All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 211 - Chapter 220

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第210話:まだ好きだよ

手首を掴む指先に、今までずっと抑えていたものが滲んでいる。「愛子」名前を呼ばれる。近い。「俺は」言いかけて、翔太は一度だけ口を閉じた。たぶん、最後のところでまだ耐えようとした。でも、もう遅かった。視線が揺れて、すぐに戻る。「まだ好きだよ」静かな声だった。けれど、真っ直ぐだった。「五年前に終わったって思ってたのに」少しだけ苦く笑う。「再会して、隣で、普通に話せるようになって」握る指に、ほんの少し力が入る。「やっぱり好きだな、って思ったから」胸が痛い。言葉が重い。でも、翔太の目は逸れない。「愛子に」「ちゃんと向き合ってほしいし」 「また付き合ってほしいって思ってるよ」その言葉の真っ直ぐさに、何も言えなくなる。顔が近い。視線が近い。こんな距離で、こんな顔で、こんなことを言われたら、まともに目なんて見られるわけがない。私は逃げるように下を向いた。心臓が、うるさい。耳の奥まで、自分の鼓動が響いている。「……なんなの」ようやく絞り出した声は、少し震えていた。「その言い方」翔太の指先が少しだけ動く。掴んだ手首を離さないまま、でも強くもしない。逃げようと思えば逃げられるくらいの力なのに、熱だけが妙に残る。「……今さらなんなの、その告白」無理やり言葉を続ける。目を見られない。見たら、もっと揺らぐ。「こんなの、急に言われても困る」喉が少し詰まる。けれど、それだけじゃ終われなかった。正人の顔が、頭をよぎる。倉庫。抱きしめられた腕。今週、でお願い。ちゃんと向き合おうと思った。その気持ちは、本当だった。だから、言わなきゃいけない。自分に言い聞かせるみたいに、小さく息を吸った。「……私、もう決めてたんだよ」翔太の目が、少しだけ動く。でも、何も言わない。ただ、見ている。まっすぐ。逃がさない目。「今日、ここ来た時には、正人と」 「お試しでも、向き合ってみるって」言い切った瞬間、部屋が静かになった。お香の煙が、ゆっくり揺れる。エアコンの音だけが小さい。けれど、手は離れない。むしろ、翔太の表情が少しだけ変わった。想像していた反応じゃなかった。怒るでも、落ち込むでもない。不思議なくらい、静かだった。それどころか、少しだけ余裕そうにすら見える。「別にいいと思うよ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第211話:戻れなくなる

「……嫌なら」翔太の視線は、私の唇に落ちて。部屋に流れていた静かな空気を震わせるほどではないのに、その声だけが妙に近く感じられる。テーブルの上では飲みかけのハーブティーからまだ微かに湯気が立ち、お香の残り香が淡く漂っていた。その穏やかな空間とは裏腹に、私の心臓だけが異様な速さで脈打っている。「今、逃げて」そう言いながら、翔太の視線がゆっくりと落ちていく。私の目から、唇へ。その動きを追っただけで呼吸が止まりそうになった。近い。さっきまで普通に話していたはずなのに、いつの間にか互いの息遣いが分かる距離になっている。少し顔を上げれば睫毛の影まで見えてしまうほど近くて、私は思わず息を呑んだ。整った輪郭。伏せられた瞳。少しだけ苦しそうに寄せられた眉。認めたくないのに、ずっと好きだった顔だった。逃げるなら今だ。翔太はちゃんと逃げ道を残している。手首を掴む指にも強引さはない。少し身体を引けば離れられるし、顔を背ければきっと止まる。そう分かるだけの余白を、彼は最後まで残していた。それなのに、私は動けなかった。シャツを掴んだ手を離せない。むしろ指先には少しずつ力が入ってしまう。自分でも理解できなかった。頭では駄目だと思っているのに、身体だけが言うことを聞かない。戻れなくなる。そう思った。コンビニで偶然会って、何気ない話をして、映画を観て、気づけば生活の中に自然に入り込んでいた関係。その穏やかな距離には、もう戻れなくなってしまう気がした。それなのに目を逸らせない。翔太もまた、動けずにいた。彼の喉が小さく上下する。何かを必死に堪えているようだった。五年間。ずっと抑えてきた感情があることを、私は知ってしまった。好きだと言われた時よりも、今の方がずっと伝わってくる。彼は迷っていた。私を傷つけたくない気持ちと、もうこれ以上は抑えられない気持ちの間で。その葛藤が、近すぎる距離から伝わってくる。「……ごめん」掠れた声だった。諦めにも似ていて、どこか苦しそうで。その一言に、私は胸を締めつけられた。思わず、目を伏せてしまった。言葉を発しようと、唇を少し開いたとき。すぐに、唇が重なった。静かなキスだった。強引ではない。奪うようでもない。けれど、優しいだけでもなかった。長い時間押し込めてきた想いが滲み出
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第212話:しばらく、会わない

