Alle Kapitel von 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Kapitel 121 – Kapitel 130

196 Kapitel

第120話:比較材料

翌朝。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。頭が重い。喉が乾いている。身体の奥に、昨夜の酒がまだ少し残っている。それでも、起きられた。枕元には、正人が置いていった水があった。その横に、自分のスマホ。画面をつけた瞬間、私は固まった。自分宛てのメッセージ。『正人にデート提案した』『覚えてたらちゃんと考える』『美術館とかあり』「…………」覚えている。残念ながら、かなり覚えている。正人がヒールを脱がせてくれたこと。「この距離を近づけたくて、距離取ってるんだからね」と言ったこと。後輩に任せるのが嫌だ、と低い声で言ったこと。そして、私が酔った勢いで、仕事の提案みたいにデートを申し込んだこと。布団の中で顔を覆う。最悪。いや、最悪ではない。でも、かなり恥ずかしい。朝食会場で後輩たちと合流した時、正人はいつも通りだった。「顔、死んでる」「二日酔いです」後輩が心配そうに笑う。「昨日、大丈夫でした?」「全然覚えてない」反射的にそう言った。正人が一瞬だけこちらを見る。でも、何も言わない。「なら水飲んどいて」それだけだった。普通。あまりにも普通。その普通さに、胸が少しだけちくっとした。昨日のことを、なかったことにされたわけではない。むしろ、正人は私が逃げられるようにしてくれている。今は仕事中だから。後輩もいるから。私が恥ずかしがらないように。そう分かるから、余計に痛かった。東京に戻ってからも、心は落ち着かなかった。正人に連絡する勇気は出ない。でも、忘れることもできない。結局、その夜、私はさやかを召喚した。***「で?」店に入ってすぐ、さやかが言った。「顔が事件」「事件ではある」「はい、話して」まだ席にもきちんと座っていないのに、さやかは水を一口飲んで、完全に聞く姿勢に入っていた。私は九州出張のことを、できるだけ簡潔に話した。飲みすぎたこと。正人に助けられたこと。ヒールを脱がせてもらったこと。そして、デートを提案したこと。さやかは途中から笑いを堪えるのをやめた。「待って。検討フェーズって何」「酔ってたから」「酔ってても愛子すぎる」「本当にやめて」「しかも美術館とかありって、自分宛てにメモ残してるのが怖い」「正人に言われたの。後悔防止で自分に送っとけって」「正人、優秀す
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-31
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第121話:正式に受理しました

既読はついた。けれど、返信はなかった。私はその画面を、何度も見てしまった。『美術館行かない?』たった一文。送った時は、勢いがあった。さやかに背中を押されたこともあるし、正人に「覚えてたら」と言われたこともある。ちゃんと考えるため。比較材料を増やすため。そう自分に言い聞かせて送った。なのに、既読がついたまま何も返ってこないと、途端に心細くなる。帰宅して、部屋着に着替えて、メイクを落として。それでも、スマホが気になった。テーブルに伏せても、数分後にはまた手に取ってしまう。正人は、返信が遅い人ではない。仕事でもプライベートでも、必要な返事は早い。だからこそ、余計に気になる。困っているのか。考えているのか。それとも、昨日のことを酔った勢いとして流した方がいいと思っているのか。どれもありそうで、小さく息を吐いた。翔太からは、もう返信が来ていた。『OK』それだけ。あまりにも短い。でも、翔太らしかった。出張中だし、帰ってきたら調整すればいいと思っているのだろう。その温度は、なぜか安心できた。急かされていない。重くされていない。でも、断られてもいない。私はその画面を見て、少しだけ肩の力を抜いた。問題は、正人だった。既読。それだけが残っている。「……何なの」ひとりごとのように呟いた時、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、一瞬息を止める。正人。通話だった。チャットアプリの着信画面が、妙に大きく見える。そういえば、正人と電話するのは久しぶりだ。前は、仕事帰りにどうでもいいことでかけてきた。「コンビニいるけど何かいる?」とか。「明日の資料、どこ置いた?」とか。本当に、くだらないことで。でも最近は、そういうことがなくなった。距離を取るということは、こういう小さな習慣まで消えていくことなのだと、今さら気づく。徹底してるな、と思う。でも、その徹底の中で電話をしてきたことに、少しだけ緊張した。「……もしもし」出ると、少し間があった。それから、正人の声が聞こえた。「この間の提案の件、という理解で合ってますか?」完全にクライアント確認のトーンだった。一瞬固まって、それから笑ってしまう。「何その言い方」「いや、認識齟齬あると困るので」「仕事じゃないんだけど」「愛子がサービス比較
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第122話:提案概要

