All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話

征臣とビデオ通話をつないでいたボディーガードは、申し訳なさそうに報告した。紗和が裏口か職員用の出入口から外へ出たか、来院したときと同じように車で帰ったものと思い込んでいたのだ。だが家政婦からは、まだ帰宅していないと連絡が入り、心当たりのある場所を探しても姿はなかった。紗和が病院の中から忽然と姿を消した――そう気づいたボディーガードたちは、全フロアをくまなく捜索し、ただちに征臣へ連絡した。征臣の表情は、ボディーガードたちがこれまで見たこともないほど険しかった。すぐにハッカーへ指示を出し、放射線科周辺の防犯カメラ映像を集めさせた。最後に紗和の姿が確認できたのは、近くの更衣スペースだった。その後、エレベーターにも階段にも姿は映っていない。征臣の指がゆっくりと握り込まれ、拳に力がこもった。「誰の仕業だ。紗和の携帯の電波が最後に途切れた場所は特定できたのか」「い、今調べています!」部下は怯えた様子で、恐る恐る答えた。「紗和に何もないことを祈っていろ。もしものことがあれば、お前たちの家族もただでは済まない」凍りつくような視線を向けられ、一同は顔を青ざめさせながら何度も頷いた。そこへ勲が入ってきた。「会長、プライベートジェットの手配が整いました。船もまもなく接岸できます。到着しだい空港へお送りし、すぐに望月さんのもとへお戻りいただけます」征臣は頷いた。一刻も早く戻らなければならない。「船長に、可能なかぎり急いで引き返すよう伝えろ。こちらの件が片づきしだい、俺も船で会議へ向かう」「承知しました」勲はただちに手配に取りかかった。……その頃、郊外の寂れた自動車修理工場では、紗和が朦朧とした意識の中で目を覚ましていた。両手両足を縛られ、口にはテープを貼られている。頭はひどく痛み、意識を失う前に何か薬品を嗅がされたことを思い出した。周囲に人影はない。拉致されたのだ。意識を失う直前の光景が、脳裏によみがえる。放射線科を出たところで突然背後から羽交い締めにされ、薬品の臭いが染みついた布で口と鼻を塞がれた。相手はかなり力の強い男だった。そのまま近くの車へ引きずり込まれ、しばらく押さえつけられたあと、意識が途切れた。紗和は手首の縄をほどこうとしたが、きつく縛られていてびくともしない。あたりを見回すと、床
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第232話

男は紗和の口からテープを乱暴に剥がした。「この疫病神め、やっと俺の手に落ちたな。俺が失ったものは、十倍にして返してもらうぞ」顔をはっきり見た瞬間、紗和は大きく目を見開いた。「あなた?」忘れるはずがない。御堂家を出た直後、紗和を乗せたタクシーの運転手だった。一人暮らしだと知るや、あの夜、通信を妨害する機器まで持ち込んで部屋へ忍び込み、彼女を襲おうとした男だ。幸い、征臣が密かにつけていたボディーガードたちが駆けつけ、男を徹底的に叩きのめした。急所にも強烈な一撃を受け、それ以来、男としての機能まで失っていた。因縁の相手を前に、紗和の胸に強い恐怖がこみ上げた。それでも必死に声を振り絞る。「どうして私を拉致したの?復讐のつもり?でも、私に手を出したら、私を守っている人たちが黙っていないわ。前にも思い知ったでしょう」男の名は、片桐茂雄(かたぎり しげお)。これといった職歴もないまま中年になり、今はタクシー運転手をしていた。両親はすでに他界し、暮らしにも余裕のない独身男だった。邦彦とは遠い親戚にあたる。茂雄はタクシーを流しながら、仲間内の運転手グループで女性客のスカートの中や胸の大きさを品定めするような男だった。御堂邸を出た紗和を待ち伏せし、荷物を運ぶふりをして住まいを突き止め、隙を見て襲えと茂雄をけしかけたのは邦彦だった。邦彦も、紗和の容姿に目を奪われた茂雄が、その日の夜にさっそく行動に出るほど暴走するとは思っていなかった。