Alle Kapitel von 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Kapitel 131 – Kapitel 140

196 Kapitel

第130話:まだ

さっきまで穏やかに積もっていたものが、一瞬だけ熱を持つ。言葉に詰まり、視線を海へ逃がした。でも、逃げきれなかった。「……ちょっと今の、ときめいた」言ってから、自分でも驚いた。酔っていない。海のせいでもない。ちゃんと起きていて、ちゃんと自分の口で言った。正人が一瞬止まる。それから、少しだけ口元を上げた。「提案ポイント加算?」「すぐそうやって茶化す」「茶化さないと俺が困る」その言葉に、今度は私が黙った。正人は海へ視線を戻す。押してこない。でも、引きもしない。その距離が、今日はやけに心地よかった。夕陽が海に落ちる少し前まで、二人はそのまま座っていた。何かをたくさん話したわけではない。ただ波の音を聞いて、たまに少し話して、沈黙して。それでも気まずくなかった。むしろ、沈黙の中にいる正人が、少しだけ近く感じた。夕方、正人の友だちがやっている店へ向かった。海沿いから少し入った場所にある、こぢんまりとした店だった。外観はシンプルで、木の扉に小さな看板だけが出ている。中に入ると、カウンターの奥から背の高い男性が顔を出した。整った顔立ちで、少し日焼けしている。「あれ、正人」男が笑う。「珍しいな、急に」「悪い、無理言って」「まあ、正人の頼みだからね」その視線が私へ移る。「彼女?」正人が一瞬も迷わず言った。「まだ」まだ。その言葉に、胸が跳ねる。オーナーが目を丸くする。正人は続けた。「彼女にしたい子を連れてきてるから、変なもの出したら殺す」普段の正人からは想像できない言い方だった。雑で、少し冗談っぽくて、友だち相手の距離。オーナーが吹き出す。「怖。相当じゃん」「相当」正人は平然としている。私は横で何も言えなかった。仕事の正人ではない。丁寧で、距離を測って、誰に対しても適切な言葉を選ぶ正人ではない。地元の友だちの前で、少し砕けた正人。その新しい一面が、妙に新鮮だった。席に案内されると、正人はメニューを見ながら言った。「俺は運転だから飲まないけど、ワイン飲む?」「選べるの?」「多少は」「多少?」「ワインスクール行ってたことある」思わず正人を見た。「サーフィン、ゴルフ、ワイン?」「あとピアノ?」「付き合ったらお金かかりそう」言ってから、自分で止まった。付き合ったら。自
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-01
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第131話:隣人との昼休み

週明け。自分でも少し驚くくらい、箱根の余韻を引きずっていた。会議室。いつもの定例。正人はいつも通り、いや、むしろいつも以上に仕事モードだった。「愛子、このクリエイティブ、先方レビュー木曜で間に合う?」「大丈夫。修正戻り次第返す」「了解。営業側でこっち詰める」必要な会話。必要な距離。必要以上に近づかない。あの日の海も。「好きな人が自分の日常に入ってきて、心休まるわけなくない?」という声も。まるで別の時間だったみたいに。資料を受け取る時だけ、正人が小さく言った。「昨日遅かったよね。寝れてる?」ほんの一瞬。仕事の空気を崩さない声。でも、それだけ。すぐに距離が戻る。前なら何も思わなかった。むしろ、それが普通だった。なのに今は、少しだけ寂しい。戻された。そう感じてしまう自分がいて、内心少しだけ困っていた。土曜日が近すぎたのだ。近くて。優しくて。居心地がよくて。あれを知ってしまった後だと、今の適切な距離が少しだけ冷たく感じる。でも、正人は仕事とプライベートを混ぜない。それも、ちゃんと分かっていた。だから、余計に何も言えない。その翌日。私は有給を取っていた。というより、取らされた。「年度末までに消化しろ」と上司に押し切られた結果の、平日休み。昼前。ようやく洗濯を回そうか迷いながら、ソファでぼんやり動画を流していた時。インターホンが鳴った。スマホを見る。翔太だった。『歯磨き粉渡したい。今部屋にいる?』少し笑ってしまう。ドアを開けると、キャップを深く被った翔太が立っていた。黒T。少しゆるいカーゴパンツ。スニーカー。完全にオフ。なのに、やたら目立つ。顔の線がはっきりしているせいか、ラフな格好でもだらしなく見えない。キャップの影で目元が少し暗くなっているのに、口元だけが軽く笑っていて、それが妙に似合っていた。「ただいま」「隣なのに?」「出張帰りだから」翔太が笑う。そのまま当然みたいに部屋へ入ってくる。「これ、頼まれてたやつ」ドラッグストアの袋。中には歯磨き粉。それ以外にも、よく分からない海外のグミやクッキー、小さいチョコ。「何これ」「ドラッグストアでテンション上がった」「小学生?」「ニューヨークって、無駄に日本のグミ売ってんの」翔太が適当にソファへ座る。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-02
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第132話:芸能興味あります?