「ご飯行くことはあったけど、休日何してるかって、あんまり知らないなと思って」仕事帰りに飲む。案件終わりにご飯へ行く。タバコ休憩についていく。そういう正人は知っている。でも、休日の正人をあまり知らない。ゴルフをすること。サーフィンをすること。そういう趣味の断片は聞いたことがある。でも、それは私の生活とは少し離れたところにある正人だった。どんな場所を選んで、どんなふうに過ごして、仕事ではない時に何を見ているのか。考えてみたら、知らない。そして、少し知りたいと思った。その気持ちに、自分で気づいてしまう。「箱根の美術館って、どこ?」「彫刻の森か、ポーラ。天気次第で決めてもいい」「ちゃんとしてる」「提案なので」「またそれ」電話の向こうで、正人が少し笑った気配がした。「嫌なら都内でもいいよ」「嫌じゃない」思ったより早く答えていた。自分の声に、少し驚く。「今週末、大丈夫」「じゃあ土曜。朝、迎えに行く」「うん」それだけの会話なのに、胸の奥が少し鳴っている。緊張はある。でも、それだけではない。少しだけ、楽しみだった。「じゃあ、詳細送る」「うん」「ちゃんと寝て」「まだ寝ないけど」「昨日飲みすぎた人が言うことじゃない」「もう大丈夫」「信用してない」「ひどい」「事実なので」そう言って、正人が少し笑った。その声が久しぶりに近く感じて、少しだけ黙ってしまう。前みたいに戻ったわけではない。でも、完全に遠くなったわけでもない。電話越しの正人は、私が知っている正人で。でも、これから知ろうとしている正人でもあった。通話を切ってから、しばらくスマホを見つめていた。数分後、正人からメッセージが届く。『【提案概要】』『日時:今週土曜』『行き先:箱根の美術館(天気と混雑で調整)』『移動:車で迎えに行きます』『目的:プライベートの正人に関する比較材料の提供』『補足:酔っていたとしても、正式に受理しました』声を出して笑ってしまった。ずるい。ちゃんと逃げ道を作っている。冗談にしてくれている。でも、その中に本気がある。気まずくならないように。私が恥ずかしくならないように。わざと仕事みたいな形にしてくれている。その優しさに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ柔らかくなる。続けて、もう一通届いた。『
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第123話:休日の正人

