All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

伊織はすぐさま反応し、紗和を横へ押しのけた。ティーカップは二人の脇をかすめ、床に落ちて甲高い音を立てて砕けた。伊織は床に散った破片に目をやり、紗和にけががないことを確かめると、ほっと息をついた。その間に、薫子の車椅子が目の前まで近づいてきた。「莉乃をこんな目に遭わせておいて、よく平然としていられるわね。この卑しい娘、ことあるごとに莉乃ばかり傷つけて……私を甘く見ているの?こんなこと、到底許せないわ!」薫子は怒りのまま、吐き捨てるように罵った。廊下には患者や医療スタッフが大勢いたが、誰も止めに入ろうとはしなかった。薫子の周囲を何重にも固めるボディーガードを見れば、ただ事ではないと誰にでも分かったからだ。薫子が金色の杖まで振り上げようとしたところで、伊織がその手を押さえた。「おばあさん、事情はあなたが思っているようなものではありません」薫子は怒りを露わに伊織を睨みつけ、鼻を鳴らして顔をそむけた。紗和も口を開いた。「九条夫人、莉乃が流産しかけたことに、私は関係ありません。心配だったからこそ、伊織さんと一緒に様子を見に来ただけです」その頃、怜央が病室から戻ってきた。看護師から話があると言われ、上の階へ行っていたのだ。戻る途中、廊下で年配の女性が誰かに手を上げようとしていると耳にし、急いで駆けつけた。そこでちょうど、紗和が伊織と一緒に莉乃の見舞いに来ただけだと説明している場面に出くわした。怜央の沈んでいた表情が、目に見えて和らいだ。紗和は嘘をついていなかった。伊織との間には、まだ何もない。怜央もまた、薫子が紗和に手を上げることは望んでいなかった。「紗和は穏やかで、心の優しい人です。きっと何か誤解があります。二人は莉乃を見舞いに来ただけです。どうか手を出さないでください」絵里香がすかさず、嫌味たっぷりに口を挟んだ。「この女に、そんな思いやりがあるわけないでしょ。御堂家を追い出されたのを逆恨みして、莉乃なんて流産すればいいって思ってたのよ」紗和はふっと笑った。「絵里香さん、ずいぶん都合よく忘れるのね。莉乃は自分から私を婚約パーティーに招いて、一緒にお酒を飲んだ。過去のことは水に流して、姉妹みたいに仲良くしようって言ったのよ。あなたもその場にいたでしょう。忘れたなら、防犯カメラを確認すればすぐ分
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第202話

薫子は莉乃を見下していたが、今は宗一郎を引き込むために利用する必要があった。宗一郎の後継者は怜央一人しかいない。婚姻によって両家の利害が結びつけば、御堂家も九条家に力を貸すことになる。この大事な時期に、誰かに計画を邪魔されるわけにはいかない。まして相手が紗和なら、莉乃の件を口実に、二度と自分の前に姿を見せられないほど痛めつけるつもりだった。薫子のそばに控えていたボディーガードの黒田が、命令を受けて自ら前へ出た。だが今度は、伊織のほうが早かった。長身の体で紗和を完全に背後へかばい、怒りをあらわにして黒田を睨みつけた。普段は傍若無人な黒田も、伊織を前にすると、すぐには手を出せなかった。薫子を振り返ると、彼女は悔しそうに歯を食いしばった。「たいした娘ね。何かあるたび、男が庇ってくれるとは」怜央も紗和を庇った。「九条夫人、紗和は俺につきまとっていません。何が起きたのかも、まだ分かっていないでしょう」ようやく一つだけ、まともなことを言ったと伊織は思った。紗和は怜央につきまとってなどいない。それどころか、直前までしつこく追いすがっていたのは怜央のほうだ。伊織は紗和に向けられた矛先をそらす意味も込めて、怜央を責めた。「花宮さんが流産しかけた件で、一番責任があるのは、婚約者であり父親でもある御堂くん、君自身じゃないのか。昨日は二人の婚約パーティーだった。それなのに、どうして君は来なかった?結婚を何だと思っているんだ。