その仕草が、やけに自然で。通りすがりの女の子たちがまた翔太を見ていく。見られることに慣れているのか、翔太は特に反応しない。でも、変に気取らない。そこがまた目立つ。その直後。今度はスカウトだった。「芸能興味あります?」翔太が、一瞬だけ嫌そうな顔をする。けれど、すぐに表情を戻した。知らない人に向ける、少し丁寧で、少し距離のある顔。「ないです」声の温度が違った。私と話している時より、低くて、余計な柔らかさがない。でも冷たいわけではない。ちゃんと礼儀はある。近づかせないための、きれいな壁みたいな声だった。「絶対モデルいけます!」「大丈夫です」翔太は短く笑った。その笑い方が、私の知っている笑い方と少し違う。口元だけで作る、よそ行きの顔。知らない人に向ける翔太。その横顔を見た瞬間、少しだけ胸が鳴った。ああ。私は、翔太のことを知っているつもりでいた。大学時代の翔太も。隣人として戻ってきた翔太も。でも、こうやって他人に向ける顔は、あまり知らない。余裕があって。距離の取り方がうまくて。相手を不快にさせずに、ちゃんと線を引く。昔よりずっと大人になっている。その事実が、なぜか少し眩しかった。スカウトの視線が、今度は私へ向いた。「彼女さん?」少し迷って。「お姉さん?」微妙に失礼だった。さらに。「女性は十代限定なんで」私は停止した。「は?」翔太が爆笑した。肩が震えている。「今の失礼すぎない?」「ごめん、耐えられなかった」「断られたんだけど?」「年齢で」「ほんと腹立つ」翔太は笑いながら言う。「愛子は、綺麗だから安心して」何でもない顔。さらっと。そういうところ。ずるい。レストランの列に並ぶ。その間も、周りの視線が時々翔太に向く。若い女の子だけじゃない。コスメの袋を持った二人組も、店先のスタッフも、すれ違う人も。一度見て、少しだけ目を戻す。ほんとに目立つ。顔がいい。背が高い。しかも、ラフなのに、なんか整っている。キャップを被っていても、隠しきれていない。横顔の鼻筋。笑うと少しだけ細くなる目。首から肩にかけての線。そういう細部が、街の雑多な色の中で妙に浮いて見える。「あなた、ほんとビジュ良いんだよね」他人事みたいに言うと、翔太が少し笑った。それから、少し遊
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第133話:顔赤い