テーブルの上に置かれた手がわずかに握られている。平静を装っているだけで、彼もまた傷ついていることが分かった。だから余計に苦しい。私は視線を逸らした。唇にはまだ熱が残っている。身体が覚えてしまっている。忘れたいのに忘れられない。何か言わなければと思うのに言葉にならない。謝るべきなのか。怒るべきなのか。責めるべきなのか。何も分からなかった。ただ一つだけ分かる。このままでは駄目だ。「……もう」喉が詰まる。「しばらく、会わない」言った瞬間、自分の胸が痛んだ。翔太は静かに目を閉じた。その表情はほんの一瞬だったけれど、まるで何かを失った人みたいだった。それでも彼は止めない。「……分かった」その声は驚くほど穏やかだった。だから余計につらい。私はそれ以上顔を見られなかった。玄関へ向かう。背中に視線を感じる。追いかけてこない視線。引き留めない視線。それが痛かった。ドアを閉めると、廊下の白い光が現実を突きつけてくる。さっきまでいた暖かな部屋が遠い。数歩しか離れていないのに、もう別世界みたいだった。自室へ戻り、鍵を閉めた瞬間に力が抜ける。玄関にしゃがみ込み、膝を抱えた。息が苦しい。胸がうるさい。指先で唇に触れる。まだ熱い。考えないようにしても翔太の顔が浮かぶ。好きだと言った時の目。キスの直前に見せた苦しそうな表情。そして、離れた後の後悔を滲ませた瞳。全部が鮮明だった。それに。あんなに自然だった距離が。全部、意図的だったなんて。いや。違う。計算じゃない。ちゃんと、好きだったから。だから距離を取っていた。五年間。その重さが、今になって押し寄せる。翔太は、ただ近かったわけじゃない。近づきすぎないように、近くにいた。私が逃げないように。自分が壊さないように。そうやって、ずっと隣にいた。それを知ってしまった。知ったうえで、私は一瞬、受け入れてしまった。そのことが、何より苦しい。それでも、やっぱりだめだ。これは、事故。口論がきっかけの事故。そう思うしかない。そう思わないと、立っていられない。それに。向き合いたい気持ちは、消えていない。正人と。ちゃんと。向き合いたい。その気持ちは本当だ。正人と過ごした水族館。倉庫で受け止めてくれた腕。私の答えを待っている
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第213話:少し離れる

