All Chapters of 冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~: Chapter 21 - Chapter 30

38 Chapters

第二十一話 理玖side 毒を食らう夜

 理玖のスポーツEVが地下駐車場を出たとき、陽はまだ傾き始めたばかりだった。 マンションの曲がり角を曲がったところで目の前の信号が赤に変わる。 ブレーキを力任せに踏み込んだ。車が甲高い音を上げて止まる。 理玖はカーナビを操作しようとして、伸ばしかけた腕を引っ込める。 行く宛などなかった。――会社に顔を出したところで、仕事なんかできるか。 信号待ちがやけに長く感じられる。ハンドルを指先で叩く。 理玖は舌を打った。視線は道路を見ているはずなのに、網膜に張り付いた凜の表情が離れない。 自分を見る潤んだ瞳と、震える肩。「なんで、お前が泣くんだよ……」 理玖はハンドルを拳で強く殴り付け、唇を噛み締めた。胸の奥が、痛いほどに軋む。 信号が青に変わった瞬間、アクセルを踏み込んだ。モーターが低い唸りを響かせ、車が滑るように加速する。 気付けば、車は首都高に乗っていた。 行き先を決めたわけではない。ただ、マンションから遠ざかりたかった。 東京タワーを横目に、レインボーブリッジを渡る。 夕方の湾岸線は鈍く光り、薄く開けた窓から潮風が流れ込んできた。 お台場海浜公園の駐車場で車を停める。 理玖はすぐに車を降りず、車内で音楽をかけた。高校時代から好きなバンドグループ。 懐かしい曲が車内を満たす。 シートを倒して目を閉じる。車内に入り込んだ潮風が、鼻先を擽った。 次に瞼を開いたとき、フロントガラスの向こうの空はオレンジ色に染まっていた。 カーナビに表示された時計へ目を落とすと、間もなく午後五時半を回ろうとしている。 ほんのわずかに仮眠を取るつもりだったが、思っていたよりも寝ていたらしい。 喉の渇きを覚え、車を降りて自動販売機で缶コーヒーを買った。 太陽はまさに沈む直前だった。東京湾が夕陽を反射し、煌めいている。――今度は、二人で来るのもいいな。
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第二十二話 理玖side 脳内の電卓

 会員制ラウンジのテーブルに、数本のボトルが並んだ頃。「でも、理玖さんがそんなに怒るってことは、奥さんのこと、相当好きなんじゃない?」「……は? そんなわけないだろ。ただの所有物だ」 一瞬言葉に詰まってから返した理玖の呂律はまだしっかりしていたが、視界はときおり歪んでいた。 吐き捨てるように言ったはずなのに、なぜか喉の奥が詰まった。 そんな理玖の表情を覗き込んで、女たちがにやけた笑みを浮かべる。 その視線を受け流すように、理玖は口を開いた。「……女ってのは、ほんとに分からん。ブランドの服も買ってやったし、住まいも六本木のタワマンだぞ? 何が不満なんだ」 早口で捲し立てると、女たちが顔を見合わせる。「そりゃあ、ブランド物を買ってもらえるのは嬉しいけど」 隣に座る、白いドレスの女がグラスを揺らした。「でも、それだけだと寂しいんじゃない? 奥さんなんでしょ?」 その言葉に、示し合わせたように他の女も頷く。 理玖は意味もなくグラスを傾けた。 空いたグラスにすかさず酒が注がれ、芳醇な匂いが立ち上る。「あとは、結婚式とか! 二人の一生の思い出になるし」「やっぱりウェディングドレスとか着たいもんね」 女たちが楽しそうに話す。「ウェディングドレスか」 その言葉が、理玖の脳裏に、ありもしない記憶を描き出した。 自分を捨てて、他の男の隣で着るはずだった純白のドレス。――結局結婚式は挙げることなく、破談になったと聞いたが……。「やっぱり、皆の前で大事にされてるって見せつけられるのは、女として嬉しいものよ」 少し年配の女が、理玖のグラスの汗を拭きながら言った。――そうだ。あいつはまだ、ウェディングドレスを着たことがないはずだ。 頭の中でウェディングドレスを着た凜を想像する。――悪くない。いや、それど
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第二十三話 染み付いた甘い匂い

