All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 201 - Chapter 210

254 Chapters

第200話:今週、でお願い

隣の席の笑い声。厨房の音。スプーンが皿に当たる音。全部あるのに、そこだけ急に静かになったみたいだった。付き合う。試しに。正人と。その言葉が、頭の中で何度も形を変える。恋人。同期。親友。仕事仲間。待ってくれている人。私を好きでいてくれる人。傷つけたくない人。そして。もう、失いたくないかもしれない人。正人は急かさない。ちゃんと私を見ながら続ける。「嫌ならもちろん無理しなくていい」「……うん」「試しにって言った手前、愛子が嫌なら、恋人らしいこともしなくていいし」少し困ったように笑う。「ちゃんと気持ちは尊重する」正人らしい。最後まで。自分だけの願いにならないようにしている。でも、その次の言葉だけは、少しだけ重かった。「ただ」視線が少しだけ揺れる。慎重に選ぶみたいに。「もしダメだったり」ほんの少し間を置いて。「……他に好きな人がいるなら」名前は出さない。でも、分かってしまう。翔太。映画。アートバー。パーカーの匂い。次、何観る?プラネタリウム、今度行く?そして、去り際のあの目。前に正人が言った言葉。――彼、多分まだ愛子のこと好きだよ。正人は静かに続けた。「今週」目を逸らさない。「ちゃんと振ってほしい」真面目だった。被害者になろうともしていない。ただ、自分の気持ちを守ろうとしている。その姿が、余計に痛かった。「こんな形で、わがまま伝えることになってごめん」少し笑う。でも、その笑顔は少しだけ疲れて見えた。「すぐ返事聞かなかったのは」私を見る。ほんの少しだけ柔らかく。「もう顔に出てるし」図星だった。「今すぐ答え出せる感じじゃないだろうなって」私は、何も言えない。正人が少しだけ視線を落として、静かに言った。「楽しかったんだ」その言葉に、胸が痛む。「仕事以外で」少し笑う。「愛子と過ごせるの」過去形だった。まるで、終わる可能性まで含めて話しているみたいで。「でも、このままだと俺ら」少しだけ苦笑いする。「ズルズルしそうだなって思ったから」正しい。ちゃんと、誠実だ。だから痛い。「今週、でお願い」静かな声。「わがままだけど」少しだけ笑った。「返事が欲しい」しばらく何も言えなかった。湯呑みを持つ手に、少しだけ力が入る。正人は、急か
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第201話:思い過ごしであってほしい

部屋へ戻っても、心が落ち着かなかった。鞄をソファに置いて、靴を脱いで。それでも身体のどこかだけが、ずっと張り詰めている。疲れているはずなのに、頭が休まらない。正人の言葉が、何度も思い出される。――今週、でお願い。優しかった。でも、優しいだけじゃなかった。待つと言っていた人が、自分の気持ちを守るために、ちゃんと期限を切った。あれは、正人なりの覚悟だった。期待してしまった、と言っていた。あり得るかもしれないと思った、と。その気持ちを責められない。だって、自分がそうさせた。倉庫に連れて行ったのも。抱きしめられて、拒まなかったのも。少しずつ距離を縮めてきたのも、自分だ。ちゃんと向き合わなきゃいけない。そう思う。思うのに。ふと、別の声が頭をよぎる。心配くらい、させてよ。実際には、そう言われたわけじゃない。でも、あの日の翔太の目は、ずっとそんなふうに見えた。気づいているのに、言わない目。踏み込まないようにしているのに、心配だけは隠しきれていない目。そして、正人が言っていた言葉。――彼、多分まだ愛子のこと好きだよ。いや。そんなわけ。そう思いたい。でも。少しだけ、引っかかっている。もし、仮に。本当に。そんな可能性があるなら。正人に向き合う前に、ちゃんと否定したかった。否定できたら。ちゃんと正人に向き合える気がした。そういう理由を、どこかで欲しがっていた。自分でも分かる。ずるい。確認という言い訳で、翔太を使おうとしている。それなのに、同時に会いたいとも思っている。そのことが、一番嫌だった。ソファに座ったまま、スマホを開く。翔太とのチャット。いつもの会話。普通の距離。近すぎもしない。でも、自然と生活の中にいる。そのことが、今は少し危なかった。画面の中には、さっき届いたメッセージがある。『こないだ話してた限定キャラグッズ、もらったけど』『いつ渡せばいい?』あまりにも自然だった。何事もないみたいに。生活の続きを話すみたいに。限定キャラグッズ。たしかに、欲しかった。前に、買えなかったと話した。翔太はそれを覚えていた。覚えていて、ちゃんと手元に来たら連絡してきた。それだけ。ただ、それだけ。なのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。指が止まる。こんな時間に行
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第202話:探らない空気

