All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

しかも、並んでいるのはどれも紗和の好物だった。焼きたてのトーストに、ふんわりとしたスクランブルエッグ、野菜たっぷりのサラダ。それに、湯気の立つホットミルクまで用意されていた。だが今の紗和には、征臣とどう顔を合わせればいいのか分からなかった。もともと二人は婚約しており、もうすぐ正式に夫婦になる。男女の関係を持ったとしても、何もおかしくはない。それでも昨夜のことは、何一つ覚えていなかった。征臣が満足したのかどうかさえ分からない。意識を失ったまま、まるで人形のように横たわっていただけなら、彼を少しも喜ばせられなかったのではないか。紗和は覚悟を決めて食卓へ近づき、非の打ちどころのない征臣の顔を見た。きっちり髪を撫でつけても、無造作に前髪を下ろしてもよく似合う。鋭い目元が、近寄りがたい冷徹な雰囲気をいっそう際立たせていた。隙一つないほど清潔感があり、欲望など持ち合わせていないかのように厳めしい。すっかり、いつもの禁欲的な征臣に戻っていた。昨夜、頬骨のあたりを赤くし、耳まで真っ赤に染め、何も身につけずにいた男とは別人のようだった。視線がぶつかり、紗和は気まずそうに目をそらした。征臣は無表情のまま言った。「座れ。朝食にしろ」昨夜のことを何か言われるのではないかと、紗和の顔は緊張で赤くなった。距離が近づいたとき、征臣の喉元に一つだけ赤い痕があることに気づいた。おそらく、自分がつけたものだろう。意識を失っていたわりには、ずいぶん正確な場所に残していた。紗和は征臣の喉仏が好きだった。低く心地よい声とともに上下する様子が、ひどく艶めかしく見える。おそるおそる腰を下ろし、目を合わせないまま、温かいミルクをひと口飲んだ。それから、トーストとサラダを少しずつ口に運んだ。少し離れていても、征臣の冷気が食卓越しに伝わってくるようだった。性格も気性も、何もかもが冷たい。長く接してきた紗和が抱いた印象は、それだった。こっそり眺めながら、上品な顔をしているくせに、ずいぶん獣じみた人だと思った。その瞬間、視線を捉えられた。「何かあるのか」紗和はポケットから腕時計を取り出した。「これ、あなたのでしょう。部屋に落ちていたから……」昨夜、征臣が邪魔そうに外して放り置いた時計だった。目にした途端、征臣の脳裏
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第192話

紗和が昨夜のことを持ち出した途端、征臣は抑えきれなくなり、胸に抱えていた痛みを一気に吐き出した。紗和は勝手に怜央の婚約パーティーへ出向き、薬を盛られた。征臣は知らせを受けるなり助けに駆けつけたのに、聞かされたのは、彼女が何度も怜央の名を呼ぶ声だった。紗和が触れなければ、征臣も口にするつもりはなかった。傷が癒えるのを一人で待つつもりだった。だが紗和があえて切り出した以上、黙っている必要もない。紗和は呆然とした。自分がまだ怜央を思っているなど、あり得ない。「そんなことないわ」なぜ征臣がそんな誤解をしたのか分からず、慌てて説明しようとしたが、言葉が見つからない。そこで、昨日パーティー会場へ行ったことが原因なのではないかと思い至った。自分から元夫の婚約を祝いに行きたかったわけではない。莉乃に脅され、仕方なく足を運んだのだ。今の相手が誤解しても無理はなかった。「昨日あそこへ行ったのは、莉乃がおばあちゃんの遺骨を掘り出して、来なければトイレに流すと脅したからよ。おばあちゃんをそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。それだけで、怜央は何の関係もないわ」紗和は説明しながら、征臣の顔色をうかがった。だが、その言葉は肝心な点を外していた。征臣は冷笑を残して立ち上がり、そのまま寝室へ向かった。紗和は慌ててあとを追った。何があったのか、どうしても確かめなければならない。