 凜はソファの上で膝を抱え、テレビの画面を眺めていた。バラエティ番組、ドラマ、どれも凜の耳を擦り抜けていくだけだった。 もうすぐ日付が変わるというのに、理玖からは何も連絡がない。 凜のお腹が小さく鳴った。昼に食べたトンカツ以来、何も口にしていない。 夕食を作ろうかと思い冷蔵庫を開けみたが、冷凍食品と飲み物程度しか入っていない。 買い出しに行こうかとも考えた。 けれど、昼間の理玖の顔を思い出した瞬間、足が動かなくなる。――このぐらいなら、怒られない、よね……? キッチンの棚の中から、カップ麺を一つ取り出した。 この八年ですっかり舌に馴染んだ濃い醤油味が、じんわりと胃に溜まっていく。 理玖の許可なくカップ麺を食べた罪滅ぼしも含めて、ローテーブルに置きっぱなしのままにされていた理玖のマグカップを洗う。『皿洗いなんて時間の無駄だ』 理玖がそう言っていたのを思い出し、食洗機を使おうかとも思ったが、洗練されすぎた操作パネルには文字が殆ど書かれていない。 試しに、塗装とほぼ同じ色で『Start』と書かれたボタンを押してみたが、うんともすんとも言わなかった。 どうやら、他にも何か操作が必要らしい。 仕方なく、指先で擦る。 洗ったマグカップを食洗機の籠に伏せると、もう時間を潰すものが何もなくなった。 床はロボット掃除機が水拭きまで完璧にこなす。家具が少ないせいで、埃が溜まるような場所がそもそも見当たらない。 テレビから垂れ流されるCMの無機質な音声が、広すぎる部屋に反響している。――もう、寝てしまおうか。 そう思ったときだった。 かちゃり。 かすかな電子音とともに、玄関の扉が開いた。 凜の肩がびくりと跳ねる。 慌ててソファから立ち上がり、足早に廊下へと向かった。「あの……おかえりなさい」 俯きながら
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第二十四話 重なる義母の影

 朝、目を覚ました凜の心臓が跳ねた。 昨夜ソファの上で寝ていたはずの理玖が、ベッドの隣で寝ていたのだ。 その身体からは昨夜ほどではないものの、まだアルコールの匂いと香水の匂いが纏わり付いている。 凜は昨日と同じく、音を立てないよう気を配りながら、そっと抜け出そうとした。 そのとき、わずかにベッドが軋んだ。 理玖が寝言を漏らす。 凜ははっとして、理玖の顔を覗き見る。――大丈夫……。まだ起きてない。 ゆっくりと体勢を直して、ベッドから這い出る。「どこへ行くんだ?」 床に立ち上がったところで、背後から低い声が放たれた。 凜の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。「なぜ俺を起こさない?」「え、えっと……。疲れてるだろうし、起こしたら悪いと思って……」「ほう、殊勝だな。だが、不要な気遣いだ」 理玖は眉間を押さえながら、身を起こす。 昨夜の酒がまだ残っているのか、いつもよりも声が掠れている。「何をぼけっと突っ立ってるんだ? バイト、行くんだろ?」「あっ、はい……」 凜がウォーキングクローゼットから昨日と同じワンピースを取り出そうとする。「おい。バイト後なら出掛けられるって、お前が言ったんだろ。もっとちゃんとした服にしろ」 理玖の言葉に、凜の動きが止まった。――昨日のこと、あんなに酔ってたのに覚えてた……。「でも……これから定食屋のアルバイトに行くのに、高い服を着ていったら、油の匂いが……」「匂いが付いたら捨てて、また新しいものを買えばいいだろうが」 金額など気にも留めない言葉だった。――捨てる、なんて。 凜は指先でワンピースの生地を握り締めた。――一生大切にす
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第二十五話 下町に現れた漆黒の檻