木のテーブル。低いソファ。小さな観葉植物。棚に並んだ本とレコード。コーヒー器具の横に、今日は小さなティーポットが置かれている。湯気が少し上がっていた。本当に、淹れてくれている。「ハーブティーって珍しいね」私が言うと、翔太はキッチン側でカップを取った。「もらいものです」「翔太っぽくない」「ですよね」少し笑う。「でも、今の愛子にはコーヒーよりこっちかなと思って」手が止まる。今の愛子。その言葉が、静かに胸へ落ちた。「……なんで」「顔」翔太はカップにお茶を注ぎながら、あっさり言った。「今日、たぶんカフェイン入れたら寝れない顔してる」冗談みたいな言い方。でも、見ている。見られている。やっぱり、この人は気づく。私はソファの端に座った。翔太はカップをテーブルに置く。「熱いから、ゆっくり」その手つきは静かだった。カップを置く位置も、私が取りやすい場所。無意識なのか、意識しているのか分からない。でも、こういう細かいところに、翔太の優しさが出る。だから余計に、困る。「限定グッズ」翔太はそう言って、棚の上から小さな紙袋を取った。「これ」差し出された袋の中には、前に買えなかったキャラクターのアクリルスタンドと、変な顔のキーホルダーが入っていた。思わず笑ってしまう。「本当にあったんだ」「蓮の友だち、ちゃんと持ってました」「すごいルート」「意外と役立つ弟みたいな人脈」「蓮くん、弟じゃないでしょ」「距離感は近いです」その言い方に、少し笑う。いつもの調子。軽くて、楽で。でも、今日の私はその軽さにうまく乗れない。翔太はそれに、たぶん気づいている。気づいているのに、すぐには触れない。カップを持ち、少し離れた椅子に座る。ソファの隣ではなく。向かいでもなく。少し斜め。近すぎない位置。その距離が、逆に意識的に見えた。私が今、落ち着いていないことを分かっている。だから距離を取っている。でも、完全に離れはしない。いつでも話せる場所にいる。そういう配置だった。「今日、仕事遅かったんですか」翔太が聞く。何気ない質問。でも、目はちゃんとこちらを見ている。「うん。ローンチ周りで」「大変そう」「大変」「ちゃんと食べた?」少しだけ笑ってしまった。「食べた」「ならよかった」そこで会
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第203話:確認したかったこと