征臣は滅多にこの国へ戻らず、常に忙しい。腰を据えて話し合う時間などなく、今聞かなければ、1時間後には車で去っているかもしれない。そうなれば誤解は次に会うときまで残り、二人を深く傷つける。少なくとも紗和には、まだ脆い二人の関係が、そんな誤解に耐えられるとは思えなかった。「本当に違うの。誤解してるわ、征臣さん。怜央とはもう終わった。昨日だって、あの人は会場に来ていなかった」征臣が突然足を止め、振り返った。不意を突かれた紗和は、そのまま征臣の胸にぶつかった。慌てて数歩下がり、痛む鼻を押さえた。「ごめんなさい……」征臣は目を細め、底知れない闇を宿した瞳で鋭く見下ろした。「薬が効いている間、お前はずっと怜央の名前を呼んでいた。前にも言っただろ。俺は、そういうことにはひどく狭量なんだ。俺の女がほかの男を親しげに呼ぶのも、あんな時に別の男を
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第193話

だから再会し、紗和から救いを求められたとき――征臣は二度と、紗和に愚かな男として弄ばれまいと自分に言い聞かせた。主導権は必ず自分が握る。何より、彼女を愛していると認めてはならない。すべては利益のため。紗和を利用して、奪われたものを取り返すために、彼女を自分に縛りつけるのだ。そう自分を欺くほうがよかった。本当は愛しているからこそ、これ以上苦しむ姿を見ていられない。自分もまた、紗和からの愛を求め続ける、脆く哀れな人間にすぎない。その事実と向き合うよりは。征臣は常に高みに立ち、すべてを支配することに慣れていた。だが紗和を前にすると、幾度となく無力さを味わう。主導権を失い、彼女に振り回される感覚が、ひどく憎かった。「あり得ないわ。私がそんなことをするはずない」紗和は考えるより先に否定した。征臣は感情を失ったような冷たい顔で、低く答えた。「薬に侵されている間、何度もあいつの名を呼んだ。御堂怜央に慰めてほしかったんじゃないのか。もしあいつがそばにいたら、俺を裏切っていたんじゃないのか。昨夜、俺が戻らなければ、あいつに会いに行ったのか」紗和は言葉を失った。意識を失っていたとしても、怜央の名など呼ぶはずがない。怜央はもう、紗和にとって何の意味も持たない。期待することも、心を動かされることも二度とない。だからこそ、自分がそんな荒唐無稽なことをしたとは理解できなかった。征臣は冷たく笑った。「俺が嘘をついているとでも?」「違うわ」紗和は小さく首を振った。「あなたが私に嘘をつく理由はないもの」「分かっているならいい」征臣は鼻を鳴らした。昨夜の記憶が抜け落ちている以上、紗和には反論のしようがなかった。目を伏せ、両手で征臣の服の裾を強くつかみ、か細い声で訴えた。「でも、本当に怜央とは何もないの……」服をつかんですがりつくような姿を見て、征臣の胸に渦巻いていた怒りがわずかに薄れた。紗和の意思で起きたことではないと思い直し、声を少し和らげた。「本当に何かあったなら、俺がまだお前を受け入れると思うか。こうして立って、俺と話していられるとでも?」その声には、凍えるような冷たさがあった。自分との結婚を約束しながら元夫と関係を持つことだけは、征臣にとって決して越えさせない一線だった。心の中に
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第194話

だが今になって、また分からなくなった。どれほど冷淡でも、征臣も一人の男だ。もし本当に関係を持ったのなら、少しは態度が変わってもよさそうなものだった。ところが、征臣にその気配はない。まさか、そうしている最中に怜央の名を呼んだのだろうか。もしそうなら、今日まで無事に生きていられるとは思えない。さすがにそこまでひどいことはしていないはずだった。だからこそ、昨夜二人の間に何があったのか、探るように尋ねたのだ。「ほかに誰がいる。御堂怜央につけてもらいたかったのか」征臣の声は、恐ろしいほど低かった。「違う、違うわ」紗和は慌てて否定した。