All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

莉乃の落ち着かない視線が、ようやく自分のスマホへ戻った。ニュースを更新した途端、息を呑んだ。わずか10分の間に、状況は一変していた。航平は、自分が投稿した2本の動画を削除している。そればかりか、紗和に公の場で謝罪し、話はすべて自分のでっち上げだったと認めていた。かつて紗和に交際を申し込み、拒絶されたことを恨み、腹いせに中傷した。動画で語った出来事も、すべて自分が作り上げたものだという。続いて、提携していた配信プラットフォームやゲーム会社、広告主も、相次いで契約解除を発表した。30を超える拡散系アカウントも、法的措置を取られると知るなり次々と投稿を削除し、無期限の活動休止を表明している。そして1分前、航平のアカウントから、画像を加工した過程と元の写真まで公開された。最後には、送金記録を含むメッセージのやり取りまで投稿されている。ある人物から金を受け取り、紗和を中傷するよう依頼されていたこと。そしてその依頼人こそ、かつて紗和の結婚生活に割り込んだ不倫相手だったことが書かれていた。何年にもわたって紗和の夫から金銭的な援助を受け、妊娠をきっかけに妻の座を奪ったあとも、なお元妻を陥れようとしていたという。航平は投稿の中で、自分は愚かなことをしたと何度も謝罪し、すべて不倫相手にそそのかされたのだと訴えていた。一時の気の迷いだったから、どうか各社には許してほしい。高額な違約金などとても払えないとも書いている。最新の投稿まで読み終えた莉乃は、あまりの衝撃にその場から動けなくなった。航平に電話をかけたが、呼び出し音が鳴る前に切られた。同窓生のグループチャットでも、紗和に謝ろうとする者が相次いでいた。噂を鵜呑みにするべきではなかったと反省し、紗和をメンションしようとする者もいた。だがそこで初めて、紗和がそもそもグループに入っていないことに気づいた。莉乃が顔を上げると、怜央は険しい目でこちらを見ていた。じっと莉乃を見据えている。そのときになってようやく、莉乃は怜央もすべて読んだのだと悟った。航平を金で雇い、陰で紗和を貶めるための中傷を広めさせたことが、すべて明るみに出ている。莉乃の胸に恐怖が広がった。すぐに涙を浮かべ、怜央に抱きつく。「怜央くん、許して。わざとじゃなかったの……」最後ま
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第222話

自分が九条家の遺産を受け継ぐことなど、永遠にない。あの意地の悪い薫子も、莉乃のことを本気で大切にしているわけではなかった。そこで御堂家の会社で経験を積みたいと切り出すつもりだったが、口にする前に今回の件が起き、怜央から出ていくよう言われてしまった。「怜央くん、帰れない。あなたのそばにいたいの。愛してる!」怜央は仕事があると言い、泣きじゃくる莉乃を部下に連れ出させた。姿が見えなくなってから、怪訝そうに瀬川へ尋ねる。「森川に痛い目を見せろと命じたはずだ。それなのに、どうして動画を編集できた?」瀬川にも分からなかった。「先ほど、配達員と宅配業者に扮した二人を向かわせ、揉め事を装って徹底的に痛めつけました。指の骨もすべて折れています。少なくとも3か月はまともに動かせず、キーボードもマウスも使えないはずです」怜央はすぐに、航平のアカウントから謝罪と訂正を投稿したのが紗和ではないかと気づいた。紗和は航平のSNSアカウントを突き止め、何らかの方法でアクセスし、そこに残っていた記録をすべて手に入れた。