All Chapters of 無くした恋のその先へ ~この恋を忘れたふりはもうできない~: Chapter 21 - Chapter 30

35 Chapters

第21話 朱莉㉑

『次』は、思いのほか早く訪れた。週明けの月曜日、終業後にビルのエントランスを出たところで蒼也に出会った。「朱莉。久しぶりだね」どうやら、自分が出てくるのを待っていたようだ。「蒼也、久しぶりね。こんな偶然があるなんてびっくりしちゃった」ドキドキとしていたけれど、小さなプライドが『落ち着いて見せろ』とがんばってくれている。「もし、時間があるなら、少し話ができないかと思って」昔と変わらない。緊張すると口元に拳がいく、その様子にふっと気持ちが柔らかくなる。「じゃぁ、どこかでお茶でも飲みながら話ししましょうか」近くにチェーンのコーヒーショップもあったが、会社の人がなるべく来ないところがいいと思って、駅と反対方向に通り二つ分離れたコーヒー店に向かった。「朱莉、今も聖ちゃんと2人暮らしなの?」「ううん。聖は今、仕事で大阪にいるの。アパレルのバイヤーをやってて」「すごいね。夢を叶えたんだな」「ふふ、天職だって言ってる。まぁ、私もそう思ってる」コーヒーを手にして席に着く。改まると会話の糸口を見つけにくい。「朱莉がリゾート会社にいるって、正直、驚いた。てっきり金融系に行くと思ってたから」「でしょ? しかも秘書課よ? 私が秘書なんて、想定外でしょ」そう言って笑いかけると、目の前の蒼也が優しい笑顔を浮かべる。「でも、蒼也だって。建築士にはならないって言ってたのに、なんかすごいことになってるし。開発プロジェクトの設計リーダーでしょ?」「以前コンペに出していたものが、水無瀬社長の目に止まったみたいで。声をかけてもらったんだ」本当に聞きたいことはこんなことじゃないのに。それがわかっていて、話しだせないもどかしさが苦しい。
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第22話 朱莉㉒

「蒼也は‥‥」 「朱莉は‥‥」同時に発した言葉に、お互い譲り合って沈黙する。 ダメだ、可笑しくて、笑ってしまった。「もう、なんなの。あはは」笑い声が緊張を溶かしてくれた。 彼が少し目尻を赤くして、嬉しそうに見つめている。その様子が、昔と何ひとつ変わっていなくて、ずるいなと思う。「エスモード・デザインは、蒼也の会社なの?」「あぁ。とは言っても、事務も含めて従業員は3人だけの小さい設計事務所なんだけどね。手伝ってくれる人に給料を払う建前上、法人化しただけって感じ」「……宮崎のご実家の会社は、今は手伝っていないの?」踏み込んでいいかどうかはわからないが、聞きたいと思った。「実家の工場は、会社を畳んだんだ。その……経営状況が芳しくなくてね」「すぐ東京で起業したの? ずっと宮崎にいると思ってた」「いや、今の会社は2年前に立ち上げたんだ。それまでは……色々な仕事をして。宮崎には4年位いたかな。実家の整理もあったし、色々なしがらみであちこちに行ったよ」建築に関係する仕事に戻ったのは、3年くらい前。知り合いの設計事務所で働いて、コンペの出品を再開したらしい。少しずつ個人への依頼が増えたことで事務所を立ち上げたのだそうだ。「なんか、蒼也がちゃんと好きなことを仕事にしていて、ちょっと嬉しい。ごめんね、私、質問してばっかりだわ。ウザくない?「全然…全然、そんなことないよ。こうして話せるとは思ってなかったから。朱莉は、きっと、俺のことすごく嫌ってるだろうなって」ああ、そうだった。 彼は、そういう風に自分を責める人だった。 ――だったら、あの日のあの態度は何だったの? 喉まで出かかった問いを、飲み込んだ。聞いたところで、何が変わるのか。「朱莉、本当に、すま……」 「これから、仕事で会う機会があると思うの。今日、こうして話せて、よかった。なんだか、すっきりしたかも。だから……もう大丈夫。蒼也は、気にしないで」蒼也の口から、謝罪の言葉が出そうな気配を感じて、遮って笑顔を向ける。簡単に謝って終わりにされたくないという最後のあがきだった。 私はあの日から、ずっとずっと、心のどこかに彼の残像置いて過ごしてきたのだから。「……そうか。わかった。ありがとう朱莉」「こっちこそ、ありがとう、声をかけてくれて」店を出て、家まで送るという蒼也の
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第23話 蒼也①