 荒川区の駅前に広がる商店街。コロッケを揚げる酸化した油の匂いと、自転車のブレーキ音が響く下町の日常の中で、凜の姿はあまりにも異質に見えた。 擦れ違う人たちが歩みを緩め、凜を振り返った。 白いシルクに施された青の刺繍が陽光を弾く。 コロッケの油の匂いが漂う商店街で、そのドレスだけが別の世界のものに見えた。 好奇と戸惑いの声が、見えない棘となって凜の肌を刺していた。――朝からこんな服でアルバイトなんて……。皆、私のこと見て笑ってる……。 凜は左耳にかかる髪を押さえながら、逃げるように歩みを速める。 胸元のシルクのショールが、汗ばんだ手の中で皺になった。 ヒールがアスファルトを叩く硬い音が商店街に反響するたび、胃の奥が冷たく縮み上がる。 見慣れた定食屋の引き戸が見えた瞬間、凜はその戸に縋り付いた。 大きく息を吸って、そっと引き開ける。「おう、凜ちゃん。おはよう」 挨拶の途中で、店長の視線が凜のドレスに止まった。「おいおい、今日もまたお姫様みたいな格好だな。彼氏さん、よっぽど凜ちゃんを自分色に染めたいらしいな。まあ、それだけ大事にされてるってことか」 仕込み中の静かな店内に、厨房から響いた快活な笑い声が充満する。 その言葉に、凜の胸が小さく跳ねた。「あの、すぐ着替えてきますから……っ」『大事にされている』 その言葉が、見えない鎖となって首をきつく締め上げているようだった。 凜は逃げるようにバックヤードへ駆け込み、更衣室の薄いドアを閉めた。ドアに凭れかかって、深呼吸を繰り返す。 薄い壁の向こうで、ランチ用の皿が準備される、乾いた音が響いていた。 震える指でドレスを脱ぎ、定食屋のごわごわとした制服に腕を通す。ようやく、肺の奥まで空気が入ってきた気がした。* * * ランチタイムが終わり、賄いを食べ終えて再びドレスワン
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第二十七話 値札のないプロポーズ

 ――ひゅっ。 凜は何度か浅い呼吸を繰り返し、ようやく滲んでいた視界を取り戻した。 目と鼻の先に理玖の顔があった。 一瞬、呼吸が止まる。「凜! ……やっと落ち着いたか。大丈夫か?」 整えられていたはずのスーツの胸元は乱れ、深い皺が走っている。 凜は曖昧に頷きながら、周囲を見渡す。 まだジュエリーショップの専用サロンの中だった。けれど、気を遣ったのか支配人やスタッフの姿は見当たらない。「体調が良くないなら、今日は帰るか」 その声は、八年前の理玖と同じ響きを帯びていた。だが――。「指輪はまた買いに来ればいい」 凜の喉が乾いた音を立てた。――またここへ連れて来られるくらいなら、今日で終わらせたい。「だ、大丈夫だから、今日決めたい。でも、高い指輪は本当にいらないから……」 理玖は「そうか?」と一瞬凜の顔を覗き込んで、支配人たちを呼ぶために声を上げた。 扉の向こうから、再び支配人と一人のスタッフが黒いトレイを持って現れる。「お持ちいたしましたが、奥様のご体調が優れないようでしたら、また後日になされたほうが」「いや、今日決める。疲れてるだろうから、俺が見繕おう」 その言葉に、支配人は恭しくトレイをローテーブルに置いた。 理玖はトレイの中から、目眩がするほど巨大な光を放つ二つのダイヤモンドリングを指差した。「凜、この二つなら、どっちが好きだ?」 理玖が柔らかな笑顔で振り返る。「……えっ」「選んでほしいんだ。遠慮なんていらない」 理玖は穏やかに微笑み、凜の髪に指先を滑らせる。 声音は優しい。けれど、理玖の指先は二つの指輪を指したまま動かず、視線も凜から逸れなかった。 凜は息を詰め、震える視線を二つの指輪に落とした。 それらは、対照的な二つだった。 左側に置かれてい
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第二十八話 薬指に嵌められた罰

