「もうお帰りになるのですか」 背後から落ちた柔らかな声に、凜の肩が小さく跳ねた。 振り返ると、そこにはアイボリーのドレスを纏った女性と、品の良い年配の男性が立っていた。 静かに整えられた髪。 控えめな笑み。 余計な装飾のない、けれど隙のない立ち姿。――どこかで見たことある気がする。「黒瀬社長。お引き止めして申し訳ありません」 女性は理玖へ向き直り、会釈した。「白川さん」 理玖の声が、わずかに低くなった。「父がぜひ、黒瀬社長にご挨拶をと申しておりまして」 隣の年配の男性が、一歩前へ出た。「白川宗一です。白川ホールディングスで会長を務めております」「黒瀬です。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」 理玖も隙のない所作で頭を下げた。 アイボリーのドレスの女性が、静かに凜へ視線を移す。「奥様にも、ご挨拶をさせていただいてよろしいでしょうか」「……は、はい」 凜が慌てて頷くと、女性は静かに目礼した。「白川紗夜と申します。黒瀬社長には、仕事でお世話になっております」「……黒瀬、凜です」「お会いできて嬉しいですわ」 丁寧で、少しも棘のない声。 けれど、その落ち着きすぎた微笑みに、どこか見覚えがあった。 紗夜の瞳が、凜の輪郭を静かになぞる。 その視線に、凜はようやく思い当たった。 荒川の定食屋で、一度見かけた女性。 あの時も、こんなふうに静かな目でこちらを見た。 理玖の腕を摑む指先に、知らず力が籠もる。「黒瀬社長。御社のセキュリティ技術について、いくつか伺いたいことがありましてね」 宗一が穏やかに切り出した。――きっと仕事の話だ……。 理玖がちらりと凜を見たが、凜は小さく頷くことしかできなかった。
Última actualización : 2026-08-23 Leer más