それでも邦彦は、一度ものにしてしまえば紗和は逆らえなくなり、家まで簡単に奪えると茂雄を焚きつけた。だが襲撃は失敗し、駆けつけた屈強な男たちによって茂雄は全身のあちこちを骨折させられ、回復の見込みもない後遺症まで負った。運転もできず、女遊びもできなくなった茂雄をなだめるため、邦彦は金を渡し、郊外にある茂雄の地元で自動車修理工場を開かせた。ところが茂雄は、集落へ入る道に釘をまき、パンクした車の持ち主から修理代を巻き上げるような真似を繰り返した。それが発覚してネットで晒され、商売はほとんど立ち行かなくなった。以来、ろくに仕事もせずぶらぶらしながら、再びタクシーを運転するようになっていた。この日、病院へ客を送り届けた直後、邦彦がグループチャットに投稿したメッセージが目に留まった。そこは邦彦が長年
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第233話

茂雄は以前から、女性客を薬で眠らせて連れ去りたいという衝動を抱えていた。トランクには裏ルートで手に入れた、人を意識不明にさせる薬品まで積んであり、それが今回、役に立った。初めは何も恐れていなかった茂雄も、紗和にあの夜のことを持ち出されると、たちまち不安になった。歯が折れるほど殴られ、男としての機能まで永久に失った記憶がよみがえったのだ。茂雄は黙って紗和の口を再びテープで塞ぎ、外へ出た。紗和をさらうと、まず自分の工場へ運び、逃げられないよう縛ってから、すぐ邦彦に連絡した。あまりにも早い成功に喜んだ邦彦は、前金として200万円を即座に送金した。腹を空かせていた茂雄は、紗和が眠っていて逃げる心配もないと考え、ゆっくり食事をしてから戻ってきた。だが、紗和を守る後ろ盾がいると脅され、急に怖じ気づいた。邦彦に早く来るよう電話でせかすつもりだった。邦彦さえいれば恐れるものはない。自分よりはるかに強い後ろ盾を持っていると信じていたからだ。外が静かになったのを確かめた紗和は、隠していたガラス片で足の縄を切り、そっと出口へ向かった。男は入口にもたれ、煙草を吸っていた。外へ出られる場所はそこしかなく、男が道を塞いでいる。紗和は短い鉄棒を拾い、入口脇に身を潜めた。案の定、煙草を吸い終えた茂雄が中へ戻ってくる。その背後から鉄棒を振り上げ、首筋に力いっぱい叩きつけた。不意を突かれた茂雄は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。紗和は安堵の息をついた。この男が復讐のために自分をさらったのだと思っていた。気を失わせた以上、あとはここを出るだけだ。ところが工場の門をくぐろうとした瞬間、万力のような手が腕をつかんだ。共犯者がいる――顔色を変えて振り向くと、そこに立っていた凶悪な形相の中年男は、なんと邦彦だった。紗和が自由になって出てきたのを見て、邦彦は茂雄の不手際に激怒した。すでに200万円も払っている。捕らえた獲物を逃がすわけにはいかない。彼は飛びかかり、紗和の腕をつかんだ。「助けて!」近くに人影はなかったが、叫び声に動揺した邦彦は、恐怖を怒りに変え、助けを求める声を止めようと紗和の頬を思いきり平手打ちした。そして髪を両手でつかみ、工場の中へ引きずり戻そうとする。成人男性の力には、紗和一人では到底かなわなかった。それでも痛みに耐
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第234話