相手に対する最低限の誠意すらない。花宮さんが怒りや悲しみで体調を崩したのなら、その原因を作ったのは君だ」怜央は驚いたように目を見開き、薫子の注意も彼へ向いた。莉乃の話では、怜央は莉乃を深く愛しているはずだった。自ら築いた事業を差し出しても惜しくないほどだという。それこそ愛の証ではないのか。それなのに、なぜ婚約パーティーにさえ姿を見せなかったのか。薫子自身は莉乃の出自を見下していたため、会場へ足を運ぶ気などなかった。だが怜央まで欠席した理由は分からない。婚約者のいない婚約パーティーなんて、誰だって嫌に決まっている。莉乃だって当然、前もって来てほしいと伝えていたはずだ。「この件について――」薫子の声が低く沈んだ。「御堂家から、きちんと説明してもらえるんでしょうね」伊織が自
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第203話

莉乃は絶望に涙を流し、やり場のない怒りを紗和へ向けた。婚約の日に莉乃が流産しかけたことには、自分にも責任がある。それは怜央にも分かっていた。だからこそ、気が進まなくても病院へ来たのだ。薫子に睨まれ、怜央は答えないわけにはいかなかった。「まだ再婚する気持ちになれず、出席しませんでした」その場にいた全員が驚いた。薫子は目を細め、低い声で言った。「つまり、私たちが無理やり結婚させようとしていると?」怜央は、その言葉に込められた牽制をすぐに察した。莉乃が倒れたときにそばにおらず、そのうえ今日まで反抗的な態度を取れば、薫子が黙っているはずはない。宗一郎に話を持ち込まれる可能性もあった。今は引くしかない。怜央はわずかに頭を下げた。「気持ちを整理する時間が必要なだけです。莉乃のことで誰かに責任を取らせたいのなら、俺にしてください。紗和は関係ありません」邦彦がたまらず口を挟んだ。「怜央君、どうして関係ないと言い切れる?善良そうに見えても、腹の底で何を考えているか分からない人間だっている。以前だって、紗和は自分が転んで脚を折った翌日に、莉乃の脚まで折ったじゃないか。そんな人間が、莉乃に何もしていないと、どうして言い切れるんだ」怜央は口をつぐんだ。紗和が莉乃の脚を折ったこと自体は、事実だと思っていた。そのあと邦彦が医師と話を合わせたことも、莉乃に少しでも適切な治療を受けさせるためだと考えていた。それでも、これ以上紗和を苦しませたくなかった。以前も薫子に平手で打たれ、ひざまずくよう強要された。今回もまた、紗和を標的にさせるわけにはいかない。「花宮さんも、その場にはいなかったでしょう。絵里香の話では、施設の防犯カメラも故障していた。証拠もないのに、どうして紗和がやったと断定できるんですか」「もういい。黙りなさい」薫子は冷たく鼻を鳴らし、まだ一口もつけていない茶のカップを、車椅子のテーブルに乱暴に置いた。濁った瞳には、冷たい怒りが宿っている。「莉乃はもう目を覚ましたんでしょう。私は本人の話を聞くまで、誰の言葉も信じない。本当に誰かに危害を加えられたのなら、その相手を取り押さえて、式が終わるまで別室にでも置いておけばいい」絵里香はすぐさま同調した。「おばあさまのおっしゃるとおりです。私がご案内します
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第204話

怜央は再び莉乃の病室へ入った。先ほどは心ここにあらずで、莉乃の様子をろくに見ていなかった。救急処置を終えたばかりの莉乃は、病床で痛みに耐えるように体を丸めていた。顔からはすっかり血の気が失せ、目も泣き腫らしている。大量に出血したせいで、ひどく憔悴していた。それでも、お腹の子は懸命に持ちこたえていた。あれほど危険な状態だったのに無事だったことが、怜央にはまだ信じられなかった。莉乃を気遣う気持ちさえ、その驚きの前では薄れていた。邦彦は両手で顔を覆い、声を上げて泣いている。絵里香はすぐさま莉乃の隣に腰を下ろした。莉乃は虚ろな目で一点を見つめていたが、人の気配にゆっくりと振り向き、怜央が戻ってきたことに気づいた。