さらに航平の声まで再現し、謝罪動画を作ったのだろう。「紗和だったのか……」瀬川は、その呟きにまだ紗和への想いが残っていることを感じ取った。「社長は、望月さんとやり直したいのですか」怜央は頷いた。「紗和との離婚は、まだ正式に成立していない。莉乃と婚姻届を出すつもりもない。まだ紗和を取り戻せる」瀬川は、思わず口を挟んだ。「あまりにも深く傷つけました。望月さんとやり直すのは、簡単ではないと思います」「傷つけるつもりはなかった。あいつが苦しんでいると、知らなかったんだ」「本当に、知らなかったのでしょうか」瀬川はそうは思わなかった。「傷つけていることには、気づいていたはずです。ただ、望月さんが本当に離れていくとは思っていなかったんですよね。どれだけ傷つけても、自分のもとを去ることはないと決めつけていたのでしょう」怜央は反論しなかった。かつては瀬川も、同じように考えていた。だが実際には、どんな扱いを受けても怜央をひたむきに愛し続けていた紗和に甘え、自分たちが傲慢になっていただけなのだ。離婚を突きつけられてなお、それは気を引くための駆け引きにすぎず、その気になればいつでも連れ戻せると思い上がってい
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第223話

征臣は意外なほど、触れ合うことを好む人だった。紗和自身、そのことを少し意外に感じていた。二人が顔を合わせるのは、これでようやく3度目だった。それなのに、征臣に触れられることを少しも不快には感じない。最初に会ったときには、口づけを交わした。2度目にはさらに深く触れ合い、征臣は紗和の体に数えきれないほどの痕を残した。そして3度目の今日は、部屋へ入るなり抱き上げられている。自分でも、どう受け止めればいいのか分からなかった。前回は口論までして、気まずいまま別れた。それでも征臣は、こうして紗和に触れずにはいられないようだった。紗和は説明した。「ネットに出ていた写真は、全部加工されたものよ。元の画像も、もう公開したわ。私は誰とも同棲していない」「知っている」征臣は顎を、紗和の頭にそっと乗せた。きれいに剃られていても、わずかに残った髭の感触が、髪越しに伝わってくる。少しくすぐったかった。それでも嫌ではない。何度もそっと擦り寄ってくる仕草が、思いのほか親しげで、紗和の頬も自然と緩んだ。不意に何かを思い出し、紗和は身を起こそうとした。まだ頭がぼんやりしていたせいで、自分が征臣の膝の上に抱かれるように座っていることにも気づいていなかった。腕の中で顔を上げると、かえって征臣との距離が一気に縮まった。先ほどまで冷静で、近寄りがたいほど冷たかった瞳の色が、瞬く間に変わった。紗和が口づけようとしたのだと思ったらしい。征臣のほうから唇を重ね、抱く腕にも少しずつ力がこもった。唇から伝わる熱に、紗和の体もたちまち火照っていった。頭の芯までぼうっとして、考える力まで奪われていく。征臣は何度も舌先を絡めるように誘いながら、紗和の柔らかな舌にそっと触れ、敏感なところを丁寧になぞっていった。最初の口づけでは、まだ不慣れだった。だが今では、驚くほど迷いがない。紗和の知らないところで、いったいどれだけ慣れたのだろう。そう疑いたくなるほど、自然な動きだった。紗和は征臣の肩にそっと手を置き、いったん離してほしいと伝えた。征臣はようやく動きを緩め、名残惜しそうに何度か軽く唇を重ねてから、ようやく離れた。紗和は顔を真っ赤にしたまま、その胸にもたれた。だが意識だけは、すっかり冴えている。「夕食は食べた?
