し違って聞こえた。今までは、近すぎたんじゃない。あれは、私を責めるためだけの言葉ではなかったのかもしれない。仕事を守ろうとしていた。そして、たぶん。自分の気持ちも、どうにか守ろうとしていた。胸の奥が少し重くなる。私、子どもだったかも。電車の窓に映る自分の顔が、少し疲れて見えた。私は小さく息を吐く。今日は、ちゃんと話そう。逃げないで。***その日の夜。会議室に残ったのは、また二人だけだった。二十一時を回っている。モニターの光だけが、少し白く机の上を照らしていた。前日より、空気は少しぎこちない。けれど、昨日ほど張りつめてはいなかった。正人は淡々と資料を見ている。黒いシャツの袖を少しまくって、画面の端を指で示す。「ここ、数字の根拠だけ補足入れた方がいい」「うん」「この順番だと、先方の反応がたぶん悪い。先に課題を置いてから施策に入った方がいい」「分かった」いつもの仕事の会話。でも、私たちの間には、まだ言葉にしていないものが残っている。それが分かるから、キーボードを打つ音まで少し大きく聞こえた。私は何度か口を開きかけて、やめた。今言うべきか。もう少し後にするべきか。でも、後にしたらまた言えなくなる気がした。私は画面から目を離して、
last updateÚltima atualização : 2026-07-27
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第113話:珍しくない?

資料を閉じる頃には、二十二時前になっていた。正人が椅子にもたれ、軽く目元を押さえる。「今日はここまででいいと思う」「うん」私もPCを閉じた。その時、正人がふと口を開いた。「でも」「うん?」「珍しくない?」私は顔を上げる。「何が?」正人は少しだけ目元を緩めた。「折れるの早かった」「折れるって」「前なら二、三日引きずってた」言い方は少しだけからかうようだった。私は一瞬止まる。たしかに、そうかもしれない。普段の私なら、自分の中で何度も考えて、相手の言い方の悪さにも腹を立てて、二、三日は引きずったと思う。今回も、たぶん一人だったらそうしていた。だから、何も考えずにぽろっと言ってしまった。「あー……」少し笑う。「翔太に言われた」空気が、ほんの少し止まった。正人の手が、一瞬だけ止まる。本当に一瞬。でも、私は見逃さなかった。「……翔太?」静かな声だった。私はその時、まだ深く考えていなかった。昨夜のことを、そのまま話すくらいの感覚だった。「昨日ちょっと話して」軽い温度で言う。「正人の言ってることも分かるって言われて」正人は何も言わなかった。私は続ける。「めっちゃ冷静に整理された」少しだけ笑う。「愛子、結構甘えるじゃんって」言ったあとで、ふと正人の表情を見た。正人は目元を大きく変えなかった。口元も、ほとんど動かない。でも、視線が少しだけ落ちていた。手元のマウスに添えた指が、わずかに止まっている。その沈黙で、ようやく気づく。しまった。そう思った時には、もう言葉は出ていた。翔太。元彼。隣人。正人から告白された後の、この微妙な距離の中で。私はその人に、正人のことを話した。しかも、翔太の言葉で整理して、今日謝った。私にとっては、ただ少し話を聞いてもらっただけだった。でも、正人にとっては違うのかもしれない。「……ごめん」思わず言った。正人が顔を上げる。「いや」短い返事。「別に、謝ることじゃない」声は落ち着いていた。でも、少しだけ温度が低くなった気がした。私は言葉を探す。「変な意味じゃなくて」「分かってる」正人はすぐに言った。「相談しただけでしょ」その言い方に、胸が少し痛んだ。責められているわけではない。むしろ、責めないようにしている。それが分かるから
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第114話:意外とちゃんと大人だよね