連休が明けた五月後半、いつものように神木さんのバーの扉をくぐった。カウンターの奥、見慣れない細い背中がグラスを磨いていた。振り返った彼女は、柔らかな茶髪をまとめた髪型がよく似合う、まだ少し子どもっぽさの残る笑顔を向けた。「冬月朱莉です。今日から入ります。よろしくお願いします」そう名乗った彼女の声には、無理のない明るさがあった。神木さんが女性をバイトに入れるなんて、記憶にある限り初めてだ。ちょっとした驚きだった。女性と話すのは、正直得意じゃない。高校時代に告白された子からは、「話してて面白くない」と別れを切り出され、大学で付き合った彼女からは「全然構ってくれない」と不満をぶつけられた。相手に合わせて話題を広げるのが苦手だし、興味があることといえば、建築くらい。テレビも見ない、流行にも疎い。大学院に進んで、女性との付き合いはますます縁遠くなったが、それでも研究室には似たような人が多かったから、無理する必要も無かった。正直、このまま独り身も楽でいいか、と思っていた。彼女との出会いが、それを全部塗り替えた。建築を学んでいると言えば、「どんなジャンルがお好きなんですか?」と自然に問いかけてくる。気負いなく、ちゃんと関心を向けてくれているのがわかる。だからこっちも、つい普段より多く話してしまっていた。あとで神木さんに聞くと、彼女は高校時代にいくつもバイトを経験していて、接客や気配りができる子なのだという。うちの大学は決して簡単に入れるところじゃない。アルバイトと勉強を両立させて現役合格したと聞いて、内心、素直にすごいと思った。──話すことの心地よさを、久しぶりに思い出した気がする。カウンター越しの彼女と、言葉を交わす喜びが生まれていた。
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第24話 蒼也②

カウンターに腰を下ろすと、朱莉はいつも楽しそうに話を聞いてくれる。その様子に気分が良くなって、つい調子に乗って話し込む。建築のこと、設計の考え方、過去の街並みの話──誰にでも通じる話題じゃないとわかっていても、彼女は目を見て、相槌を打ち、ときおり「へぇ~」と目を丸くしながら、真剣に耳を傾けてくれた。ふと我に返る瞬間もある。こんな話、退屈に決まってるよな、と。でも朱莉は、いつでもにこにこと柔らかく笑っていた。──もちろん、接客だとわかっている。 それでも、彼女に対して好意が芽生えるまでに、時間はかからなかった。店が終わるころ、彼女を飲みに誘おうとする客は多かった。けれど朱莉は、明るく笑って「明日早いので」と断り、気負いなく去っていく。そういうところもまた、軽くないというか、きちんとしている感じがした。何度か、偶然を装って同じ電車に乗った。──いや、正直に言えば、時間を合わせていたのだが──大学の近くに住んでいる者同士、という口実で、駅から彼女の家の手前まで並んで歩いた。そんな短い時間が、心のどこかを温かく満たしてくれる。学部の前期試験が近づいたある日、珍しく朱莉から頼みごとをされた。「私、サークルとか入ってないので、試験の過去問って、なかなか手に入らないんですよ。蒼也さん、何かツテないですか?」文系の彼女に、理系の自分が何をできるのか。正直、今更、学部に繋がりなんてない。でも、なんとかして力になりたくて、数少ない知り合いに連絡を取ったり、掲示板をあさったりして、なんとか彼女の専攻に近い過去問を集めた。──ここまでする自分は、滑稽に映らないだろうか。 そんな思いも頭をかすめたが、「役に立てるなら」と、さりげなくカウンター越しに差し出した。「蒼也さん、優しすぎ! 本当にありがとうございます。テスト期間中はバイト週2になっちゃうんで、あんまり会えなくて残念ですけど、貰った過去問でがんばりますね!」笑顔が、眩しかった。 彼女の役に立てたことが嬉しくて、その日は、自宅に帰っても頬が緩んだままだった。──自分が店に行けば、彼女は必ずうれしそうに迎えてくれる
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第25話 蒼也③