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第224話

莉乃に陥れられ、世間から中傷を浴びたときでさえ、多忙な征臣は紗和のことを気にかけていた。紗和が説明するより先に、何があったのかをすべて確かめている。征臣は、いったいどんな人なのだろう。冷淡で、ときには近寄りがたいほど怖く感じることもある。もう守ってもらえないのではないか、嫌われてしまったのではないかと、不安になったこともあった。紗和自身も矛盾した気持ちを抱え、ときには自分の態度が嫌になることさえあった。それでも征臣は、いつも変わらず接してくれる。何があっても簡単には見捨てないのだと、そう思わせるほどに。しばらくすると、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってきた。紗和は以前、男は料理も、人の世話もろくにしないものだと思っていた。自分が誰かの世話をすることには慣れている。料理だって、ごく当たり前のようにしてきた。御堂家には料理人がいたが、それでも怜央や晴翔から、紗和に作ってほしいと頼まれることがあった。だが怜央が料理をする姿は、一度も見たことがない。怜央のような男が、自分のためにわざわざ料理をするなど、考えたことすらなかった。それなのに、世界でも指折りの資産家である征臣が、今は自ら紗和のために食事を作っている。あまりの違いに、胸の奥がきゅっと痛んだ。けれどその痛みはすぐに、言葉では表せないような温かさに包まれていった。紗和は確かに、もう一度誰かを愛することが怖かった。征臣が急に距離を縮めようとすると、とっさに身構えてしまう。体だけではない。何よりも、心が先に拒もうとしていた。新しい結婚は、あくまで互いの利益のために結ぶものだと考えていた。もう二度と、誰かを本気で愛することはないと思っていた。怜央との結婚で深く傷つき、二度と味わいたくないほどの絶望を知ったからだ。だから征臣に対しては、以前よりずっと慎重になっていた。心の奥まで踏み込ませず、自分の都合ばかりを優先してしまったこともある。必要としないときは遠ざけ、それどころか、意識を失っている間に前の男の名前まで呼んだという。今になって、紗和はひどく後悔していた。人は一人一人、まったく違う。征臣は、決して怜央ではない。怜央に傷つけられたからといって、その傷を理由に征臣まで拒み続けるのは違う。紗和は長い間、自分の気持ちと向
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第225話

征臣は、紗和の様子がいつもと違うことにすぐ気づいた。振り返った視線が紗和を捉えた瞬間、その目元がわずかに和らぐ。手を伸ばし、そっと腕の中へ抱き寄せた。「紗和、腹が減ったか」物思いから引き戻された紗和は、慌てて頷いた。そこで初めて、自分が征臣の腕にすっぽり包まれていることに気づいた。片腕は紗和の細い腰に回したまま、もう片方の手で、香りを立てながら煮込まれているボルシチをゆっくりとかき混ぜていた。火を止めると、ボルシチをスプーンでひとさじすくった。何度か息を吹きかけて冷まし、紗和の口元へ差し出した。よくあるボルシチとは、少し違っていた。上質なハムと牛肉、細かく切った野菜がたっぷり入り、バターのコクとトマトのほどよい酸味が溶け合っている。一口飲んだだけで、驚くほどおいしかった。紗和の顔に、すぐ笑みが広がる。どこか懐かしさを感じる味なのに、これほど豊かな風味のものは初めて食べたような気もした。しばらく味わってから、心から言った。「本当においしい」征臣は、かすかに微笑んだ。ボルシチを一杯よそい、先に飲めるようダイニングテーブルに置く。だが紗和は席へ向かわず、征臣のそばに残った。最後に、ナポリタンへ目玉焼きを載せようとしたときだった。紗和は後ろから、征臣の腰にそっと腕を回した。征臣は一瞬動きを止めたが、振りほどこうとはしなかった。紗和の両腕が、その腰を静かに抱いている。紗和がキッチンまで来たのは、そのためだった。前回のことを申し訳なく思っていることを、少しでも伝えたかった。そして、自分もこの関係に向き合おうとしているのだと伝えたかった。