突然いなくなったことがよほどつらかったのか、戻ってきた怜央を見るなり、声を上げて泣き出した。絵里香は莉乃の腕を優しく撫で、慰めた。「莉乃、悲しまないで。赤ちゃんは何とか助かったんだから。本当につらかったでしょう。でも、あなたをこんな目に遭わせた人間だって、ただでは済まないわ。おばあさまもここにいらっしゃるし、さっきだってあなたのためにあんなに怒ってくださったのよ。紗和がやったことなら、式が終わるまでこの女をここから出さないとおっしゃっていたわ」絵里香の言葉を聞くうちに、莉乃の表情が少しずつ変わっていった。紗和への憎しみが込み上げ、涙が次々と頬を伝った。演技ではなかった。紗和にやり返されたことで、莉乃は決して忘れられない屈辱を味わっていた。婚約の日に、同じ社交界に出入りする男たちから性的暴行を受けたのだ。誰であっても、一生消えない傷になる。まして莉乃は、今の自分は以前とはまるで違う立場にいると思い込んでいた。海外の路上で襲われ、金品を奪われた頃は、怜央にすがるしかない、正式な関係ですらない愛人にすぎなかった。だが今は、自分を名家の令嬢であり、怜央の婚約者だと信じている。そんな自分が、この屈辱に耐えられるはずもなかった。莉乃が腕を上げ、紗和を指さそうとした、そのときだった。紗和がゆっくりとバッグからボイスレコーダーを取り出し、指先で弄んでいることに気づいた。薄い笑みを浮かべたまま、莉乃を見ている。莉乃は大きく目を見開いた。あの日、紗和のバッグにボイスレコーダーが入
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第205話

薫子も莉乃を守ってはくれないだろう。傷害事件として問題になれば、莉乃はもう薫子にとって利用する価値のない存在になる。一見、何の後ろ盾もない紗和でも、確かな証拠さえ握れば、相手が権力者だろうと真正面から立ち向かう。騒ぎが大きくなればなるほど、何があったのか徹底的に調べられることになる。莉乃にも、それはよく分かっていた。今の何不自由ない暮らしも、怜央との結婚も、薫子の後押しも、九条家の令嬢という立場も失いたくない。ここは歯を食いしばって耐えるしかなかった。紗和を指さしかけた手を、ゆっくりと下ろした。「このことは……紗和さんとは何の関係もないわ」弱々しい声でそう言うと、絵里香と邦彦は驚いたように目を見開いた。二人はボイスレコーダーの存在を知らない。莉乃は救出された直後に出血し、そのまま処置室へ運ばれた。ようやく病室へ戻ってきたばかりで、詳しい話をする暇もなかったのだ。怜央も驚いたが、すぐにほっとしたように肩の力を抜いた。莉乃が薫子の前で紗和を告発すれば、容赦なく人を痛めつけるあの女から、紗和を守りきれる保証はなかった。莉乃の一言でその危険がひとまず遠のき、怜央は思わず感謝さえ覚えた。ベッドの脇に腰を下ろし、莉乃を見つめた。「莉乃、誰も望んでこうなったわけじゃない。子どもが無事でよかった。これからは気をつけろ」莉乃があとから話を変えないうちに、早くこの場を収めようとした。莉乃はひどく傷ついたように顔をそむけた。絵里香には理由が分からず、紗和が何の罰も受けないまま終わることが許せなかった。莉乃の手を包み込み、なおも問いかけた。「莉乃、おばあさまはあなたのために来てくださったのよ。何か言えない事情があるんじゃない?怖がらなくていいわ。何があっても、私とお父さんが力になるから」邦彦も目を赤くし、紗和を憎々しげに睨んでいた。せっかく薫子を連れてきたのに、紗和に何の罰も与えられないまま終わるのが悔しかった。以前、莉乃から、薫子は紗和のように後ろ盾のない相手を見下し、いたぶるのが好きだと聞いていた。薫子を呼びさえすれば、紗和など簡単に潰せると思っていたのだ。それなのに、こんな形で終わるなど納得できない。「莉乃。絵里香さんには、紗和が卑劣な手を使ってお前を傷つけたって話したんだろ。今さら忘