翌朝。目が覚めた瞬間から、身体が重かった。眠れたのか、眠れていないのかも分からない。カーテンの隙間から入る朝の光が、床に細く伸びている。いつもなら、その光を見て、今日の予定を考える。仕事の確認。資料の戻し。クライアントへの返信。正人への返事。でも今日は、何も考えたくなかった。頭の中が、まだ昨日の夜に置き去りにされている。翔太の部屋。ハーブティーの香り。お香の煙。暖色の照明。低い声。近かった距離。そして、唇に残った熱。思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。私は反射的に布団を引き上げ、顔を半分隠す。何をしているんだろう。誰も見ていないのに。それなのに、顔が熱くなる。嫌だった。こんなふうに、身体だけが先に反応することが。昨日のことを、事故だと思いたかった。口論がきっかけで。感情が高ぶって。あの距離になって。だから、そうなっただけ。そういうことにしたかった。でも。翔太の「ごめん」という声を思い出すたび、その言い訳は少しずつ崩れていく。あれは、衝動だけではなかった。ずっと抑えていた人の声だった。触れたいと思ってしまった人の声だった。そして私は。逃げなかった。逃げなかったどころか、ほんの一瞬だけ、受け入れてしまった。その事実が、朝になっても消えていない。むしろ夜よりも、輪郭を持って胸に残っていた。私はベッドの上で身体を起こした。喉が乾いている。頭が重い。鏡を見なくても、顔色が悪いのが分かった。スマホを手に取る。仕事用のチャットを開く。指が止まる。休む?いや、休むほどの体調不良ではない。熱はない。咳もない。頭痛も、たぶん寝不足のせいだ。仕事に行こうと思えば行ける。でも、行ったところで、正人の顔を見られる気がしなかった。正人は、何も知らない。昨日の夜、私が隣の部屋へ行ったことも。翔太に好きだと言われたことも。キスされたことも。それを、一瞬でも拒めなかったことも。知らない。知らないまま、きっといつものように心配してくれる。「無理しないで」と言ってくれる。その優しさに、自分が耐えられる気がしなかった。私は息を吐いて、短く打った。『体調不良のため、本日お休みします』送信した瞬間、スマホを伏せた。半分は嘘だった。でも、半分は本当だった。心は、明らかに
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第214話:昨日はごめん

画面を見る。正人だった。『体調大丈夫?』『今日の確認は俺側で進めとくから、気にしないで』相変わらず優しい。ちゃんとしている。私が休むと送れば、まず身体を気にしてくれる。仕事のことも、先に引き受けてくれる。その自然さが、今は少し苦しい。昨日の夜。翔太の部屋から戻って、正人のメッセージに返事できなかった。それなのに、正人は責めない。急かさない。疑わない。その信頼が、重い。私はしばらく画面を見つめた。返事を打つ指が、何度も止まる。本当のことなんて言えない。整理できていないとも言えない。でも、嘘を重ねるのも苦しい。結局、短く返した。『少し疲れただけ』『大丈夫、ありがとう』送ったあと、またスマホを伏せる。胸が痛かった。大丈夫。全然、大丈夫じゃないのに。でも、正人にまで今の揺れを渡すことはできなかった。昼前。荷物をまとめ終えて、玄関へ向かう。スーツケースの持ち手を伸ばすと、金属の音が小さく響いた。部屋を見回す。数日分の生活だけ残して、最低限のものを持っていく。ただそれだけなのに、逃げているみたいだった。いや。実際、逃げているのかもしれない。翔太から。正人から。自分の気持ちから。でも、逃げなければ整理できない時もある。そう言い聞かせる。玄関のドアを開ける。静かな廊下。スーツケースの車輪が、小さく音を立てた。その時だった。ふと、視界の端に、見覚えのある紙袋が映った。足が止まる。ドアノブに、小さな紙袋が掛かっていた。白い袋。キャラクターショップのロゴ。一瞬で分かった。翔太だ。昨日、勢いのまま忘れてきた限定グッズ。心臓が、嫌な跳ね方をする。なんで。こんなにちゃんとしてるんだろう。今、一番会いたくない人なのに。今、一番顔を見たらだめな相手なのに。私はゆっくり袋を外した。指先が少し冷たい。中を見る。グッズ。そして、小さく折られたメモ。その字を見た瞬間、少しだけ呼吸が止まる。翔太の字だった。綺麗で。癖が少なくて。昔から変わらない字。不意に思い出す。付き合っていた頃。私の方が家を出るのが遅くなる日があった。疲れて寝坊した朝。昼近くまで起きられなかった休日。そんな時、ダイニングテーブルに小さなメモが置いてあることがあった。コーヒー淹れてある。冷蔵
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第215話:二方向