征臣は大きな手を紗和の手の甲に重ね、もう片方の手だけで卵を焼き上げた。きれいに焼けた目玉焼きを、パスタの上に載せる。そして振り向くと、不意に紗和を片腕で抱き上げた。片腕を紗和の臀部から太腿の裏に回し、しっかりと体を支えた。もう片方の手には、目玉焼きを載せたパスタの皿を持っている。キッチンからすぐそこのダイニングまで、少しの間さえ離れたくないというように、紗和を抱いたままゆっくりと歩いていった。テーブルに着いても、すぐには椅子へ下ろさない。ダイニング脇のカウンターに座らされ、紗和が驚いていると、征臣がすっと距離を詰めてきた。
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第226話

「何?」紗和は顔を上げ、目を瞬いた。征臣が取り出したのは、一つの書類封筒だった。中には、何通かの公的な書類が入っている。紗和に差し出された一番上の書類には、はっきりと「離婚届受理証明書」と記されていた。この1か月、紗和から進捗を尋ねたことはなく、征臣も自分から何も話さなかった。それでも心配はしていなかった。征臣ほどの人物が、一度約束したことを果たさないはずがなかった。今日わざわざ訪ねてきたのは、このためだったのだ。会うなり紗和を腕の中に閉じ込めた理由も、ようやく分かった。これで二人は、法的にも正式な夫婦になったのだ。紗和は証明書に目を通した。離婚届が受理された日は、征臣に頼んでからちょうど1か月後の日付になっている。何度も書面を確かめる指先が震えた。悲しいのではない。嬉しかった。書面の上に記された「離婚届受理証明書」という文字が、眩しいほど鮮明に見えた。繰り返し目で追うたび、口元に浮かぶ笑みが深くなっていく。5年間の結婚生活。5年間耐え続け、自分を抑えてまで怜央に尽くしてきた日々。そのすべてが、この一枚の書面によってようやく終わった。もう裏切りの記憶に苦しみ、涙を流す必要はない。紗和は証明書を大切にバッグへしまおうとしたが、念のため写真を撮り、彩葉に送った。【彩葉、これ、本当に有効なものか確認してくれる?】征臣を疑っているわけではない。ただ征臣は長年海外で暮らしており、おそらく封筒を開けて中身を確認したのも今なのだろう。手続きを任された者の側で、何か手違いがなかったかだけは確かめておきたかった。彩葉からは、すぐに返事が来た。【離婚届、ちゃんと受理されたのね。おめでとう!】彩葉はこれまで、紗和の離婚に関する手続きを手伝っていた。だが怜央側がなかなか話し合いに応じず、ようやく離婚届への署名までこぎつけたものの、その書類さえ怜央本人に破棄されていた。それが今、紗和は突然、正式な受理証明書を手にしている。離婚案件を多く扱っている彩葉は、すぐに書類の内容を確認した。【本物よ。記載内容にも不自然なところはないし、正式に受理されてる】だが直後、さらに信じがたいことに気づいた。【でも、離婚したはずなのに、もう次の婚姻届まで受理されてるの?】
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第227話

戻ってくるまで、少なくとも1、2か月はかかるという。「それなら……見送りに行こうか?」「必要ない」征臣は淡々と答えた。だが続く一言に、紗和の胸がふっとほどけた。「お前が来たら、帰したくなくなる」紗和の頬が、わずかに赤くなった。征臣は最後に「戻るまで待っていろ」と言い残し、扉を出ていった。遠ざかっていく車の音を聞きながら、紗和の胸には甘い余韻と寂しさが入り交じった。婚姻届受理証明書を胸に抱き、深く息を吸って気持ちを落ち着かせる。明日は、大切な日だった。今夜はしっかり休んで、万全の状態で迎えなければならない。翌日、紗和が会社に着くと、チーム全員が息をつく暇もないほど慌ただしく動き回っていた。その日は、紗和が独自に開発した新製品「WOW」の発表会だった。業界メディアが数多く集まり、大手投資機関からも複数の関係者が出席している。紗和は、凛とした印象の白いセットアップスーツに着替えた。長い髪をすっきりとまとめ、美しい首筋を見せている。耳元には、シンプルなパールのピアスが光っていた。