All Chapters of 無くした恋のその先へ ~この恋を忘れたふりはもうできない~: Chapter 31 - Chapter 40

51 Chapters

第31話 断想①

あの夜、タクシーの窓から彼の姿が見えなくなった瞬間、私はまだ蒼也のことが好きなんだと、あらためて思い知らされた。――はぁ。会社のPCに届くメールの中に「エスモード・デザイン」の文字を見つけるたび、胸の奥がじんわりと疼く。今ごろ蒼也は、現地の協力会社との打ち合わせと視察のためにシンガポールにいる。チャンギ空港の巨大な滝、見たかな。 建築物のことになると、表情は変えずに淡々としているのに、内心ではものすごくワクワクしてるんだよね。ちょっとでも話し出すと止まらなくなるの。 どこに旅行に行くかの話をしたときも、「近代建築の宝庫、シンガポールは絶対外せない」って嬉しそうに話してたっけ。 たぶん今も、表情一つ変えずに、現地の建物を前に内心ではテンション爆上がりしてるんだろうな。――思わず、口元に笑みが浮かんだ。そんなとき、営業部から社長宛に送られてきた現地の報告メールの中に、海岸沿いの写真が添付されていた。 そこに、小さく映り込んだ蒼也の背中を見つけて、また胸がチクリとした。ダメダメ自分を叱って、社長へメールを転送し、カナダ出張用の資料の準備に取りかかる。「冬月さん、私、今日はお弁当なのでここで食べます。だから、たまにはお昼、ちゃんと休んでくださいね」新しく配属された東畑さんが、可愛らしいお弁当箱を嬉しそうに取り出した。「お弁当だからって、昼休み削るのはダメよ? 一時間きっちり休憩してね。働く人の権利なんだから」そう注意したら、「それを一番守ってないの、冬月さんじゃないですか」と笑われた。午後1時過ぎ、エレベーターフロアの向こうに東畑さんの同期らしき子たちが見えた。「ここで一緒にランチ?」と聞くと、少し照れくさそうに「えへへ…」と笑う。 このフロアの絨毯の足触りとか、良いラテが出るエスプレッソマシンとか、友達に自慢したくなる気持ち、わかる。「じゃあ、私はお言葉に甘えて、ランチ行ってくるね。副社長も不在だし、電話だけお願いね」財布とスマホを手に、ビルの外へ出た。陽射しが思ったよりも強い。 ひとりランチなので、近くのチェーンカフェでラテとラップサンドを買い、ビルの裏の公園へ向かうことにした。御影石のベンチに腰をおろし、空を見上げる。まだ梅雨入り前の澄んだ空。 きっと、シンガポールはもう灼けるように暑いだろう。 色
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

