All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

結局のところ、紗和はまだ心の底から征臣を夫として受け入れきれてはいなかった。「返事がなかったから、俺が選んだ。温かいミルクにしたが、飲むか?」征臣は顔を上げないまま、低い声でそう言った。それからようやく、薄暗い場所からゆっくりと歩み出た。なぜか今日は、いつも以上に近寄りがたい空気をまとっているように感じられた。紗和は慌てて近づいた。「どうして声をかけてくれなかったの?いつからいたの?」征臣は詳しく答えず、短く言った。「少し前からだ」「ごめんなさい。仕事のことを考えてたら夢中になっちゃって。ずいぶん待ったでしょう?」紗和は自分から手を伸ばし、征臣が持っていたミルクを受け取った。もうすっかり冷めている。それでも、征臣がわざわざ自分のために温めてくれたものだ。本当に長い間待っていたのだと気づき、紗和は一滴も残さず飲み干した。カップを置くと、そっと征臣のそばへ寄り、そのまま抱きつく。その仕草に、沈んでいた征臣の気持ちもいくらか和らいだ。それでも彼は、ゆっくりと紗和の体を離した。「上着を着ろ。外へ連れていく」船の中央にある部屋で過ごしていた紗和には、外がどれほど冷えているのか分からない。だが、先日出た甲板は風が強く、かなり冷え込んでいた。征臣の服装を見ても、外と室内ではずいぶん気温が違うことが分かる。この部屋は一年中快適な温度に保たれているため、紗和は薄手のワンピース一枚しか着ていなかった。征臣は怒りをぶつけることもなく、そのまま外へ連れ出そうとしている。それでも紗和には、どこか引っかかるものがあった。「征臣さん、怒ってるの?」ショールを一枚手に取って戻ると、征臣の手を握った。大きく、ほどよく厚みのある手だった。長い指先は、少し冷たい。「怒っていない」すぐに返事は返ってきた。けれど声があまりにも硬く、どこか不自然だった。「今日来るって言ってたのを忘れてたから?それとも、メッセージに返事しなかったから?」紗和は柔らかな声で、少し甘えるように尋ねた。「……」征臣は答えなかった。もう責めるつもりなどなかった。紗和の背後から見つめ続けても気づいてもらえず、自分との約束を忘れられることにも、これまで何度も耐えてきた。だが今日、彼女を待ってい
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第252話

低く落ち着いた声だった。けれど、その奥にある激しい感情までは隠しきれていなかった。紗和は記憶を失ったまま生きている。そのうえ、名前で呼ぶようにはなったものの、「征臣さん」という呼び方には、まだどこか他人行儀な響きが残っていた。ほんのわずかな違いなのに、征臣には、その「さん」が二人の間に残る距離のように感じられた。だが本来、二人は幼い頃からともに育ち、家族同然の深い絆で結ばれていた。幼なじみと呼んでも、何らおかしくない関係だった。「征臣」紗和は少し恥ずかしそうに、その名を呼んだ。征臣は紗和より1歳年上で、昔から兄のような存在だった。それでも今は、この呼び方のほうが二人にはふさわしい気がした。紗和自身、自分にも悪いところがあったと思っていた。征臣のことを忘れてしまったのは、自分の意思ではない。それでも、こんなにも孤独な思いをさせたくはなかった。名前で呼べば、少しだけ彼との距離を縮められる気がした。「ああ」征臣の低く柔らかな声が返ってきた。温かな吐息が、触れる寸前の口づけのように、紗和の額をかすめる。「いいな。もう一度呼んでくれ」「征臣」これ以上そばにいたら、胸の鼓動がもたない。紗和は慌てて身を翻し、その腕の中から逃れた。それから脇に置いていたバッグを開き、一本のネックレスを取り出して、そっと征臣の手のひらに載せる。「私が作ったの。あなたにあげる。もう一人で、何もかも背負わせたりしないから」征臣は、手のひらに載せられた銀白色のネックレスを見つめた。