土曜の朝。目覚ましより少し早く目が覚めた。カーテンの隙間から入る朝の光が、床に細く伸びている。まだ眠れる時間なのに、身体だけが妙に起きていて、胸の奥が落ち着かない。今日は、正人と出かける。比較検討のためのデート。そう名前をつければ、少しだけ冷静でいられる気がした。正人をちゃんと見るため。今まで知っているようで見てこなかった、仕事でも、親友でもない正人を知るため。そう思っているのに、クローゼットの前で二十分も悩んでいる時点で、もう言い訳としては弱かった。白いトップスに、ネイビーのロングスカート。きれいめだけれど、張り切りすぎてはいない。車移動でも座りやすくて、美術館でも歩ける。さやかに送った写真には、すぐに返信が来た。『いい。頑張りすぎてないけど、ちゃんと可愛い』その言葉に少しだけ安心して、鏡の前で袖の落ち方を直した。ちゃんと可愛いと思われたい。ふと浮かんだ言葉に、自分で目を逸らす。比較検討。そう言い聞かせる。でも、比較検討にしては、心臓が忙しい。九時半少し前、スマホが震えた。『着きました』短いメッセージ。私はバッグを持って、玄関を出た。マンション前に停まっていたのは、黒い国産の高級SUVだった。外車ほど押し出しは強くないのに、ちゃんといい車だと分かる。嫌味がなくて、堅実で、でも安くはない。見た瞬間、少し笑ってしまった。助手席の窓が下がる。運転席の正人がこちらを見る。黒の薄手ニットに、ベージュ寄りのパンツ。スーツ姿よりずっと柔らかいのに、変にラフすぎない。休日の朝の光の中にいる正人は、少しだけ知らない人みたいだった。「おはよう」「おはよう」私は車を一度見てから、思わず言った。「なんか、正人っぽい車」正人が小さく笑う。「どういう意味」「外車でガツンじゃなくて、国産高級車な感じ。ちゃんとしてるけど、主張しすぎない」「ああ」正人はハンドルに指をかけ直しながら言う。「親父がメーカー勤めてるから」「え、初耳」「社員割もあるし、壊れないし」「理由が堅実」「正人っぽいんでしょ」さらっと返されて、笑ってしまった。助手席に乗ると、車内には静かにジャズが流れていた。朝の街の音と、控えめなピアノの音が混ざる。「ジャズ?」意外で聞くと、正人は前を見たまま頷いた。「母親がピアノの先生でさ
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第124話:可愛いし

「二つ下。ラグジュアリーブランドで人事やってる」「強そう」「強いよ。普通にキツい」即答だった。「でも、たまに飯行くし、家にも泊めたりする」「仲いいんだ」「まあ、家族だし。向こうも忙しいから頻繁ではないけど、たまに呼び出される」そう言う時の正人の声が、少しだけ柔らかかった。その柔らかさに、また知らない正人を見る。妹に呼び出されてご飯に行く正人。母親にピアノをやらされていた子どもの頃の正人。父親の会社の車に乗って、休日にジャズを流している正人。当たり前だけれど、私の知らない正人の人生が、ずっと続いていた。あれだけ近くにいたのに。私は、正人のことを分かった気になっていただけなのかもしれない。「愛子は?」正人が聞いた。「休日、何してるの」「え、私?」「うん」「寝てる。掃除して、洗濯して、気力があればピラティスか散歩」「現実的」「正人に言われたくない」「俺もだいたい現実的だよ」「休日に箱根の美術館提案してくる人は、現実的というより、ちゃんとしてる」正人が少し笑う。「提案なので」「まだ言う」「言いやすいから」その言葉に、少しだけ胸が緩んだ。正人は、私が気まずくならないようにしてくれている。酔った夜の言葉も、今日のデートも。全部、冗談に包んで、でもなかったことにはしない。その優しさが、今日もちゃんとある。箱根に着く頃には、空気はかなり柔らかくなっていた。彫刻の森の駐車場に車を停めると、山の空気が少しひんやりと肌に触れた。都内より光が淡く、空が近い。遠くに見える緑の間に、彫刻作品が点在している。車を降りた正人が、私の方を見た。「寒くない?」「大丈夫」「歩ける?」「そこまで心配されるほどじゃない」「この前の前科があるので」「それは飲酒時」「今日は靴」そう言われて、足元を見る。歩き出してすぐ、自分の靴選びを少し後悔した。石畳。ゆるい坂。芝生の端。思ったより足元が悪い。「……スニーカーで来ればよかったかも」ぽつりと漏らすと、正人が横で少し笑った。「いいんじゃない」「何が」「可愛いし」あまりにも自然に言われて、足を止めそうになった。正人は少し先を見ている。でも、言ったあとで自分でも少し気づいたのか、ほんの少しだけ視線を外した。その仕草に、胸が小さく跳ねる。仕事中の正人
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-01
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第125話:目が忙しい

