All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

紗和は、はっとした。あの夜のことは、今もまだ征臣の中にわだかまりとして残っているのだ。「違うの。本当に違うの」紗和は慌てて説明した。「私はあなたの妻でしょう。ほかの人だと思うはずがないじゃない」「ようやく、自分が俺の妻だと分かったのか?」「うん」紗和は真剣な顔で頷いた。今になってこの話を持ち出したのは、ずっと二人の間に残っていたわだかまりを解く機会を、征臣のほうから与えてくれたのかもしれない。そう思い、紗和は改めてきちんと説明しようとした。「あの日、本当にそう聞こえたのなら、たぶん意識が朦朧としていて、うまく喋れなくて、名前を呼び間違えただけだと思う。怜央のことを考えていたわけでも、連絡を取ろうとしていたわけでもない。本当に誤解なの。もしそれであなたを傷つけて、プライドまで傷つけたのなら……ごめんなさい」「どうやって謝る。言葉だけか?」征臣は静かに目を瞬いた。「じゃあ……どうしてほしいの?ごめんなさい」恥ずかしさで赤く染まった耳と、わずかに潤んだ目元。そこへ、今にも泣き出しそうな声でこぼれた「ごめんなさい」が重なり、征臣の心を大きく揺らした。征臣はしばらく紗和を見つめた。「謝るっていうなら、俺に返すべきものがあるんじゃないか?」「何を返すの?」「俺に口づけられながら、御堂怜央の名前を呼んだだろ。謝るっていうなら、あのとき台無しにされた分を、全部返してもらう」征臣は少し間を置いた。「あの夜、俺がお前に残した痕と同じ数だけ、一つ残らず俺にも返せ。俺の名前を呼びながら」紗和は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。征臣は、本気で言っているのだろうか。冷酷で口が悪いだけではなく、こんな子供じみた一面まであったなんて。いつも年齢以上に落ち着いて見える人なのに、今の征臣は、紗和がこれまで抱いていた印象とはまるで違っていた。「どうした。嫌なのか?」征臣は手を伸ばし、紗和の頬に触れた。その大きな手なら、片手だけで彼女の顔を包み込めそうだった。指の腹で赤く染まった頬をゆっくりなぞりながら、低い声で告げる。「なら、この件を俺が許す日は来ないと思え。俺が気を変えて、謝る機会さえやらなくなるかもしれないぞ……」紗和は小さく息を呑んだ。せっかく勇気を振り絞って、
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第242話

紗和は征臣と向かい合うように、ベッドに横になっていた。こちらへ来いと言われても、すぐには動けず、その場で固まってしまう。征臣はそんな紗和をじっと見つめた。「どうした。そんなに難しいことか?」「ううん」紗和は小さく首を振った。征臣の眉間に、わずかなしわが寄る。紗和の顔はますます赤くなった。覚悟を決めるように唇を噛み、思い切ってベッドを降りると、征臣の膝の上にまたがった。征臣は悠然とソファに身を預けたまま、彼女が次にどうするのかを見守っている。紗和は震える手を伸ばし、彼のシャツのボタンを一つずつ外していった。なめらかな白いシャツの下から現れたのは、無駄なく引き締まった体だった。きれいに鍛えられた筋肉は、思わず目を奪われるほど整っている。征臣の肩より少し高い位置から見下ろすと、首筋から肩、背中へと続く筋肉の線がはっきりと見えた。均整が取れているだけでなく、見るからに力強い。鎖骨も肩も、それに広い背中も、思わず見入ってしまうほどだった。紗和は以前から、征臣はずいぶん恵まれた人だと思っていた。顔立ちだけではない。こうして間近で見ると、体つきまで驚くほど整っている。「続けろ」征臣が口を開いた。「俺の名前を呼んでないぞ?」紗和は恥ずかしさに耐えきれなくなりそうだった。それでも意を決し、かすかに震える声を絞り出す。「征臣さん……」そう呼んでから、彼の首筋へそっと唇を寄せた。