登入「え?」 「栄養ドリンク、クエン酸多いやつね」 「何で?」 「コンビニ行ったので」 「いや、理由になってない」 「明かりついてたから」 さらっと言われて、返事に困った。 私は紙袋を受け取る。 中には、小さな栄養ドリンクと、温かいスープが入っていた。 「スープまである」 「夜中に栄養ドリンクだけ飲んだら胃が死にそうだったので」 「保護者がここにも増えた」 「周りに多いんですね、最近」 翔太が少し笑った。 その表情が、いつもより柔らかかった。 廊下やエレベーターで会う時より、少し近い。 でも、部屋に入ってきているわけではない。 壁もある。 仕切りもある。 距離はある。 それなのに、なぜか少しだけ気楽だった。 変な近さではない。 でも、ただの隣人よりは少し踏み込んでいる。 この距離、何だろう。 隣人の距離、進化してない? そんなことを思って、少し笑ってしまう。 「何ですか」 翔太が聞く。 「いや、ベランダ越しに栄養ドリンクもらうの、初めてだなと思って」 「俺も初めてです」 「でしょうね」 短く笑う。 夜の空気の中で、その笑い声は少しだけ小さく響いた。 「忙しそうですね」 翔太が言う。 「忙しい。普通に死んでる」 「でしょうね」 「みんなそれ言う」 「みんな正しいんだと思います」 また正論。 私は紙袋を抱えたまま、ベランダの手すりに軽く寄りかかった。 仕切り越しだから、顔は全部見えない。 でも、翔太がこちらを向いているのは分かった。 「翔太も遅いじゃん」 「俺も死んでます」 「仲間」 「嫌な仲間ですね」 「ほんとに」 少し沈黙が落ちる。 でも、気まずくはなかった。 エレベーターでの沈黙とも少し違う。 深夜で、外で、隣のベランダ同士で。 変な距離なのに、嫌じゃない。 むしろ、少し楽だった。 「最近、会わなかったね」 私が何気なく言うと、仕切りの向こうで、翔太の手が少しだけ止まった。 ドリンクを持っていた指が、ラベルのところで止まる。 それから、ゆっくり動く。 「そうですね」 声は普通だった。 でも、返事まで少しだけ時間があった。 「お互い忙しかったので」 「だね」 「でも」 翔太が言葉を切った。 私は顔を上げる。 仕切りの向こうで、翔太が少しだ
気になってる人。正人に。そんな人が。いや、いてもおかしくない。正人は普通にモテる。仕事もできるし、優しいし、面倒見もいい。むしろ、いない方が不思議なくらいだ。なのに、なぜか一瞬だけ、心臓が変な動きをした。「……そうなんだ」ようやく、それだけ言う。声が少しだけ自分のものじゃないみたいだった。正人はまだ私を見ていた。その目が、いつもより少しだけ近い。「うん」「え、誰?」聞いていいのか分からないまま、軽く聞く。正人は少しだけ笑った。「言わない」「何それ」「まだ」まだ。その言葉が、妙に残る。私は炭酸水のボトルを持ち直した。特に喉が渇いていたわけでもないのに、何かをしていないと落ち着かなかった。「まあ……正人がちゃんと誰かを好きになるなら、私は応援してるよ」濁すように言った。それが、一番安全な返しだと思った。友達として。同僚として。近くにいる人間として。正人には幸せになってほしい。それは本当だった。正人は少しだけ笑った。でも、その笑い方はいつもと違っていた。軽いのに、目だけは逃げない。「それ」「ん?」「信じていい?」半分冗談みたいな声だった。でも、半分は。たぶん、違った。私は固まった。「……何を?」「応援してくれるってやつ」「それは、まあ」「じゃあ、応援して」「いや、だから誰を」「まだ言わない」「何それ」私は笑った。笑うしかなかった。でも、胸の奥が少しざわついている。なんだこれ。今の会話、何?いつもの正人の冗談のはずなのに。少しだけ、違う。「正人、今日変」「そう?」「うん」「疲れてるんだろ」「それ、私の台詞」「お互い様」正人はそう言って、PCへ視線を戻した。「ほら、仕事するぞ」「急に戻すじゃん」「明日、DJ側に戻すんだろ」「現実」いつもの調子。いつもの正人。でも、さっきの言葉だけが消えない。気になってる人いるから。それ。信じていい?私は資料へ視線を戻しながら、しばらく文字が頭に入ってこなかった。正人の距離が、最近少し近い。そう思っていた。その違和感が、少しだけ形を持ち始めていた。でも、まだ。それをどう受け取ればいいのか分からなかった。***正人が帰ったのは、日付が変わる少し前だった。「もう今日は寝ろ」玄関でそう言