中央には、銀色のリンゴをかたどったペンダントトップが付いている。征臣の瞳に、はっきりと明るい色が浮かんだ。アダムとイブは禁断の果実を口にし、楽園を追われたあと、二人で新たな人生を歩み始めた。ならば、このリンゴにも何か意味が込められているのではないか。征臣と紗和も、かつては同じ大きな家族の中で育った。そこには、一族のすべてを取り仕切る絶対的な存在もいた。もしかすると紗和は、自分たちもそこから離れ、二人で新しい家庭を築いていこうという思いを、このリンゴに託したのではないか。ゲームを作るときでさえ、紗和は小さなアイテム一つひとつに意味を持たせる。ならば、自分のために作ったこのネックレスにも、きっと何か特別
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第253話

征臣にも一緒に手を合わせてもらおうと思ったが――征臣との面会を待つ人々が列を作り、慎重な態度で報告をしているのが目に入った。その中には、紗和がニュースで見たことのある大物実業家まで何人かいる。きっと重要な用件があるのだろう。邪魔をしないよう立ち去ろうとしたところ、征臣は手元の仕事を置き、こちらへ歩いてきた。「雪江さんの埋葬は済んだのか?」紗和はうなずいた。墓前に来てほしいと誘いかけたが、仕事の邪魔になるのではないかと思い、言葉にできない。だが、征臣は自ら墓地のほうへ歩き始めた。そこで初めて、雪江の墓へ行こうとしてくれているのだと気づいた。征臣は花束を用意し、墓前にそっと置いた。「長い間、紗和を育て、守ってくださって、ありがとうございました。これからは俺が、彼女を大切にします」海から吹き上げる風が、さらに強くなった。二人は並んで墓地をあとにした。紗和は隣を見上げる。「おばあちゃんは、コスモスがいちばん好きだったの……」「墓の周りに植えさせよう」紗和は幸せそうに微笑んだ。雪江が血のつながった祖母ではないことは、すでに知っている。征臣から自分の出自を聞いたときに気づいたのだ。それでも、雪江が注いでくれた愛情は、実の祖母と何一つ変わらなかった。ちょうどその頃、島内の滑走路にプライベートジェットが降りようとしていた。征臣に伴われ、紗和は機内へ乗り込んだ。「連れていくと言っていた結婚式って、怜央と莉乃の式なの?」思わず尋ねると、征臣は目元を緩めた。「そうだ。少し面白いものを見せてやる」紗和は首をかしげた。二人が結婚するところを見ても、何が面白いのだろう。それとも征臣が何かを仕掛け、式を別の意味で見ものにするつもりなのか。おそらく後者だろう。それでも、わずかに胸騒ぎがした。莉乃は何度も紗和を陥れようとし、その父親まで彼女を殺そうとした。二人の間には、もう決して埋められない溝がある。本来なら、そんな女の結婚式へ出向くべきではない。だが征臣が近くにいるなら、莉乃を恐れる理由などなかった。一方、莉乃は――絵里香がボイスレコーダーを持ち帰れなかったと知り、激怒していた。だがその後、邦彦からメッセージが届いた。硫酸を用意した。これから紗和に大量に飲ませ、二度と姿を現せ
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第254話

莉乃は、きっとうまくいくと信じていた。わざわざ手術まで受けたのだ。怜央と5年も夫婦生活を送った紗和より、自分のほうがずっと男を夢中にさせられるはずだ。男なんて、新鮮なものにはすぐ惹かれ、慣れた相手には飽きるものだ。莉乃は一刻も早く怜央の心をつかみ、できることなら思いどおりに操れるようになりたかった。そうすれば薫子の信頼も得られ、九条家の令嬢という立場も揺るぎないものになる。男も、地位も、金も。すべて手に入れるつもりだった。結婚式の準備は、息つく暇もないほど忙しかった。人生で何より待ち望んできた晴れ舞台だけに、莉乃のこだわりは並々ならない。細かなところまで、すべて自分で決めていた。御堂家も、好きなようにさせている。