All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

「今日も野次馬」というユーザーのコメントが、見る見るうちに「いいね」を増やしていた。【外面だけ取り繕って、中身は最低な男っているんだね。望月さん、絶対戻っちゃだめ。こんな男、拾ったほうが不幸になるだけ】その下で最も多くの「いいね」を集めていた返信は、たった一言だった。【ほんとそれ。元夫、汚すぎ】紗和の視線が、その言葉の上で一瞬止まった。なぜこれほど胸に引っかかったのか、自分でも分からない。たぶん、「汚い」という言葉があまりにもぴったりだったからだ。莉乃の存在を知らなかった頃の結婚生活を思い返す。怜央は海外にいる莉乃のもとを訪ねたあと、何食わぬ顔で家に戻り、別の女に触れたその手で紗和の肩を抱いていた。今になって思えば、確かに汚らしい。紗和はコーヒーカップを置き、もう一度スマホを手に取った。指先で、赤いハートの「いいね」をそっと押す。記事を拡散することも、コメントを残すことも、声明を出すこともしなかった。ただ「元夫、汚すぎ」という一言の隣に、小さなハートを一つ残した。それだけだった。そしてスマホを脇に置き、新製品の発売計画書を再び開いた。ほんの些細なことだと思っていた。たかが「いいね」一つ。紗和のSNSにはフォロワーもほとんどおらず、普段投稿するのは業界ニュースや会社の近況ばかりで、自分の写真すら一枚も載せていない。そんなアカウントを、いったい誰が見ているというのか。だが紗和は、ネットユーザーの特定力を甘く見ていた。午後3時17分、100万人を超えるフォロワーを持つ芸能系インフルエンサーが、スクリーンショットを添えて新たな投稿をした。画像には、認証済みの望月紗和のアカウントが「元夫、汚すぎ」というコメントに「いいね」していることが、はっきりと映っていた。添えられていた言葉は、たった一言だった。【本人、まさかの参戦】その投稿をきっかけに、騒ぎは再び一気に燃え上がった。返信欄は、たちまち大盛り上がりになった。【あはははは、望月さん最高!】【この「いいね」だけでしばらく笑える。潔すぎて好き!】【一言も発してないのに、「いいね」一つですべて伝わるの強すぎる。沈黙は雄弁って、こういうことか】【望月紗和『黙ってるからって、何も思ってないわけじゃない』】【本人公認で草。元夫
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第212話

あの頃、紗和の瞳には怜央しか映っていなかった。だが今、紗和はあの「いいね」ひとつで、世間が注目する中、怜央を自分の人生から完全に切り離した。一方、病院では、莉乃がどれほど甘えた声で呼んでも怜央は見舞いにも来ず、付き添おうともしなかった。危うく子どもを失いかけたのだ。あと少し遅ければ、命に関わっていたかもしれない。1週間も入院しなければならないのに、このまま知らぬふりをするつもりなのか。莉乃は退屈を紛らわせるように、次々と動画を見ていた。多くの投稿者が、今回の騒動を取り上げている。【元妻が『元夫、汚すぎ』という人気コメントに「いいね」きっぱりと突き放すその態度に、ネットでは『望月さん、格好いい!』と称賛の声が相次いでいます】莉乃はさっと顔から血の気を失い、深い皺が寄るほど強くシーツを握り締めた。【御堂ホールディングスは、いまだ広報対応を決めかねているとみられます】その瞬間、莉乃は不意に笑った。短く、乾いた笑いだった。病床に半身を預け、わずかに膨らんだ腹部に手を置く。目には涙が浮かんでいた。だが、その奥にあるのは悲しみではない。嘲りだった。莉乃には、よく分かっている。怜央が反応しないのは、広報チームの準備が整っていないからではない。否定する気がないのだ。紗和が一つ「いいね」を押しただけで、ネットじゅうが怜央を「汚い」と罵っている。それでも怜央は、「事実ではない」の一言さえ発しない。認めているも同然だった。莉乃は涙を拭った。