第32話 断想②

「あーちゃん!」品川駅北口の改札の向こうで、さらさらの金髪をなびかせながら、聖が手を振っていた。 周囲の女子高生たちが、「え、背高っ」「めっちゃ綺麗、モデルさん?」とざわめく声が聞こえてくる。正直、ちょっと誇らしい。まるで自分のことを褒められているみたいで、つい顔がほころんだ。「おかえり、ひーちゃん。荷物、これだけ?」 「うん。一応出張だし、仕事道具はもう本社に送ってあるから」水曜日の夜。東京出張でやってきた聖と、2か月ぶりの再会だ。「このまま、ごはん食べに行こうと思ってたんだけど……なに、この肉まんとシュウマイの匂い。まさか、新幹線で飯テロしてきた?」 「ふふふ。まんまと周囲のサラリーマンさんたちを空腹に追い込んできたよ」聖が手に提げた紙袋から、大阪土産の香りがふわっと漂ってきて、一気にお腹が鳴る。「やばい、お腹すいた。もう、デパ地下でサラダとか買って、家でゆっくり食べようか」 「大賛成!」2人で笑いながら腕を組み、そのままデパ地下へ。あれこれ言いながら惣菜を選ぶ時間も、愛おしいほど楽しかった。◇◇◇家に帰って、買ってきたサラダやお惣菜をテーブルに広げ、インスタントのスープを用意する。お風呂あがりの聖は、ふわふわのヘアバンドに、淡いブルーのタオル地のパジャマ。すっぴんでも、相変わらず可愛い。「ひーちゃん、なんか……綺麗になった?」 「え? あ、脱毛したの」顎を突き出してくるので「へぇ〜」と感心したように、指先でそっとなでてあげる。「私も膝下やりたいんだけど、なかなか時間なくてさ」 「あーちゃん……美容の時間は“作る”もんなの」呆れたように言われる。「それ、わかってるけど……」聖がじっとこちらの顔を見つめてくる。「ねえ、目の下のクマ、けっこう出てるよ。あと、髪も結構パサついてる」 「……三十路だもん。そういうお年頃なの!」笑い飛ばしてはみたけれど、正直、自分でも気づいていた。 蒼也のことがあって、気持ちがずっとざわついていた。眠りも浅くて、嫌な夢で目が覚めることも増えた。「仕事、そんなに忙しいの?」 「聖だってでしょ? でも、好きな仕事だと、つい夢中になっちゃうよね。やっぱ姉弟だわ」笑って言えば、聖も「似たもの姉弟だよ、ほんと」と微笑み返す。食後のコーヒーを淹れている間に、聖がキッチンで食器を洗ってくれ
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

第33話 断想③

蒼也との再会という、心の奥が泡立つような出来事はあったけれど、あれ以降の日々は、何事もなかったかのように淡々と過ぎていった。相変わらず、業務メールの送信元やCCに彼の会社の名前を見つけては、『ああ、明日は営業とのミーティングか』なんて、勝手に彼の予定を追いかけてしまう自分がいた。 でも、実際に顔を合わせることはなく、それも次第に“いつものこと”として、自分の中に沈んでいった。ある昼休み。PCの前でサンドイッチを食べていた時、スマートフォンの画面に『今年は台湾、来ないの?』と菱本からのメッセージが届いた。毎年、夏の終わりに綾香と一緒に出かけていた台湾旅行。今年は彼女が妊娠中ということもあり、どうしようか迷っていた。 でも、そのメッセージを見たとき、2、3日だけでも空気を変えるのもいいかもしれない、と思えた。9月の中旬、5日間の有休を取り、そのうちの3日間を台湾で過ごした。 いつもの台南のホテルに泊まり、菱本家族とあちこち遊び歩いて、美味しいものを食べて、心からリフレッシュできた……はずだった。帰国したのは、昼どきの成田空港。 軽く何かを食べてから帰ろうと、ロビーからフードコートに入った時――ふと、見慣れた背中が視界に入った。間違いようがなかった。どんなに遠くからでも、自分が見つけてしまう姿。 淡いブルーのシャツ。姿勢の良い背中。蒼也だった。会社では会わないのに、こんな場所で……。ほんの数メートル先のテーブルに彼は座っていた。 思わず声をかけようと足を進めた、ちょうどその時。彼の向かいに、幼い女の子が笑っているのが見えた。まだ2〜3歳くらい。玄と同じくらいの年齢だろうか。 その面影が、蒼也に似ていることに気づいた瞬間、足元からすうっと血の気が引いていくのがわかった。どうして、蒼也が結婚していないと思い込んでいたんだろう。 当たり前のように、自分と同じ、彼もまた独身だと信じて疑わなかった。彼は私より6歳も年上だ。家庭を持っていても、何の不思議もなかった。 むしろ、そう考える方が自然なのに。視線を合わせてしまう前に、足早にその場を離れた。 背中がぞくりとするほど冷えていた。家に着いた頃には、旅行で感じていた軽やかさはすっかり消え失せていた。 スーツケースも開けず、ただベッドに身を投げだす。――騙された
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