彫刻の森は、思っていたよりも広かった。都内の美術館みたいに、静けさを守るための壁があるわけじゃない。山の空気も、少し冷たい風も、芝生の匂いも、遠くで笑う子どもの声も、全部が自然にそこにある。展示を見るというより、景色の中を歩いていたら、その途中に作品が現れる。そんな感覚に近かった。さっきまで正人に肩を借りていたことが少し気恥ずかしくて、石畳を抜けたあと、私は無意識に少し歩幅を速めた。けれど正人は、急かすでも、離れるでもなく、自然に横へ並ぶ。近すぎない。でも、遠くない。その距離感が、妙に心地よかった。「こういうところ、結構好きなんだね」正人が隣で言った。私は少し顔を上げる。「分かる?」「顔が仕事の時と違う」「そんな違う?」正人は少し考えた。「違うな」そう言ってから、視線を少しだけ私へ向ける。「さっきから、目が忙しい」「目?」「気になるもの見つけた時、すぐ止まる」少し笑う。「あと、説明してないのに、勝手に考えてる顔してる」思わず吹き出した。「何それ」「仕事中の愛子は、結論探してる顔してるから」「嫌な見られ方してるな」「ちゃんと見てるってこと」その言い方が、少しだけ柔らかかった。胸の奥が小さく揺れる。正人は、昔からよく見ている人だった。仕事でも。誰が疲れているとか。誰が無理しているとか。何が言えていないとか。そういうものを、変に言葉にせず拾う人。でも、今は少し違う。仕事としてじゃなく。私自身を見られている感覚があった。それは恥ずかしい。少し落ち着かない。けれど、不思議と嫌ではなかった。目の前には、大きな金属の立体作品があった。空の青を切り取るみたいに曲線が重なり、角度によって影が変わる。私は少し近づいて、じっと見上げた。作品の表面に光が当たって、少しずつ色味が変わる。こういう時間が、昔から好きだった。答えがなくて。ただ、感覚で好き嫌いを決めていい時間。仕事では、理由を求められる。なぜその表現なのか。誰に刺さるのか。どんな効果があるのか。もちろん、それも嫌いではない。でも、作品の前に立っている時だけは、理由よりも先に心が動いていい。好き。気になる。分からないけど目が離せない。そういう曖昧さが許される感じが、好きだった。「弟の話してたけど」正人が、隣で静
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-01
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第126話:特別

「ほんと?」「普通に世代」正人はまだ少し驚いた顔のまま、でもすぐに変な遠慮をしなかった。すごい、と騒ぎすぎるわけでもない。急に私を見る目を変えるわけでもない。ただ、自分の記憶の中にあったものと、目の前の私がつながったことに、素直に驚いている。その普通さに、少し安心した。「全盛期、ちょうど子どもの頃だったんだよね」歩きながら言う。「だから昔、下手に言えなくてさ。変に見られるし」風が吹く。私は髪を耳にかけながら、小さく肩をすくめた。「その時の癖で、今もあんまり言わない」「そっか」正人は短くそう言った。それ以上、無理に聞かない。父の作品のことも。家のことも。私がどんな子どもだったかも。ただ、私が言ったところだけを受け取って、隣を歩いている。その距離がありがたかった。言ってよかったかもしれない。そう思った。正人になら、少しくらい渡してもいい気がした。私が隠しているものを。私が、面倒だと思ってきたものを。正人なら、変に利用したりしない。勝手に大きく扱ったりもしない。ずっと近くにいたから。変に扱わないって、分かっていたから。だから、なんとなく自然に言った。「……でも、正人は特別ね」言ってから、自分で少し驚いた。特別。変な意味じゃない。たぶん。ただ、正人には言ってもいい気がした。ずっと一緒に仕事をしてきたし。私が何者かより、私が何を考えているかを見てくれる人だと、知っていたから。照れ隠しみたいに前を向く。「仕事長いし」少し早口になる。でも、耳が少し熱い。正人はすぐに返事をしなかった。少しだけ歩幅がゆっくりになる。それから、小さく笑った。「……それ、普通に嬉しい」低い声だった。大げさじゃない。でも、少しだけ隠しきれていない感じ。その声を聞いた瞬間、胸の奥が落ち着かなくなった。正人が嬉しそうだった。ただ、それだけなのに。こんなに心に残ると思わなかった。私は作品の方を見たまま、何も言えなくなる。山の風が吹く。遠くで子どもの笑い声がする。芝生の上を歩く足音が、少しだけ柔らかく響く。なのに、その一言だけが、妙に近くに残った。正人は、私が秘密を渡したことを、ちゃんと喜んでくれた。父の名前ではなく。たぶん、私が自分から話したことを。そのことに気づいたら、胸の奥がじわっと
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第127話:好きそうだったし