一つ痕を残す頃には、張りつめていた恥ずかしさも少しだけ薄れていた。そもそも、これが初めてというわけではない。これから先、夫婦として一緒にいるのなら、こうして触れ合うことだって増えていくのかもしれない。いつまでも恥ずかしがっているわけにもいかない。そう考えると、紗和は少しだけ大胆になり、両手を征臣の肩に置いた。征臣がわずかに顎を上げ、唇を少し開く。何を求めているのかは、すぐに分かった。紗和は迷わず、その唇に口づけた。触れる前から、征臣がこの口づけを待っていたことが伝わってくる。何でもないような顔をしていても、さすがにそこまでは隠しきれないらしい。唇が重なった途端、征臣は待ちきれなかったように、紗和の唇を深く求めた。まるで、ずっと欲しかったものをようやく手に入れたかのようだった。
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第243話

征臣が部屋を出たあと、紗和は、自分がいつの間にか彼を頼るようになっていることに気づいた。征臣の言葉に傷つくことはある。それでも、その行動の一つひとつから、自分を大切にしてくれていることが伝わってくる。体調を崩せば細やかに世話をしてくれるし、何かあれば必ず守ってくれる。いつだって、紗和のためにできる限りのことをしてくれていた。もしかすると、征臣は自分に特別な思いを抱いているのではないか。そんなふうに感じることはあっても、確信までは持てなかった。自分が忘れてしまった記憶の中で、征臣と自分はどんな関係だったのだろう。今の彼の態度には、きっと何か理由がある。以前は、征臣が母に抱いていた思いを、自分に重ねているのではないかと疑ったこともあった。だが今は、そうではない気がしていた。征臣はこれまで、美雲のことを一度も自分から話したことがないからだ。寝室の外では、秘書が征臣に映像データを見せていた。「以前ご指示いただいた、グランシエル・クラブ内の隠しカメラの保存データを調べたところ、こちらの映像が見つかりました。あの人たちがかなり親密にされている様子が映っています」征臣は映像を見なくても、何が映っているのか察しがついた。以前、紗和が薬を盛られたあと、征臣はクラブ内に残っているカメラ映像をすべて確認するよう命じていた。紗和に不利になるような映像が残されていないか調べるためだったが、思いがけないものまで見つかったらしい。秘書はそれを確認すると、すぐに征臣のもとへ持ってきたのだ。征臣は何か思いついたように、わずかに口元を上げた。「御堂家は、花宮との結婚式をいつ挙げる?」「3日後です」征臣は小さく頷いた。「見に行くのも悪くないな」手を振って秘書を下がらせると、紗和のいる寝室へ戻った。長く待たせるつもりはなかった。扉を開けると、紗和はベッドの上に座っていた。どことなく元気がなく、眠気にも耐えているようだった。それでも、ベッドサイドの柔らかな明かりに照らされた頬にはうっすらと赤みが差し、いつも以上に柔らかな表情に見えた。征臣はそばまで歩み寄り、腰を下ろした。「待っていたのか?」紗和は頷いた。もう午前5時だった。普段ならとっくに眠っている時間だ。薬で弱った体も休息を
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第244話

紗和は驚いた。そんな記憶は、頭の中にまるで残っていない。「これ……私とあなた?」思わず尋ねると、征臣は頷いた。紗和は言葉を失った。以前、夢の中で見た、二人の子供が一緒にブランコに乗っている光景。あれは、幼い頃の記憶だったのだ。かつて暮らしていた場所を再び訪れたことで、失われた記憶の一部が夢となって蘇ったのかもしれない。だが、ふと一つの疑問が浮かんだ。「でも……公表されている年齢だと、私より16歳も上だったでしょう?それなのに、本当は……」「1歳しか違わない」征臣の眼差しがわずかに深くなる。実際の征臣は、紗和より一歳年上にすぎなかった。