 六本木のタワーマンションに帰り着いた時、空はすでに夕闇に沈みかけていた。「凜、体調が良くないんだろ? リビングのソファに座ってろ」 理玖はそう告げると、ネクタイを荒々しく緩め、丸めるように片手で握り締めた。 凜は無言で頷き、覚束ない足取りで、ふらふらとリビングへ向かう。 黒い本革のソファに深く腰掛ける。 左手を膝の上に置いた。自分の腕のはずなのに、知らない誰かの腕のように重い。 薬指に嵌められた巨大なダイヤモンドが、窓から射し込む夕陽を乱反射して鋭く煌めいた。 しばらくして、静かな足音が近付いてくる。 見上げると、理玖がマグカップを二つ手に持って立っていた。「……飲め。少しは落ち着くだろ」 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、ローテーブルに置かれたマグカップからは、ほんのりと温かい湯気が立ち上っていた。 白湯だ。「あ、ありがとうございます……」 凜は恐る恐るマグカップを両手で包み込む。じんわりとした熱が、冷え切った指先から手のひらへと広がっていく。 少し距離を空けて、凜の右隣に腰を下ろした理玖は、自分のマグカップを口に運びながら、どこか気まずそうに視線を逸らした。 重い沈黙が横たわる。「……体調は、もういいのか」 唐突に、ぽつりと理玖の口から零れ落ちたその声には、威圧感はなかった。――なんで、今日はこんなに気遣うん……?――これも復讐の一部なんやろか……。うちを思い上がらせて、最後にこっぴどく捨てるため、とか……。 どれだけ考えても、答えは出なかった。 そっと視線を右隣に投げかけて、理玖の様子を盗み見る。 眉を顰めて、切れ長の目が更に細められていた。――何を見てるんやろう。
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第二十九話 雨音に消えた嘘

 その夜、夢の中で、凜は見知った家に立っていた。 冷たい大理石の圧迫感は消え去り、足裏には古びて軋む畳の感触がある。空調の効いたタワーマンションの無機質な空気は、いつの間にかひどく湿って重苦しい、古い藺草と雨の匂いにすり替わっていた。 ――ここは……。 視線を巡らせ気付いた瞬間、全身の血の気が引いた。 京都・上京区。まだ名家の体裁を保っていた頃の、白鳥家の豪邸の自室。決して戻りたくなかった場所。 雨戸が閉じられた格子窓の向こうから、ざあざあと激しい雨の音が聞こえる。 握り締めていたスマートフォンに気付く。電源ボタンに触れても、画面は反応しない。長押ししても、沈黙したままだった。 襖の向こうから、衣擦れの音と、チッという苛立たしげな舌打ちが近付いてきた。 凜ははっとして振り返る。「あんた、あの男とは別れたって言うたよな? また嘘吐いたんか? ええ加減にしなはれや」 継母の麗華の声だ。 襖の外から、掛金を外す乾いた音。 次いで、勢いよく開かれた。「あんた、また携帯触って、男を誑かしてるんやろ。この雌狐が。無駄やって何回言ったら理解できるんや?」 麗華が早口で捲し立てる。着物の袖を激しく振りながら、荒々しい足音を立てて近付いてくる。 彼女の手が凜からスマートフォンを奪い取り、壁に叩きつけた。 液晶が砕け散り、鈍い音を立てて畳を跳ねる。 拾い上げようとした凜の手首を、麗華が摑み、捻り上げた。「痛い! やめて……」 喉からか細い悲鳴が漏れた。「あんたには堂島尊さんって婚約者がおるやろ。ええ加減、操を立てなはれ。いつまでもチャラチャラしくさって」「そんなん、そっちが勝手に決めたことやんか。うちは別に、堂島さんと結婚したい思てへんもん」
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第三十話 暗闇に灯る赤い通知