第34話 断想④

重たい身体を引きずるように出社し、机に向かう。 週末の間に届いていた大量のメールの中に、「エスモード・デザイン」の名前がCC欄にあるのを見つけた。……痛いなぁ。気にしないように、と意識すればするほど、余計に気になってしまう自分がいる。けれど、慣れた仕事を無心でこなしていると、不思議と身体の重さも気にならなくなる。 「ワーカホリック」と言われても、仕事に没頭している方が、余計なことを考えずに済むのは事実だ。ようやく終業時間が近づき、少しだけ自分を取り戻せた気がしたその時――「……あの、冬月さん。えっと……」帰り支度を整えた東畑さんが、そわそわと落ち着かない様子で話しかけてきた。「どうしたの? 何かあった?」 「え、えっと……あのっ! ふ、冬月さん、合コン行きませんか?」合コン……?「今日? 誰か急に来れなくなって、人数合わせとか?」 「い、いえ、そういうわけでは……」「二十代の若い子たちの中に、三十路のお局を放り込むのは、相手にも私にも失礼じゃない?」ちょっと意地の悪い口ぶりで返してしまった。「ち、違うんです! 営業部の方に、冬月さんもお誘いしてって言われて……!」半ば涙目で東畑さんが声を張る。「本当は昨日、お伝えしようと思ってたんですけど、お休みされていたので……」 「私を誘えって言ったのは、誰?」ちょっと声が低くなってしまった。「え……第2営業部の芹沢さん、です……」しゅんとした声で、東畑さんが答える。――芹沢。名前には覚えがあるけれど、顔がすぐには浮かばない。「……そうなのね。でも今日は体調もまだ本調子じゃないし、遠慮しておくわ。誘ってくれてありがとう」 「そ、そうですよね! 病み上がりですもんね。ちゃんと伝えておきます!」ぺこりと頭を下げる東畑さん。「こっちこそ、ちょっと意地悪な言い方してごめんね。“お局いびり”かと思っちゃって」冗談めかして言うと、東畑さんはさらに慌てて、「そんなのあるわけないです!」と全力で否定してきた。「今度、体調が良い時にまた誘って。芹沢さんにもそう伝えてね」そう言うと、彼女はようやく少しホッとした顔になって、何度も頭を下げながらエレベーターホールへと去っていった。PCの電源を落としたのは、それから2時間近く経った頃だった。エントランスホールを抜け、外に出たところで、不意
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

第35話 断想⑤

帰宅して、一息ついて、菱本にメッセージを送る。       《芹沢さんと最近連絡取った?》《芹沢とは仕事で頻繁に連絡取るけど》       《私の話、何かした?》……既読でも、なかなか返信がこない。やっぱりね。少しおいて、着信音が鳴る。「……何か言いたいこと、あるよね?」こちらの第一声に、向こうが詰まった。「あ……芹沢はさ~、ずっと朱莉のこと、いいって言ってたんだよ?」「だから?」「だから、元カレのことを忘れようとしてるって話を……ほんのちょっと……」「は?」「だって、芹沢が“社内で声かけづらい”って、ずっとモダモダしてたから……ちょっと背中押しただけだよ」「人のプライベートを勝手に話すとか……あり得ないから」「そんな、蒼也さんのことは話してないよ! 誓う!」「当たり前でしょ。そんなこと話したら、絶交だからね」「絶交って、小学生かよ、朱莉~」その返しで、思わず吹き出してしまった。「……まぁ、とりあえず、食事に行く約束はしたから」「え!マジで! 良かった! 芹沢はほんっとうに良い子だよ? 真面目で爽やかで、実家も太いし。玉の輿も夢じゃない!」「そこまでは考えてないから、けど……ほら、この間あんたが言ってたみたいに、“前を向く”って大事かなって思っただけ」「だよね! そうだよ朱莉! 恋しなきゃ、気づけば枯れススキになっちゃうよ?」「枯れススキって、なにそれ……」菱本の変な例えに2人で大笑いした。新しい恋を始めたいとか、そんなわけではない。 でも、ほんの少しでも何かが前に進めば――この堂々巡りの想いから、抜け出せるかもしれない。とはいえ、今後は余計な背中の押し方をされないよう、菱本には改めてくぎを刺しておく必要がありそうだった。「朱莉が玉の輿に乗ったら、僕がキューピッドってことで」と得意げな声に、深いため息をつきつつも、彼のおかげで笑うことができて、ほんの少し心が軽くなったのは確かだ。金曜の夜、待ち合わせ場所のビル前に着いた時、芹沢さんはすでに到着していて、少し離れた場所でスマホを気にしながらこちらを探していた。「お待たせしました」「あ、冬月さん。いえ、僕が早く来すぎただけです」ネイビーのジャケットに白のシャツ。シンプルだけど、きちんと手入れされた靴や、やや緊張気味の笑顔が好印象だった。 向かったのは、
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