その頃、機内では――「会長、奥様の携帯の電波が最後に確認された場所を特定しました」後部座席にいた征臣が、はっと目を開けた。「どこだ」「病院の放射線科のすぐ近くです。周辺に停まっていた車のドライブレコーダー映像を調べたところ、奥様の姿も確認できました」「見せろ」部下が映像を差し出した。検査室へ入る際には、スマホをはじめとする金属類を持ち込めない。そのため紗和は、スマホやボイスレコーダー、遺骨の入ったバッグを放射線科近くのロッカーに預けていた。そこで携帯の位置情報も途切れていたのだ。映像には、紗和が放射線科へ向かう姿が映っていた。しかし、その後は一度も姿を見せていない。征臣が口を開くより早く、ボディーガードが説明した。「奥様の診療記録も確認しました。MRI検査を受けるため、放射線科へ向かわれたようです。検査後もロッカーへ荷物を取りに戻っていません。ロッカーから検査区画までの短い間に、何者かに連れ去られた可能性が高いと思われます」征臣は映像を凝視した。紗和が通り過ぎてから2分ほど後、一台のタクシーがカメラの前を横切った。胸の奥が大きくざわつく。「この車の行き先を徹底的に調べろ!」「はい!」ハッカーは周辺の道路カメラ映像を次々と追い、車の行方を探した。ほどなくして、声を上げる。「見つけました!」一方、邦彦に再び捕らえられた紗和は、薬の影響に加え、転倒した際に頭を打ったせいで眩暈に襲われ、そのまま意識を失った。次に目を覚ましたときには、工場の中央で椅子に縛りつけられていた。頭上の裸電球が眩しく、まともに目を開けていられない。細めた目がようやく光に慣れてくると、全身に痛みが走り、まったく身動きが取れないことに気づいた。数メートル先から、邦彦がじっとこちらを睨んでいた。「あなた、莉乃のお父さんね?」その瞬間、すべてがつながった。征臣から、莉乃は九条家の運転手の娘だと聞いている。ならば邦彦も、九条家で運転手をしていたはずだ。病院で莉乃を流産させたのは紗和だと言い張り、薫子を連れてきたのも彼だった。そして今日、紗和をさらった男も、以前彼女を襲おうとした運転手だ。紗和は、一つの結論にたどり着いた。「あの男に、私の家へ押し入るよう仕向けたのもあなたなの?今回、私を拉致させたのも
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第235話

その一部始終を撮影し、映像を盾に紗和を思いどおりに操る。邦彦自身は、最後まで姿を見せる必要などないはずだった。だが、事は邦彦の目論見どおりには進まなかった。車を降りた邦彦は、少し離れた場所から様子を見ながら、茂雄に指示を出すつもりだった。ところが、逃げ出しかけていた紗和と鉢合わせし、否応なく姿を見られてしまった。紗和はつい先ほど病院で邦彦を目にしている。今さら知らぬふりなどできない。正体を知られた以上、茂雄に紗和を襲わせ、そのあと殺させる。そして茂雄を海外へ逃がし、長い間身を隠させるしかない。もう紗和を生きたまま帰すわけにはいかなかった。ただし、問題が一つある。紗和は莉乃に、自分に何かあれば弁護士が録音を公表すると告げていた。娘の将来に禍根を残さないためにも、まずはその録音を手に入れなければならない。「自分がどんな状況にいるかも分かってないのか。それでも俺を説得しようっていうのか?レコーダーはどこだ。言わないなら……」邦彦は茂雄に、大きなガラス容器を運ばせた。中には透明な液体が入っている。紗和は息を呑んだ。「それは何……?花宮さん、何をするつもり?」邦彦は注射器に無色透明の液体を吸い上げ、紗和へ近づいた。「お前は俺の娘をあれほど苦しめた。あんな場所に縛りつけて、何人もの男に襲わせて……どこまで残酷な女なんだ。これは硫酸だ。レコーダーの隠し場所を言わないなら、これを口に流し込んでやる。死んだほうがましだと思うほど苦しませてやるぞ」紗和は大きく目を見開き、体の震えを抑えられなくなった。「やめて!そんなものを飲ませたら、私は死ぬかもしれない。これまでだって十分な犯罪だけど、まだ取り返しはつく。でも、ここで私を殺したら殺人よ。今までとは比べものにならない重い罪になる。もう本当に後戻りできなくなるわ!」邦彦の顔に、一瞬だけためらいが浮かんだ。自分がここまで追い詰められるとは、彼自身も思っていなかったのだ。紗和はすかさず畳みかけた。「莉乃はもうすぐ名家に嫁ぐんでしょう。あなたは、あの人にとってたった一人の父親じゃない。ここで罪を重ねなければ、これから先だって何不自由なく暮らせるし、今までとは違う人生を送れる。でも一線を越えて取り返しのつかない罪を犯したら、莉乃には本当に身寄りがいなくなる。お願いだか