「急にごめん」声が少しだけ上擦った。翔太は自然に首を振る。「全然」少し笑う。それから、部屋を軽く見た。「……まあ、こないだよりは片付いてないけど」少し照れたみたいに言う。私は靴を脱ぎながら、部屋の中を見た。「なんか今日、ちょっと生活感ある」翔太がキッチンの方から少し笑う。「いや、今日予定になかったから」ポットへお湯を注ぎながら、肩越しに軽く振り返る。「さすがに完璧には無理でした」その言い方が少しだけ照れ隠しっぽくて、思わず笑ってしまう。やっぱり。少し片付けたんだ。そういうところ、昔から変わらない。ちゃんとしているのに、それを“ちゃんとしてる感”として見せない。だから余計に自然で、余計に心に入り込んでくる。部屋の空気は、この前来た時より少しだけ生活感があった。読みかけらしい洋書。テーブルに置かれた炭酸水。ソファの端に寄せられたブランケット。棚の上に無造作に置かれた鍵。それなのに、不思議と雑然として見えない。人の気配があるのに、空間として整っている。照明の色も、家具の配置も、全部が落ち着く。翔太の部屋って、なんでこんなに居心地がいいんだろう。そのことが、今は少し危なかった。ソファへ腰を下ろすと、テーブルの上に小さな袋が置いてあった。限定キャラのグッズ。ちゃんと取っておいてくれたらしい。「え、ありがとう」袋を持ち上げる。「お金払う」翔太は、マグカップを取り出しながらすぐに首を振った。「いいよ、それくらい」即答だった。あ、この感じ、受け取らないやつだ。昔から、変なところで頑固だった。私は少し困ったように笑う。「……じゃあ、ありがたくもらう」「どうぞ」その返し方も、妙に昔のままで落ち着かない。少しだけ沈黙が落ちる。ポットのお湯が落ちる音。カップが小さく触れる音。部屋にゆっくり広がるハーブの香り。静かだった。静かなのに、妙に緊張する。気づけば、見てしまっていた。翔太を。キッチンに立つ背中。袖を少しだけ捲った腕。カップを置く指先。昔、カフェで働いていた時と変わらない動き。無駄がなくて、丁寧。懐かしい。そう思った瞬間、胸の奥が少しざわつく。違う。懐かしいだけじゃない。五年前より、ずっと男っぽい。肩幅も。立ち姿も。空気も。ちゃんと時間が流れている。な
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第204話:そういうこと?

草みたいな、少し甘い香り。コーヒーではない。今の私が眠れなくなるだろうと思って、ハーブティーを淹れてくれた。そういうところまで、ちゃんと見ている。隣人という距離にしては、近い。元彼という関係にしても、近い。でも、その近さが、最近は少し心地よくなっている。それを、もう否定しきれない。翔太が私を見る目も、少しずつ変わってきている気がする。いや。変わったというより、戻ってきているのかもしれない。五年前。付き合っていた頃。人混みの中で私を探す時の目。ホラー映画で怖がる私を見て、少しだけ面白そうにしながらも、ちゃんと隣にいてくれた目。カフェの外で待ち合わせた時、私を見つけた瞬間に少しだけ緩む目。最近、そういう目を思い出すことが増えた。映画館でも。アートバーでも。昨日、楓を部屋に運んだ時も。そして今も。翔太は何も言わない。何も言わないのに、その目が、過去の記憶を勝手に連れてくる。それが怖い。勘違いであってほしい。思い過ごしであってほしい。翔太の優しさは、ただ昔からの癖で。私を見る目が柔らかいのも、元恋人としての情で。距離が近いのも、隣人として慣れているだけで。何も、意味なんてない。そう思いたい。でも。もし、本当に意味がないなら。どうしてこんなに、心が騒がしいんだろう。「愛子」名前を呼ばれて、顔を上げた。翔太がカップを両手で包みながら、こちらを見ていた。「無理に話さなくてもいいですよ」先にそう言われた。胸が詰まる。話したいことがあるのを分かった上で。それでも、無理に出さなくていいと言う。その優しさが、今は逃げ道みたいで。同時に、逃げられない場所みたいでもあった。「……なんで、そういうこと言うの」思わずこぼれた。翔太は少しだけ目を瞬いた。「そういうこと?」「分かってるみたいなこと」声が少しだけ硬くなる。「こっちが何か言う前に、分かってるみたいな顔する」言ってから、少しだけ後悔した。責めたかったわけじゃない。でも、ずっと心のどこかに引っかかっていた。翔太は怒らなかった。驚いたように少しだけ目を伏せたあと、静かに笑う。「……顔に出るから」「出てない」「出てます」すぐに返ってくる。けれど、いつもの軽さより、少しだけ声が柔らかい。「愛子、平気な顔してる時ほど、手が止ま
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第205話:少し甘いものでも食べます?

