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第110話:線の引き方

作者: Sunny
last update publish date: 2026-07-26 19:29:29

新しい案件が始まったのは、イベントの熱がようやく落ち着いた頃だった。

大型クライアント。

制作、メディア、営業が全部絡む。

しかも進行がかなりタイトで、最初のキックオフから空気が少し張っていた。

自然と、正人と一緒に動く時間が増えた。

増えたはずだった。

なのに、前とは少し違った。

正人は変わらず助けてくれる。

資料も見てくれる。

先方との調整も早い。

抜けそうな論点があれば、ちゃんと拾ってくれる。

でも、前みたいな近さがない。

たとえば、以前なら。

「先これやっとく」

そう言って、私が詰まりそうなところを自然に拾ってくれていた。

私がまだ言葉にする前に、正人の方が気づくことも多かった。

それが今は違う。

「一回整理して」

「愛子はどう考えてる?」

「そこ、先に前提置いた方がいい」

返ってくるのは、問いだった。

突き放されているわけではない。

助けてくれないわけでもない。

でも、自分で考えさせる。

前みたいに先回りして守らない。

それが、仕事としては正しいことも分かっている。

分かっているのに、胸のどこかが落ち着かなかった。

雑談も減った。

夜の残業中、コンビニへ行く時に、

「タバコ
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    窓を開けてベランダに出ると、夜風が頬に触れた。少し冷たい。けれど、部屋の中にいるより息がしやすい。隣のベランダから、声がした。「珍しい」翔太だった。黒のスウェット。少し疲れた顔をしている。でも、私を見る時だけ、目元が少し柔らかくなる。最近、それに気づくようになった。昔みたいに分かりやすく近づいてくるわけではない。でも、距離の取り方が前よりずっと静かになっている。踏み込まない。でも、見ている。「何かあった?」低い声だった。決めつけない。ただ聞く。私は少し笑った。「顔に出てる?」「わりと」翔太も少し笑った。昔より余裕がある。でも、こういう時の空気の入り方は変わらない。話しやすい。少しだけ安心する。最初は、仕事の話だった。新しい案件。忙しさ。残業。クライアントの優先順位。制作との調整。話しているうちに、言葉が少しずつほどけていった。そして、気づけば正人の話になっていた。「なんかさ」私は缶を持ちながら言った。「最近、仕事だとすごい厳しいんだよね」翔太はすぐに返さなかった。缶に口をつけるわけでもなく、こちらを見るわけでもなく。ただ、ちゃんと聞いている。その間が、妙に安心した。「正人は最近、冷たいっていうか」自分で言いながら、少し違うとも思った。正人は冷たいわけではない。ただ、遠い。「告白されてから、明らかになんか違くて」言ってから、少しだけ心臓が跳ねた。前にジムで会ったときに、濁しながら話したけど。正人に告白された、とはっきり言ったのは初めてだった。翔太の動きが、一瞬だけ止まった。缶を持つ指先。ほんの少し。でも、すぐに戻る。「へえ」低い声だった。静かだった。「で、距離取ってるように見えるんだけど」私は続けた。「今日、仕事でぶつかって」翔太は少し考えるように、夜景の方へ目を向けた。風が吹く。沈黙が少しだけ挟まる。それから、静かに言った。「……でも」「うん」「正人さんの言ってること、ちょっと分かる」私は止まった。「え?」味方してくれると思っていた。少なくとも、少しは。翔太は私を見る。少しだけ困ったような顔だった。でも、誤魔化さなかった。「愛子、結構甘えるじゃん」責める言い方ではなかった。事実を置くみたいな声。だから余計に、少し刺

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第110話:線の引き方

    新しい案件が始まったのは、イベントの熱がようやく落ち着いた頃だった。大型クライアント。制作、メディア、営業が全部絡む。しかも進行がかなりタイトで、最初のキックオフから空気が少し張っていた。自然と、正人と一緒に動く時間が増えた。増えたはずだった。なのに、前とは少し違った。正人は変わらず助けてくれる。資料も見てくれる。先方との調整も早い。抜けそうな論点があれば、ちゃんと拾ってくれる。でも、前みたいな近さがない。たとえば、以前なら。「先これやっとく」そう言って、私が詰まりそうなところを自然に拾ってくれていた。私がまだ言葉にする前に、正人の方が気づくことも多かった。それが今は違う。「一回整理して」「愛子はどう考えてる?」「そこ、先に前提置いた方がいい」返ってくるのは、問いだった。突き放されているわけではない。助けてくれないわけでもない。でも、自分で考えさせる。前みたいに先回りして守らない。それが、仕事としては正しいことも分かっている。分かっているのに、胸のどこかが落ち着かなかった。雑談も減った。夜の残業中、コンビニへ行く時に、「タバコ行くけど」と言われることもなくなった。以前は、私は吸わないのに、なんとなく一緒についていっていた。外の空気を吸って、どうでもいい話をする。新商品の話とか、会議で少し面白かった発言とか。本当に意味のない会話。でも、あの時間が、気づかないうちに休憩になっていた。そういうものが、静かになくなっていた。最初は、正人なりに距離を取っているのだと思った。告白された。私はすぐに答えを出せなかった。だから、正人が線を引こうとするのは分かる。分かるけど。仕事まで急に変わらなくてもいいじゃん。そう思ってしまう自分もいた。その日、会議室に残ったのは、もう二人だけだった。時計を見ると、二十二時半を少し過ぎている。外のフロアは静かで、空調の音だけが妙にはっきり聞こえた。正人はモニターを見ながら、淡々と言った。「これ、訴求ズレてる」私は眉を寄せる。「ズレてないよ。クライアントの優先順位考えたらこっちでしょ」正人が静かに首を振る。「感情で押してる」その言葉に、私の中の空気が少し止まった。「……何それ」「愛子、多分今、自分の成功体験に寄ってる」言い方は冷静だった。