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第236話

「いますぐ録音を渡せ。さもなければ――」邦彦は紗和の顎をこじ開け、注射器の先を喉の奥へ向けた。「この場であの世へ送ってやる」「渡す!」鼻を刺すような薬品臭が漂っていた。邦彦は正気を失っている。従わなければ、本当に殺される。いまの紗和には抵抗する力がなく、されるがままだ。まずは命をつなぐしかない。邦彦が注射器を口元から少し離した。「どこだ」「び、病院の……放射線科の隣にある、患者用のロッカー室……」紗和は恐怖で言葉を詰まらせ、全身を震わせた。邦彦は嘘をついているようには見えないと判断し、ロッカーの位置や暗証番号を何度も細かく問いただした。紗和はすべて答えた。邦彦はただちに篠原絵里香に連絡し、指定した番号のロッカーを暗証番号で開け、中身を取ってくるよう命じた。絵里香は病院で療養中の莉乃につき添い、気に入られようと、一食数万円もする料理を毎食のように取り寄せていた。以前は有力者を捕まえることばかり考えていた彼女も、薫子が莉乃のために乗り込み、孫娘と呼んだ場面を目にして以来、すっかり莉乃に狙いを定めていた。莉乃が恐れている品が院内のロッカーにあると邦彦から聞くと、何もかも放り出し、すぐ取りに向かった。紗和は、邦彦がもう自分を解放する気などないとわかっていた。相手が品物を手に入れたら、スマホにもデータを保存してあると嘘をつくつもりだった。削除の操作を教えるふりをしてコードを入力すれば、危険を知らせるメッセージが、親友や伊織をはじめとする知人たちに送信される。親友の彩葉なら、必ず警察へ通報してくれる。その機会を待っていると、絵里香から電話がかかってきた。邦彦は上機嫌で応じた。「どうだ、手に入れたか?」返ってきたのは、怒りに満ちた声だった。「何もなかったわ。あの女に騙されたのよ!」娘の憂いを取り除けるという喜びから一転、邦彦の顔からさっと血の気が引き、表情が凍りついた。悪鬼さながらの形相で紗和の髪をつかみ、注射器を持ち上げて喉に流し込もうとする。「やめて!」紗和は絶望の叫びを上げた。それでも抵抗を諦めず、どこから湧いたのかもわからない力で床を強く蹴り、椅子ごと横倒しになった。硫酸が服にかかり、鼻を突く悪臭が立ちのぼる。「お願い、傷つけないで!どうしてないのか、私
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第237話

紗和は堰を切ったように泣き崩れた。ほんの少し前まで、自分はここで死ぬのだと思っていた。征臣は一刻も無駄にせず、そのまま紗和を抱き上げて車に乗せた。車はすぐに走り出し、茂雄と邦彦を乗せたもう一台があとに続く。郊外を抜けて海岸沿いの道へ入り、やがて埠頭に停泊している巨大な豪華客船の前で止まった。征臣は、腕の中で眠る紗和を見下ろした。後続車では、部下たちがすでに邦彦から事情を聞き出していた。追及に耐えきれなくなった邦彦は、ついにすべてを白状した。最初に茂雄をそそのかし、紗和の家へ押し入らせて襲わせようとしたことも、今回の拉致を企てたことも、すべて邦彦の仕業だった。放射線科での検査を終えた紗和を薬で意識を失わせ、タクシーで人里離れた修理工場へ運び、ボイスレコーダーのありかを吐かせようとしたのだ。ボディーガードからは、現場に強い薬品で腐食した痕跡があり、チューブや注射器まで用意されていたことも報告された。邦彦本人は頑として認めなかった。だが、犯罪者心理をよく知るボディーガードたちは、彼に紗和を殺す意図があったと確信していた。征臣はまた腕に力を込めた。まるで二度と離すまいとするように、紗和を強く抱き締めた。あと1分遅れていたら、どうなっていたのか。考えるだけでも恐ろしかった。もし紗和を失っていたら、自分がどうなっていたのか――想像することさえできない。征臣は紗和を抱いたまま豪華客船へ乗り込み、部下には茂雄と邦彦も連れてくるよう命じた。