舞台裏に立ち、カーテンの隙間から会場を埋め尽くす人々を眺める。掌には、うっすらと汗が滲んでいた。代表取締役に就いて以来、自ら陣頭に立つ初の大規模な発表会だ。緊張しないはずがない。だがすぐに、客席の中に見慣れた顔を見つけた。伊織や、立ち上げ当初からチームを支えてきた仲間たちが、紗和に向かって励ますような仕草を見せている。紗和は笑顔を返し、深く息を吸った。そしてハイヒールを鳴らしながら、迷いのない足取りで舞台へ上がった。発表会は順調に進んだ。紗和は照明の下に立ち、堂々と語った。製品に込めた理念から中核技術へ。市場戦略から今後の展望へ。説明は筋道が通っており、示される数字にも具体性があった。客席からは、何度も拍手が湧き起こった。質疑応答の際、一人の記者がうっかり紗和を「御堂夫人」と呼んだ。紗和は微笑みながら訂正した。「望月社長、あるいは望月さんとお呼びください」記者は一瞬戸惑ったが、すぐに呼び直した。発表会も終盤に差しかかり、紗和が最後の質問に答えていたときだった。入口付近が突然ざわついた。何気なく目を向けた紗和は、思わず目を見開いた。怜央。濃いグレーのスーツをま
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第228話

紗和は一度腕を引いたが、振りほどけなかった。それでも焦る様子はなく、どこか呆れたような目で怜央を見上げた。「では、どうぞ。話し終わったら帰ってください。まだ仕事があります」怜央は深く息を吸い、できるだけ冷静さを保とうとした。聞き分けの悪い子どもを諭すように、声を落とす。「紗和。お前が俺に腹を立てていることは分かっている。周りに押されて莉乃との結婚を受け入れたことも、森川航平の件を防げなかったことも、俺が悪かった。だが前にも言った。俺と莉乃は、ただ――」「仕方がなかっただけ?」紗和が、皮肉を含んだ声でその先を引き取った。怜央は言葉に詰まったが、それでも続けた。「莉乃は体が弱い。放っておくことはできない。だがお前は違う。昔から物分かりがよかった。俺の事情を分かってくれると思っていた。俺は莉乃とは結婚しない。そしてお前とも、絶対に離婚しない」紗和は、思わず笑いそうになった。物分かりがいい。また、その言葉だった。5年間の結婚生活で、何度となく紗和を縛ってきた言葉だ。物分かりがいいから、怜央が莉乃と人前で親しげに振る舞っても、黙って耐えなければならなかった。物分かりがいいから、婚約パーティーで誰に辱められても、笑顔で祝福しなければならなかった。物分かりがいいから、怜央が必要なときには呼ばれ、用がなくなれば遠ざけられても、受け入れなければならなかった。「怜央」紗和は、まるで他人事のように穏やかな声で名を呼んだ。「話は終わった?」怜央は呆然とした。紗和は、あまりにも静かだった。無理に平静を装っているわけではない。本当に、もう何一つ心を乱されていない。その静けさに、怜央は強い恐怖を覚えた。泣いて責められるより、怒鳴られるより、ずっと不安になった。「紗和、俺の話を――」「あなたの話なら、5年間ずっと聞いてきた。今度は、あなたが私の話を聞く番よ」紗和は、つかまれていないほうの手でバッグを開いた。中から離婚届受理証明書を取り出し、怜央の胸元へ投げつけた。大きく記された「離婚届受理証明書」の文字が、廊下の白い照明の下ではっきりと見えた。怜央の目が大きく見開かれた。一瞬、頭の中が真っ白になった。目眩すら覚え、紗和の手首を放すと、慌てて書面をつかんだ。そこには、怜
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第229話