気になってる人。正人に。そんな人が。いや、いてもおかしくない。正人は普通にモテる。仕事もできるし、優しいし、面倒見もいい。むしろ、いない方が不思議なくらいだ。なのに、なぜか一瞬だけ、心臓が変な動きをした。「……そうなんだ」ようやく、それだけ言う。声が少しだけ自分のものじゃないみたいだった。正人はまだ私を見ていた。その目が、いつもより少しだけ近い。「うん」「え、誰?」聞いていいのか分からないまま、軽く聞く。正人は少しだけ笑った。「言わない」「何それ」「まだ」まだ。その言葉が、妙に残る。私は炭酸水のボトルを持ち直した。特に喉が渇いていたわけでもないのに、何かをしていないと落ち着かなかった。「まあ……正人がちゃんと誰かを好きになるなら、私は応援してるよ」濁すように言った。それが、一番安全な返しだと思った。友達として。同僚として。近くにいる人間として。正人には幸せになってほしい。それは本当だった。正人は少しだけ笑った。でも、その笑い方はいつもと違っていた。軽いのに、目だけは逃げない。「それ」「ん?」「信じていい?」半分冗談みたいな声だった。でも、半分は。たぶん、違った。私は固まった。「……何を?」「応援してくれるってやつ」「それは、まあ」「じゃあ、応援して」「いや、だから誰を」「まだ言わない」「何それ」私は笑った。笑うしかなかった。でも、胸の奥が少しざわついている。なんだこれ。今の会話、何?いつもの正人の冗談のはずなのに。少しだけ、違う。「正人、今日変」「そう?」「うん」「疲れてるんだろ」「それ、私の台詞」「お互い様」正人はそう言って、PCへ視線を戻した。「ほら、仕事するぞ」「急に戻すじゃん」「明日、DJ側に戻すんだろ」「現実」いつもの調子。いつもの正人。でも、さっきの言葉だけが消えない。気になってる人いるから。それ。信じていい?私は資料へ視線を戻しながら、しばらく文字が頭に入ってこなかった。正人の距離が、最近少し近い。そう思っていた。その違和感が、少しだけ形を持ち始めていた。でも、まだ。それをどう受け取ればいいのか分からなかった。***正人が帰ったのは、日付が変わる少し前だった。「もう今日は寝ろ」玄関でそう言
月曜日。イベントまで、あと一週間半。修羅場だった。本当に。DJ側との最終確認。会場導線。参加者体験。当日オペレーション。想定質問。スポンサー確認。アプリ内の告知文言。一つ終わるたびに、次の確認事項が増えていく。終わる気がしない。二十二時過ぎ。私はソファに沈んだ。「無理」身体から力が抜ける。もう指先すら重い。ローテーブルの上には、開きっぱなしのPCと、赤字だらけの資料と、飲みかけの炭酸水が置かれている。正人は床に座り、イベント当日のタイムテーブルを見ながら眉間を押さえていた。「このDJの切り替え、微妙に難しくない?」「そこ?」「そこ。プレイリスト診断のピークと、DJの盛り上がる時間が被ってる」正人が画面を指差す。「ここで音が強すぎると、会話エリアが死ぬ」「確かに」「でもDJ側はここで一回上げたいって言ってる」「分かる。イベントとしては上げたい」「でもアプリの体験としては、ここで会話が始まってないと意味ない」「現実がきつい」私は天井を見上げた。一ヶ月でローンチするイベントに、細かい美しさまで求められる。でも、求めないと成功しない。ただ音楽が流れていて、参加者がなんとなく集まって、なんとなく話して終わるイベントにはしたくない。このアプリは、音楽をきっかけに人とつながるサービスだ。だから当日も、音が人の感情を開く瞬間と、誰かと話したくなる瞬間をちゃんと重ねなければいけない。そういう面倒な設計が、結局いちばん大事になる。「DJにもう一回相談する?」私が聞くと、正人は渋い顔をした。「言うしかない。でも言い方間違えると、現場のテンション下がる」「じゃあ、“会話が立ち上がる時間を作りたい”って言い方にする」「それなら通りそう」「あと、診断直後に一曲だけ少し落としてもらう。そこでカード見せ合う流れにする」「いいと思う」正人は短く頷いて、資料にメモを足す。疲れている。かなり疲れている。でも、不思議と前みたいな空っぽさはなかった。しんどい。忙しい。逃げたい。けれど、この仕事は嫌いじゃない。人が会場に入った瞬間、どこで足を止めるのか。誰かと話す時、何がきっかけになるのか。音楽が強すぎると会話は消える。でも、静かすぎると空気が冷える。そのちょうどいい境目を探す。そういうことを考