展示をひと通り見て回った頃には、朝の緊張は少しずつ別のものに変わっていた。最初は、正人と休日に出かけるという事実そのものに落ち着かなかった。車で迎えに来られて。助手席に座って。知らない家族の話を聞いて。石畳で肩を借りて。父親の話までして。その一つひとつが、正人という人を少しずつ別の角度から見せてくる。仕事ではない。親友でもない。でも、まったく知らない男の人でもない。その曖昧な距離が、思っていたよりずっと心地よかった。「お手洗い行ってくる」私が言うと、正人は入口近くのショップを指した。「じゃあ、あの辺見てる」「うん」軽く頷いて、お手洗いへ向かった。鏡の前で手を洗いながら、自分の顔を見る。少しだけ頬が赤い。箱根の空気のせい。歩いたから。たぶん。そう思うことにした。戻ると、正人はショップの端で立っていた。片手に小さな紙袋を持っている。「何買ったの?」「これ」正人は何でもない顔で、紙袋から薄い封筒を出した。中にはポストカードが一枚。さっき、私がしばらく足を止めて見ていた作品だった。木と金属が組み合わさった、不安定なのに妙に静かな作品。見る角度によって輪郭が変わる、あの作品。思わず目を瞬かせる。「……これ」「めちゃくちゃ見てたから」正人はさらっと言った。「好きそうだったし」その言い方が、あまりにも自然だった。プレゼント、というほど重くない。気づいたから買った。ただそれだけ、みたいな顔。でも、だからこそ余計に胸に残った。「覚えてたの?」「覚えてたっていうか」正人は少しだけ首を傾げる。「見るでしょ、普通」普通じゃない。そう思った。少なくとも、私にとっては。作品そのものを好きだと言ったわけではない。ただ、少し長く見ていただけ。その小さな滞在時間を、正人はちゃんと拾っていた。仕事でもそうだった。私が迷った時、言葉にする前に気づく。先回りしすぎて、時々腹が立つくらい。でも今日は、その解像度の高さが、少しだけ違う温度で届いた。「ありがとう」ポストカードを受け取る。紙の角が指先に触れる。小さなものなのに、不思議と重みがあった。正人はそれ以上、何も言わなかった。その重くしない感じまで含めて、ずるいと思った。駐車場に戻る頃には、少し足が疲れていた。山の空気は気持ちいい
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第128話:半分は本気