店の中は、昼の新大久保らしい熱気で満ちていた。窓の外では、韓国コスメの袋を持った女の子たちが絶えず行き交っている。店内には唐辛子とにんにくの香りが濃く漂い、隣のテーブルから運ばれてきた鍋の湯気が、照明の下で白く揺れていた。私はメニューを開きながら、すでに喉の奥が少し熱くなるのを感じていた。「これ、本当に辛そう」「自分で激辛って言ったんでしょ」翔太は向かいに座って、水のグラスを持ち上げた。店に入る時に外したキャップのせいで、髪が少し崩れている。ラフな黒Tに、少しゆるいカーゴパンツ。完全に気を抜いている格好なのに、姿勢や指先の動きが妙に綺麗だった。肘を軽くテーブルにつき、水を飲むだけでも、どこか目を引く。この人は、本当に見た目が強い。そう思ってしまうくらい、昼の雑多な店内の中で浮いていた。「今日は辛いものを食べるって決めてたの」「有給の使い方、攻めてますね」「正しいでしょ」「まあ、愛子っぽい」そう言われて、少しだけ笑った。こういう雑な肯定が、翔太にはある。正人のように、丁寧に整えてくれるわけではない。だけど、私が何かを言った時、翔太はそれを大げさに扱わず、当たり前みたいに受け取る。その軽さが、少し楽だった。運ばれてきた料理は、想像よりずっと赤かった。唐辛子の輪切りが浮いたスープに、山椒の香りが混ざっている。湯気が立ち上がるだけで、目の奥が少し刺激されるようだった。「……赤い」「赤いですね」「大丈夫かな」「今さら」翔太が少し笑う。私は箸を取り、一口食べた。最初は、いけると思った。旨みがある。香りもいい。思っていたより深い味。でも二口目で、舌の奥がじんじんと熱くなった。三口目には、鼻の奥まで唐辛子が抜けて、目の端にうっすら涙が滲む。「……辛い」小さく言うと、翔太がすぐに水を差し出した。「はい」「早い」「泣きそうだったので」「泣いてない」「泣きそうではあった」水を受け取る指先が少しだけ震えた。グラスの冷たさがありがたい。口の中の熱を落ち着けようと飲み込むと、翔太も少し眉を寄せながら、自分の水に手を伸ばしていた。平然としているつもりなのだろう。でも、目元が少し赤い。辛さのせいで薄く潤んでいて、こめかみには汗がわずかに滲んでいる。翔太はそれを気にするように、指の背で軽くこめかみを
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第134話:誘えば、来てくれる気がして

「美術館、いつ行きます?」「上野の?」「うん」スマホを出しかけて、ふと思い出す。「見たい展示、結構ギリギリなんだよね。今来てるモネのやつ」「モネ」翔太はすぐに反応した。「俺もそれかなと思ってた」少しだけ動きが止まる。「ほんと?」「うん。愛子、好きそうだし」その言い方が、やけに自然で、また少し懐かしかった。五年前、付き合っていた頃もそうだった。翔太とは、行きたい展示や観たい映画の感覚が、不思議と合った。全部が同じではない。むしろ喧嘩もしたし、噛み合わないこともたくさんあった。でも、好きなものに目が止まるタイミングや、見たいものの温度が近いことが多かった。その感覚を、久しぶりに思い出す。言葉にしなくても通じるような。でも、少し危ういくらい近かったような。「あそこ行くなら」翔太は淡々と続けた。「近くの激辛中華も行きたい」思わず笑った。「また辛いもの?」「上野ならあそこ近い」「美術館の話してたよね」「セットで考えるでしょ」「考えない人もいるよ」「愛子は考える」その決めつけ方に、少しだけ胸がくすぐったくなる。嫌ではない。むしろ当たっている。美術館に行くなら、その近くで何を食べるかも考える。展示だけではなく、その前後の時間も含めて一日として組み立てる。翔太は、私に合わせようとしているというより、自分の行きたいところも自然に混ぜてくる。正人とは違う。正人は、私のために丁寧に提案してくれた。失敗しないように。楽しめるように。無理がないように。ちゃんと準備してくれた。それはとても心地よかったし、今も静かに残っている。でも翔太との予定の決まり方は、もっと気が抜けている。「ここ行きたい」「それならこれも行く?」「愛子も好きそう」そんなふうに、お互いの行きたいものを並べて、あまり深く考えずに決めていく。その軽さが、思っていたよりずっと楽だった。「なんか、翔太と予定決めるの早いね」私が言うと、翔太は少しだけ目を伏せて笑った。「昔からじゃない?」その一言で、少しだけ時間が戻る。五年前。付き合っていた頃の二人。休日の前日に急に映画を決めたり。夜にラーメンを食べに行ったり。雨が降って予定を変えて、家で映画を観たり。あの頃の軽さを、今も身体が覚えている。でも、同じではない。今の翔
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第135話:似てるアイドル