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第206話

莉乃の説明と紗和の話が食い違っていない以上、責任を紗和に押しつけることはできなかった。薫子も、まさかこんな展開になるとは思っていなかった。紗和に怒りをぶつけるつもりで来たものの、莉乃本人が否定した以上、これ以上無理に口を挟むわけにもいかない。苛立ちを抑えきれず、車椅子の肘掛けを何度も叩いた。「久蔵、帰るわよ」そばに控えていた執事の久蔵(きゅうぞう)が命じられたとおり車椅子を押し、ボディーガードたちも一斉にあとへ続いた。一行が去ると、紗和はようやく張り詰めていた体から力を抜いた。小首を傾げ、莉乃に微笑みかけた。「『仲よしの姉妹』が潔白を証明してくれて助かった。これ以上ここにいる理由もないし、もう行くわ」そう告げ、紗和は病室を出た。伊織もあとに続く。二人の背中を見ているうちに、怜央の胸には言いようのない苦いものが広がっていった。莉乃をその場に残し、二人のあとを追った。邦彦と絵里香に呼び止められても、聞こえないふりをした。病院の廊下へ出たところで、怜央は呼びかけた。「紗和」振り返った紗和に足早に近づき、その腕をつかむ。さらに伊織に告げた。「白河社長は先に帰ってくれ。まだ正式に離婚していない妻と、二人で話がある」「怜央、もう私の後をついてこないで。あなたがしつこく絡んでくるせいで、さっきだって危ない目に遭いかけたのよ」怜央は傷ついたように表情を曇らせた。「どうしてそれが、しつこく付きまとってることになるんだ。大学の頃は、お前だってずっと俺のそばにいただろ。俺は一度だって、迷惑だなんて言わなかった」伊織も怜央を制止しようと、手を伸ばした。「今すぐ、その手を離せ」低い声には、はっきりと怒りがにじんでいた。怜央はついに堪えきれなくなった。「お前にそんなことを言う資格があるか。夫は俺だ。身を引くべきなのは、お前のほうだろう!」「この国じゃ、まだ重婚は認められてないはずだろ」伊織は冷たく言い返した。「花宮さんの病室では家族みたいな顔をして、外に出た途端、今度は紗和の夫を名乗る。自分でおかしいと思わないのか」怜央は先ほどから、ずっと苛立ちを抱えていた。産婦人科で紗和と伊織がずっと一緒にいる姿を見て、裏切られたような気持ちになっていたのだ。莉乃と赤ちゃんの状態が分か
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第207話

伊織はすぐに冷静さを取り戻し、曲がったネクタイを整えた。口元には、かすかな冷笑さえ浮かんでいる。つい先ほどまで床で殴り合っていたとは思えないほど、落ち着き払った態度だった。「院内で暴力沙汰が起きていると通報がありました。三人とも、署まで来てください」年長の警察官は三人を見回し、紗和にだけ少し長く視線を留めた。紗和は頷いた。「通報したのは私です」怜央は信じられないものを見るように、勢いよく紗和を振り返った。何か言おうと唇を動かしたが、結局一言も出てこなかった。警察署へ向かう車の中で、三人は同じ車両に乗せられた。中央に紗和、その左に伊織、右に怜央が座っている。車内には、息が詰まりそうなほど重い沈黙が流れていた。怜央は隣の紗和に目をやった。けれど紗和はまっすぐ前を向いたまま、彼のほうを見ようともしなかった。怜央はふいに、大学時代のことを思い出した。バスケットボールで足首を痛めたとき、紗和は授業を休んでまで、毎日のように食事を届けに来た。怜央はそれを煩わしがり、容器を床に叩き落として、もうつきまとうなと言った。紗和は黙って拾い集め、それでも翌日には、また同じようにやって来た。あの頃、紗和の目には怜央しか映っていなかった。あふれんばかりに向けられる愛情を、怜央はずっと、なくなることなどないものだと思っていた。だが今、その瞳にはもう何もない。警察署では、中年の警察官が机の向こうに座り、事情を聞きながら記録を取っていた。白い照明が、やけにまぶしく感じられた。