船には一流の医師と十分な医療設備が整えられていた。紗和の検査と手当てがすべて終わる頃には、すでに午前3時を回っていた。豪華客船は公海へ向け、静かに海上を進んでいる。「会長」診察を終えた医師が出てきて報告した。「奥様は薬品を吸い込んだ影響が残っています。頭部や手足にも複数の外傷が見られましたが、必要な処置は済んでおります。しばらく安静にしていただければ、今のところ大きな心配はありません」「分かった」まだ眠ったままの紗和は、船内の広く快適な寝室へ運ばれた。砂利で傷ついた手のひらの傷は深くない。それでも見ているだけで痛々しく、あのときはさぞ痛かったことだろう。征臣はベッド脇のソファに腰を下ろし、大きな手で紗和の手をそっと包んでいた。その顔には冷たい怒りが浮かび
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第238話

紗和は征臣とともに、豪華客船の甲板へ出た。深夜の海は、どこまでも黒く広がっていた。昼間とはまるで違い、底の見えない暗闇が静かにうねり、今にもすべてをのみ込んでしまいそうだった。昼間にはあれほど美しく、眺めているだけで心が和んだ海が、夜になるとこれほど恐ろしく見えるとは思わなかった。紗和は無意識のうちに征臣へ身を寄せた。征臣は寒いのだと思った。たしかに海風は強い。スタビライザーのおかげで、船はほとんど揺れずに進んでいた。紗和に風邪を引かせるわけにはいかない。征臣は厚手のロングコートを脱ぎ、紗和の肩に掛けた。大きなコートにすっぽり包まれると、冷たい海風もすぐに気にならなくなった。辺りを見渡しても、海上にはこの巨大な豪華客船しか見えない。華やかな船体だけが、深い闇の中で眩い光を放っていた。「連れてこい」征臣の命令を受け、船に運び込まれていた茂雄と邦彦が、甲板へ引きずり出された。骨折したまま十分な治療も受けていない茂雄は、見るからにつらそうだった。邦彦も顔立ちが分からないほど腫れ上がり、全身血まみれで、目を背けたくなるような姿になっている。それでも征臣の表情は、わずかにも変わらなかった。まるで、この程度は当然の報いだと言わんばかりだった。紗和は肩に掛けられたコートを、そっと引き寄せた。二人が自業自得なのは分かっている。茂雄は以前にも、紗和に手を出せば、彼女を守る者たちが黙っていないと警告されていた。それでも邦彦が後ろ盾なら大丈夫だと、高をくくっていたのだ。だが今になって、自分がどれほど愚かだったのかを思い知らされていた。頼りにしていた邦彦のほうが、自分以上にひどい姿になっている。紗和を見つけると、茂雄はすぐさま這うように近づいてきた。車にはねられたうえ、太った体は不自然に曲がっている。まともに起き上がることさえできず、体を引きずりながら、泣き声を上げて命乞いをした。「申し訳ありませんでした!俺が悪かったです!お願いします、どうか助けてください!俺は最低の人間です。もう二度とこんなことはしません!望月さん……いや、奥様、どうかお許しください!何でもします。本当に何でもしますから!俺じゃないんです、花宮邦彦です!こいつに金を渡されて、二度ともやれって言われたんです。終わったら海外へ逃
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第239話

紗和が怯えた原因が茂雄だと察すると、征臣は目を冷たく細め、感情のない声で命じた。「海に放り込め。サメの餌にしてやれ」その言葉を聞いた瞬間、茂雄は全身をがたがたと震わせた。自分の生死が、この恐ろしい男の一存にかかっているのだと、ようやく悟ったのだ。苦痛に顔を歪めながら、必死に泣き叫ぶ。「やめてください!お願いします、海には投げないでください!嫌だ、やめ――」声を張り上げた悲鳴は夜の海へ吸い込まれ、やがて重い水音にかき消された。紗和は驚いて息を呑んだ。続いて、原形をとどめないほど痛めつけられた邦彦が顔を上げた。腫れ上がった目で征臣を見るなり、全身を震わせる。