第36話 逡巡①

結局、芹沢さんとは決定的なお付き合いに至らないまま、二度ほど食事に行った。なんとなくいい雰囲気にはなるのだけれど、自分がどこかで少し引いているのが、はっきりわかる。「朱莉、どうするの? 芹沢と先に進む気、あるの?」PCの画面越しに、菱本がため息まじりに問いかけてくる。「先に進むって……はぁ、どうしたらいいんだろ」「何? 進み方がわかんないってこと?」そうじゃない。自分が、本当にそうしたいと思っているのかどうかが、わからないのだ。「菱本……どうしたらいいと思う?」「どうしたらって……そんなの、こっちが決められるわけないでしょ?」「もう、このままでいいかな。この間、綾香が何もかもを恋愛に結び付けなくていい って言ってた」「このままって……恋もしないで、ひとりでいるってこと?」「……うん」「ふうん……まあ、確かに恋愛がすべてだとは思わないけど」「そう。恋愛がすべてじゃないし」「でも、あんたは昔の恋愛を引きずってるだけでしょ?」――うっ。 痛いところを突かれた。あの日、空港で見た蒼也と小さな子どもの姿が、脳裏に浮かぶ。「菱本は、藤堂さんを見ても、もうなんとも思わないの?」「うーん、全然なんとも。上司としては今も変わらず尊敬してるけど。昔はさ、藤堂課長が御園さんと一緒にいるのを見るの、正直つらかったけど。でも、自分にちゃんと運命の人が現れてからは、あれはあれで良い恋だったなって、そう思えるようになったよ」藤堂課長は、今は台湾支社の支社長で、かつて菱本がずっと思い続けていた人。「奥さんも子どももいたら、思っていても仕方ないしね」――奥さんと、子ども。「……確かに、そうだよね」ふと、声のトーンが落ちたのを、菱本がいぶかしそうにしたけれど、それ以上は何も言ってこなかった。わかってはいる。頭では理解しているのに、どうしてこんなにも吹っ切れないのだろう。 たいていのことは、迷わず決断できるのに――どうも私は、恋愛のこととなると、とことん踏ん切りが悪くて、気持ちの切り替えもうまくいかないらしい。菱本との通話を終えて、ぽつりと呟く。「ほんとに、どうしようもないなぁ……」リビングのソファテーブルにだらりと体を伸ばし、大きなため息をついた。◇◇◇メールで名前を見ることはあっても、仕事で蒼也に会う機会はまったくなかった。 も
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第37話 逡巡②