 夜中にうなされて目を覚ました凜は、スマートフォンに届いていた義弟・大雅からのメッセージを開いた。『俺、今度東京へ遊びに行くから、また小遣いくれや』――まただ……。 要求を通すためだけの簡潔なメッセージ。 けれど凜の顔を歪ませるには充分だった。 父の雅之を『明京大学医学部附属病院』へ移したことは麗華に知られている。 当然大雅も知っているはずだった。――でも、大丈夫……。大雅が東京に来たって、鉢合わせることなんて、あるわけない。 必死に自分に言い聞かせる。 それでも、あの母子がその気になれば、居場所がばれてあの家に連れ戻されるかもしれない。 その考えが凜の背筋を凍らせた。 凜はちらと右隣を見た。理玖は変わらず規則正しい寝息を立てている。 理玖は「金は全額出してやる」と言ってくれた。――頼めば、出してくれるやろうか。せめて、いくらかでも借りられれば……。――そうだ。今月は仕送りを増やさないといけないって嘘を吐けば……。 そう思い始めた自分を、首を振って打ち消す。――言えるわけない。八年前、理玖を傷つけた大雅に、今も脅されてるなんて。――これ以上迷惑かけへんって決めたばっかりやんか。それに、理玖を苦しめた大雅の遊び金にまで、お金を使わせるわけにはいかへん。 凜は目を強く瞑り、自分の頬を叩いた。 脳内で電卓を弾く。 定食屋のバイト代と『club Estrella』の最後の賃金。――必要な支払いを理玖が肩代わりしてくれるなら、定食屋のシフトをもっと増やせば、ある程度は……。 狡い考えであることは分かっている。それでも、他に方法は思い付かなかった。 震える指先で、スマートフォンの画面に触れ
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第三十一話 閉ざされた朝

 冷たい朝の光が射し込むリビングのソファで、凜は一人、抜け殻のように座り込んでいた。 一睡もできず、頭の中は泥のように濁っている。 時計をちらと見ると、もう理玖が起きてくる時間だった。 大雅からのメッセージを見直す。もう何度目か分からない。 結局、一晩大雅のことを考えても、何一つ答えは見い出せなかった。 長い溜息を吐く。 結婚指輪は箱に仕舞ったままだが、指先には白金の指輪が朝陽を鈍く反射していた。 寝室の方から静かな足音が近付き、凜はびくりと肩を震わせた。 振り返ると、すでにシャツとスラックスに着替えた理玖が立っていた。しかし、凜の顔を見るなり、その端正な眉が鋭く顰められる。「……どうした、その顔色は」 低く、射抜くような声。 理玖が歩み寄り、凜の顔を覗き込むようにして見下ろした。「え……あ、ううん。なんでもないです」 凜は慌てて視線を逸らし、曖昧に言葉を濁した。「嘘を吐くな。真っ青じゃないか。この前のこともある。病院へ連れて行く」 理玖が強引に凜の腕を摑もうとする。「だ、大丈夫! 本当に、少し寝不足なだけで……。それに、今日も定食屋のバイトもあるし……」 凜は弾かれたように身を引き、小さく首を振った。「なんだと? そんな状態でバイトに行って、何ができる」 理玖の目が細められ、声の温度が更に数度下がった。「そんな顔した店員がいる店で、飯を食いたいと思う客がいるわけないだろ」 凜の胸中がずきりと痛む。――確かにその通りかもしれんけど……。でも……。「あの、お願いがあるんですけど……」 喉の奥から絞り出した声は、あまりにか細かった
last updateLast Updated : 2026-08-10
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