邦彦は当初、自分が薫子の身内に近い立場だと明かせば、相手も警戒して簡単には手を出せないと考えていた。だが、目の前にいる男が誰なのか気づいてしまった。九条征臣――九条家とは、とうに袂を分かっている男だ。その苛烈な手腕は、敵対する者なら名を聞くだけで身構えるほどだと聞いている。まして征臣は、薫子を恐れてなどいない。二人は完全に決裂し、九条家の遺産を巡って長年対立していた。もっとも、そうなった原因が征臣にあったわけではない。先代が早くに亡くなったあと、薫子はまだ若かった征臣を言いくるめ、契約書に署名させて、遺産の大半を自分の側へ移そうとした。先代は本来、九条家の財産を征臣に残すつもりだった。ところが突然亡くなったことで隙が生まれ、薫子につけ込まれたのだ。そうして手に入れたものを、彼女はいまだに返していない。征臣はこれまで、数え切れないほどの裏切りや命を狙われる経験をくぐり抜けてきた。邦彦でさえ、彼がここまで生き延びたことを奇跡だと思っている。その過程で、人柄も大きく変わった。幼い頃の征臣は、今のように冷酷な人間ではなかった。むしろ虫も殺せないほど心優しい子供だったことを、邦彦は覚えている。だが今の征臣を前にした邦彦は、恐怖で全身から力が抜けていた。もともと薫子の側についていた自分が、いったい何を差し出せば命乞いなどできるというのか。それでも、震える声を必死に絞り出した。「坊ちゃん!ど、どうか命だけはお助けください。助けていただけるなら、これからは一生、あなたのために働きます!」征臣の顔には、何の表情も浮かばなかった。薫子を裏
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第240話

征臣は拳銃を手に取り、スライドを引いた。跪く邦彦に銃口を向ける。「彼女を傷つけた者は、誰であろうと許さない」乾いた銃声が響いた。弾丸は邦彦の頭部を貫いた。飛び散った血が一滴、険しい表情を浮かべた征臣の頬をかすめ、顎の近くに残った。邦彦はそのまま甲板に崩れ落ちた。見開いた目から生気が消え、後頭部の傷から流れ出した血が、ゆっくりと床に広がっていく。征臣は拳銃をトレーに戻し、黒い手袋をはめた指で頬についた血を拭った。その手袋も外し、銃のそばへ投げた。それから紗和に目を向けた。「甲板は冷える。もう戻ろうか」我に返った紗和は、黙って頷いた。二人の背後では、邦彦の遺体がそのまま深い海へ投げ捨てられた。征臣に連れられ、紗和は快適な寝室へ戻った。厚手の服を着ているのに、なぜか震えが止まらない。寒さではなく、恐怖のせいだった。少なくとも紗和が覚えているかぎり、銃で人が殺される光景など一度も見たことがなかった。目の前で人が撃たれるのを見たのは、これが初めてだ。それでも不思議なことに、征臣を狂った人間だとは思えなかった。彼は最初から最後まで冷静で、取り乱すことすらなかった。まるで、こうした場面を何度もくぐり抜け、とうに慣れているかのように。むしろ、そんなふうに慣れていることのほうが、普通ではないのだろう。ベッドの中央に横になりながら、紗和は、征臣が自分の想像していた以上に複雑な人なのかもしれないと考えていた。先ほどは一切ためらうことなく人を殺し、自分を傷つけた者は決して許さないと言い切った。その姿を見た今、征臣という男がますます底の知れない存在に思えてくる。それでも、彼自身を怖いとは思わなかった。征臣はほとんど本能のように、紗和を守ろうとする。どれほど腹を立て、きつい言葉をぶつけることがあっても、本当に紗和を傷つけることだけはしない。散々文句を言ったあとでさえ、結局は世話を焼き、守ってくれるのだ。紗和は征臣の顔を見つめた。先ほどは傷ついた自分を見て、頬が引きつるほど怒っていた。すべてが片づいた今、その激しい怒りもようやく収まっている。ただ、頬にはまだわずかに血が残っていた。先ほど拭ったときに取り切れなかったらしい。潔癖な征臣が、他人の血を長い間顔につけたままだと知れば、
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