「私はあなたの妻よ。ほかの男と関係を持つはずがない」「自分が俺の妻だということは、分かっているんだな」「ええ」紗和は真剣に頷いた。「わざとじゃないの。意識がぼんやりしていて、何を言っているのか自分でもよく分かってなかっただけ。怜央に会いたいなんて思ってない。本当に誤解なの。もし傷つけたなら、ごめんなさい」「……俺がどんな気持ちだったか、分かってるのか?」征臣が瞬きをした。「ええ。ごめんなさい」恥ずかしそうに耳と目尻を赤く染め、今にも泣きそうな声で謝る紗和の姿は、思いのほか強く征臣の心を揺らした。征臣は紗和を見据えた。「昨夜、お前のほうから求めてきた。俺を御堂怜央だと思っていたんじゃないのか」「違う!」紗和は顔を上げ、澄んだ瞳に揺るぎない意志を宿した。「ちゃんと見えていたわ。あなただと分かったから、私から口づけたの。あなたと結婚すると決めたときから、この先、あなた以外の男には触れないと決めている。意識が曖昧でも、あなただと分かったから、自分から近づいたのよ」紗和は何度も、自分が見ていたのは征臣だと言い張った。罰や怒りから逃れるために、とっさにつくった話にも聞こえた。それでも征臣は、信じたくてたまらなかった。「その言葉を忘れるな」声はまだ冷たかったが、先ほどまでとは違う。怒りは明らかに薄れていた。紗和が繰り返し否定し、見ていたのは征臣だと言ったことで、胸の痛みも少し和らいだ。「うん」紗和は慎重に頷いた。征臣の態度が少し軟らいだのを見て、いったん離れ、昨夜のことを整理しようとした。「じゃあ、行くね」「待て」征臣が呼
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第195話

気づけば征臣はシャツを脱ぎ、傍らへ放っていた。滑らかな起伏を描く体には力強さがあり、目を奪うような色気がある。そこまでは、まだ純粋に美しいものを眺める気持ちでいられた。ベルトを外す音が響くまでは。紗和は目を見開いた。昨夜も意識は曖昧ながら、征臣の胸や腹部、鎖骨や肩までは目にしていた。それより先は見ていない。今は引き締まった腰から背中まで、はっきり見えてしまう。紗和は慌てて両手で目を覆った。幸い、征臣はベルトの金具を外しただけだった。そのまま紗和の手を取り、ベッドのそばへ引き寄せると、上半身を後ろに倒すように腰を下ろした。午前の日差しが差し込み、室内は明るかった。寝室は採光がよく、窓の向こうには静かな海が広がっている。白昼にこんなことをするだけでも驚きなのに、征臣は眼鏡までかけていた。感情を隠すかのような薄い縁なしレンズに、銀色のテンプル。耳元のダイヤモンドともよく合い、本来なら冷ややかな顔立ちをさらに引き締めるものだった。だが今は、唐突で大胆な要求とは不釣り合いなほど、征臣らしい端正さを際立たせていた。その不釣り合いさが、いっそう紗和の胸を騒がせた。「シャワーは浴びたか」「ええ……」答えかけた途端、整った顔が目の前で大きくなった。待ちきれなくなった征臣が、自分から唇を塞いだのだ。征臣はしだいに口づけの味を覚え、昨夜の余韻が忘れられないのか、さらに深く求めてきた。抵抗する余地も与えず、強引にベッドに押し倒した。罰するような口づけに、紗和はたちまち息ができなくなった。まだ体調が戻りきっていないのか、胸がひどく苦しくなり、慌てて征臣の胸を押した。だが征臣は応じなかった。両手首をつかんで、さらに深く唇を重ねた。たくましい脚まで絡められ、紗和は完全に押さえ込まれた。息が途切れそうになって、ようやく唇が離れた。紗和はようやく解放されたように、大きく息を吸い込んだ。征臣の深い瞳には、口づけのあとの甘さなど少しもない。手首をつかむ手に力を込め、怯えた紗和を鋭く見据えた。「紗和。俺に抱かれるのが、それほど怖いのか」紗和は口を開いたものの、どう答えればいいか分からなかった。確かに怖かった。けれど、征臣そのものを恐れていたのではない。死ぬのが怖かったのだ。先ほどは胸がひ