「いや、びっくりした」出てきたハイボールを口にしながらそう言うと、向かいに座る聖が「こっちがびっくりだよ」と肩をすくめた。「で、なんで泣いてたの?」――自分でもよく分からない。 ただ、きっかけはさっきの迷子であることは確かだ。聖に、空港で蒼也を見かけたところから話を始めた。 目の前の皿に乗った軟骨の唐揚げを箸でつつきながら、聖は黙って聞いていたが、話が終わると深く息をついて箸を置く。「そういう偶然って重なるんだね。この広い東京で、まあ……」ウーロン茶のグラスを手に、何かを考え込んでいる。「あーちゃんは、まだ、あいつが好きなの?」「それも、よくわからない。忘れるタイミングを失くして、ただそう思い込んでるだけかもしれない」「だいたい、なんであんな目にあって、腹を立てるってことにならないの?」考えてみれば、蒼也に腹を立てたことは一度もなかった。「理由も言わずに急にさよならするような男なんか、再会した瞬間に唾をかけてやってもいいくらいじゃん」いらだたしげな聖の眉間に皺が寄る。「僕が会いに行って、ボコボコにしてきてやろうかって思うくらいだよ」小さな、きれいな拳をギュッと握る。その拳で何かを殴ったら、きっと拳の方が痛むに違いない。「蒼也にも、何か事情があったのかなって……。話してくれたらよかったのにって、すごく残念には思うけどね」「なんやねん、それ」妙な大阪弁で聖がぼやき、炊き合わせの大根を口に入れる。「やっぱり、ちゃんと話した方がいいと思う? 綾香も菱本もそう言うんだけど」「会ってどうするのさ。『あの時の別れの理由は何ですか?』って聞くだけでしょ。妻も子どももいる男にそんなこと聞いたら、向こうは『まだ自分に気がある』って思うだけだよ。……不倫したいわけ?」「そんな言い方……不倫なんかしたいわけないじゃん」「だったら、もう放っておきなよ。彼氏がいないならいないでいいじゃん。恋愛だけが人生じゃないでしょ?」聖はさらに不機
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第38話 逡巡③

目の前の蒼也は、どこか疲れた顔をしているように見えた。「申し訳ありません。社長は現在不在ですので、こちらで書類をお預かりします」必死で冷静を装って、書類を受け取る。2週間後のシンガポール出張についても簡単に伝えた。「よろしくお願いします」と短く告げ、エレベーターに向かうため背を向けたが、ホールに出る直前、彼の足が止まる。肩でひとつ息を吐くと、振り返ってこちらに戻ってきた。「仕事中にこんな話をするのは不適切かもしれないけど……話がしたいんだ。今日の夜、時間はある?」顎にうっすら浮かんだ筋。蒼也が緊張しているときに見せる表情だった。「……今日の夜なら、大丈夫だけど」「朱莉の連絡先は、昔と変わっていないのかな?」「そう……だけど」「じゃあ、後で連絡するよ」そう言って少し表情を和らげ、彼はエレベーターへと歩いていった。 深刻そうな顔をしていたけれど、何があったのだろう。今回のトラブルは、設計上のミスなどは関係ないはずだ。シンガポールへの設計士同行を依頼したのも、工程の前後で設計面に問題がないか現地で確認してもらうために過ぎない。――私が、そんなことまで気にかける必要もないのに。夕方、仕事を終えようとしていた頃、蒼也から携帯に電話が入った。 「会社まで迎えに行くよ。何時ごろが都合いい?」ちょうど片付けをしていたタイミングだったので、「いつでも大丈夫」と答える。彼は、会社の前に着いたら連絡をすると言って電話を切った。 にわかに緊張が走る。何を話すつもりなのか。見当もつかず、ただそわそわと彼の到着を待った。 ◇◇◇ 蒼也は、事務所でPCに広がる図面を眺めながら、頭の中で完成図を描いていた。シンガポールのホテル案件は、建物だけでなく周囲の景観やリゾート全体のコンセプトにも関わる。これまで積み重ねたランドスケープデザインの研究が評価されているのを感じる
last updateLast Updated : 2026-07-24
Read more