準備そのものは順調に進んでいた。ただ、肝心の怜央とはまるで連絡が取れなかった。電話にも出ない。邸宅を訪ねても、佐伯に玄関先で追い返された。もし当日、怜央が姿を見せなかったら――自分は東都中の笑いものになってしまう。さすがの莉乃も、不安を抑えられなくなった。だが御堂家の本邸を訪ねると、宗一郎は、怜央がそんな真似をするはずがないと断言した。千鶴子も莉乃を大切に扱い、わざわざ医師まで呼んで診察を受けさせた。以前の騒ぎが、お腹の子に影響していないか心配したのだ。婚約式の日、莉乃が流産しかけたことは、宗一郎もある程度知っていた。だからこそ、最近の怜央の態度がますます理解できなかった。紗和を大切にしろと何度言っても耳を貸さず、最後には莉乃を選んだ。それなのに、いざ莉乃を妻として迎える段階になった途端、今度は彼女を放ったらかしにし、姿さえ見せようとしない。千鶴子は莉乃に、体にいい上質な食材や、代々受け継がれてきた品々を惜しげもなく与えた。そしてその手を優しく撫でながら、言い聞かせるように話した。「莉乃は、本当にかわいい孫のお嫁さんね。これからの御堂家には、あなたに跡継ぎを産んでもらわなければならない。体を大切にして、元気な男の子を産んでね」莉乃は曖昧に笑うだけで、何も答えなかった。そこへ千鶴子が、晴翔を連れてこさせた。莉乃の姿を見るなり、晴翔は嬉しそうに駆け寄ってきた。だが次の瞬間、莉乃はその体をいきなり蹴り飛ばした。嫌悪を隠そうともしない。
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第255話

ちょうどその頃、紗和を乗せたプライベートジェットも東都に到着していた。征臣が彼女を連れてきたのは、その高級フレンチだった。ここも征臣が出資している店の一つで、もちろん予約など必要ない。紗和は到着するとすぐ、最も眺めのいい席へ案内された。征臣には急ぎの用事があり、いったん席を外さなければならなかった。そこで支配人に直接話を通し、紗和に不自由がないよう、十分にもてなすよう言いつけていった。紗和が食事を始めようとした、そのとき。耳障りな声が聞こえてきた。「紗和さんも、ここでお食事?」聞き覚えのある声に、紗和は一気に食欲をなくした。莉乃が、少し膨らんだ腹を撫でながら近づいてくる。一方、紗和を目にした莉乃は、一瞬、息が止まりそうになった。信じられず、何度もその顔を見直す。間違いない。紗和だった。生きている。その事実を理解した瞬間、今すぐ飛びかかって首を絞めてやりたいほどの憎しみがこみ上げた。紗和が生きているのなら、父親はいったいどこへ行ったのか。邦彦が紗和を始末しに向かった日を最後に、まるで蒸発したかのように姿を消している。あの日、邦彦は莉乃に約束した。莉乃の幸せを邪魔する唯一の存在を、必ず消してやると。ボイスレコーダーを取り返すだけではない。二度と目の前に現れないよう、紗和そのものを消してやると。それなのに紗和は死んでいない。それどころか、何事もなかったかのように、こうして目の前で食事をしようとしている。莉乃は急に恐ろしくなった。父は捕まったのだろうか。それとも、計画が露見するのを恐れ、紗和を仕留め損なったあと、そのまま身を隠したのか。どうか後者であってほしい。そう願うしかなかった。そうでなければ、もっと恐ろしい可能性が残る。紗和は逃げ延びただけではなく、反撃し、邦彦を死なせたのではないか。だが、すぐにそんなはずはないと思い直した。紗和に、人を殺せるはずがない。以前莉乃を捕らえたときでさえ、一定の時間が経てば自力で逃げられるようにしていた。紗和は残酷になりきれる人間ではない。相手がどれほど憎くても、最後には必ず引き返せる余地を残す。そんな女が、本当に人の命を奪えるはずがなかった。莉乃は今も、できることなら紗和を陥れたかった。
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第256話