「……別に」声が少しだけ掠れる。「大した話じゃない」翔太はすぐには返さなかった。沈黙が、ゆっくり落ちる。でも、痛い沈黙ではなかった。むしろ、翔太が何かを飲み込んだ音が聞こえそうな沈黙だった。言いたいことがある。でも言わない。それが分かる。分かってしまう。翔太は、ほんの少しだけ息を吐いた。「そっか」「ならいいです」いつもの調子に戻そうとしている。でも、完全には戻っていない。目だけが少し寂しい。その寂しさに気づいた瞬間、胸がぎゅっとなった。なんで、そんな顔をするの。そう聞きたかった。でも、聞けなかった。聞いたら、きっと戻れなくなる。だから私は、また気づかないふりをする。「限定グッズ」無理に話題を変える。「ほんと、ありがとう」翔太の目が、一瞬だけ揺れる。話を逸らされたことに、気づいている。それでも、すぐにいつもの顔に戻す。「変な顔のキーホルダー、愛子好きそうだったので」「好きだけど」「やっぱり」小さく笑う。その笑顔が優しい。でも、さっきの目の寂しさが、まだ少しだけ残っている。だから私は、余計に落ち着かない。思い過ごしであってほしい。勘違いであってほしい。そう願っているのに。翔太の好意は、言葉ではなく、いつもこういうところから触れてくる。お茶の温度。距離の取り方。目線。覚えている癖。言わないまま飲み込む沈黙。それらがひとつずつ、静かに私の中へ入ってくる。気づかないふりをするには、もう少し近すぎる。私はカップをテーブルに置いた。小さな音がした。「翔太」名前を呼ぶと、翔太がこちらを見る。「ん?」低い声。穏やかな顔。でも、その奥にまだ何かがある。確認しないといけない。このまま、ただ思い過ごしであってほしいと願っているだけでは、正人にも翔太にも失礼だ。何より、自分がまた逃げることになる。私は膝の上で指を組んだ。指先が少し冷たい。「聞いてもいい?」翔太の表情が、ほんの少しだけ変わった。目元の柔らかさが消えて、静かになる。「何を?」私はすぐには言えなかった。心臓が速い。喉が乾く。ここまで来たのに。肝心な言葉が出てこない。確認するために来た。自分の気持ちから逃げるためではなく。正人への返事を、誰かのせいにしないために。翔太の目の意味を、勝手に都
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第206話:試しに付き合ってって言われた

出てきたのは、小さな箱だった。濃いネイビーに、金の箔押し。いかにも少し高そうな、おしゃれな箱。翔太が蓋を開けると、中にはオレンジピールのチョコレートが整然と並んでいた。「……なにこれ、絶対美味しいやつ」思わず言えば、翔太が少し笑った。「まあ、多分」その“多分”の言い方が少し適当で。本当にそこまで興味がなさそうだった。私は箱を覗き込みながら聞く。「誰かにもらったの?」翔太はポットを準備しながら、なんでもない顔で答えた。「そうなんです」少し肩をすくめる。「なんか、たまにこういうのもらうんですよね」本当に、気にも留めていない感じだった。ああ。これ、多分女性だ。分かる。別に確認したわけじゃない。でも、なんとなく察しがつく。相変わらず罪な男。顔が良くて。距離感が自然で。気づけば人を勘違いさせそうな空気を持っているくせに、自覚が薄い。五年前からそうだった。そして、多分、今も。少しだけ胸の奥がざわつく。その理由を考えたくなくて、私は視線を逸らした。透明なティーポットにお湯が注がれる。ふわり、と湯気が立つ。柔らかい香りが部屋に広がった。柑橘系に近いような、でも少し落ち着く匂い。「……いい匂い」思わず言葉が漏れる。自然に。考えるより先に。翔太が少しだけ笑った。「ならよかった」その言い方も自然だった。気負わない。押しつけない。でも、ちゃんと気にしている。そういう優しさ。少しして、翔太がカップを持って戻ってきた。前の椅子ではなく、ソファの端に腰を下ろす。真正面じゃない。少し斜め。でも、さっきより近い。ソファが沈む感覚。近くなる距離。それだけで、少しだけ呼吸が浅くなる。翔太はカップを私の前に置き、チョコレートの箱を間に置いた。「どうぞ」「ありがとう」ひとつ取る。オレンジの苦みと、チョコレートの甘さ。思っていたよりずっと美味しい。「……美味しい」「よかった」翔太はそう言って、自分もひとつ口に入れた。でも、味に驚くというより、私の反応を確認しているように見えた。そういうところが、また落ち着かない。「で?」翔太がカップを手にしたまま、少しだけ首を傾げた。探るような目。でも、昔みたいに追いかけない。問い詰めない。ただ、待っている。言いたくなるまで。その姿勢が
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第207話:本気で言ってる?