このまま紗和に勝ち誇らせるわけにはいかない。スマホが震え、思考が途切れた。国内にいる大学時代の同窓生たちが、グループチャットでやり取りしている。何気なくメッセージを遡っていると、同じ学部だった先輩の名前が目に入った。森川航平(もりかわ こうへい)。莉乃と同じく金融を専攻し、怜央とは同級生だった男だ。今では配信ブームに乗り、ゲーム配信者として活動している。だが莉乃から見れば、ネットで媚びを売って金を稼ぐだけの三流配信者にすぎなかった。見下してはいたものの、航平の名前を見て、ある出来事を思い出した。大学時代、紗和が怜央に告白したあと、怜央は莉乃の言葉もあり、紗和を断るつもりでいた。ところが、航平が紗和に熱心にアプローチしていると知った途端
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第213話

同窓生の間では、紗和と莉乃、そして怜央を巡る昔のいきさつを知る者も少なくない。航平も例外ではなかった。それどころか、人づてに莉乃が九条家の令嬢だという話まで耳にしていた。紗和を押しのける形で怜央と婚約したものの、もともとは不倫相手だったとネットで暴かれたことも知っている。だが莉乃は、自分は不倫相手ではなく、二人の男を弄んでいたのは紗和のほうだと話した。名家の令嬢だという莉乃は、気前よく高額なプレゼントまで贈ってくれた。それだけの金と後ろ盾があることは明らかだった。航平は大学時代にも、紗和の身の上を調べたことがある。地方出身で、頼れる身内は祖母一人。愛情に飢えているなら簡単になびくだろうと考え、しつこくアプローチしたのだ。結局、怜央に殴られて終わったが。紗和を匿名で告発したのも、やはり航平だった。今でこそ紗和はテクノロジー企業の社長だが、それでも莉乃や怜央のような名家の人間にはかなわないと、航平は考えていた。莉乃は慎重に探りを入れ、欲しかった反応を引き出すと、さらにこう吹き込んだ。「あのときの告発は間違ってなかったわ。紗和さんは男の力を借りて、留学の推薦枠を手に入れたの。怜央くんと結婚したあとも変わらず、白河先生との関係を続けていた。今回、私が流産しかけたのだって、あの女が仕組んだことよ。大学時代も、紗和さんはあなたを使って怜央くんの嫉妬を煽った。そうやって三人の男を、自分の思いどおりに動かしていたの」航平は憤然として同意した。「やっぱりな。俺は昔から、そういう女だと見抜いてた。俺には気があるような素振りを見せながら、同時に御堂までその気にさせてたんだ。御堂もあいつにいいように振り回されてた。そのあとは経歴に箔をつけるために白河先生と関係を持って、留学の推薦まで手に入れようとしたんだろ。勉強まで男を利用する手段にするなんて、とんでもない女だ。俺が不正を告発したから、結局留学はできなかったけどな。それでも留学経験もないまま、今じゃ社長にまでなったのか。大したもんだよ」昔のことを話しているうちに、航平はますます腹を立てていった。莉乃にうまく誘導され、紗和に対する嫌悪と憎しみは、あっという間に膨れ上がっていった。「あいつが御堂の嫉妬を煽るために俺を利用しなければ、俺は殴られて手術することも、何度も試験を
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第214話

莉乃が狙う相手を攻撃することにも、航平はためらいがなかった。まして航平は、何年もの間、紗和を恨み続けていた。「花宮さん、もう何も言わなくていい。何をすればいいか、指示してくれ。あの女の本性を暴くのは、もともと俺がやりたかったことだ」航平は、その場で協力を引き受けた。莉乃はすぐに、着手金としてさらに1000万円を振り込んだ。【この件は、あなたと私だけの秘密よ。絶対に外へ漏らさないで】航平は形ばかり何度か遠慮したあと、すぐに金を受け取った。莉乃ほどの後ろ盾があれば、どれほど大きな騒ぎになっても、自分を守ってくれると信じていた。航平自身も、ネットで注目を集めるやり方は心得ていた。