つまり、年齢を15歳も上に偽っていたことになる。以前、征臣について調べたことがある。彼は非常に若くして名を上げ、9年前にはサンダーボルト・キャピタルを創業していた。その後も次々と大きな実績を残し、今では計り知れないほどの財産を築いている。だが本当の年齢から計算すれば、会社を立ち上げた当時、まだ18歳だったことになる。「仕事のため?」紗和がそう尋ねても、征臣は何も答えなかった。もちろん、理由はそれだけではない。商売の世界で相手に侮られないためでもあった。まだ若いというだけで、まともに取り合おうとしない者もいれば、対等な相手として見ようとしない者もいる。だからこそ、実年齢を隠す必要があったのだ。もっとも、征臣自身は昔から、実際の年齢よりはるかに大人びていた。紗和はしばらく、驚きから抜け出せなかった。幼い頃の征臣に、こんなにも穏やかで明るい一面があったとは思わなかったのだ。写真の少年は、屈託のない笑みを浮かべながら、紗和の首に腕を回している。まるで、可愛がっている妹を抱き寄せている兄のようだった。古城のステンドグラスから差し込む光が、二人の姿を柔らかく照らしている。今の征臣は、冷酷非情な実業家だ。特に先ほど甲板に立っていた姿は、相手の命を奪うことにすら、わずかなためらいも見せなかった。いったい、彼に何があったのだろう。胸の奥にざわつくものを感じながら、紗和はもう一枚の写真へ目を移した。家族全員で撮った記念写真だった。そこに写っている人々を、紗和は誰一人覚えていない。あの事故で重傷を負い、記憶を失ったた
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第245話

だが今、写真に写っている人たちは、もう全員この世にいないのだと征臣から告げられた。「あなたのご両親……私の伯父さんと伯母さんも、亡くなったの?」征臣はわずかに眉を曇らせた。「ああ。お前の両親より、もっと前にな」こみ上げるものを堪えるように目を伏せ、睫毛をわずかに震わせる。「俺たちには、もう互いしかいない」その言葉を聞いた瞬間、紗和はベッドの中央から身を起こし、征臣を強く抱き締めた。なぜそうしたのか、自分でもよく分からなかった。ただ今だけは、征臣のそばにいたかった。同じ喪失を知る者同士として、その痛みを一緒に受け止めたかった。征臣が目を落とすと、紗和の柔らかな体が、かすかな薬の匂いとともに胸へ飛び込んできた。細い腕を腰へ回し、痛いほど強く抱き締めている。「これからもずっと、私はあなたのものよ」耳元でそう囁かれた瞬間、征臣の胸の奥が大きく揺れた。征臣はすぐに腕を回し、紗和をきつく抱き締め返した。胸元に伝わる鼓動も、頬を濡らす涙も、腕の中のぬくもりも、すべてがあまりにも鮮明だった。愛していると告げたい衝動が、抑えきれないほどこみ上げてくる。それでも征臣は堪えた。しばらく抱き合ったあと、名残惜しさを押し殺すように腕をほどく。今は、紗和を休ませなければならない。無理をさせれば、体にも傷の回復にもよくない。征臣はただ、愛おしむように紗和の髪を撫でた。「もう眠れ。いい子だ」紗和は頷き、ベッドに横になった。それから、ためらいがちに尋ねる。「そばにいてくれる?」気持ちはまだ整理しきれていなかった。けれどあまりに眠く、今はとにかく一度休みたかった。ただ、征臣にはそばにいてほしかった。征臣は頷き、ベッド脇のソファへ戻って腰を下ろした。「どこにも行かない」紗和が目を閉じ、顔から少しずつ緊張が抜けていく間も、征臣の視線は一度も彼女から離れなかった。一晩休むと、紗和の体調はかなり落ち着いていた。目を開けると、窓の向こうには美しい海が広がっている。ただ空は厚い雲に覆われ、どこか重たい色をしていた。ベッド脇の一人掛けソファへ目を向けると、征臣が座ったまま眠っていた。紗和は驚いた。二人は法律上も正式な夫婦なのだから、征臣が隣に横になって眠ったとしても、お