音が消えたわけではない。ポットの湯気も上がっている。外の遠い車の音も聞こえる。それでも、何かが静かに止まったみたいだった。翔太はしばらく振り返らなかった。カウンターに片手を置いたまま、少しだけ俯いている。その指が、ほんのわずかに力を入れたのが見えた。「へぇ」小さな相槌。感情が見えない。翔太はまた、何事もないみたいにお湯を注ぎ始める。でも、さっきまでと少し違った。手つきは丁寧なのに、静かすぎる。感情を出さないために、必要以上に動きを整えているみたいだった。少しして、翔太は淡々と言った。「……やめといたら」私は顔を上げる。「え?」翔太は振り返らない。静かな声だった。怒ってもいない。責めてもいない。でも、少しだけ冷たい。「お試し?」少し考えるように続ける。「そんな曖昧な形で付き合っても」そして、ようやく振り向く。目が合う。「また距離置いてさ」言葉が、少しだけ低い。「愛子は、逃げるんじゃないの?」息が詰まる。責められているわけじゃない。怒鳴られているわけでもない。でも、少しだけ批判的な目だった。胸がざわつく。嫌だった。その言い方。特にまた、って言う言葉を使って。どうして、そんなふうに言うんだろう。「……どうしてそんな言い方するの」思わず、こぼれた。翔太は答えない。カップを持って戻ってきて、さっきより少し近い場所へ腰を下ろした。でも、言葉がない。その沈黙が、余計に苦しい。私は視線を落とした。チョコレートの箱。ハーブティーの湯気。整えられた部屋。全部さっきまで優しかったのに。今だけ少し息苦しい。気づけば、言葉が止まらなかった。「あの時は事情があったし」視線を落としたまま言う。「その時の話を翔太にするのも、勇気が必要だったし」指先が少し熱い。「ちゃんと、このあいだ謝ったじゃん」翔太は何も言わない。だから、止まらない。「翔太に、そんなふうに言われたくない」ぽつり。でも、自分でも驚くくらい、嫌だった。なんでだろう。正人に誤解されたくない気持ちはある。でも、こんなふうに。理解してほしい。理解してくれると思ってたのに。そう期待してしまうのは、翔太に対してだった。その事実に、遅れて気づく。でも、一度出た言葉は止まらない。「だいたい私のこと」半分、
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第208話:その聞き方は、ずるいと思う