「そう思っていたのね」紗和は小さく笑った。その笑みには、ようやく重い荷を下ろしたような晴れやかさがあった。「怜央。世の中の人も物事も、いつまでも同じ場所であなたを待っているわけではない。私も同じよ。いつになったら分かるの?」怜央の手から証明書を抜き取り、バッグに戻した。「私たちは、法律の上でも、現実の上でも終わったの。何一つ残らないほど、完全に」怜央の長身が、支えを失ったように大きく揺れた。頭の中は真っ白になり、目の前では「離婚成立」「終わった」という言葉だけが、何度も入れ替わる。鈍い刃で、胸を繰り返し切られているようだった。不意に、数多くの記憶が蘇った。5年前、紗和が怜央と結婚した日のこと。ウェディングドレスは、決して上等なものではなかった。実家の後ろ盾がないため、御堂家の親族から散々嫌味も言われた。それでも紗和は、最初から最後まで笑っていた。怜央と結婚できたことが、人生で一番幸せだと言っていたからだ。結婚してからの5年間、怜央がどれほど遅くまで外で仕事をしても、帰宅すれば必ず灯りが一つついていた。キッチンには温めればすぐ食べられる夕食が用意され、ソファには怜央を待ったまま眠り込んだ紗和がいた。「紗和……」怜央の唇が動いたが、続く言葉は見つからなかった。どんな説明も、懇願も、引き止める言葉も、離婚が成立した事実の前では意味を持たない。紗和が去るはずはないと、疑いもしなかった。振り返れば、いつでも同じ場所で待っていると信じていた。莉乃の件を処理し、すべてが落ち着いたら戻って、紗和に十分な償いをすればいいとさえ考えていた。紗和なら許してくれる。これまでも、いつも許してきたのだから。だが今度、紗和は待たなかった。バッグを閉じ、怜央の横を通り過ぎるとき、一度だけ足を止めた。振り返らず、顔をわずかに横へ向けて告げる。「怜央。あなたの人生で最大の過ちは、私を愛さなかったことではない。私を一度も尊重しなかったことよ。必要がなければ捨て、欲しくなればいつでも拾い戻せる付属品だと思っていた。残念だけど、私は物ではないわ」ハイヒールが床を打つ音は、少しずつ遠ざかった。怜央は広い廊下に一人残され、うつむいたまま、空になった両手を見つめる。その手は、これまで幾度となく紗
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第230話

会社を出ると、紗和は彩葉にメッセージを送った。【さっき離婚届受理証明書を怜央に突きつけてきた。これでもう、余計な言い訳をしに来ることはないと思う】勢いよく投げつけたときの、胸がすっとするような感覚がまだ残っていた。彩葉からは、ほとんど間を置かずに返事が届いた。【やっと思い切ったことしたじゃない!それで、怜央はどんな顔してた?頭真っ白になってたんじゃない?写真は撮った?もう想像しただけで一場面できあがってるんだけど。今すぐ詳しく聞かせて!】【撮ってないわ……そこまで余裕なかったの】紗和が続きを入力しようとすると、画面の向こうで彩葉が待ちきれずに騒いでいる姿まで目に浮かんだ。思わず口元が緩む。長年胸の奥に溜め込んできた悔しさを、ようやく少し晴らせた気がした。【もったいない!あんな決定的な場面、撮って何度でも見返すべきだったのに!でも、あの御堂家の御曹司がこんな目に遭うなんて、誰が想像した?自業自得よ。これは絶対お祝いしなくちゃ。出張から戻ったら私がご馳走する。そのとき、最初から最後まで3回は話してもらうからね!】紗和の笑みが広がりきる前に、病院の無機質な呼び出しアナウンスが響いた。【受付番号107番の方、第3MRI検査室へお入りください】自分の番号だった。以前、御堂邸で薫子のボディーガードに殴られて以来、頭に鈍い痛みが残り、ときおり理由もなく吐き気を覚えることがあった。念のため頭部に異常がないか調べてもらおうと、中央総合病院で検査を予約していた。長く待って、ようやく今日の予約が取れたのだ。過去と完全に決別した今、体の不調までそのままにしておきたくなかった。自分の体だけは、自分の意思で大切にしたかった。【そろそろ検査だから、またあとで】最後の返信を送り、案内に従ってバッグや腕時計、スマホを更衣スペースのロッカーへ入れた。鍵をかける。重い検査室の扉をくぐった瞬間、背中にまとわりつくような嫌な視線を感じた。だが扉は、すでに紗和の後ろでゆっくりと閉まり、外の気配をすべて遮っていた。……検査を終えて出てくると、誰かに見られているような不快感は、さらに強くなっていた。反射的に振り返る。廊下の先には誰もいない。ただ一つの照明がかすかに唸り、不規則に明滅していた。紗和は眉を寄せ、
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