紗和は口元に薄く笑みを浮かべた。こんな愚かな女に、これ以上付き合うつもりはない。「花宮さん。待っていた人が来たわよ」莉乃は振り返り、まるで今初めて怜央に気づいたかのような顔をした。「怜央くん、いつ来たの?」「今来たところだ」怜央は長い脚で、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。二人の席は、反対側の窓辺に用意されていた。そこからなら怜央には紗和の姿が見えるが、紗和の席からは彼の姿が見えない。怜央は周囲の目など気にも留めず、紗和を見つめ続けていた。莉乃は、紗和と支配人が恋人同士だという、でたらめな話を聞かせた。怜央がもう一度目を向けると、ちょうど支配人が紗和のグラスにワインを注いでいるところだった。怜央の表情が、さらに冷たくなる。「怜央くん、紗和さん、きっとあの支配人と付き合ってるのよ」莉乃は怜央の顔色をうかがいながら、探るように続けた。「私たちより先に幸せになりたくて、ずいぶん焦ってるみたいね……でも、あの人には息子もいるんでしょう?これなら一度に夫も子供も手に入るものね……」怜央は端整な顔を強張らせ、ゆっくりと視線を戻した。「元妻が誰と付き合おうと、俺には関係ない」「そうよね」莉乃はグラスを掲げた。「怜央くんが、やっと私と食事してくれて本当に嬉しい。乾杯しましょう」怜央はグラスの赤ワインを一息に飲み干した。ここ数日、ずっと現実から目を背けていた。だが莉乃の様子を見る限り、以前流産しかけたあとの体調も、もう落ち着いているらしい。もっとも、怜央は一度も見舞いに行かず、世話をすることもなかった。「お前から連絡がなくても、俺のほうから会うつもりだった」「私に?何の用?」「このところ出張していたが、俺との結婚式を準備していると聞いた」莉乃は驚いたふりをした。「準備してるだけじゃないわ。式は明日よ。おじいさまから聞いてないの?」怜央は眉をひそめた。「俺がいつ、お前と結婚すると言った?」莉乃の胸が大きく跳ねた。「急すぎるのは分かってる。でも、おじいさまがそう決めたのにも理由があるの。これから御堂家と九条家が手を組むのは避けられないし、お腹の子も……」莉乃は焦ったように言葉を重ねた。「紗和さんとはもう離婚したんだから、私たちがいつ式を挙げても問題な
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第257話

怜央はさらに言った。「俺はお前と結婚したくない。それほど結婚したいなら、ほかの男を探せ」莉乃は泣き叫んだ。「怜央、あなたの子供を身ごもってるのに、どうやってほかの人と結婚しろっていうの?形だけの夫婦にさえ、なってくれないの?私がここまで譲ってるのに、どうして受け入れてくれないの?」涙が次々と頬を伝った。怜央は、もう何も言う気になれなかった。視界の端で、紗和が立ち上がるのが見えた。酒が回ったのか、わずかに足元をふらつかせながら、化粧室のほうへ歩いていく。怜央もすぐに立ち上がった。「ゆっくり食べていろ。代金は俺につけておく」それだけ言うと、莉乃を一人残して席を離れた。莉乃はその場に取り残され、絶望に暮れながら泣き続けた。今夜の赤ワインは、妙に口当たりがよかった。紗和は最初から最後まで、怜央に一度も目を向けなかった。怜央も莉乃も、まるで見知らぬ他人のように扱っていた。その代わり、ワインの飲みやすさにつられ、1杯、また1杯と飲み進め、ほどなく酔いが回った。化粧室で顔を洗い、少し酔いを覚まそうとした、そのとき。突然、力強い腕に引き寄せられた。そのまま温かな胸の中へ抱き込まれる。紗和は驚いて顔を上げた。目の前の人物を見て、動きを止めた。征臣だった。端整な顔が、息が触れそうなほど近くにある。深い瞳には、紗和の姿がはっきりと映っていた。その視線に捉えられた瞬間、逃げることさえ忘れてしまいそうになった。征臣はためらうことなく唇を重ね、深く口づけた。紗和の顔に、一気に熱が集まる。