楓が、会社近くのホテルを二週間分まとめて取っていたおかげで、実家は思っていたより静かだった。広い家。人の気配が少ない廊下。昔のままの自分の部屋。本棚の並びも、カーテンの色も、机の端についた小さな傷も、記憶の中にあるものとほとんど変わっていない。落ち着くはずだった。少なくとも、隣の部屋に翔太がいないだけで、少しは呼吸が楽になると思っていた。けれど、実際には違った。ベッドに座っても、窓際に移っても、考えることが変わらない。正人。翔太。そして、自分。何を考えても、結局同じ場所に戻ってくる。正人に返事をしなきゃいけない。向き合おうと思っている。それは本当だ。なのに、翔太のメモを袋から出して、また戻して、また出して、何度も同じ三行を読んでしまう。<昨日はごめん。><グッズには罪がないので、もらってください。><あと、しばらく遅いのと出張もあるので安心して。>たったそれだけなのに、読み返すたび胸の奥が重くなる。特に、最後の一文。安心して。その言葉が、ずっと引っかかっていた。翔太は、私が何に一番怯えているのか分かっている。追われたくないこと。顔を合わせたらまた揺れること。でも、完全に突き放されたら、それはそれで苦しくなること。その全部を分かったうえで、あの三行を書いた。何も聞かない。何も責めない。でも、ちゃんと離れる。その距離の取り方が、ひどく翔太らしかった。そして、そんなふうに思ってしまう自分が嫌だった。私、翔太のこと、分かってる。そう思ってしまった瞬間、胸の奥に残っていた熱がまた少し動く。分かっている。知っている。忘れていたわけじゃない。五年前に終わったつもりで、しまい込んでいただけだ。私はメモを袋の中へ押し込むように戻した。それでも、紙の感触が指に残る。翔太の字。翔太の短い言葉。翔太の、引く時の優しさ。全部が消えない。気を抜くと、昨日の夜に戻ってしまう。低い声。近かった距離。「今、逃げて」と言った時の目。そして、唇の熱。私は思わず息を止めた。だめだ。考えない。今は考えない。そう思っても、意識は勝手にそこへ戻る。正人に返事をするために離れたはずなのに。翔太から物理的に離れたはずなのに。頭の中では、ずっと隣の部屋にいる。楓が仕事終わりに戻ってくる前に、家を出よ
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第216話:……昔から鋭かった

「でも、事実でしょ」「うん」私はカップに手を伸ばした。まだ飲んでいないコーヒーの表面に、店内の明かりが揺れている。指先が少し冷たい。「でも」私はカップを見つめながら言う。「正人と向き合いたいのは、本当なの」声が少し震えた。「付き合おうと思ってる。返事もするつもりだった」そこで一度、言葉が止まる。昨日の翔太の顔が浮かぶ。好きだと言った時の、真っ直ぐな目。キスのあと、後悔を滲ませた目。私は唇を噛む。「でも、昨日の今日じゃ絶対無理」今答えたら、嘘になる。正人に向き合うと言いながら、翔太の熱を身体に残したまま返事をするなんて、どう考えても残酷だった。さやかは少し考える顔をした。そして、ふっと笑う。「てかさ」頬杖をつきながら、少しだけ目を細める。「翔太くん、愛子の理解度高くない?」胸が、嫌な音を立てた。「……そこ?」「いや、そこ大事でしょ」さやかはフォークを持ち上げ、まだ来ていないケーキを待つみたいに指先で軽く揺らした。「そのメモの書き方とかさ。追わないけど切らない。謝るけど重くしない。安心して、まで書く」言われた瞬間、紙袋の中のメモが頭をよぎる。安心して。短い言葉。でも、私に効きすぎた言葉。「そんな大人だったっけ」さやかが少し首を傾げる。「私あんま覚えてないけど」私は苦笑いした。「……昔から鋭かった」「でしょ?」さやかが頷く。「でもさ、本人が立場弁えてる分、たち悪いよね」「たち悪い?」「うん」さやかは運ばれてきたケーキを小さく切りながら続ける。「自分が何を言ってるかも、何をしたら愛子が揺れるかも、たぶん分かってるタイプじゃん」フォークが皿に当たって、小さく音を立てた。「でも、押し切らない。だから余計に残る」その言葉に、胸が沈む。そうだ。翔太は押し切らなかった。昨日だって、逃げてと言った。私が押したら、すぐに離れた。しばらく会わないと言ったら、分かったと答えた。追わない。止めない。でも、全部なかったことにもしてくれない。その距離の取り方が、ずるい。「……ずるいよね」ぽつりと漏れた。自分でも気づかないうちに出た言葉だった。さやかが、少しだけ口角を上げる。「でしょ」でも、その笑い方は茶化しているだけではなかった。少しだけ、私を心配している目だった。私はカ
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第217話:今知れて、よかったのかも