工務店でのバイト中、休憩時間に聞こえてくる話題は、いつも似たようなものだった。ホステスだの、風俗嬢だの──誰かに入れあげて、金を使い、振り回されて、最後にはがっかりする。その繰り返し。『相手は、仕事で笑ってるだけじゃないか』そんな冷めた目で見ていたはずの自分が、今やまさにその構図にはまっていることに気づく。なんとか、イタくて情けない自分を冷静にみようと理性を働かせる。朱莉の何気ないひと言が、そんな自分をあっさりかき乱してしまう。「そう言えば、大学の近くのギャラリーで『現代建築家展』やってますよね。蒼也さん、もう行きました?」もちろん、チケットは手元にあった。週末にでも時間を取って、ゆっくり見ようと思っていた。けれど、彼女の口からその話題が出た瞬間、まるで心を読まれたようにドキリとする。「蒼也さんの話を聞いて、最近ちょっと建築に興味出てきて。私も時間作って行ってみようかな」──その夜は、もう何も手につかなかった。 彼女のその言葉が、ずっと頭の中をぐるぐると回っていた。自分から誘うなんて、絶対にやらないつもりだった。 けれど、寝不足のまま迎えた翌朝、判断力の鈍った脳のまま、コンビニでチケットを買い、夜のカウンター越しに声をかけていた。「チケット、余ってるんだけど……良かったら一緒にどう?」自分の中では、顔から火が出そうなほど恥ずかしい言葉だった。けれど── 朱莉は、あっけらかんと、嬉しそうな顔で「やった!嬉しい。絶対行きます」と喜んでくれた。その日から週末まで、たった3日がとてつもなく長くて、どこかで「やっぱり止めておきます」と言われないだろうかと怖くて、気持ちの置き場に困った。
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第26話 蒼也④

展覧会を見終えたあと、そのまま別れるのが惜しくて、思い切って食事に誘った。だが、自分が普段行く定食屋やラーメン屋に連れて行くのはどうなのか、躊躇していると、「じゃぁ、私の知ってる店でもいいですか?」と彼女が助け舟を出してくれる。大学裏の小さな洋食屋。家庭的な雰囲気で落ち着く店だった。どこかで「年上らしい余裕を見せろ」と自分に言い聞かせながら、気づけばまた、聞き上手な朱莉の前で夢の話をしていた。 建物に人の記憶が宿ると思っていること、建築と環境に関わる研究がしたいということ──話しながら、ふと我に返った。 何を語ってるんだ、自分は。こんな青臭い夢の話を。でも、朱莉は、微笑みながら真面目に聞いてくれている。 どうしようもなく嬉しくて、幸せで、この時間を終わらせたくなかった。食事のあと、彼女がバイトに向かうというので店の前まで送ると、ちょうどオーナーの神木さんが看板を出していた。『うちのバーは同伴出勤とか無いんだけど』冗談交じりのその一言が、胸の奥にくすぶっていた自嘲を刺激した。──自分は、ただの“勘違いしてる客”だ。 そう思った瞬間、恥ずかしさと悔しさで、思わずムキになって強い口調で否定した。それに被せるように── 「……付き合ってほしいです」 朱莉の声が響いた。思考が止まった。 幻聴か、何かと聞き間違えたのか、あるいは冗談か── 『どうしよう、困ったな....』 混乱してどう反応していいかわからず、とまどっているうちに、彼女は気まずそうに視線を逸らし『嘘でした』とだけ言って、横をすり抜けて店の奥へと消えていった。──そうか、“嘘”だったのか。 ぐるぐると混乱したままでいると、神木さんがふいに横から自分の腕を掴み、真顔で言った。「蒼ちゃん。朱莉ちゃん、あれ……本気だったと思うよ。ちゃんと、誠意で応えてあげてよね」その夜は、冷静に顔を合わせる自信がなくて、そのまま家へ帰った。情けないほど何もできなかった。まんじりともせず一晩を明かし、このままではい
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第27話 蒼也⑤

