LOGIN翌日の夜。仕事用のバッグをソファに置いたまま、私はしばらくスマホを見ていた。正人との衝突は、一応片づいた。昨日、翔太に言われた通り、一度感情を分けて考えてみたら、自分が何に苛立っていたのか少しだけ見えた。正人が冷たくなったのではなく、距離を引こうとしていること。その距離の中で、仕事まで前と同じように甘えようとしていたこと。そして、自分がそれに気づかないまま、勝手に寂しがっていたこと。正人に謝ったら、正人も言い方が悪かったと認めてくれた。完全に元通りではない。でも、仕事としての空気は少し戻った。そのことを、翔太に伝えたいと思った。お礼、というより、報告に近かった。気づけば、チャットを開いている。『昨日の件、ちゃんと話せた』『ありがとう』送ってから、少しだけ迷った。それだけで終わらせるつもりだった。なのに、指が勝手に続けていた。『ご飯まだだったら、近所に良さそうなカフェ見つけたから奢る』送信してから、スマホを伏せる。なんでそこまで送ったんだろう。昨日、助けてもらったから。それだけ。そう思おうとした。数分後、スマホが震えた。『まだです』『奢りなら行きます』その返事があまりにも翔太らしくて、少し笑ってしまう。続けて、もう一通。『ただ来週からニューヨーク出張なので、早めに帰ります』指が止まった。ニューヨーク。一週間。別に、珍しいことではないはずだった。翔太は外資の金融機関で働いているし、海外との調整が増えていると言っていた。出張くらいある。それなのに。来週はいないのか、と思った瞬間、胸の奥に小さな空白ができた。最近、なんとなく連絡を取っていた。ベランダで話したり、ジム帰りに会ったり、くだらないことを少しだけ送ったり。それが急に途切れる。たった一週間なのに。不思議と、少し寂しい。その感覚に戸惑いながら、短く返した。『了解』『じゃあ今日軽くで』***カフェは、マンションから少し歩いたところにあった。夜はワインも出す、小さな店。木目のテーブルに、柔らかい照明。窓際の席からは、駅へ向かう人たちの流れが見える。翔太は少し遅れて来た。白いシャツに黒いパンツ。仕事終わりのままらしく、袖だけ少し捲っている。少し疲れていた。でも、その疲れすら妙に大人っぽく見えるのが、少し腹立たしい。
資料を閉じる頃には、二十二時前になっていた。正人が椅子にもたれ、軽く目元を押さえる。「今日はここまででいいと思う」「うん」私もPCを閉じた。その時、正人がふと口を開いた。「でも」「うん?」「珍しくない?」私は顔を上げる。「何が?」正人は少しだけ目元を緩めた。「折れるの早かった」「折れるって」「前なら二、三日引きずってた」言い方は少しだけからかうようだった。私は一瞬止まる。たしかに、そうかもしれない。普段の私なら、自分の中で何度も考えて、相手の言い方の悪さにも腹を立てて、二、三日は引きずったと思う。今回も、たぶん一人だったらそうしていた。だから、何も考えずにぽろっと言ってしまった。「あー……」少し笑う。「翔太に言われた」空気が、ほんの少し止まった。正人の手が、一瞬だけ止まる。本当に一瞬。でも、私は見逃さなかった。「……翔太?」静かな声だった。私はその時、まだ深く考えていなかった。昨夜のことを、そのまま話すくらいの感覚だった。「昨日ちょっと話して」軽い温度で言う。「正人の言ってることも分かるって言われて」正人は何も言わなかった。私は続ける。「めっちゃ冷静に整理された」少しだけ笑う。「愛子、結構甘えるじゃんって」言ったあとで、ふと正人の表情を見た。正人は目元を大きく変えなかった。口元も、ほとんど動かない。でも、視線が少しだけ落ちていた。手元のマウスに添えた指が、わずかに止まっている。その沈黙で、ようやく気づく。しまった。そう思った時には、もう言葉は出ていた。翔太。元彼。隣人。正人から告白された後の、この微妙な距離の中で。私はその人に、正人のことを話した。しかも、翔太の言葉で整理して、今日謝った。私にとっては、ただ少し話を聞いてもらっただけだった。でも、正人にとっては違うのかもしれない。「……ごめん」思わず言った。正人が顔を上げる。「いや」短い返事。「別に、謝ることじゃない」声は落ち着いていた。でも、少しだけ温度が低くなった気がした。私は言葉を探す。「変な意味じゃなくて」「分かってる」正人はすぐに言った。「相談しただけでしょ」その言い方に、胸が少し痛んだ。責められているわけではない。むしろ、責めないようにしている。それが分かるから
