隣の席の笑い声。厨房の音。スプーンが皿に当たる音。全部あるのに、そこだけ急に静かになったみたいだった。付き合う。試しに。正人と。その言葉が、頭の中で何度も形を変える。恋人。同期。親友。仕事仲間。待ってくれている人。私を好きでいてくれる人。傷つけたくない人。そして。もう、失いたくないかもしれない人。正人は急かさない。ちゃんと私を見ながら続ける。「嫌ならもちろん無理しなくていい」「……うん」「試しにって言った手前、愛子が嫌なら、恋人らしいこともしなくていいし」少し困ったように笑う。「ちゃんと気持ちは尊重する」正人らしい。最後まで。自分だけの願いにならないようにしている。でも、その次の言葉だけは、少しだけ重かった。「ただ」視線が少しだけ揺れる。慎重に選ぶみたいに。「もしダメだったり」ほんの少し間を置いて。「……他に好きな人がいるなら」名前は出さない。でも、分かってしまう。翔太。映画。アートバー。パーカーの匂い。次、何観る?プラネタリウム、今度行く?そして、去り際のあの目。前に正人が言った言葉。――彼、多分まだ愛子のこと好きだよ。正人は静かに続けた。「今週」目を逸らさない。「ちゃんと振ってほしい」真面目だった。被害者になろうともしていない。ただ、自分の気持ちを守ろうとしている。その姿が、余計に痛かった。「こんな形で、わがまま伝えることになってごめん」少し笑う。でも、その笑顔は少しだけ疲れて見えた。「すぐ返事聞かなかったのは」私を見る。ほんの少しだけ柔らかく。「もう顔に出てるし」図星だった。「今すぐ答え出せる感じじゃないだろうなって」私は、何も言えない。正人が少しだけ視線を落として、静かに言った。「楽しかったんだ」その言葉に、胸が痛む。「仕事以外で」少し笑う。「愛子と過ごせるの」過去形だった。まるで、終わる可能性まで含めて話しているみたいで。「でも、このままだと俺ら」少しだけ苦笑いする。「ズルズルしそうだなって思ったから」正しい。ちゃんと、誠実だ。だから痛い。「今週、でお願い」静かな声。「わがままだけど」少しだけ笑った。「返事が欲しい」しばらく何も言えなかった。湯呑みを持つ手に、少しだけ力が入る。正人は、急か
Last Updated : 2026-08-20 Read more