楽しそうで。でも、押しつける感じはなくて。ただ、私と予定が増えることを自然に喜んでいるように見えた。その表情に、胸の奥がまた小さく鳴る。食べ終わる頃には、二人とも少し汗ばんでいた。辛さで身体の奥が熱い。店を出ると、外の空気が思った以上に涼しく感じた。新大久保の通りは相変わらず人が多く、韓国アイドルの曲と屋台の呼び込みが混ざっている。会計の時、店員が翔太を見て「あ」と小さく声を出した。「ゆうとくん……?」翔太が真顔になる。「違います」少し間。「俺、歌も踊りもできないです」店員が困ったように笑い、私は耐えきれずに吹き出した。外に出てからも、翔太は少し納得いかない顔をしていた。「そんな似てるんですかね」「待って、調べよう」スマホを取り出して、さっき聞いたCグループのゆうとを検索した。画面に出てきた写真を見た瞬間、思わず立ち止まる。「……似てる」翔太が画面を覗き込む。「マジですか」「思ったより似てる。ちょっと待って、無理、似てる」笑いすぎて少し肩が揺れる。「しかもこの人、これからくるアイドルランキング入ってる」「ランキング?」「結構人気出そうな人じゃん。すごいじゃん翔太」「俺がすごいわけではない」「でも似てる」「歌も踊りもできないのに」「だからそこじゃないって」翔太は本気で少し落ち込んでいるような顔をしていて、そのずれ方が相変わらず可愛かった。顔がよくて。仕事ができて。外から見ればかなり大人っぽい。知らない人にはよそ行きの顔で綺麗に距離を取る。それなのに、こういうところで妙に真面目に落ち込む。そのアンバランスさに、また笑ってしまった。帰り道も、人の流れは途切れなかった。翔太は自然に車道側を歩き、私が人にぶつかりそうになるたび、ほんの少し歩く位置を変えた。一度、後ろから急に人が来た時には、肩に触れるか触れないかくらいの距離で、私を自分の側へ寄せた。「ごめん」「ううん」それだけ。大げさにしない。でも、ちゃんと守られている。正人の守り方は、準備と包容力だった。翔太の守り方は、もっと反射に近い。気づいたら近くにいる。必要な時だけ距離を詰めて、すぐまた何でもなかったみたいに戻る。それが、不思議と心地よかった。マンションに戻る頃には、昼過ぎの光が少し柔らかくなっていた。エレベータ
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第136話:忙しい心

翌日。会議室のモニターに映された資料を見た瞬間、私は思わず口元を押さえた。新しく担当するクライアントは、飲料メーカーだった。春から初夏にかけて投入する新商品のプロモーション。ターゲットは十代後半から二十代前半。SNS起点で話題を作り、店頭とデジタルを連動させる大きめのキャンペーン。その説明までは、普通だった。問題は、CMキャスティング案のページだった。候補者リストの中央あたりに、見覚えのある名前。Cグループ、ゆうと。「……っ」だめだ。笑ってはいけない。ここは仕事。しかもクライアント同席の打ち合わせ。私は必死に表情を整えた。けれど、前日の新大久保が一気に蘇る。――Cグループのゆうとくんですか?――俺、歌も踊りもできないです。あの時の翔太の真顔。妙に深刻そうに落ち込んでいた横顔。帰り道に検索したゆうとくんが、思ったよりちゃんと翔太に似ていて、二人で笑ったこと。それが全部、仕事の資料の中に突然現れた。無理だった。私は資料を見るふりをして、手元のペンを握り直す。隣にいた後輩の麻衣が、小声で聞いた。「愛子さん、大丈夫ですか?」「大丈夫」声が少し揺れた。「ちょっと、資料が……」「資料が?」「いや、何でもない」守秘義務。まだ言えない。翔太に言いたい。今すぐ言いたい。でも言えない。このCMキャスティングが正式に解禁されるまでは、外には出せない。私は心の中で決めた。今度会った時、絶対にこっそり言おう。いや、解禁後に。でも、言いたい。早く言いたい。それだけで、少しだけ口元が緩んでしまう。前方に座っていた正人が、こちらを見た。一瞬だけ、目が合う。仕事中の顔。でも、ほんの少しだけ怪訝そうだった。私は慌てて資料に視線を戻した。仕事。今は仕事。そう思うのに、モニターの中の名前を見るたび、昨日の翔太の顔がちらついた。あの整った顔で真剣に落ち込んでいたこと。自分が似ていると言われたアイドルの歌や踊りを、なぜか気にしていたこと。そのずれ方が、相変わらず少し可愛かったこと。思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。こんなふうに仕事中に誰かを思い出すなんて、よくない。分かっている。でも、頭の片隅で翔太の声が消えなかった。打ち合わせの帰り。クライアントのオフィスを出ると、空気が少し冷たか
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第137話:二人で行く?