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第196話

紗和は電話に出た。「もしもし」聞こえてきたのは、聞き覚えのある、どこか穏やかな低い声だった。「紗和、昨日は大丈夫だったか?」その瞬間、昨日、伊織と会ったときのことがよみがえった。これまで伊織をずっと信頼してきた。それなのに昨日、休ませてやると言われたとき、なぜか本能的に拒んでしまった。その後、部屋へ抱きかかえられていったときには、伊織に何かされるのではないかとさえ思った。理性を取り戻した今では、少し恥ずかしい。長年の付き合いがあり、伊織がまっすぐな人間であることも知っている。自分を傷つけるはずなどなかった。「心配してくれてありがとう。もう大丈夫よ」伊織は少し戸惑ったようだった。「昨日、特殊なマスクで顔を隠した男たちが入ってきて、君を連れていったが……」「私のボディーガードよ、伊織さん」「それなら安心した。そうだ、バッグを私の部屋に置き忘れている。届けに行こうか?今どこにいる?」紗和は少し考えてから答えた。「会社まで持ってきてもらえる?今から取りに行くわ」「ちょうど話したいこともある。会社で待っているよ」伊織はすぐに応じた。そういえば昨日も、何か大切な話があると言っていた気がした。いったい何を伝えようとしていたのだろう。紗和はフォトンテックの本社へ向かった。短期間で上場を果たしたフォトンテックは、ビルの高層階に2フロアを借りていた創業当初から大きく姿を変え、今では高層ビル1棟を本社として使用している。紗和は社長室へ向かった。株式は紗和のほうが多く保有しているが、経営権は当面伊織に任せており、今も伊織が代表取締役として業務執行を担っていた。扉を叩き、中から返事が聞こえてから室内に入った。「紗和、座って。体はどうだ?昨日はかなり熱があったようだが」「もう大丈夫。熱も下がった。ありがとう、白河社長。昨夜あんなところで会うとは思わなかった」伊織は立ち上がって水を注ぎ、紗和の前に置いた。「思い詰めていないか心配で、様子を見に行ったんだ。まともに歩けないようだったから、転んではいけないと思って部屋で休ませた。冷却シートの袋を開けようとしたら、何度もやめてくれと言っていたが、何か勘違いしたのか?」紗和は気まずくなった。あのときは意識が混濁し、幻覚まで見ていた。ベッドに
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第197話

再婚するなら、今度は相手の経済力や、男として惹かれるかどうかを現実的に考えてもいい。若い頃は、純粋な愛さえあれば何も要らないと思っていた。だが、今の紗和はもう目を覚ましている。結婚に必要なものを改めて考えれば、愛情も欲しいとは思う。けれど、それは簡単には得られない贅沢なものだった。怜央は愛情も経済的な支えも与えず、それどころか紗和の成果まで奪い、際限なく莉乃を庇い続けた。その傷は、今も消えていない。対して征臣は、どの面を取っても申し分がなかった。紗和は首を振った。「伊織さん、話があるなら直接言って」伊織は温かな笑みを浮かべた。「私は独身で、ずっと一人の女性を思い続けてきた。彼女が自由になったら、気持ちを伝えようと待っていた。そして今、その人はようやく自由になった。紗和、私は君が好きだ。君と交際したい」あまりに突然で、あまりに率直な告白だった。紗和は頭が真っ白になった。深く息を吸い、できるだけ落ち着いて答えた。「白河さん、ごめんなさい。気持ちは嬉しい。でも、あなたとはそういう関係にはなれない」呼び方が変わっただけで、伊織にはその意思が伝わった。それでも諦めたくはない。かといって、紗和に嫌悪されたくもなかった。「突然こんな話をして、すまなかった」伊織は真剣な眼差しを向けた。「ただ、私に何が足りないのか知りたい。御堂くんより劣っているか?」紗和は首を振った。「白河さんなら、きっともっとふさわしい人がいるよ。