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第246話

紗和は知らなかったが、征臣は昔から他人の視線にひどく敏感だった。だが、紗和がこっそり自分を見つめていることに気づいたときだけは、不思議と嫌な気はしなかった。自分を見ながら、いったい何を考えているのだろう。そんなことまで気になった。征臣が目を開けると、紗和は恥ずかしそうにさっと目を閉じた。しばらく見つめていても、起きる様子がない。征臣はとうとう、自分から起こすことにした。顔を寄せ、額に軽く口づける。それから紗和の体をそっと抱き起こした。二人の視線が、ほんの一瞬重なった。「朝は何が食べたい?」紗和は少し考えた。「バンズをバターで焼いたハンバーガー」幼い頃は暮らしに余裕がなく、いつかお腹いっぱいになるまでハンバーガーを食べてみたいと思っていた。大学へ進み、自分でお金を稼げるようになった頃には、雪江を連れてファストフード店へ行き、子供の頃の願いを叶えようと思ったこともある。だが、その頃には雪江に持病が見つかり、脂肪分やカロリーの高いものは控えなければならなくなっていた。征臣に食べたいものを聞かれ、真っ先に思い浮かんだのが、それだった。口にしてから、紗和は少しだけ後悔した。貧しかった頃の記憶は、大人になった今でも、欲しいものまでささやかなものにしてしまうのかもしれない。こんなことで笑われるのではないかと、不安になった。けれど、征臣は笑わなかった。それどころか、黒い瞳が一瞬だけ楽しそうに和らいだように見えた。征臣は紗和の柔らかな頬を軽くつまみ、甘やかすような声で答えた。「分かった」その途端、紗和は少し欲が出た。「ビーフパティを一枚入れて」「分かった」「それから、パイナップルも一枚」「ああ」「目玉焼きとチーズとソーセージとレタス、それにピクルスも。いろいろ、たくさん入れてほしい」「全部入れてやる」征臣は立ち上がり、歩き出しながら言った。「兄というのは、妹の願いを何でも叶えてやるものだからな」紗和は一瞬、動けなくなった。胸の奥が、きゅっと痛んだ。兄は、妹の願いを何でも叶えてくれる。それなのに妹のほうは、兄のことを何一つ覚えていない。その存在さえ知らず、何も返すことができなかった。つらいときに寄り添うことさえできなかったのだ。昨夜
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第247話

思わず喉が鳴った。ついさっきまで、船の上にこんな食材までそろっているのだろうかと考えていたのだ。だが、これは貨物船ではなく、娯楽のために造られた豪華客船だ。船内には必要なものがほとんどそろい、設備も贅沢そのものだった。「食べろ。今作ったばかりだ」「ありがとう」すでに身支度を整えていた紗和は、ふと征臣へ目を向けた。征臣も、すっかり身なりを整えている。一晩で伸びた髭も、きれいに剃られていた。男性ホルモンの影響で、顎や喉元などは肌のきめがわずかに粗く見える。だが、それが野暮ったく見えるどころか、かえって男らしい色気を際立たせていた。喉仏も、顎から首へ続くすっきりとした輪郭も、妙に目を引く。「なぜ俺を見ている。見るべきなのはハンバーガーだろう」「私……全部は食べられない」紗和は大きな目を瞬かせ、少しいたずらっぽく言った。「食べられるだけ食べろ。残りは俺が食べる」その一言に、紗和は驚いた。潔癖症だと言っていた人と、本当に同じ男なのだろうか。征臣に見守られながら、紗和はお腹いっぱいになるまで食べた。だが大きなハンバーガーは、少し小さくなった程度にしか見えない。紗和は気まずくなった。精いっぱい食べたつもりだったし、途中では喉につかえそうになったほどなのに。征臣は室内の冷蔵庫から瓶入りのコーラを取り出した。栓を開け、ストローまで挿して紗和へ差し出す。「飲め」「ありがとう」すぐに一口飲むと、炭酸の爽やかな刺激が口いっぱいに広がり、気分まで少し軽くなった。