「愛子が自分からさ。隣人としての距離を許しておいて」「それをうちに来て、こんな形で言うのって」「結構酷くないか、って思うけど」静かな声。冷たいのに、どこか震えている。私はその震えに気づいてしまった。翔太はすぐに視線を逸らした。まるで、自分でも今の声を聞かれたくなかったみたいに。「……ごめん」やっと、それだけ言えた。翔太は答えない。部屋の中に、お香の柔らかい匂いが残っている。ハーブティーはまだ温かい。チョコレートの甘さも、少しだけ舌に残っている。なのに、空気だけが急に冷えた。翔太は深く息を吐いた。長く、静かな息だった。それから、少しだけ顔を上げる。目はまだ冷たい。でも、その奥にあるものは、怒りだけではなかった。「俺が距離置けばよかったって」ゆっくり繰り返す。「本当にそう思ってるの?」胸が苦しくなる。違う。そうじゃない。本当は、そうじゃない。距離を置いてほしかったわけじゃない。むしろ、置かれたら怖かった。この数週間、翔太が自然に隣にいることに、どれだけ救われていたか。どれだけ心地よくなっていたか。もう、分かってしまっている。だから、怖くて。だから、言ってしまった。「違う」ようやく声が出た。「……違うと思う」弱い言い方だった。でも、それが今の本音だった。翔太の目が、少しだけ動く。「思う?」「...分からない」私は膝の上で指を握った。「正人に返事しなきゃいけなくて」声が少し震える。「でも、翔太のことが分からなくて」翔太の表情が、そこで少しだけ変わった。「俺のことって?」その声は、さっきより低かった。でも、冷たさは少し薄れていた。私は視線を落とした。「……正人に言われたの」喉が詰まる。「翔太が、まだ私のこと好きなんじゃないかって」言った瞬間、翔太の呼吸が止まった気がした。部屋の中が、また静かになる。私は続ける。「もちろん、そんなわけないって思いたかった」小さな声だった。「思い過ごしだって」「勘違いだって」「ただの隣人として接してくれてるって」胸の奥が熱くなる。「そう思えたら、ちゃんと正人に向き合える気がした」翔太は何も言わなかった。ただ、私を見ていた。その目の冷たさは、もう消えていた。代わりに、何かを堪えているような色があった。「でも」私
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第209話:答えるしかないから

翔太は、まだ答えを言わなかった。でも、言わないことで、もうほとんど答えが見えてしまっていた。それでも、私はまだ心のどこかで願っていた。思い過ごしであってほしい。勘違いであってほしい。そうでなければ。この部屋の空気も。翔太の目も。私がここへ来てしまったことも。全部、戻れないものになってしまうから。「……そんなふうに聞かれたら」驚くほど静かで、感情を抑えている人の声だった。「答えるしかないよね」言葉が、静かに落ちる。私は息を止めた。部屋の空気が変わった。さっきまで柔らかかったハーブの香りも、お香の煙も、急に遠く感じる。静かな部屋なのに、息苦しい。翔太は視線を外したまま、短く息を吐いた。その横顔は少しだけ強張っていて、怒っているというより、傷ついているように見えた。少し伏せた睫毛。噛み締めるような口元。何かを飲み込もうとしている喉の動き。それを見た瞬間、胸の奥が苦しくなる。翔太は、ゆっくり顔を上げた。目が合う。さっきまでの穏やかさはない。けれど、冷たいわけでもなかった。ただ、隠していたものが少しだけ漏れている目だった。「五年前に、無理やり距離詰めようとして」一瞬、視線が下がる。「失敗して、振られてるのに」吐き捨てるような言い方だった。なのに、その顔は少し傷ついて見えた。胸が、きゅっと縮まる。五年前。あの頃の私は、自分のことで精一杯だった。翔太が近づいてくることも。翔太が分かろうとしてくれることも。全部、嬉しいより先に怖かった。好きだったのに。好きだったからこそ、怖かった。そのまま踏み込まれたら、自分が壊れてしまう気がした。だから、距離を置いた。説明したつもりだった。謝ったつもりだった。でも。翔太にとっては、それだけでは終わっていなかったのだ。翔太はソファに座り直した。けれど、目は逸らさない。「どんな想いで」 「今の距離、保ってると思うの」目が合う。その瞬間、何かが静かに腑に落ちた。再会してからの距離。近すぎない。でも、遠すぎない。程よく踏み込む。けれど、絶対に踏み込みすぎない。お隣さん。友達みたいな距離。居心地のいい関係。何も壊さない関係。違う。翔太が、維持していた距離だった。あえて、壊さないように。今度こそ嫌われないように。今度こそ
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