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    夜十時を少し回った頃だった。帰宅して、メイクを落として、仕事用の服を脱ぐ。部屋着に着替えて、ようやく肩の力が抜けたところで、スマホが震えた。画面を見る。翔太だった。少しだけ意外だった。最近、連絡が来ることは増えた。でも、大抵は短い。明日、可燃ごみの日らしいです。とか。宅配、エントランスに置かれてました。とか。隣人らしい、少し事務的なやり取り。だから、通知が続いていることが珍しかった。『今日、蓮すみませんでした』思わず小さく笑ってしまった。真面目。本当に、そういうところは変わらない。別に翔太が謝ることではない。むしろ、止めてくれた側だ。それなのに、変な空気になると、自分が悪くなくても一度引き受ける。相手が困るくらいなら、自分が気まずい役をやる。昔から、そういうところがあった。少し不器用なくらいの優しさ。それが、昔は少し可愛かった。――可愛い?自分の中に浮かんだ言葉に、少しだけ手が止まる。今、何を思ったんだろう。私は誤魔化すように返信を打った。『全然大丈夫』『気まずかったよね笑』既読は早かった。『あれはまあ……』『蓮が空気読まなかった』少し間があいて、続けてメッセージが来る。『ベランダ出てるんだけど』『少し飲む?』ベランダ。そういえば、前に言っていた。春とか秋は、少し気が晴れると。このマンションは見晴らしがいい。でも、住み始めてから私は一度もちゃんと出たことがなかった。少し迷う。でも今日は、誰かと少しだけ話したかった。正人との会話が、まだ胸に残っている。待つよ。そんな軽い気持ちじゃないから。あの静かな真剣さは、嬉しかった。でも、少しだけ苦しかった。私は短く返した。『行く』すぐに返事が来る。『外ちょっと寒いので羽織った方がいいです』また少し笑ってしまう。こういうところ。本当に、変に真面目だ。カーディガンを羽織って、窓を開ける。ベランダへ出ると、思っていたより風が気持ちよかった。遠くに東京の夜景が広がっている。道路の光が細く流れて、電車の音が小さく遠くに聞こえた。少し肌寒い。でも、息が詰まる感じがしない。「お」隣から声がした。翔太だった。黒のロンTに、ラフなパンツ。力の抜けた格好なのに、妙に様になる。仕事終わりらしい疲れは少し出ていた。け

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    タクシーの後部座席は、冷房が少し効きすぎていた。運転手さんが行き先を確認し、車は静かに走り出す。窓の外で、丸の内の整った街路樹が流れていく。ガラス張りのビルが夕方の光を反射して、歩道を行く人たちの影が長く伸びていた。少し前なら、こういう移動時間は、たいていどうでもいい話をしていた。コンビニの新作。部内の誰かの癖。案件の愚痴。あるいは、何も話さないこともあった。でも、それが気まずいと思ったことはない。今は違う。会話がないわけじゃない。沈黙が苦しいわけでもない。ただ、お互い少しだけ言葉を選んでいる。その空気がある。正人が窓の外を見たまま、ふと口を開いた。「あの二人、イベント来てたんだっけ」声は自然だった。探る感じではない。ただ、今日の出来事を整理するみたいに。私は少しだけ間を置く。「あ、うん」窓の外へ視線を逃がす。「翔太が……来てくれて」“元彼”という言葉を飲み込む。なんとなく。まだ、正人の前では使いづらかった。「同僚の蓮くんもいて」「へえ」正人はそれ以上深く聞かなかった。ただ、小さく頷く。その反応が、逆に少しだけ気まずい。さっきの空気を、二人とも忘れていない。翔太の言葉。付き合ってた、というか。そして、正人の、感情を閉じたみたいな顔。私は無意識に指先をいじった。言わなきゃ。そう思っていたことがある。ずっと。今日じゃなくても良かったのかもしれない。でも、今日じゃないと、言えない気がした。「あのさ」声が少し小さくなる。正人が視線を向けた。私は一瞬だけ迷う。でも、逃げたくなかった。「私……ちゃんと考えてるから」言葉を探しながら、慎重に言う。「正人のこと」呼吸が少し浅くなる。窓に映る自分の顔が、少しだけ強張って見えた。「ただ……時間が必要で」指先が、スカートの生地を小さく掴む。自分でも、情けないくらい不器用な言い方だと思った。でも、期待だけ持たせるのも嫌だった。残酷になりたくなかった。「だから」少し視線を落とす。「待ってて、とは言わない」言葉を置くみたいに、ゆっくり言った。「正人は、正人の時間も大事にして」誰かと会ってもいい。前に進んでもいい。自分を優先してほしい。そう思う。本当に、そう思っている。でも、その未来を想像すると、少しだけ胸が苦し

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第107話:外で会う人

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