あれほど冷たく、近寄りがたいと思っていた征臣と過ごす時間が、こんなにも心地よいものになるとは思わなかった。征臣は、紗和が残したハンバーガーをそのまま食べていた。肉汁のあるパティにパイナップルの甘みがよく合い、ソースとの相性も悪くない。自分でも、まずまずの出来だと思った。食べ終えると、ナプキンで口元を拭い、それを脇へ置いた。「この数日は忙しくなる。ただ、お前を一人にしておくわけにもいかない。だから一緒に連れていく。3日後には、ある結婚式にも連れていってやる」それは、思いつきで決めたことではなかった。昨日の出来事は、征臣自身が思っていた以上に彼を動揺させていた。普段なら、どれほど感情が荒れていても、そ
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第248話

征臣の瞳の奥に、かすかな笑みが浮かんだ。「そのときになれば分かる」紗和は、ふと思い出した。「そうだ。大切なものを病院のロッカーに預けてたんだけど、なくなってたの……」「俺が回収した」征臣はそう答えた。防犯カメラの映像を確認したあと、紗和が立ち止まっていた場所から使用したロッカーを特定し、部下に開けさせて、中の荷物を先に回収していたのだ。持ってこさせたバッグを、紗和に差し出す。「ほら」紗和は礼を言い、すぐに中を確かめた。遺骨も、ボイスレコーダーも、スマホも、すべて無事だった。ようやく安堵の息をつく。「きれいな島を見つけて、早くおばあちゃんを眠らせてあげたいの。生きている間、一度も海を見たことがなかったから。いつか連れていくって、約束もしてたの」「俺が手配する」……一方、九条家の旧本邸では――夜の闇に溶け込むように、一台の白いロングボディーの高級車が敷地内へ入ってきた。その車を目にした久蔵は、すぐに外へ迎えに出た。小走りで中庭までついていき、後部座席の扉が開くのを待つ。降りてきたのは、背が高く端整な顔立ちの男だった。白いシャツに純白のジャケットを合わせ、黒いネクタイを締めている。黒のスラックスが、長い脚をすっきりと見せていた。知的でありながら、どこか鋭さを感じさせる顔立ちをしている。久蔵はすぐに深く頭を下げた。「伊織様、お待ちしておりました。大奥様も中で、たいそうお喜びになってお待ちです」だが、伊織の顔に喜びはなかった。険しい表情のまま、何も言わず屋敷の中へ向かう。名目上、伊織の両親となっている二人の教授は、実の親ではない。女性教授は若い頃、研究中の事故が原因で子供を持つことが難しくなった。その後、薫子から頼まれ、九条湊斗を養子として引き取り育てた。名も変えられ、その子は白河伊織として生きることになったのだ。伊織の出自は、長い間厳重に伏せられてきた。当時の九条家当主に知られるわけにはいかず、その存命中は決して表に出すことができなかったからだ。そのため伊織は、20歳になるまで薫子と一度も顔を合わせず、ドイツ留学中に初めて対面した。薫子に対する情は薄かった。その後も、自分から会いに行こうとしたことはない。彼がこの屋敷を訪れるのも、今
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第249話

新製品には、まだ紗和の技術的な支えが必要だった。これまでの経緯を考えれば、紗和が姿を消して喜びそうな人物として、真っ先に思い浮かぶのは薫子だった。だから伊織は、紗和の行方を確かめるために、わざわざここまで来たのだ。「先日、あなたが一方的に責め立て、手まで上げた女性のことです。あのときの振る舞いは、あまりにも理不尽でした」薫子は一瞬、言葉を失った。伊織が険しい表情で乗り込み、自分を問い詰めるために来たのだと、ようやく悟ったのだ。みるみる顔を赤くする。「あの小娘は、御堂怜央の元妻でしょう?あんな女のために、私にそこまで腹を立てるなんて。私は、あなたの――」「もう結構です」伊織には、この事実がどうにも受け入れ難かった。