翌日の夜。仕事用のバッグをソファに置いたまま、私はしばらくスマホを見ていた。正人との衝突は、一応片づいた。昨日、翔太に言われた通り、一度感情を分けて考えてみたら、自分が何に苛立っていたのか少しだけ見えた。正人が冷たくなったのではなく、距離を引こうとしていること。その距離の中で、仕事まで前と同じように甘えようとしていたこと。そして、自分がそれに気づかないまま、勝手に寂しがっていたこと。正人に謝ったら、正人も言い方が悪かったと認めてくれた。完全に元通りではない。でも、仕事としての空気は少し戻った。そのことを、翔太に伝えたいと思った。お礼、というより、報告に近かった。気づけば、チャットを開いている。『昨日の件、ちゃんと話せた』『ありがとう』送ってから、少しだけ迷った。それだけで終わらせるつもりだった。なのに、指が勝手に続けていた。『ご飯まだだったら、近所に良さそうなカフェ見つけたから奢る』送信してから、スマホを伏せる。なんでそこまで送ったんだろう。昨日、助けてもらったから。それだけ。そう思おうとした。数分後、スマホが震えた。『まだです』『奢りなら行きます』その返事があまりにも翔太らしくて、少し笑ってしまう。続けて、もう一通。『ただ来週からニューヨーク出張なので、早めに帰ります』指が止まった。ニューヨーク。一週間。別に、珍しいことではないはずだった。翔太は外資の金融機関で働いているし、海外との調整が増えていると言っていた。出張くらいある。それなのに。来週はいないのか、と思った瞬間、胸の奥に小さな空白ができた。最近、なんとなく連絡を取っていた。ベランダで話したり、ジム帰りに会ったり、くだらないことを少しだけ送ったり。それが急に途切れる。たった一週間なのに。不思議と、少し寂しい。その感覚に戸惑いながら、短く返した。『了解』『じゃあ今日軽くで』***カフェは、マンションから少し歩いたところにあった。夜はワインも出す、小さな店。木目のテーブルに、柔らかい照明。窓際の席からは、駅へ向かう人たちの流れが見える。翔太は少し遅れて来た。白いシャツに黒いパンツ。仕事終わりのままらしく、袖だけ少し捲っている。少し疲れていた。でも、その疲れすら妙に大人っぽく見えるのが、少し腹立たしい。
last updateÚltima atualização : 2026-07-27
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第115話:近すぎた二秒

「話し相手くらいなら」少し間。「来週いないけど」その言い方が、あまりにも普通で、笑ってしまった。「いないんじゃん」「タイミング悪いですね」「本当に」笑いながら、胸の奥が少しだけ寂しくなる。翔太が来週いない。それを残念だと思っている自分がいる。「でも確かに」無意識に言っていた。「翔太には気軽に話せちゃうかも」翔太がこちらを見る。私は気づかず続けた。「距離的には、正人とあった近さに少し似てるのかな。隣だし、変に気を遣いすぎなくていいし」その瞬間、翔太の表情がほんの少し変わった。痛み、というほど分かりやすくはない。でも、口元がわずかに止まって、視線だけが一瞬落ちた。何かを飲み込んだような顔だった。正人と近い。そう言われたことに、何を思ったのかは分からない。けれど次の瞬間、翔太は少しだけ口元を上げた。「でも俺、正人さんみたいに部屋に呼ばれたことないですけど」私は止まる。翔太は少し笑っていた。夜の照明のせいか、その笑みはいつもより少し色を持って見えた。冗談のようで。冗談だけではない。「そんな気軽に呼ばないでくださいね」低い声。「一応、元カレなんだし」胸が、跳ねた。なんで今、そんな顔をするの。言葉は軽いのに、目だけが少し甘い。静かで、少し悪い。昔の翔太にはなかった表情だった。一瞬だけ返事に困る。「……それ、自分で言う?」やっと出た言葉は、それだけだった。翔太はすぐに視線を逸らした。少しだけ照れたみたいに、グラスを持ち直す。「まあ、俺も実際は仕事して寝るくらいしかないんで」誤魔化した。分かりやすいくらいに。その感じが少し可笑しくて。でも、さっきの表情だけが妙に残った。***帰り道。夜の空気は少し冷たかった。二人で並んで歩く。駅前の小さな交差点。信号が赤に変わり、足を止めた。その時、歩道の端を自転車が少し速いスピードで抜けてきた。「危ない」翔太の声が近かった。次の瞬間、腕を引かれる。自然な動きだった。考えるより先に、身体が引き寄せられていた。翔太の手が、私の腕を掴んでいる。距離が近い。思っていたより近い。肩が触れそうで、息が少し詰まる。一瞬だけ、翔太の香りがした。洗剤みたいな、少し乾いた匂い。懐かしいようで、知らない匂い。信号待ちのざわめきが、少し遠
last updateÚltima atualização : 2026-07-28
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第116話:遠くにいる人