「むしろさ」さやかが続ける。「翔太くん、お試しで正人と付き合うことも、愛子が気持ち整理することも、多分分かってんじゃない?」少し笑う。「なのに“他の男と付き合う可能性あります”って明言されてるの、普通に可哀想だけど」その言い方が少し面白くて、私は苦笑いする。けれど、笑いきれなかった。翔太が可哀想。正人も可哀想。そして私は、どちらにも中途半端だ。そう思った瞬間、胸の奥が重く沈む。私はカップの中を見つめた。コーヒーは少し冷めていた。「……私、どうしてこんなことになってるんだろう」「二人とも顔が良いからじゃない?」「真面目に聞いてる」「わりと真面目」さやかは悪びれずに言った。「あんたにしては珍しいよね。イレギュラー二件」指を二本立てる。「元カレ」「会社の親友」そして、少し笑う。「しかも二人とも顔が良い」私は思わず吹き出した。「どんだけ前世で徳積んだの」その軽さに、ほんの少しだけ笑ってしまう。胸に溜まっていた重さが、少しだけ動いた。でも、消えたわけではない。笑ったあと、すぐに静けさが戻ってくる。さやかもそれを分かっているのか、今度は茶化さなかった。「でもさ」さやかは少しだけ柔らかい声で言った。「今のタイミングで分かってよかったんじゃない」私は顔を上げる。「翔太くんの気持ちも。愛子が揺れることも」カフェの外を、人が通り過ぎる。夕方の光がガラスに反射して、テーブルの上に薄く広がっていた。「正人に返事したあとだったら、もっとしんどかったでしょ」その言葉に、私はゆっくり息を吐いた。確かに。正人と付き合うと決めたあとで、翔太の気持ちを知っていたら。自分がこんなに揺れると知ってしまっていたら。もっと残酷だった。もっと逃げ場がなかった。「……うん」小さく頷く。「今知れて、よかったのかも」そう言ったのに、胸は軽くならなかった。よかった。そのはずなのに。知ってしまったせいで、失ったものもある。隣人としての自然な距離。翔太の部屋へ気軽に行ける関係。何でもないふりで笑える空気。それらがもう戻らないことも、同時に分かってしまったから。「それでも」私は少し息を吸った。「正人と、一回ちゃんと向き合いたいのは変わらない」言葉にした瞬間、自分の胸の中を確かめる。嘘ではなかった。正人を
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第218話:マッスルバー