征臣に求められるまま目を閉じ、優しい口づけを受け止めた。その腕の中で、力を抜いて身を任せた。紗和は知らなかった。彼女に口づけながら、征臣がわずかに目を開け、その視線を通路の奥へ向けていたことを。そこには、冷たい優越感が滲んでいた。征臣は人の気配に敏感だ。誰かに見られていれば、すぐに分かる。そして、物陰から二人を見つめている男に、紗和はもう自分のもとへ戻らないのだと、はっきり思い知らせるつもりだった。征臣はさらに深く紗和を求めた。紗和もその首へ腕を回し、拒むことなく応えている。まさに、その男に見せつけたかった光景だった。化粧室へ続く通路の反対側では、怜央が壁に背を
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第258話

翌日は、莉乃が何よりも待ち望んでいた日だった。10年以上も夢に見続けてきた願いが、ようやく叶う。ついに名門・御堂家へ嫁ぐことができる。しかも御堂家は、この東都でも指折りの名家だ。莉乃は誇らしく、嬉しくてたまらなかった。式は東都中心部にある、最高級ホテルの一つで執り行われる。会場づくりにも惜しみなく大金がつぎ込まれていた。昨日、紗和の姿を見たあと、莉乃はもう一度邦彦に連絡を取ろうとした。紗和が父を殺すようなことはできない。きっと邦彦は、どこかに身を隠しているだけなのだと思った。できることなら、怜央の義父として、この盛大な結婚式に堂々と出席してほしかった。だが、どれほど連絡しても返事はなかった。警察にも人を使って探りを入れたが、邦彦に関する事件や届け出は何も出ていないという。つまり、紗和は警察に通報していない。面倒事を大きくしたがらない、いかにも紗和らしい行動だった。それなら、いったいなぜ邦彦と連絡が取れないのか。父が紗和を襲い、硫酸を飲ませようとしたこと自体、すべて自分の思い違いだったとでもいうのだろうか。だが、絵里香も関わっている。邦彦に指定された病院のロッカーを調べ、ボイスレコーダーを捜したのだ。何もなかったはずがない。いくら考えても、答えは出なかった。それでも、式を延期するつもりはなかった。一刻も早く、御堂夫人になりたかった。昨日、怜央は式には出ないとはっきり言った。だが莉乃は、そんな聞きたくもない言葉など気に留めなかった。怜央本人が何と言おうと、宗一郎の決定のほうがはるかに重い。宗一郎が怜央をどう押さえつけるかは、これまで何度も見てきた。心配する必要などない。そんなことを考えていると、すぐそばから声がした。「莉乃、今日は本当にきれいよ」絵里香が両手で莉乃の顔をそっと包んだ。「おめでとう。世界でいちばんきれいな花嫁ね」だが実際には、かなり無理のある褒め言葉だった。予定が延びたこともあり、莉乃のお腹はすでにはっきりと膨らんでいる。医師からも、赤ちゃんはやや大きめで、お腹も目立ちやすいと言われていた。有名メゾンのオートクチュールドレスも、高価なティアラも、その大きく膨らんだ腹部までは隠せない。招待客が莉乃を見れば、豪華なドレ
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第259話

宗一郎は薫子のそばにつき、客への応対を手伝っていた。薫子が政財界に持つ人脈と影響力に、少しでもあやかろうとしているのだ。実際、薫子の影響力は宗一郎をはるかに上回っていた。「しかし、どういうことだ?」一人の招待客が、不思議そうに周囲へ尋ねた。「御堂会長も九条夫人も来ているのに、肝心の新郎がいない。このままどうやって式を挙げるんだ?」「知らないのか?」別の客が声を潜めた。「御堂社長は、愛人だった花宮さんと結婚する気なんてないらしい。父親と同じで、手を出すだけ出して、あとは知らん顔ってわけだ。それで今日も来たくないそうだぞ。この前だって、ネット中の笑いものになっていただろう。最近は会長から役職を全部外されたうえ、式に出なければ、精神を病んでいる母親を療養施設から出して、二度と会えない場所へ移すとまで脅されているらしい」「どういうことだ?