目の前の、母親というより祖母と言われたほうがまだ納得できそうな女が、自分を産んだ実の母親だというのだから。これは時代の進歩と呼ぶべきなのか、それとも医学の奇跡と呼ぶべきなのか。伊織自身にも分からなかった。「彼女は、ただ御堂くんの元妻というだけの人ではありません。私がずっと思い続けてきた女性です」「そう。そういうことだったのね」薫子は冷たく笑った。「あの娘を見たときから気に入らないと思っていたけれど、やっぱりろくでもない女だったのね。あなたにまで取り入っていたなんて!」今にも紗和への憎しみをぶつけに行きそうな、険しい表情だった。伊織が望んでいた反応ではない。すぐに否定する。「彼女が私を誘惑したわけではありません。私はただ、自分が求めるものを備えた、優秀な女性を伴侶にしたいと思っているだけです。彼女は私にとって必要な人です。結婚できれば、仕事でも家庭でも、理想に近い形を築けると思っています」薫子は鼻を鳴らした。「何が理想よ。あの女は御堂怜央と何年も結婚生活を送り、その挙げ句に離婚した女でしょう。正気なの?世の中には、もっとあなたにふさわしい女がいくらでもいるのに、どうしてわざわざあんな女を選ぶの」さらに声を強める。「私は認めない。私が九条家にいる限り、あの女には一歩たりとも九条家の敷居をまたがせない」伊織はそれ以上、言葉を費やさなかった。茶にも口をつけず、そのまま席を立つ。薫子が用意したものも、一つとして持ち帰らなかった。伊織が去ったあと、薫子は怒りを
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第250話

この数日、征臣は紗和の世話をするだけでなく、勲に経営管理について教えさせていた。自分の財産をどう管理し、どう生かしていくべきかを学ばせるためだ。紗和は、その分野の知識を貪欲に吸収していった。これまでずっと技術一筋でやってきたため、部下との関係をうまく築けないことも多かった。部下たちは紗和の指示に素直に従わないばかりか、自分たちのほうが有能だとさえ思っていた。紗和が仕事を何もかも一人で抱え込み、率先して片づけてしまうせいで、周囲は苦労せず成果を手にすることができた。そして、その成果まで自分たちの実力によるものだと思い込んでいたのだ。だから紗和が去ったあとも、自分たちだけで何の問題もなくやっていけると信じていた。ところが実際には、基本的な作業すらまともにこなせず、プロジェクトは次々と行き詰まった。勲から教わることは、どれも紗和にとって大きな収穫だった。勲もまた、教えがいを感じていた。紗和には、この分野でも十分な素質がある。美雲から受け継いだ、事業家としての才覚が備わっているのだろう。勲が部屋に入ってくると、紗和はすぐに立ち上がった。「高城先生、今日は何を教えてくださるんですか?」勲は笑みを浮かべた。「今日はお休みにしましょう。会長がお仕事を終えて戻られました」征臣の姿を目にした途端、その長身と端整な顔立ちに、紗和の表情がぱっと明るくなった。黒い服に身を包んだ征臣は、壁にもたれ、紗和のために用意したミルクを手にして待っていた。一人で静かに立つその姿には、どこか寂しさを感じさせるものがあった。だが紗和は、征臣がすでにずいぶん前から、扉の外で自分を見つめていたことを知らない。こんなことは、今回が初めてではなかった。かつて紗和が怜央に思いを寄せ、いくつものプレゼントを贈っていた頃も、征臣は彼女の目の届かない場所から、同じように見つめていた。あの頃の紗和は、気づかなかった。けれど今は、ようやくその姿に気づいた。それまで勲に教わった内容を復習することに夢中になっていたのだ。「征臣さん?どうして……」胸がざわつき、言いかけたところで思い出した。昨夜、今日会いに来ると、人を通じて伝えられていたはずだ。それなのに、フォトンテックの仕事に気を取られ、すっかり忘れていた。反
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