朱莉と恋人になってから、自分の世界が変わり始めた。 彼女の隣に立つことが、堂々と許される──それだけで、見慣れた通学路も、夕暮れの空さえも、違って見える気がした。朱莉は、誰にでも分け隔てなく優しい。 男性にも女性にも、誠実で、気さくで、親しみやすい。 正直、彼女に過去の恋愛経験があっても不思議ではなかった。いや、むしろ、無い筈がないと思っていた。だから── 自分との関係が“初めて”だと知ったとき、驚きとそして喜びがあった。 そんなのは、古臭いかもしれない。けれど、自分が彼女にとって特別な存在であると思えたのはどうしようもない。守りたい。幸せにしたい。 そう思う気持ちに後押しされて、妙な万能感まで備わった。いつしか、朱莉の家で夕飯を一緒に取ることは、日常になっていった。ある晩、朱莉が風呂に入っている間に、リビングで酔った弟の聖に絡まれた。「あーちゃんは、僕の唯一だから。もし、蒼さんがあーちゃんを泣かしたら、タコ殴りにしてぶっ潰すから」自分と朱莉のこれまでを語りながら、いつもと違うドスの聞いた声で脅してくる。高校生の頃からアルバイトをしてきた理由──彼女がなぜこんなに人に気を配れるのか、それを知ることになった。「僕らをかわいそうな子扱いするのも許さない。あーちゃんはね、僕の女神だから」顔を真っ赤にして、据わった目で、ピンクの髪の少女のような華奢な少年がこっちをにらむ。その時、ちょうど朱莉が部屋に戻って来た。「ちょっと、ひーちゃん!飲んじゃダメって言ったじゃん。18歳は成人だけど、お酒はダメでしょ!蒼也もちゃんと止めてよ。一口でこんなんなるクセにどうして飲みたいかな」怒ったように言いながらも、彼女の声は優しくて、愛情がこもっている。彼女の髪から湯気が立ち上り、肌はほんのり赤く火照っている。その肌の温かさを思ってぼんやりと幸せに包まれた。机に突っ伏して眠ってしまいそうな聖を抱きかかえて、寝室に運ぶ。それから、リビングに戻り食卓を挟んで、彼女とたあいのない話をする。この間見た大倉山の建築良かったね、とか、いつか建物探訪の旅行したいね、とか。 そんな会話が、2人の未来を形づくっていくようだった。朱莉と共にいるこれからを想像するだけで、心が満たされた。 歳を重ねても、一緒に笑っていられる気がして、かけがえのない幸福がここにあ
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第28話 蒼也⑥

年末年始にしか帰らない実家から、「大事な話があるから帰って来て欲しい」と連絡が来た。何かあったのかと思いはしたが、正直そこまで深刻には捉えていなかった。 工場の業績が良くないのはわかっていたし、いよいよ畳むのか──そんな程度の想像だった。けれど、帰郷して聞いた話は、自分の浅はかな想像を大きく裏切るものだった。「どういうことなん、これは」父の口から出てきたのは、“経営不振”どころの話ではなかった。ひどい詐欺にあったのだ。地元の複数の鉄工所が、大口の注文があるという誘い文句に乗せられて、合同で取引に応じ、鋼材を大量に仕入れた。だが、仕入れた粗悪な鋼材が届いた後、その話を持ってきた会社も知人も、すべてが、突然、連絡の取れないまま消えたという。「信也の仲のいい人やったけん、うちだけじゃなかし大丈夫やろうって」「警察には相談したんか?」「相談はした。けんど、争う相手がおらんと。どこに訴えたち取り合うてもらえんかった」父が肩を落とす。「兄ちゃん、なんでこんな‥‥」そう言葉をかけると、兄の体が震え、絞り出すように声を発した。「お前になんがわかるんか。何年も学生ばやって、楽しく過ごして、年に一回、正月に顔見せるだけ」「信也、やめ。それは、関係なかろうが」母が兄を制するように声をかけたが、兄は抑えが効かなくなっていた。「神童やなんや言われて、学者になりたいて。社会に出てしゃんと働いたことも無い癖に、なんがわかるとや」その言い分に、むっとする。別に親のすねをかじって東京で暮らしていたわけではない。こっちだって学費と生活費とで、必死に生きていたのだ。「それと、こうなってしもうたことと、なんの関係があるんか」苛立ちを隠さずそう返すと、さらにまくし立てるように兄が言い募る。「お前は、こん家がどうなっとるか、知らんかったやろうが。俺が、俺らがどんな思いでここでん生活を続けてきたか」その瞬間、「俺ら」とは両親とのことで
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第29話 蒼也⑦