もちろん、内容は刺激的であればあるほどいい。多少話を盛ったところで、紗和に何ができるというのか。航平は原稿を何度も書き直し、ようやく内容を固めた。撮影と編集を終えると、最も視聴者が集まる時間帯を狙って投稿した。見出しは「被害者ヅラに騙されるな。本当に腹黒いのは元妻のほう」ネットで紗和に定着しつつあった「毅然とした元妻」というイメージを、真っ向から覆す内容だった。航平は自分を紗和に弄ばれた被害者に仕立て、二人の過去を都合よく捏造した。紗和は容姿を武器に男を弄ぶ女で、同時に三人の男を自分の都合のいいように利用していたと主張した。教師と関係を持って留学の推薦枠と特別扱いを手に入れ、自分の気持ちを弄んだうえ、名家の御曹司の嫉妬を煽るために利用した。そうして最後には上流階級へ食い込み、名家の妻の座まで手に入れた――そんな筋書きだった。一方、自分は捨てられただけでなく、その御曹司に脚を折られたとも訴えた。投稿後、莉乃はすぐに広告費を投じ、動画を一気に拡散させた。一夜にして再生数は跳ね上がり、ネットのトレンドにまで入った。【まさかの大逆転。毅然とした元妻の化けの皮が剥がれた?】【美人女子学生の裏の顔は、男を利用してのし上がった腹黒女?】【名家に嫁ぐためなら手段を選ばない?三股疑惑まで浮上】【元夫を散々責めていた本人こそ、男を弄んでいた?】刺激的な話題だけに、動画が広まると、紗和の名前も出身大学もあっという間に特定された。疑う者、面白半分で騒ぐ者、事情を知る同窓生。動画は凄まじい勢いで拡散されていった。ネット上
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第215話

助手は、すでに動画を見ていた。同窓生を名乗る者たちも、次々と当時のことを語り始めている。ほかのことは分からないが、当時、伊織と紗和に不適切な関係があるという噂が広まっていたのは確かだった。告発を受けて大学側も調査に乗り出し、結局、紗和は留学しなかった――そんな内容だった。それから何年も経って二人で会社まで立ち上げたのだから、やはり当時から男女の関係だったに違いない。名家に嫁いだあとも、紗和は夫以外の男と関係を続けていたのだ――そんな憶測まで飛び交っていた。助手が対応を急ぐよう促したのは、昔の疑惑が再び蒸し返され、伊織の今後にまで影響することを恐れたからだった。騒ぎが大きくなれば、自分まで巻き込まれかねない。「あの男は、紗和と私について嘘を広めただけでも許しがたい。そのうえ、あんな下劣な中傷まででっち上げている。だが、おかげで当時の告発者が誰だったのか、ようやく分かった」航平は、紗和が伊織の住まいを訪ねた件について、あまりにも詳しく知りすぎていた。匿名の告発文で問題にされていたのも、まさにその出来事だった。告発内容は大学から公表されていない。ここまで詳しく知っているのは、告発した本人くらいのものだ。実際には、すべて誤解だった。ある日、紗和の祖母が、卵やドライフルーツなど、地元から持ってきた食べ物をたくさん抱えて大学を訪れた。伊織は正門付近で雪江と出会い、事情を聞くと、荷物を車に載せ、自分から紗和に渡しておくと申し出た。真夏の車内に置いたままでは傷んでしまうため、いったん教職員用の住居へ運び入れた。そのまま講義へ向かわなければならず、授業が終わってから紗和に取りに来るよう連絡した。教職員用の住居は学生寮からそれほど離れていなかったため、伊織は紗和と一緒に建物の入口まで行き、自分で荷物を運び出して手渡した。ただ、それだけのことだった。ところが何者かが、二人で教職員用の住居へ向かう場面だけを撮影し、前後の事情を切り捨てて、都合のいい証拠として利用した。当時、百年以上の歴史を持つその大学は、まだ古い校舎が多く、防犯カメラの設置も十分ではなかった。そのため、二人の説明を裏づける映像は残っていなかった。加えて、伊織が自ら人脈を頼り、母校への留学の道をつないだこと自体は事実だった。紗和に留学の機会を与えるため、