翔太がニューヨークへ発ったのは、月曜の朝だった。出張の話を聞いた時は、ただ忙しそうだと思っただけだった。外資系の金融機関なら、そういうこともある。時差のある会議も、海外チームとの調整も、翔太の日常の一部なのだろう。それなのに。夜、帰宅してベランダ側の窓を見た時、隣が静かなことに気づいてしまった。もちろん、いつも音がしていたわけではない。毎日話していたわけでもない。でも、最近は少しだけ違った。帰りが遅い日に短いメッセージが来たり。ベランダで数分だけ話したり。ジム帰りに偶然会ったり。気づけば、生活の中に小さく翔太が混ざっていた。それが一週間ない。そう思うと、妙に部屋が広く感じた。火曜日の夜。仕事帰りに立ち寄ったドラッグストアで、歯磨き粉の棚を見ていた時だった。ふと、前に欲しいと思っていた海外の歯磨き粉を思い出した。日本でも買えなくはない。でも、少し高い。マンハッタンなら、普通にドラッグストアにあるかもしれない。そう思って、チャットを開いた。『もしドラッグストア寄ることあったら、歯磨き粉買ってきてもらってもいい?』送ってから、少しだけ笑ってしまった。何を頼んでいるんだろう。ニューヨーク出張中の人に。数分後、返信が来た。『どれですか』そのあまりにも普通の返事に、少し安心する。商品名を送ると、すぐに既読がついた。しばらくして、スマホが震えた。『今ドラッグストアいます』『種類ありすぎてわからない』『電話していい?』私は時計を見た。東京は夜十一時過ぎ。ニューヨークは朝。時差が、急に現実味を持つ。少し迷ったけれど、通話ボタンを押した。数コールで繋がる。「もしもし」翔太の声だった。少し遠い。店内の音が混ざっている。英語のアナウンス。誰かの笑い声。レジの電子音。それだけで、翔太が本当にマンハッタンにいるのだと分かった。「ごめん、出張中に」「大丈夫です。むしろ、今ここで決めないと一生分からない」真面目な声。思わず笑ってしまう。「写真送って」「送ります」少しして、画面に棚の写真が届いた。同じブランドのチューブが、色違いで何種類も並んでいる。「これ、右から二番目」「これ?」「違う、それホワイトニング強いやつ。隣」「歯磨き粉にそんな違いあります?」「あるでしょ」「全部同じ
last updateÚltima atualização : 2026-07-28
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第117話:隣にいる人

***その数日後、私は急遽、九州へ行くことになった。クライアントからの依頼で、現地支社への同行が必要になったのだ。一泊二日。正人と、チームの後輩二人。本来なら私が行く予定ではなかった。でも、クリエイティブ面の説明が必要になり、直前で追加された。スケジュールはかなりタイトだった。朝の便で移動。午後に支社で打ち合わせ。夕方に追加確認。翌朝には現地で軽い視察をして、そのまま東京へ戻る。仕事の合間に、東京側の案件も確認しなければならない。移動中もPCを開き、返信を打つ。空港から車に乗っている間も、正人は別クライアントの調整をしていて、私も資料の修正をしていた。以前なら、こういう出張では正人と自然に動線が重なっていた。空港でコーヒーを買うタイミング。タクシーの席。打ち合わせ前の確認。会食前の小さな打ち合わせ。でも今回は、少し違った。担当範囲が微妙に分かれていたこともある。正人はメディアと進行全体。私はクリエイティブ説明。後輩二人は現地支社との調整と議事録。自然と、正人と話す時間は少なくなった。正人が距離を取っていることも、たぶん少しある。それは分かっていた。分かっているけれど。忙しい出張の中で、いつも隣にあった気配がないことが、思っていたより心細かった。夜。クライアントとの会食は、予定より重かった。支社長はよく笑う人だった。豪快で、声が大きく、場を盛り上げるのが好きなタイプ。最初は仕事の話だった。現地の市場。支社の課題。次の施策。でも、途中から酒のペースが上がった。「平原さん、飲めるでしょ」グラスを向けられる。断りづらい空気だった。私は笑って受ける。一杯。もう一杯。支社長が勧める。周りも笑う。場を壊したくない。ここで強く断ると、少し面倒になる。そう思ってしまう。いつもなら、正人がどこかで止めてくれていた。「平原さん、明日朝早いんで」とか。「それ以上飲ませたら、明日資料出ませんよ」とか。冗談にして、自然にグラスを遠ざけてくれた。でも今日は、席が離れていた。正人は別の役員に捕まっていて、こちらを見る余裕があまりない。私も、大丈夫な顔をした。笑っていた。仕事の顔で。解散するまでは、なんとか耐えた。店を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。歩道の明かりが、
last updateÚltima atualização : 2026-07-28
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第118話:酔ってる