実家がけして裕福ではないことは重々わかっていた。だからこそ、そこから逃げるように東京へ出て来た。後を取る兄がいることに胡坐を掻いて、見て見ぬふりをしてきたのだ。自分が楽しく毎日を過ごしている間、兄と義姉は、自分たちを犠牲にして、工場と両親を支えて生活を繋いできた。そして、両親は、それをわからせないように自分に気を使ってきたのだ。痛いほど、みじめで、情けなかった。「信也も、もうやめちくれ。蒼也に帰って来てもろうたんな、こん鉄工所を閉むる、そん相談がしたかっただけや。お前にも関係あるけんな」「閉めたところで、こんな額の負債は返せんじゃろ?」目の前の書類の額面が現実味が無さ過ぎて、それを見つめてそうこぼす。億を超えるその額は、この工場の土地を売っても到底返せる額ではない。「まぁ、破産したら返すものはなくなるし、儂があと何年かして死んだら、その保険金でいくらか穴埋めでくるかもしれん」冗談か本気かわからないような表情で父親がぽつりと言う。自分の親にそんなことを言わせている事実に胸が潰れそうだった。「破産って。兄ちゃんの名義でも借りとるんやろう?連帯保証しとる分もあるし……」今日はもう遅いから、明日改めて話をしよう、という父親の言葉に部屋に戻る。扉の前にうずくまり、どうしようもない倦怠感に襲われた。昨日までのふわふわとした毎日は、一気に遠くへと押しやられ、自分の不甲斐なさのツケを支払わされる時がきたのを感じた。翌日から警察、法務局へと駆け回った。兄とは再び落ちついて話しあい、家を出て日花里さんとの生活を始めてもらうように進めた。幸い、多くの技術資格を持つ兄は、他所への再就職が難しくなさそうだった。「すまん、蒼也。色々ひどいことを言うた。ただ……ずっと日花里に苦労させてきたけん、どうしてもあいつを幸せにしてやりたい」そう言って頭を下げる兄に、自分も頭を下げた。「大丈夫。俺は……独り身やけん。後の始末は俺にやらせて欲しい」◇◇◇その日から、日常は一変した。
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第30話 蒼也⑧

それから後は、ただひたすらに動いた。山のように積まれた鋼材を、少しでも高く引き取ってくれる業者を探し、足を棒にして駆け回った。人脈もプライドも使い切って、それでも足りない現実にぶつかりながらも、ひらすらできることを探し続けた。工場も、家も、抵当に取られた。それでも、両親の住む場所をどうにか確保し、自分は唯一残った車の後部座席で寝泊まりする日々。寒さと疲労と情けなさに押し潰されそうになりながら、それでも止まらなかった。 止まれば、一度手にしたぬくもりを思い出して、動けなくなりそうだったから。数年間、無我夢中で走り回っているうちに、自分の経歴に目を留めた企業が、建築コンペに出てみないかと声をかけてくれた。軽い気持ちで参加したそのコンペで、驚くほど高い評価をもらい、思いがけず賞金までもらえた。その実績が少しずつ仕事を呼び、単体の依頼も増えた。 来るものは断らない──その姿勢がクライアントに信頼され、さらに評価が高まっていった。ようやく自分の足で立てる実感を得始めたころ、大学時代の恩師から一本の連絡が入った。「セルリアングループが手がける沖縄のリゾート開発プロジェクトで、お前の名前が挙がってる」それは、かつて朱莉との将来を夢見たとき、もし約束をするならここで──と、密かに思い描いていた場所だった。 蒼く澄んだ海と、水平線の向こうに沈む夕陽。懐かしい彼女の笑顔が、そこに重なった。プロジェクトへの参加を決めたのは、運命に導かれるような感覚だった。──そして、そこで彼女に再会した。まさか、と思った。 けれど、確かにそこにいた朱莉は、何ひとつ変わっていなかった。 聡明で、真っ直ぐで、相手の心に自然と寄り添う力を持つ人。自分があれほど残酷に突き放したとは思えないほど、穏やかに笑いかけてくれる。自分のことなど、とっくに過去になっている。 そう思わされたのは、先日エントランスで見かけた彼女と、隣で笑うスーツ姿の男の姿だった。洗練された物腰、親しげな距離感。
last updateLast Updated : 2026-07-16
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