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第216話

瀬川は頷き、すぐに手配するため出ていこうとした。だが莉乃が呼び止めた。「怜央くん、私も動画を見たけど、あの男の話が嘘とは限らないんじゃない?あの頃、あなたは紗和さんと付き合う気なんてなかった。それなのに紗和さんは、森川先輩に言い寄られていることを、わざわざあなたの耳へ入れたでしょう。独占欲を煽るためだったんじゃないの?森川先輩は毎日のように紗和さんの住む建物の前で手紙を読み上げ、歌まで歌って、辺りを薔薇で埋め尽くしていた。紗和さんが期待させなければ、あそこまでする?はっきり断っていたなら、絶対に続けなかったはずよ」「俺は紗和を8年見てきた。あいつは、そんな女じゃない」迷いなく紗和を庇う言葉に、莉乃は屈辱を覚えた。冷たく笑った。「そんな女じゃないっていうなら、あなたに気があるような顔をしながら、裏では白河先生と寝ていたことをどう説明するの?」「紗和は白河と寝ていない。でたらめを言うな。もう一度口にしたら、ここから追い出すぞ」怜央は本気で怒っていた。莉乃は驚いて目を見開き、涙を一粒ずつこぼした。今の自分は怜央の婚約者で、腹には彼の子どもまでいる。それなのに怜央は、あの女のために怒鳴り、出ていけとまで言う。莉乃の胸は、冷えきっていた。航平とホテルへ行き、伊織の住居でも関係を持ったと聞けば、怜央も紗和に騙されていたと疑い、嫌悪するはずだと思っていた。だが怜央は紗和を疑うどころか、一瞬の迷いもなく庇った。莉乃には、それが耐えられなかった。怜央の気持ちは変えられなくても、ネット上の評価はすでに一変していた。莉乃は金で大量の投稿を流させ、自分と怜央は幼い頃から思い合っていたのに、紗和が割り込んだのだと世論を誘導している。今や批判のほとんどは紗和に向かい、莉乃が婚姻中の男の子どもを身ごもった事実は忘れられつつあった。怜央に怒鳴られた莉乃は黙り込んだ。今はまだ実権がなく、御堂家に頼らなければならない。その一方で、航平には次の動画を投稿するようメッセージを送った。2本目の動画で、航平はネット上の疑問に答えるとして、集めた「証拠」を公開した。最初の動画が急速に拡散されたため、航平は今回も顔を隠し、音声だけで語る形式を選んだ。自分を疑う声があまりにも多いので証拠を出す。これで中傷していた者も
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第217話

航平は一瞥しただけで、返事をしなかった。紗和に何ができるというのか。紗和も朝早くから騒ぎを知っていたが、最初は落ち着いていた。投稿したのが航平だということも、すぐに見抜いた。初めは取るに足らない噂で、そこまで大きな騒ぎにはならないと思っていた。だが中傷の影響は広がり続け、フォトンテックにまで飛び火し始めた。そこで紗和は、これが航平一人の憂さ晴らしではなく、誰かが自分を陥れるため、意図的に彼を利用しているのだと気づいた。それにしても、こんな程度のやり方で自分を潰せると思っているのなら、あまりにも浅はかだった。背後にいるのは薫子か、莉乃か、それとも怜央か。病院で揉めた相手なら、誰にでも動機はある。薫子の報復かもしれないし、怜央と莉乃が自分たちの醜聞から世間の目をそらそうとしている可能性もあった。やがて航平に高額なプレゼントを贈った支援者の一覧から、莉乃の顔写真を使ったアカウントを見つけた。紗和は、すべてを察した。もう航平を問い詰める必要はなかった。代わりに、目の前のパソコンへ視線を移した。ネット上なら、好き勝手に自分を中傷できると思っているらしい。だが紗和には、世界でも指折りのハッカーという、誰にも知られていない一面があった。ネットの世界で紗和を敵に回すなど、相手が悪すぎる。相手の素性を突き止めることも、この騒ぎを収めることも、紗和にとっては難しいことではなかった。紗和はすぐにキーボードへ指を走らせた。IPアドレスを辿り、航平のコンピューターへ侵入する糸口を探す。