壁には「暴力やトラブルで困ったら、ひとりで悩まず相談を」と書かれたポスターが貼られている。「先に手を出したのは?」「彼です」伊織が淡々と答えた。怜央は否定しなかった。口元の出血はすでに止まり、乾いた血が顎に暗い痕を残している。警察官は二人を見比べた。「知り合いですか」「ああ。妻の共同経営者だ」怜央の声は掠れていた。「言い方に気をつけて」紗和が不意に口を開いた。まるで自分とは関係のない話でもするような、落ち着いた声だった。「離婚の手続き中です。私はもう、この人の妻ではありません」怜央は、その言葉に息が詰まるほどの衝撃を受けた。紗和へ視線を向ける。目は赤く充血し、何度も喉を鳴らしながら、込
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第208話

「病院の廊下で私を引き止めなかった?先に手を出したのも、あなたでしょう?もうつきまとわないでって、私は何度も言ったよね?」紗和は警察官に視線を戻した。「それから、もっとひどいこともあります。離婚手続き中の夫は、妊娠中の女性が入院している病室では、その人の夫みたいな顔をしていたんです。それなのに、ここではまだ私の夫を名乗る。よくそんなことができるものですね」怜央は口を開いたが、何も言えなかった。紗和の言葉は、すべて事実だった。確かに自分が引き止め、先に手を出した。別の女の病室ではその女の夫のように振る舞いながら、紗和の前では、まだ自分が夫であるかのように振る舞っていた。それでも、紗和を行かせたくなかった。隣に立つ伊織を見て、嫉妬で我を失いかけただけなのだ。警察官はペンを置き、怜央に目を向けた。一通り事情を聞いて、大体の経緯はすでに察したらしい。「今のお話を聞くかぎり、あなたの言い分だけを認めることはできません。今後、この女性につきまとったり、本人の意思に反して接触したりしないこと。こちらからも厳重に注意しておきます。それでも同じことを繰り返すようなら、今度は正式に対応することになります。分かりましたね」怜央は何も答えなかった。紗和を見る。彼女はもう顔をそむけていた。蛍光灯に照らされた横顔からは、すっかり血の気が失せている。見慣れたはずの顔だった。それなのに、もう自分の知っている紗和ではないように思えた。雨の中で自分を待っていた紗和。食事を切り詰めて貯めた金で、自分の好きな靴を買ってくれた紗和。熱を出した夜には、一晩中そばにいてくれた紗和。あの頃の彼女は、いったいいついなくなってしまったのだろう。今、目の前にいる紗和は冷えた目をしたまま、まるで他人のことでも話すように、淡々と事実だけを口にしている。いつから紗和は、自分のそばにいてくれる人ではなくなったのか。長い沈黙のあと、怜央はようやく口を開いた。「……分かった。謝る。もう無理に関わったりしない」怜央は、ほとんど聞き取れないほど小さな声で答えた。警察署を出た頃には、もう日が暮れていた。紗和が先を歩き、伊織は必要以上に近づかず、静かにその隣を歩いていた。最後に出てきた怜央は、入口の階段に立ち、二人が路肩に停めた
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第209話

記事に添えられていたのは、病院の廊下を映した防犯カメラの画像だった。ぼやけた画面には、つかみ合う二人の男と、そのそばに立つ紗和の姿が映っている。紗和の横顔には、わざわざ赤い丸まで付けられていた。画質は決してよくなかったが、怜央も伊織も世間に顔を知られた人物だ。投稿から30分もしないうちに、三人が誰なのか特定されてしまった。コメント欄は一気に荒れ始めた。【この女の人、誰?この二人が殴り合うって相当じゃない?】【望月紗和って人らしい。御堂怜央の元妻だって。調べたら離婚したばっかりみたい】【え、元妻?御堂怜央って昨日どこかのお嬢様と婚約したんじゃなかった?なんで産婦人科で元妻ともめてるの?】【しかも婚約者も昨日、同じ病院に運ばれてる。