翌朝。通勤中の電車で、私はぼんやりスマホを見ていた。画面には、開きっぱなしの資料。でも、文字はほとんど頭に入ってこなかった。昨夜のベランダ。夜風。翔太の声。それから、正人の言葉。頭の中で、何度も同じ場面をなぞってしまう。愛子、結構甘えるじゃん。あの言い方は、責めるものではなかった。むしろ、ただ事実を置かれた感じだった。だからこそ、少し刺さった。思い返してみれば、正人は今までかなり歩み寄ってくれていた。私が詰まりそうになれば、先に気づいてくれた。言葉にする前に拾ってくれた。少し感情的になっても、最後は正人が受け止めてくれた。私は、それを当たり前みたいに受け取っていたのかもしれない。正人だから。分かってくれるから。いつも隣にいる人だから。そんなふうに。でも、今の正人は違う。告白をして。私がすぐに答えられなくて。それでも仕事はちゃんとやろうとしている。前と同じ距離でいる方が、たぶん正人にとってはずっと苦しい。そう思った瞬間、昨日の言葉が少し違って聞こえた。今までは、近すぎたんじゃない。あれは、私を責めるためだけの言葉ではなかったのかもしれない。仕事を守ろうとしていた。そして、たぶん。自分の気持ちも、どうにか守ろうとしていた。胸の奥が少し重くなる。私、子どもだったかも。電車の窓に映る自分の顔が、少し疲れて見えた。私は小さく息を吐く。今日は、ちゃんと話そう。逃げないで。***その日の夜。会議室に残ったのは、また二人だけだった。二十一時を回っている。モニターの光だけが、少し白く机の上を照らしていた。前日より、空気は少しぎこちない。けれど、昨日ほど張りつめてはいなかった。正人は淡々と資料を見ている。黒いシャツの袖を少しまくって、画面の端を指で示す。「ここ、数字の根拠だけ補足入れた方がいい」「うん」「この順番だと、先方の反応がたぶん悪い。先に課題を置いてから施策に入った方がいい」「分かった」いつもの仕事の会話。でも、私たちの間には、まだ言葉にしていないものが残っている。それが分かるから、キーボードを打つ音まで少し大きく聞こえた。私は何度か口を開きかけて、やめた。今言うべきか。もう少し後にするべきか。でも、後にしたらまた言えなくなる気がした。私は画面から目を離して、
窓を開けてベランダに出ると、夜風が頬に触れた。少し冷たい。けれど、部屋の中にいるより息がしやすい。隣のベランダから、声がした。「珍しい」翔太だった。黒のスウェット。少し疲れた顔をしている。でも、私を見る時だけ、目元が少し柔らかくなる。最近、それに気づくようになった。昔みたいに分かりやすく近づいてくるわけではない。でも、距離の取り方が前よりずっと静かになっている。踏み込まない。でも、見ている。「何かあった?」低い声だった。決めつけない。ただ聞く。私は少し笑った。「顔に出てる?」「わりと」翔太も少し笑った。昔より余裕がある。でも、こういう時の空気の入り方は変わらない。話しやすい。少しだけ安心する。最初は、仕事の話だった。新しい案件。忙しさ。残業。クライアントの優先順位。制作との調整。話しているうちに、言葉が少しずつほどけていった。そして、気づけば正人の話になっていた。「なんかさ」私は缶を持ちながら言った。「最近、仕事だとすごい厳しいんだよね」翔太はすぐに返さなかった。缶に口をつけるわけでもなく、こちらを見るわけでもなく。ただ、ちゃんと聞いている。その間が、妙に安心した。「正人は最近、冷たいっていうか」自分で言いながら、少し違うとも思った。正人は冷たいわけではない。ただ、遠い。「告白されてから、明らかになんか違くて」言ってから、少しだけ心臓が跳ねた。前にジムで会ったときに、濁しながら話したけど。正人に告白された、とはっきり言ったのは初めてだった。翔太の動きが、一瞬だけ止まった。缶を持つ指先。ほんの少し。でも、すぐに戻る。「へえ」低い声だった。静かだった。「で、距離取ってるように見えるんだけど」私は続けた。「今日、仕事でぶつかって」翔太は少し考えるように、夜景の方へ目を向けた。風が吹く。沈黙が少しだけ挟まる。それから、静かに言った。「……でも」「うん」「正人さんの言ってること、ちょっと分かる」私は止まった。「え?」味方してくれると思っていた。少なくとも、少しは。翔太は私を見る。少しだけ困ったような顔だった。でも、誤魔化さなかった。「愛子、結構甘えるじゃん」責める言い方ではなかった。事実を置くみたいな声。だから余計に、少し刺