正人はメニューを見ながら、少しだけ眉を動かした。「天ぷらつける?」「軽めって言ったよね」「半分食べるかと思って」「読むな」「顔に出てた」笑ってしまう。結局、二人で天せいろを一つ追加して分けた。蕎麦は細くて香りがあり、冷たいつゆが歩いた身体にちょうどよかった。天ぷらも軽い。揚げたての野菜を一口食べて、思わず小さく息を吐いた。「おいしい」「よかった」正人はそれだけ言って、水を飲む。でも、少しだけ満足そうだった。褒められた店が、自分の手柄みたいに嬉しいのかもしれない。その表情が、少し可愛かった。「正人ってさ」「うん」「ちゃんと美味しいお店押さえてるの、ずるい」「減点されなくてよかった」「採点制なの?」「顧客にしていただくための提案なので」またそれ。私は笑いながら、でも心のどこかで思う。この人は、ちゃんと準備してくれている。自分との時間を、雑に扱っていない。それが分かるだけで、思っていた以上に嬉しかった。店を出ると、午後の光が少し傾き始めていた。箱根の空気は、昼を過ぎるとほんの少し冷たくなる。車に戻りながら、正人が聞いた。「疲れた?」「少し。でも大丈夫」「無理して夕飯まで行かなくてもいいよ。帰るなら帰れる」その言い方が、相変わらず押しつけがない。選択肢を置いてくれる。でも、まだ帰りたいとは思わなかった。このまま東京に戻るには、少し惜しい。そう思っている自分に気づく。「他に何かあるの?」聞くと、正人は少し考えるように視線を上げた。「小田原の方まで下りて、海見るのもあり」「海?」「地元、逗子の方だから。海はわりと好き」初めて聞く情報が、また一つ増える。「友達が小田原の方で店やってる。ちょっと寒いかもしれないけど、海見てからそこで早めにご飯でもいい」「友達のお店?」「うん。人気店だから、今日入れるか分かんないけど」正人はスマホを取り出す。「どうする?」少しだけ迷った。でも、答えは思ったよりすぐ出た。「行く」正人がこちらを見る。一瞬だけ、少し嬉しそうな顔をした。でもすぐに、いつもの調子に戻る。「じゃあ聞いてみる」電話をかける正人は、仕事の時とは少し違った。「今日いける?」声が少し砕けている。「二人。早めでいい。無理言ってるのは分かってる」少し笑う。「そこを何
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-01
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第129話:心が休まるわけなくない?

箱根を下りる道は、行きよりも少し静かだった。午後の光が山の斜面に薄く伸びて、木々の影が車窓をゆっくり流れていく。正人は行きと同じように、カーブの前で少し早めに速度を落とした。私はそれに気づいていた。最初は、ただ運転が丁寧な人なのだと思った。でも、カーブのたびに身体が揺れないように、ブレーキが少しだけ早い。坂を下りる時も、急がない。「まだ酔ってない?」正人が前を見たまま聞く。「大丈夫」「ほんとに?」「さっきから運転優しいから」そう言うと、正人は少しだけ笑った。「バレてた?」「だいぶ」「じゃあ成功」何でもない会話なのに、胸の奥が少し温かい。正人は、いつもこうだった。優しいことを、優しさとして見せない。仕事でもそうだった。先回りしているのに、先回りした顔をしない。助けているのに、助けたことを重くしない。それが少し腹立たしい時もあったのに、今日はそのさりげなさが、どうしようもなく心地よかった。小田原方面へ下りるにつれて、空気が少し変わった。山の匂いが薄くなって、どこか湿った海の気配が混ざる。正人が車を海沿いの駐車場に停めた頃には、太陽は少し低くなっていた。まだ海開きには早い季節で、砂浜に人は少ない。波の音だけが、広い空気の中に規則正しく響いている。「寒いかも」正人が車を降りながら言った。「でも、ちょっと歩きたい」私はそう言って、砂浜へ向かった。足元が砂に沈む。ヒールでは、さすがに歩きにくい。少し迷ってから、しゃがみ込んでヒールを脱いだ。靴下も脱いで、バッグに入れる。「裸足で歩く」自分で言って、少し子どもっぽいと思った。正人は何か言うかと思ったけれど、笑わなかった。代わりに、車の後ろへ回る。トランクが開く音がして、戻ってきた時には、手にタオルを持っていた。「これ、帰る時に足拭く用」さらっと渡される。私はタオルを受け取ったまま、少し固まった。「……なんであるの」「海行くかもって思ったから」「準備良すぎない?」「地元、海側なので」正人は何でもない顔をしている。でも、そういうことではない。海に行くかもしれない。私が裸足になりたがるかもしれない。足を拭くものが必要になるかもしれない。そこまで想像して、用意している。それを当たり前みたいに出してくる。無視できない。この心地よ
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