第39話 逡巡④

仕事の打ち合わせを兼ねた会食を終え、ビルの谷間を抜けて駅に向かう途中、ガラス張りのレストランの前を通りかかった。――あれは、朱莉?ふと顔を上げて目を走らせた窓際のテーブルで、ワイングラスを手にした彼女の横顔が見えた。向かいに座る男――例の会話をしていた男、芹沢が、身振り手振りを交えながら何かを楽しげに話している。それに朱莉が笑みを浮かべてうなずくたび、胸の奥がざわついた。思わず足を止め、視線が釘付けになる。仕事終わりの疲れと酔いも相まって、彼女がまるで別世界の人間のように遠く感じた。視界の端に、自分の影が路上の並木の影に沈んでいるのを意識する。 まるで覗き見をしているみたいで、心臓が嫌な音を立てた。――もう、関係ないだろう?そう言い聞かせても、足は動かない。8年前、何も言えずに終わったあの日の記憶が、再び胸をかき乱す。テーブル越しに笑顔を交わす朱莉と芹沢の姿が、ひどく眩しく見えた。ワイングラスの縁をなぞる朱莉の指先。 その柔らかな仕草に、かつて触れた手の温もりがよみがえる。その瞬間、芹沢が身を乗り出し、朱莉に向かって何かを真剣に伝えている。 彼女がじっと彼を見つめた後、そっと目線を手元に落とした。その姿を見たとき、胸の奥で抑えていたものが軋んだ。視線を逸らし、踵を返す。夜風がやけに冷たく頬を撫でた。誰もいない暗い事務所に帰り着くと、ようやく、ふぅと息を吐いた。ビル街のネオンが、窓ガラスにぼんやりとにじんでいる。 足元に視線を落としたまま、さっきの光景が何度も脳裏に浮かんでは消える。――朱莉は、何を告げられていたのだろうどこかで数日前の会話が浮かぶ。 『…年齢的にも結婚前提じゃねぇの? 』 『いいに決まってんだろ…』 彼女はあの男と人生を歩むのだろうか。 そうして、自分の知らない時間を、誰かと肩を並べて生き
last updateLast Updated : 2026-07-25
Read more

第40話 再燃①

電話を受けてバッグを手にエレベーターに乗り込む、 エントランスを抜けてビルの階段を下りた先に、蒼也が立っていた。「ごめん。急に誘って。でも、今日じゃないと誘う勇気が出なさそうだったから」昔のように口に手を当てて、少し耳を赤くしながらそう言う。「どこか店は決めてるの?」「そうだな……。誘っておいて、実はこの辺りの店を知らなくて」昔も同じような会話をしたことを思い出す。 思わず笑いが漏れる。「じゃぁ、私の知ってるお店で」駅の反対側にあるイタリアンへ向かった。 ビジネスマンが足早に通り過ぎて行く中を、二人で並んで静かに歩く。 不用意に言葉を発してしまうと、何か大事なことを伝え忘れてしまう気がして、ただ黙っていた。店に着き、席に案内されても互いに言葉は少ない。ワインを一口飲んで、ようやく蒼也が口を開いた。「朱莉と、もっとゆっくり話をしたいと思ってた」――私もよ。と心の中で答える。「その……話をしたいんだけど、どこから話せばいいか迷ってる」そのためらいに思わず言葉が出る。「蒼也は、私に申し訳ないと思ってるんでしょう? 違う?」その言葉に、彼がじっとこちらを見つめた。「そうだね。あんなふうに……何も理由を言わず、離れるべきじゃなかった」自分の両手で縋るようにグラスを持ち、そこに視線を落としつぶやく。「そうね、あの時は、すごく混乱したし、蒼也のことを怖いと思った」蒼也は、悲し気な苦し気な表情を浮かべる。「何も言わずに東京を去ったのは、父の工場が詐欺にあって、多額の借金を抱えたからだったんだ。なりふり構っていられない状態だった」そして、深く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。「もし、事情を話せば......朱莉は俺から離れられなくなるだろう、と思って。だから……全部、黙って去ることにした」胸の奥がきゅっと締め付けられる。 ――私が知らなかったあの空白の理由が、今、彼の口から語られている。「君を傷つけた言い訳をしたい訳じゃない。許して欲しいわけでもない。ただ……何も知らないままお互いに……違うな、はぁ……」蒼也は、大きくため息をついた。 目の前に置かれたグラスに触れることもせず、言葉選びに集中している。「こんな風にもう一度出会えると思って無かったんだ。俺は、もう二度と会うことのない君を、心のどこかで思いながらずっと生き
last updateLast Updated : 2026-07-25
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status