新しい案件が始まったのは、イベントの熱がようやく落ち着いた頃だった。大型クライアント。制作、メディア、営業が全部絡む。しかも進行がかなりタイトで、最初のキックオフから空気が少し張っていた。自然と、正人と一緒に動く時間が増えた。増えたはずだった。なのに、前とは少し違った。正人は変わらず助けてくれる。資料も見てくれる。先方との調整も早い。抜けそうな論点があれば、ちゃんと拾ってくれる。でも、前みたいな近さがない。たとえば、以前なら。「先これやっとく」そう言って、私が詰まりそうなところを自然に拾ってくれていた。私がまだ言葉にする前に、正人の方が気づくことも多かった。それが今は違う。「一回整理して」「愛子はどう考えてる?」「そこ、先に前提置いた方がいい」返ってくるのは、問いだった。突き放されているわけではない。助けてくれないわけでもない。でも、自分で考えさせる。前みたいに先回りして守らない。それが、仕事としては正しいことも分かっている。分かっているのに、胸のどこかが落ち着かなかった。雑談も減った。夜の残業中、コンビニへ行く時に、「タバコ行くけど」と言われることもなくなった。以前は、私は吸わないのに、なんとなく一緒についていっていた。外の空気を吸って、どうでもいい話をする。新商品の話とか、会議で少し面白かった発言とか。本当に意味のない会話。でも、あの時間が、気づかないうちに休憩になっていた。そういうものが、静かになくなっていた。最初は、正人なりに距離を取っているのだと思った。告白された。私はすぐに答えを出せなかった。だから、正人が線を引こうとするのは分かる。分かるけど。仕事まで急に変わらなくてもいいじゃん。そう思ってしまう自分もいた。その日、会議室に残ったのは、もう二人だけだった。時計を見ると、二十二時半を少し過ぎている。外のフロアは静かで、空調の音だけが妙にはっきり聞こえた。正人はモニターを見ながら、淡々と言った。「これ、訴求ズレてる」私は眉を寄せる。「ズレてないよ。クライアントの優先順位考えたらこっちでしょ」正人が静かに首を振る。「感情で押してる」その言葉に、私の中の空気が少し止まった。「……何それ」「愛子、多分今、自分の成功体験に寄ってる」言い方は冷静だった。
夜十時を少し回った頃だった。帰宅して、メイクを落として、仕事用の服を脱ぐ。部屋着に着替えて、ようやく肩の力が抜けたところで、スマホが震えた。画面を見る。翔太だった。少しだけ意外だった。最近、連絡が来ることは増えた。でも、大抵は短い。明日、可燃ごみの日らしいです。とか。宅配、エントランスに置かれてました。とか。隣人らしい、少し事務的なやり取り。だから、通知が続いていることが珍しかった。『今日、蓮すみませんでした』思わず小さく笑ってしまった。真面目。本当に、そういうところは変わらない。別に翔太が謝ることではない。むしろ、止めてくれた側だ。それなのに、変な空気になると、自分が悪くなくても一度引き受ける。相手が困るくらいなら、自分が気まずい役をやる。昔から、そういうところがあった。少し不器用なくらいの優しさ。それが、昔は少し可愛かった。――可愛い?自分の中に浮かんだ言葉に、少しだけ手が止まる。今、何を思ったんだろう。私は誤魔化すように返信を打った。『全然大丈夫』『気まずかったよね笑』既読は早かった。『あれはまあ……』『蓮が空気読まなかった』少し間があいて、続けてメッセージが来る。『ベランダ出てるんだけど』『少し飲む?』ベランダ。そういえば、前に言っていた。春とか秋は、少し気が晴れると。このマンションは見晴らしがいい。でも、住み始めてから私は一度もちゃんと出たことがなかった。少し迷う。でも今日は、誰かと少しだけ話したかった。正人との会話が、まだ胸に残っている。待つよ。そんな軽い気持ちじゃないから。あの静かな真剣さは、嬉しかった。でも、少しだけ苦しかった。私は短く返した。『行く』すぐに返事が来る。『外ちょっと寒いので羽織った方がいいです』また少し笑ってしまう。こういうところ。本当に、変に真面目だ。カーディガンを羽織って、窓を開ける。ベランダへ出ると、思っていたより風が気持ちよかった。遠くに東京の夜景が広がっている。道路の光が細く流れて、電車の音が小さく遠くに聞こえた。少し肌寒い。でも、息が詰まる感じがしない。「お」隣から声がした。翔太だった。黒のロンTに、ラフなパンツ。力の抜けた格好なのに、妙に様になる。仕事終わりらしい疲れは少し出ていた。け