私はその空気を誤魔化すように笑った。「昨日その人が。何回か“ゆうとくんですか?”って話しかけられてて」麻衣ちゃんが目を丸くする。「え、今日のキャスティングの?」「そう、それ」これは仕事情報ではなく、昨日の出来事として言える範囲。私は少し笑いながら続けた。「“誰?”って言ってたのに、今日資料に出てきて、もう本当に信じられなくて」麻衣ちゃんも笑う。「そんなに似てるんですか?」「思ったより似てた。帰りに二人で調べたら、ほんとに似てて」思い出すと、また笑いそうになる。翔太の不満そうな顔。「歌も踊りもできないのに」と、そこを気にしていたところ。そのズレ方が、相変わらず可愛かった。そう思った瞬間、少しだけ表情が緩んでいたのかもしれない。正人が、低めの声で会話に入った。「……ゆうとの撮影、メディア側の調整も入るから」私は顔を上げる。正人の表情は普通だった。けれど、声のトーンだけがほんの少し落ちていた。「ここ、早めにまとめよう」仕事の話。正しい切り替え。何もおかしくない。むしろ、正人らしい。でも、胸の中には小さな引っかかりが残った。今、少しだけ。空気が変わった気がした。気のせいかもしれない。でも、正人はもうそれ以上、翔太の話には触れなかった。麻衣ちゃんが少しだけ嬉しそうに頷く。「はい。私、媒体社との候補日まとめます」「助かる」正人が言う。そのやり取りを見ながら、ふと気づく。麻衣ちゃんは、正人に褒められると、少し表情が明るくなる。分かりやすい。でも、嫌な感じではない。若くて、素直で、正人をちゃんと見ている。仕事中の正人は、頼りになる。冷静で、判断が早くて、必要な時にちゃんと助けてくれる。それを近くで見ていたら、麻衣ちゃんが惹かれるのも分かる気がした。分かる。分かるけれど。胸の奥に、また小さな違和感が生まれた。駅に着く少し前。麻衣ちゃんが明るい声で言った。「正人さん、今度ご飯行きましょうよ。今日の案件の相談もしたいですし」私は、なんとなく正人が流すと思った。「またチームでね」とか。「落ち着いたら」とか。そういう、大人の返し。でも正人は、少しだけ考えてから言った。「いいよ」思わず正人を見る。正人は普通の顔で続けた。「二人で行く?」麻衣ちゃんの顔がぱっと明るくなった。「い
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第138話:スピーカー越しの隣人