素早く操作を進め、彼が使っているアカウントの情報まで確認できる状態にした。その頃、航平は画面の前で管理ページを眺めていた。急激に伸びていく再生数を見ながら、ついに自分にも有名になるチャンスが巡ってきたような高揚感に浸っていた。莉乃が広告費を投じたおかげで、動画はわずか1時間で100万回以上再生された。フォロワーも10万人増えている。その多くは、女性を一方的に罵る航平の言葉に同調するような連中だった。その数は、なおも増え続けている。紗和の下着姿を盗撮した写真はないのかと、直接メッセージを送ってくる者までいた。ホテルへ行ったのなら、当然もっと露骨な映像も持っているだろう。自分たちには紗和ほどの美女と関係を持て
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第218話

フォロワー40万人。それは、注目と収入に直結する数字だった。航平は、ついに売れるのだ。その瞬間が、もうすぐそこまで来ている。酔ったように気分が浮つき、足元まで軽くなったような気がした。詳しい数字を確かめようと、机の上のマウスに手を伸ばした。だが何度動かしても、カーソルはぴくりとも反応しない。もう一度操作してみても、画面上で止まったままだ。次の瞬間、カーソルが勝手に画面上を動き始めた。航平は苛立ち、マウスを裏返して底面の赤い光を確かめると、そのまま脇へ放り投げた。小さく悪態をつく。だが、そんなことで胸の高揚が冷めるはずもなかった。マウスが壊れたくらい、どうということはない。すぐに金が入り、機材だって全部買い替えられる。メカニカルキーボードも、ゲーミングマウスも、机まわりを丸ごと新しくするつもりだった。スマホで確認しようと手に取ったとき、玄関の扉が激しく叩かれた。ドンドンドンと、普通の来客とは思えないほど強い音が響き、扉の枠までかすかに震えた。太くこもった声が、不機嫌そうに廊下から響いた。「デリバリーです!」航平が立ち上がるより早く、別の音が重なった。先ほどとは違い、短く重い。拳で鉄の扉を叩くような、硬く乾いた音だった。抑揚のない低い声が続く。「宅配便です」二つの声は、ほとんど同時に聞こえた。廊下には、二人が一緒に立っているらしい。航平は一瞬きょとんとし、椅子から腰を浮かせたまま動きを止めた。料理と荷物が同時に届いたのか。一瞬そう考えたものの、すぐに気にしなくなった。航平は普段から、通販も料理の配達も頻繁に利用している。この1か月だけでも、甘いドリンクを何十杯も注文していた。荷物も数日おきに届く。同じ時間に重なることくらい、別に珍しくはない。何より、今日は気分がよかった。思いがけない幸運が舞い込んだ日に、そんな些細な偶然まで疑う気にはなれなかった。迷惑電話がかかってきても、機嫌よく相手をしてやれそうなほどだった。スマホをポケットへ入れ、サンダルを引きずるようにして玄関へ向かう。扉の覗き穴すら確かめず、そのまま取っ手を回した。扉を開くと、廊下の人感照明が薄暗い黄色の光を落としていた。それでも、入口に立つ二人の姿ははっきり見えた。一人は鮮や
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第219話

膨れ上がった自信が、わずかな胸騒ぎをかき消した。航平は料理の袋に手を伸ばし、浮かれた調子で言った。「どうも――」最後まで言う前に、相手が手を離した。手が滑ったわけではない。航平の指が袋に触れた瞬間、男はまるで狙っていたかのように、わざと手を離したのだ。袋はそのまま落ち、足元で鈍い音を立てた。中に入っていた茶碗蒸しの蓋が外れ、崩れた中身とだし汁が床一面に飛び散った。汁はタイルの目地を伝い、サンダルの縁まで汚している。航平は床の惨状を見つめ、しばらく呆然としていた。だが次の瞬間には怒りが込み上げ、こめかみが激しく脈打った。紗和の本性を暴いたおかげで、わずか一日足らずで40万人ものフォロワーを手に入れた。