コンビニの自動ドアが開いて、正人が戻ってきた。夜の地方都市の空気は、東京より少しだけ湿っている。店内の白い照明を背負って出てきた正人の手には、水のペットボトルと、小さな茶色い瓶が握られていた。私はコンビニの外壁にもたれたまま、それをぼんやり見ていた。歩道の向こうをタクシーが一台通り過ぎる。テールランプが赤く滲む。酔いのせいで、光の輪郭が少し柔らかい。「まだ座ってた」正人が近づいてきて、眉を寄せた。「動いたら酔いそうで」「もう酔ってる」即答だった。その言い方が少し懐かしくて、思わず笑ってしまう。以前の正人は、こういう時いつも少し呆れていた。でも結局、最後まで面倒を見てくれる。その距離が当たり前だった頃は、私もそれを当たり前のように受け取っていた。正人は私の前にしゃがみ込むと、小さな瓶の蓋を開けた。「これ飲んで」ラベルを見る。二日酔い防止ドリンクだった。「……今?」「多分、意味ないと思う」正人が淡々と言う。「じゃあなんで買ったの」「気休め」そう言って、少しだけ口元を緩める。その砕けた言い方に、胸の奥がじわっと温かくなった。三年前にも、似たようなことがあった。大阪出張。クライアント会食。場を壊したくなくて、飲める顔をしていたら、気づいた時には立つのも面倒なくらい酔っていた。その時も正人は、コンビニで水とよく分からないドリンクを買ってきて、同じように「多分意味ないけど」と言いながら飲ませた。あの頃は、何も考えていなかった。正人が助けてくれることも。自分が正人に甘えていることも。その距離が、ずっと続くと思っていたことも。私は瓶を受け取り、少し顔をしかめながら飲んだ。濃い味が喉を通っていく。「まずい」「効きそう」「多分意味ないって言ったじゃん」「気持ち」正人が水のペットボトルも開けて渡してくる。「こっちも」私は素直に受け取った。冷たい水が喉を落ちると、少しだけ身体の輪郭が戻る気がした。「ホテル戻るよ」正人が立ち上がる。私も立とうとしたけれど、足元が思っていた以上にふらついた。次の瞬間、正人の手が自然に腕を支える。「ほら」低い声。呆れているのに、離さない。「歩けないでしょ。ほとんど、今の状態だと」「歩ける」「無理」返事が早い。少し冷たいくらいだった。でも、その手は
last updateÚltima atualização : 2026-07-29
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第119話:検討フェーズ

自分に言ったみたいな温度。でも、ちゃんと聞こえた。聞こえないふりをして、代わりに正人の腕を少し強く掴んだ。離れたくなかった。酔っているから。今だけ。そう言い訳しながら。正人が少し止まる。長い沈黙。それから、諦めたようにもう一度ため息をつき、ベッドの前にしゃがみ込んだ。「ヒール履いたまま横になってる人に、『正人いなくても大丈夫になる』とか言われても、説得力ないからね」まだ言っていない言葉を先に読まれた気がして、少し笑ってしまう。「言おうとしてた」「知ってる」正人は片方のヒールに手をかけた。その手つきが、驚くほど丁寧だった。酔っている足を乱暴に扱わないように、ストラップを外し、かかとを支えて、ゆっくり脱がせる。壊れものに触れるみたいだった。その丁寧さに、胸が小さく跳ねる。恥ずかしくて、顔を手で隠した。でも、目は離せない。もう片方の靴も、同じように外される。正人の指先が足首に少し触れた時、呼吸が一瞬だけ浅くなった。それは、安心だけではなかった。介抱されているだけ。それなのに、丁寧に扱われるたび、今まで見ようとしてこなかった正人の輪郭が、少しずつ近づいてくる。友達。戦友。家族みたいな人。そのどれでもあるのに、それだけでは済まなくなっている。そのことに、酔った頭でゆっくり気づいていた。「……今日はごめん」手で顔を隠したまま言う。「今までも。迷惑かけて」正人は靴をそろえて、ベッドの横に置いた。「明日の分まで謝っとくし」私は小さく息を吐く。「これからは、正人がいなくても大丈夫なように頑張るから、私」部屋の空気が少し止まった。正人はしばらく何も言わなかった。それから、低い声で言う。「別に、距離を取りたいわけじゃない」手の隙間から正人を見た。正人は視線を落としたまま、少しだけ苦笑していた。「何回でも言うけど、俺はこの距離を近づけたくて、距離取ってるんだからね」胸がきゅっと縮む。その言葉には、責める響きはなかった。けれど、静かに積もった本音があった。正人は、私が困らないように離れている。でも本当は、近づきたい。その矛盾を、ずっと自分の中で抱えている。「好きだから許すしかないけど」正人が少し息を吐いた。「今日みたいな日は、本当に困る」声が低くなる。さっきまでの呆れた調子とは違う
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