ゆうとの撮影日は、想定より早まった。候補日の調整が思った以上に詰まっていて。先方から届いた最新スケジュールを見た瞬間、私は小さく息を吐いた。「これ、前倒しですね」麻衣ちゃんが隣で言う。「うん。撮影に合わせるなら、提案も巻くしかない」飲料メーカーの新商品プロモーション。キャスティングは、例のCグループのゆうと。資料の中にその名前を見るたび、まだ少し笑いそうになる。――俺、歌も踊りもできないです。翔太の真顔を思い出して、唇を噛んだ。言いたい。めちゃくちゃ言いたい。でも、まだ言えない。守秘義務がある。解禁されたら、絶対に言う。そう心に決めながら、もう一度資料へ視線を落とした。夜のオフィスは、昼間よりずっと静かだった。フロアの照明は半分落ちていて、窓の外にはビルの灯りが点々と浮かんでいる。キーボードを打つ音だけが、妙に大きく響いていた。二十二時を少し過ぎた頃、スマホが震えた。翔太だった。一瞬、画面を見て迷う。でも、フロアにはもうほとんど人がいない。私は通話に出た。「もしもし」『起きてる、というか、まだ働いてる?』翔太の声が少し低く聞こえた。「働いてる」『ですよね』「何その言い方」『返信遅い時、大体仕事してるから』当たっている。思わず少し笑った。肩に入っていた力が、ほんの少し抜ける。それまでずっと背筋を伸ばしていたことに、今さら気づいた。私は椅子の背にもたれ、片手で目元を軽く押さえた。「で、何?」『蓮の友だちが卸しやってて』「うん?」『愛子が好きって言ってたゆるキャラの限定グッズ、余ってるらしいんですけど』手が止まった。「え」『いる?』たぶん、すごくくだらない話だった。仕事で疲れた夜に、限定グッズがいるかどうかを聞かれているだけ。でも。胸の奥が、ふっと軽くなった。前に一度だけ話した。限定グッズが即完で買えなかった、と。本当に軽く。翔太は、それを覚えていた。「……いる」『ですよね』「何で覚えてるの」『悔しそうだったので』その言い方が、妙に翔太らしくて、また笑ってしまう。PC画面には、提案資料。締切。撮影日。調整事項。山ほどあるのに、電話の向こうの翔太の声だけが、少し違う温度で耳に届く。張り詰めた空気の中に、隣の部屋の窓が少しだけ開いたみたいだった。『ま
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-03
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第139話:顔が似ていても、違うもの

金曜日。朝七時。スタジオ入りの時点で、もう一日分働いたような気がした。本来は来週予定だった画像撮影が、ゆうとのスケジュール都合で急遽前倒しになった。昼過ぎには別案件で地方移動。一分でも押せば終わる。そんな緊張感が、現場の空気を少しだけ張り詰めさせていた。白ホリのスタジオには、すでに照明が組まれ、テーブルには新商品の飲料が綺麗に並べられている。スタイリストが衣装ラックを整え、ヘアメイクが慌ただしく動く。クライアント。制作。カメラマン。事務所。全員が時計を見ながら、進行を合わせていた。「愛子、媒体用の差し替え最終確認できる?」正人の声が飛ぶ。「今やる。テロップなし版だけもう一回見せて」「了解」正人も今日は余裕がない。声が少し短い。それでも、必要なことだけは落とさない。現場全体を見て、遅れそうなところだけを先に拾っていく。いつも通り。いや、こういう現場の正人は、少しだけ格好いいと思う。感情を後ろに置いて、全部を前に進める人。土曜日の海で見た正人とは違う。でも、これはこれで正人だった。今は仕事中。付き合っているわけでもない。だから、正人がいつも通りの距離を保っていることは、何もおかしくない。分かっている。分かっているのに、ほんの少しだけ遠く感じる。その自分勝手さに気づかないふりをして、私はPCへ視線を戻した。そんな時だった。「おはようございまーす!」スタジオの空気が少し変わった。ゆうとだった。私は思わず顔を上げる。そして、一瞬だけ止まった。似てる。やっぱり。輪郭。目元。少し気怠そうな空気。角度によっては、本当に翔太に似ている。でも。似ているのに、全然違った。ゆうとの方が、ずっと線が細い。色白で、肌が透けるように明るい。肩幅も華奢で、ちゃんと“アイドル”の体型だった。翔太はもっと体温がある。肩も広いし、スーツの時の背中にちゃんと厚みがある。ラフな黒Tで隣を歩いていても、身体の線に大人の重さがある。あと、声。ゆうとは明るい。軽い。空気を一気に動かすような声。翔太はもう少し低くて、温度が落ち着いている。近くで聞くと、少し乾いたような響きがあって、耳の奥に残る。その違いを、私はなぜか自然に比べていた。「今日、巻きっすよね?」ゆうとは現場に入るなり、スタッフに話
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-03
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