もうすぐ生配信や広告で大金を稼ぎ、広い家に住み、高級車だって買える。しかも今は、名家の令嬢まで自分の後ろ盾についている。ただ料理を届けるだけの人間が、そんな自分にこんな態度を取るというのか。注文した品を床に落とされて、黙っていられるはずがなかった。航平は勢いよく顔を上げた。さっきまで浮かべていた笑みは消え、眉間には深い皺が刻まれていた。高揚に満ちていた目も、たちまち険しくなる。一歩踏み出し、配達員の目の前まで詰め寄った。男の顔に指を突きつけ、声を荒らげた。「目ついてんのか?俺の茶碗蒸しだぞ!料理一つまともに届けられないなら、何ができるんだよ!」配達員は、無表情のまま航平を見ていた。胸元には小型のカメラがついており、レンズは航平の顔を正面から捉えている。それでも航平の罵声は、ますます激しくなった。長年溜め込んできた不満まで、目の前の男にまとめてぶつける。「お前らみたいなのが何様だってんだ?あ?自分が何者か言ってみろよ。所詮、街の裏側を這いずり回ってるドブネズミだろ!人にこき使われて、一生走り回るしか能がない。底辺を這ってる虫けら、社会のゴミだよ!一生配達を続けたって、この街じゃトイレほどの広さの部屋すら買えねえんだよ!分かってんのか!」吐き捨てるように罵るたび、胸の奥がすっとしていった。相手より自分のほうが上だという感覚に、すっかり酔っていた。やがて手を伸ばし、相手の頭をつかむと、無理やり下を向かせようとした。「頭下げろ。謝れ!客の料理を台なしにして、そのまま帰れると思う
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第220話

次の瞬間、固く握られた拳が、航平の頬にまともに叩き込まれた。これまで一度も受けたことのない衝撃だった。喧嘩で押し合う程度の力でも、ドラマの中で見るような芝居がかった殴り方でもない。まともに食らえば、ひとたまりもない一撃だった。骨同士がぶつかるような鈍い音が、狭い廊下に響いた。航平の頭が大きく横へ振られ、体ごと吹き飛ばされる。そのまま玄関の靴箱に激突した。靴箱が大きく揺れ、上に置かれていた鍵入れが落ち、航平の体にぶつかった。耳の奥では高い音が鳴り続け、目の前が一瞬真っ暗になった。口の中には、血の味が広がる。床に崩れ落ちた航平は、顔の半分の感覚がほとんどなくなっていた。ただ、骨の奥まで響くような痺れだけが残っている。頭皮までぞわりと粟立った。何か言おうと口を開いたが、顎がうまく動かない。血の混じった唾液が、口元から一筋こぼれた。かすかに残る意識で顔を上げる。滲んだ視界の中、配達員は無表情のまま航平を見下ろしていた。その拳には、航平の血がついている。廊下がしんと静まり返ったあと、重い足音が一歩ずつ近づいてきた。航平は宅配業者の男に助けを求めた。だが口調はなお横柄で、まるで部下に命じるようだった。男は扉の前に立ったまま、表情一つ変えなかった。やがて二人の男は、無言で視線を交わした。二人は金で雇われ、ここへ来ていた。仕事を終えれば多額の報酬を受け取り、あとで問題になっても面倒を見てもらえる――そういう話になっていた。次の瞬間、二人は容赦なく航平に襲いかかった。航平も必死に抵抗した。配達員が体を押さえ込み、もう一人が、振り回された手をつかんだ。その指を一本ずつ、強く捻り上げていく。航平は激しい痛みに悲鳴を上げ、全身を汗に濡らしながら、何度も許しを乞った。航平の指の骨をすべて折ってから、二人はようやく手を離した。そのあとすぐに救急車を呼び、その場を離れた。一部始終は、男の胸元につけられたカメラに記録されていた。航平は警察に訴えることもためらわれ、救急車の中で、自分の不運を嘆いて泣くしかなかった。先ほどの醜態まで公になれば、弱い立場の配達員に横暴な態度を取った人間として、今度は自分が非難される。まだ本格的に売れてもいないのに、ようやくつかみかけた評判を失うわけにはいかなか
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