「……何それ」正人はすぐに肩をすくめた。「いや、かなり良い男だと思うけど」冗談っぽい声だった。いつものテンション。でも、少しだけ何かが混ざっていた気がした。気のせいかもしれない。深夜だからかもしれない。疲れているから、そう聞こえただけかもしれない。私は笑った。「自己評価高」「客観的評価」「自分で言う?」「誰も言ってくれないから」「言ってるじゃん。優良物件って」「物件扱いかよ」いつもの会話。いつもの正人。そう思った。でも、ふと少しだけ引っかかる。最近、近くない?前から家で作業することはあった。でも、最近は頻度が増えた。疲れていると何も言わずに飲み物を出してくれる。「飯食った?」と聞く。帰る前、自然にゴミをまとめる。私が少し黙ると、すぐに顔を見る。あと。前より、見る。目が合う時間が少し長い。そう思った瞬間、心臓が変に動く。いや。考えすぎか。仕事だ。今、修羅場だし。正人は友達で、同僚で、戦友だ。一緒にいる時間が長いから、そう感じるだけ。そういうこと。私は小さく首を振った。深く考えるのをやめる。その時、正人が少し身体を寄せて、私のPC画面を覗き込んだ。肩が軽く触れそうになる。「ここ、文言弱い」近い。一瞬だけ思った。でも、すぐに打ち消す。考えすぎ。正人だし。「聞いてる?」「あ、聞いてる」私は笑う。正人も笑った。けれど、その笑い方が少しだけ硬く見えた。平気そうにしている。いつもの正人でいようとしている。そんなふうに見えた。でも、それ以上考える前に、画面の赤字修正が目に入る。「ここ、確かに弱いね」「だろ」「直す」「やっと」「鬼」いつもの深夜作業に戻る。でも、さっきの「俺で良くない?」という冗談だけが、少しだけ耳の奥に残った。***同じ夜。正人が帰ったあと、私はシャワーを浴びて、髪を乾かしながらスマホを見た。先輩からメッセージが来ていた。『今日はありがとう。次、無理ないタイミングでまた行こう』優しい文面だった。急かさない。押しつけない。私は少し考えてから返信する。『こちらこそありがとうございました。来週以降なら少し落ち着くかもです』送ってから、ベッドに腰を下ろす。三回目。本当に行くんだな、と思う。それが嫌じゃない。そのことが、
火曜日。二十時。大学のゼミの先輩と、二回目の約束だった。待ち合わせ場所に着くと、前回より少しだけ気楽だった。初対面じゃない。相手がどんな話し方をするのかも、どれくらいの距離で笑う人なのかも、少しだけ分かっている。それだけで、余計な緊張が減る。「あ、平原」先輩が軽く手を上げた。前回と同じように、落ち着いた声だった。でも今日は、その声を聞いても身構えなかった。「お疲れさまです」私が笑うと、先輩は私の顔を見て、すぐに言った。「今日は元気そう」「前回、どれだけひどかったんですか」「ちょっと顔死んでた」「正直すぎる」先輩も笑った。店は、駅から少し歩いたところにある落ち着いた和食屋だった。照明は少し暗くて、隣の席との距離も近すぎない。仕事帰りに入っても、無理に気を張らなくていい感じがする。席に着いて、おしぼりを受け取る。それだけで、少し肩の力が抜けた。「今週も忙しい?」「かなり」「イベントあるって言ってたっけ?」「はい。一ヶ月でローンチです」「それ、普通にやばいですね」「ですよね」私は少し笑った。「みんなに言われます」「ちゃんと寝てる?」「寝てないです」「食べてる?」「最近、周りに保護者みたいな人が多いんですよ」そう言うと、先輩は小さく笑った。「平原、昔から頑張りすぎそうだったし」その言い方に、少しだけ引っかかる。嫌な意味ではない。むしろ、優しかった。ちゃんと見ていて、少し茶化す。でも、否定しない。その距離感が、少し心地よかった。同時に、ふと正人の顔が浮かぶ。飯食った?寝てる?危なっかしい。そう言いながら、結局いつも助けてくれる正人。先輩も少し似ている。落ち着いていて。人の話をちゃんと聞いて。こちらが少し無理をしていることに、何となく気づく。でも。正人の方が、もっと自然かもしれない。そう思った瞬間、私は小さく首を振った。比べることじゃない。先輩は先輩で。正人は正人だ。料理が来て、話は自然に続いた。学生時代のゼミの話。共通の知人の近況。最近の仕事。音楽アプリの案件。先輩は、こちらの話を急かさずに聞いてくれた。相槌も自然で、変に盛り上げようとしない。沈黙があっても、気まずくない。それは前回と同じだった。でも、今日は前よりもう少し分かった。この人は