先に不倫したのは本人だろう。それなのに、いざその相手と結婚するとなった途端、まともな人間のふりをして嫌がってるのか?」「さあな」少し離れた席では、伊織が茶を一口飲み、静かにカップを置いた。その視線は、先ほどからずっと会場の入口へ向けられている。怜央がいまだに姿を見せないことは、伊織にとっても意外だった。離婚はすでに成立している。それでもまだ、紗和を諦めきれずにつきまとおうとしているのだろうか。先日、紗和は伊織に、莉乃から二度も陥れられ、心身ともに疲れてしまったため、船旅に出て気分転換をしていると説明していた。怜央と莉乃の式が終わってから戻るつもりなので、それまでフォトンテックのことを任せたいとも頼まれている。伊織も、その話を不自然だとは思わなかった。今の莉乃には、御堂家と九条家がついている。紗和が姿を見せれば、また目をつけられ、何をされるか分からない。薫子も紗和をひどく嫌っている。しばらく距離を置くのは賢明な判断だった。その間に、薫子に紗和を受け入れさせる方法を考えることもできる。伊織が今日ここへ来たのは、怜央と莉乃が確実に結婚し、二人ともこれ以上ほかの人間を巻き込まないよう見届けるためだった。特に怜央には、もう紗和へ近づいてほしくない。かつて紗和が、この男をどれほど愛していたのかを、伊織は知っている。いつまでもつきまとわれれば、いつ
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第260話

紗和が披露宴会場の茶を一口飲んだとき、入口付近から突然ざわめきが起こった。新郎を待たないまま、式が始まったらしい。紗和がそちらへ目を向けると、莉乃が姿を現した。身にまとっているのは、かつて紗和自身も憧れたことのある、華やかな結婚式にふさわしい豪奢なウエディングドレスだった。数メートルにも及ぶ長いトレーンを、何人ものスタッフが後ろから持ち上げている。頭には、目を奪われるほど豪華なダイヤモンドのティアラが輝いていた。かつて紗和が怜央と結婚したとき、盛大な式は挙げなかった。そのため、これほど手の込んだドレスを着る機会もなかった。御堂家の本邸に親族だけが集まり、食事をしただけだ。当時の紗和にとっては十分に高価なものだったが、今振り返れば、それほど豪華なドレスではなかった。動きやすく、招待客の間を回って挨拶をするにも都合のいい形を選んだのだ。それでも、あの頃は怜央への思いだけで胸がいっぱいだった。だから何一つ不満には思わなかったし、そのドレスも長い間、大切にしまっていた。今、莉乃のために御堂家が用意した豪華な会場も、大勢の招待客も、手の込んだドレスも、眩いティアラも。どれも、若い頃の紗和が一度は夢見たものだった。けれど今は、少しも羨ましいとは思わない。莉乃が姿を現したあと、伊織は、怜央が車椅子を押しながら入ってくるのに気づいた。新郎が、ようやく会場へ姿を見せたのだ。ただ、車椅子に座っている女性が誰なのか、伊織には分からない。顔立ちは美しいものの、長い髪は十分に手入れされておらず、乱れたまま肩へ垂れていた。目元もひどく落ちくぼみ、どこか不安定な様子が見て取れる。紗和には、それが誰なのか分かった。怜央の母、御堂清美(みどう きよみ)だった。かつて清美は篠原家の令嬢で、家同士の縁談によって誠一に嫁いだ。だが妊娠中、夫の不倫現場を目の当たりにしたことをきっかけに、心のバランスを大きく崩した。出産後にはさらに症状が悪化し、やがて重い双極性障害と診断されるまでになった。怜央を見つけた莉乃の顔に、一気に喜びが広がった。本当に来ないのではないかと、内心ではずっと不安だったのだ。清美のことも、以前から聞いていた。莉乃は長いトレーンを引きずるようにして清美の前まで行き、自分から声を
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