「で?」ケーキを食べ終わった頃。さやかが、当然みたいな顔で立ち上がった。まだカップには少しだけコーヒーが残っている。私はそれを眺めたまま、嫌な予感がして顔を上げた。「話聞いてあげたんだから、次付き合って」「……何その交換条件」「人間関係はギブアンドテイクでしょ」「さっきまで結構いいこと言ってたのに、急に信用なくした」「いいこと言ったからこそ、報酬が発生します」さやかは堂々としている。こういう時のさやかは強い。強いというか、逃げ道を最初から塞いでくる。私はカップを置いた。「……どこ」聞いた瞬間、聞かなきゃよかったと思った。さやかが、にやっと笑った。「マッスルバー」数秒、沈黙。カフェの中では、落ち着いたジャズみたいな音楽が流れていた。窓の外では、夕方の街が少しずつ夜に変わっている。その中で、私は真顔になった。「帰る」「待って待って!」立ち上がろうとした腕を、さやかに掴まれる。「一回行ってみたいの! ひとり恥ずいじゃん!」「なんで私が巻き込まれるの」「愛子こういう時しか来なさそうだし!」「一生来ない側の人間だよ」「だから今!」意味が分からない。確かに、人生で一度も行こうと思ったことがない。そして、おそらく普通に生きていたら一生行かない場所だ。マッスルバー。言葉だけで、もう情報量が多い。でも。今日はもう、頭が疲れていた。恋愛。正人。翔太。自分。ぐちゃぐちゃになった感情。さっきまで、心の底をひっくり返すような話をしていたせいで、脳がずっと熱を持っている。少しだけ、何も考えなくて済む時間が欲しかった。正しいとか。誠実とか。誰を傷つけるとか。そういう言葉から、一回だけ逃げたかった。私は深く息を吐いた。「……一時間だけ」さやかの顔がぱっと明るくなる。「好き!!!!」「うるさい」「こういうところが好き!」「だからうるさい」「でも本当に助かる。愛子、こういう変な場所でもちゃんと隣にいてくれるから好き」「急にまともなこと言うのやめて。断りづらくなる」「断らせないために言ってる」「最低」さやかは楽しそうに笑った。私はバッグを持ち直しながら、もう一度だけ心の中で言い聞かせた。一時間だけ。一時間だけ、何も考えない。それだけ。繁華街の少し外れ。カフェから歩いて十分ほ
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第219話:マーケットリサーチ

ただ、その場を明るくするための距離の近さ。翔太みたいに、言葉の裏を読ませない。正人みたいに、こちらが何を隠しているかを探らない。ただ、目の前の反応を見て笑っている。その分かりやすさに、少しだけ肩の力が抜けた。「昼もこういう仕事してるんですか?」なんとなく聞くと、彼は嬉しそうに頷いた。「昼はパーソナルトレーナーです。夜は週四でここ」「若いのに働くね」「筋トレ好きなんで。生活の一部っす」迷いがない。好きなものに対する熱量を隠していない。その眩しさに、少しだけ目を細める。二十二歳って、こんな感じだったっけ。そして、また思う。翔太って、やっぱりちょっと変だったな。二十代前半なのに、妙に落ち着いていて、目だけ時々大人みたいで、察しが良すぎて。考えるな。今日は。私はハイボールを一口飲み、意識を無理やり別の方向へ向けた。「プロテインって、結局何飲むの?」「基本、気に入ったの飲み続けます」即答だった。「味もそうだし、筋肉量とか相性もあるし。仲間内で結構データ見ますよ。これ太りやすいとか、成分とか」「おすすめされたやつ試したりもする?」「します。でも信用してる人から勧められたやつだけですね」なるほど。私は少し姿勢を正した。やっぱり。真面目に筋肉と向き合う人たちに、新商品を購買に繋げるのは難しい。勢いじゃ買わない。ちゃんと理由が必要。コミュニティ。信頼。実感。商品コンセプトとターゲット整理は絶対必要だ。自然とマーケター脳が戻る。店内の棚には、派手なパッケージのプロテイン飲料が並んでいた。バニラ。謎のエナジー系。商品名も無駄に強い。マッスルなんとか。ゴリラなんとか。限界突破なんとか。ここまで振り切っていると、逆に分かりやすい。ターゲットが明確。世界観も明確。あとはライト層へどう橋をかけるか。ジムに通うほどではないけれど、健康や美容目的でタンパク質を摂りたい人。その人たちに、この圧をそのままぶつけると逃げる。でも、信頼できる誰かが「これなら飲みやすい」と言えば、試す可能性はある。私はメニューの端を見ながら、ぼそっと漏らした。「……これ、マーケットリサーチってことにする」さやかが顔を上げる。「え、急に仕事?」「じゃないと、今日ここにいる理由を自分の中で処理できない」「愛子、真面目
last updateLast Updated : 2026-08-30
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