あなたと一緒にいたいと思う女性だって、いくらでもいるはず」「その一人に、君はなってくれないのか」伊織はなおも穏やかに笑っていた。「紗和が受け入れてくれるなら、御堂くんより大切にする。一人だけを愛し、決して裏切らない」伊織の言葉は、紗和の古傷を正確にえぐった。だが紗和は、自分がすでに別の男との結婚を決めているとは言えなかった。両親を襲った事件の真相を突き止めるまでは、素性を知られたくない。征臣ほどの人物と、これまで接点のなかった紗和が結婚すると明かせば、身元を探られるのは避けられない。再婚したとだけ話しても、伊織の情報収集力なら、相手を突き止める可能性が高かった。紗和が黙り込むと、伊織はさらに尋ねた。「それとも、私が名家の後継者ではないからか。だが私は――」
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第198話

紗和は胸を撫で下ろした。その様子から、紗和に自分と付き合う意思がないことは、伊織にもはっきり分かった。それでも、この告白をきっかけに距離を置かれることだけは避けたかった。「安心してくれ。もう君を困らせることはしない」伊織は言い直すように続けた。「君は昔から、能力の高い相手に惹かれるところがあった。今の私では、まだ君の望む相手に届かないのかもしれない。だが気まずく思う必要はない。これからも友人であり、仕事のパートナーだ」紗和は頷き、立ち去ろうとした。そのとき伊織が、不意に思い出したように告げた。「そういえば、花宮さんが流産して病院へ運ばれたらしい。誰かに流産させられたと繰り返しているそうだ。昨日、君は花宮さんと揉めたんだろう。念のため、様子を確かめに行ったほうがいいんじゃないか」紗和は驚いた。莉乃が流産した?自分は莉乃をベッドに縛りつけただけで、それが流産につながるとは思えない。それでも気になった。「病院へ運ばれたのは昨日?」「ああ。グランシエル・クラブから搬送された」伊織は言った。「様子を見るよう勧めるのは、花宮さんが平然と嘘をつく女だからだ。責任を君に押しつけるかもしれない」紗和の顔色が変わった。自分にまったく責任がないと言い切ることもできない。莉乃があれほど大切にしている子どもを、自ら傷つけるとは考えにくかった。紗和が縛りつけず、そのまま立ち去っていれば、こうはならなかった可能性もある。だが過度に自分を責める必要はない。すべては莉乃が自ら招いたことだ。莉乃が先に危害を加えようとしなければ、紗和も反撃して縛りつけることはなかった。「伊織さん、具体的に何があったか知っている?」紗和は慎重に尋ねた。伊織は首を振った。「それは本当に分からない。昨日、君のボディーガードに殴られて気を失っていたからな」「ごめんなさい。莉乃が運ばれた病院は分かる?」「調べればすぐ分かる。この街の病院には知り合いが多い」分野が異なっても、伊織は大学教授として学界に広い人脈を持っている。医学部の教授とも親しく、休日には一緒にサッカーをする仲だった。その教授の教え子は、市内の多くの病院で働いている。伊織とともに病院の産婦人科に着いた紗和は、そこで怜央と鉢合わせた。よりによって、同じ時
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第199話

「私がいつ、伊織さんと付き合ったと言ったの?」紗和は眉を寄せた。「怜央、莉乃は救急処置を受けているのよ。彼女やお腹の子を心配せず、私を責めることに何の意味があるの?」怜央は、紗和が莉乃を持ち出して話をそらしているだけだと思い、激怒した。伊織とは何もないと、紗和がすでに否定したことも都合よく聞き流した。「俺が離婚に同意したからといって、結婚している間の裏切りまで隠せると思っているのか。こいつは、俺よりお前を満足させられるのか?前から俺との子どもを欲しがらなかったのも、とっくにこいつと――」以前提出した書類では、もう離婚手続きを進められなくなっていることを、怜央はまだ知らなかった。紗和はもう耐えられず、腕を振りほどくと、怜央の頬を平手で打った。