流産しかけたって話も出てるよ】【妊娠中の婚約者が入院してる病院で、元妻をめぐって別の男と殴り合ったってこと?】【さすがに最低すぎる】【御堂家、昼ドラみたいになってるじゃん】【御堂ホールディングスの社長でしょ?婚約者には子どもがいて、その一方で元妻にも執着してるってこと?】【顔がよくても、やってること最悪】【望月さん、絶対戻らないほうがいい。こんな男、別れて正解でしょ】騒ぎはあっという間に広がっていった。莉乃の病室では、絵里香が青ざめた顔でスマホを差し出していた。「莉乃、これ見て。紗和って本当に厄介ね。ネット中が怜央を叩いてるじゃない。あのとき帰したりせず、その場に置いておけばよかったのよ。どうしてあなただけ我慢して、あの女を好きにさせたの?」莉乃はベッドにもたれたまま、血の気のない顔で画面を睨んでいた。拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込みそうになっている。けれど、莉乃が本当に恐れていたのは別のことだった。怜央は今、紗和のことをどう思っているのか。男が一人の女をめぐって、我を忘れて殴り合う。その時点で、莉乃にはもう答えが出ているように思えた。自分は怜央の子どもを身ごもっている。婚約パーティーでは、誰もが莉乃を未来の御堂家の奥様として持ち上げた。それなのに、怜央が自分のためにあそこまで取り乱したことは、一度もなかった。莉乃は力なく枕にもたれ、小さな声を漏らした。「あの日の会話、録音されてたの。私が何かすれば、あれを公開する……」絵里
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第210話

紗和は手元のファイルを閉じ、落ち着いた表情で男を見た。「その話は、会議が終わってからにしましょう」声は決して大きくなかった。それでも、会議室は一瞬でしんと静まり返った。誰もが気づかれないよう、そっと紗和の様子をうかがっている。怒っているのか。傷ついているのか。それとも、名家をめぐる騒動だけに、人には言えない事情があるのか。だが、紗和の表情からは何も読み取れなかった。会議テーブルの上座に座り、背筋をまっすぐ伸ばし、髪もきっちりとまとめている。目元にうっすら隈が残っている以外、いつもと変わった様子はない。ただ伊織だけは、資料をめくる紗和の指が、一度だけ紙の上でいつもより長く止まったことに気づいていた。午前10時30分。会議がようやく終わると、紗和は自分の執務室へ戻り、扉を閉めた。カーテンは半分だけ閉じられ、差し込んだ陽射しが床に明るい帯を作っている。紗和はそのそばに立ち、スマホを開いた。トレンドのトップは「御堂怜央と白河伊織が殴り合い」二位は「御堂怜央、婚約直後に流産しかけた婚約者に付き添う」三位は「望月紗和、取材に応じず」一位の話題を開くと、最も拡散されていたのは、昨夜あのゴシップアカウントが投稿した記事だった。リポストはすでに数万件に達している。添えられていた画像も、いかにも悪意のある切り取り方だった。廊下の中央に立つ紗和と、その目の前で殴り合う二人の男。三人がちょうど一枚に収まるよう切り取られている。それだけを見れば、まるで紗和が自分をめぐって二人を争わせ、それを冷ややかに眺めていたようにも見えた。実際には、元夫にしつこく付きまとわれ、仕事仲間が助けに入っただけなのに。コメント欄の空気は、わずか数時間のうちに何度も変わっていた。最初は、面白半分に騒ぐ声ばかりだった。ところが、そのうち時系列を調べ始める者が現れた。怜央と紗和がまだ婚姻関係にあった時期と、莉乃が妊娠した時期を照らし合わせれば、子どもができたのは二人がまだ夫婦だった頃になる。誰が不倫相手だったのかは、考えるまでもなかった。【待って。花宮莉乃が妊娠したとき、御堂怜央と望月紗和ってまだ離婚してなかったの?普通に不倫じゃん】【離婚どころか、その頃まだ二人で上場記念の式典に出てる写真あ
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