「恥を知りなさい。結婚している間に裏切ったのは、あなたでしょう!」怜央は切れた口の端を舐め、暗い瞳に刺すような憎しみを宿した。「ずっと前からこいつと寝てたんじゃないって、本当に言い切れるのか。だから産婦人科に来たんだろ」何を言われても、怜央は二人が妊娠の確認に来たのだと思い込んでいた。頭が割れそうなほど怒り、まともな判断ができなくなっている。この数か月、紗和が夫婦の関係を拒み、宗一郎に離婚を進めるよう迫ったのも、隠しきれない事情があったからではないか。伊織と堂々と結ばれることを急いでいたのなら、自分は長い間裏切られていたことになる。紗和は込み上げる涙を必死にこらえた。かつて夫だったというだけで、怜央は人目のある場所で、何の根拠もなく紗和を辱めている。怒りを押し殺し、冷たく笑った。「私が再婚しようが、この先何度結婚しようが、あなたには関係ない。人の裏切りを責める資格が、この世で一番ないのはあなたでしょう。これ以上、私の人生に口を出さないで」怜央の頬がひりついた。紗和に打たれたのは初めてだった。いつも穏やかで従順だった紗和は、どれほど腹を立てても、厳しい言葉を口にするだけだった。だが今日は、怜央の侮辱を断固として拒み、手を上げた。紗和には、怒りだけでなく、怜央に頭を冷やしてほしいという思いもあった。怜央は口元の血を手で拭った。「つまり紗和、お前はとっくに俺を愛してなかったんだな」そばにいた伊織は、何度も紗和を庇おうとした。だが、自分
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第200話

怜央が医師の前へ進み出た。「家族です」紗和と伊織は、なんとも皮肉な気分になった。怜央は紗和の裏切りを責め、離婚がまだ成立していない以上、自分は夫だと主張した。ところが莉乃のこととなれば、当然のように家族を名乗って医師の前へ進み出た。自分こそ結婚している間に別の女と関係を持ったというのに、それは何の問題もないとでも思っているようだった。あまりにも身勝手だった。医師はマスクを外した。「お子さんは何とか助かりました。今後はくれぐれもお気をつけください」怜央は頷いたが、さほど喜んではいなかった。莉乃のもとへ近づき、声をかけようとした。そこで初めて、絵里香が自分より先に駆け寄っていることに気づいた。「莉乃、赤ちゃんは何とか助かったそうよ。まだ痛む?もう一度詳しく診てもらったほうがいいんじゃない?」絵里香の声に、莉乃は力なく上体を起こし、少し離れた場所にいる紗和を睨んだ。紗和と伊織が来ていると、先に絵里香から聞かされていたのだ。グランシエル・クラブで起きたことを思い出すだけで、莉乃は耐え難い苦痛に襲われた。あれほどの屈辱を味わったことは、生まれて一度もない。見る影もないほど惨めな姿にされ、同じ社交界に属する何人もの男に弄ばれた。莉乃は憎悪に顔を歪め、紗和を指さした。「全部、紗和さんのせいよ。この女のせいで、危うく赤ちゃんを失うところだった!」怜央は不審そうに振り返った。「紗和。莉乃をこんな目に遭わせたのは、お前なのか」紗和は莉乃へ歩み寄った。血の気のない顔は、確かに流産しかけたばかりのように見えた。何があったのか分からず、紗和は尋ねた。「莉乃。どうして流産しかけたの?」絵里香が嘲った。「白々しい。あなたがやったんでしょう」「私が?私が莉乃に何をしたというの。先に危害を加えようとしたのは――」最後まで聞かず、莉乃はわざと悲鳴を上げ、気を失ったふりをした。怜央はすぐ医師を呼び、診察させた。大量出血ではないことを確かめた医師が答えた。「体が衰弱しているのでしょう。病室で休ませれば大丈夫です」そこで紗和はようやく、莉乃が本気で責任を押しつけようとしているのだと悟った。何が起きたか分からない以上、莉乃と行動をともにしていた絵里香なら、事情を知っているはずだ。
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