All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

怜央に突き放され、絵里香は言葉を失った。絵里香は篠原家の跡取りであり、一族でただ一人の娘だった。文字どおり、大切に育てられてきた箱入り娘だ。以前の怜央は、母・清美の境遇に負い目を感じていたこともあり、さまざまな形で篠原家を支援してきた。だが絵里香は、事業で利益を上げることにも、一族の資産を守ることにもまるで関心がなかった。御堂家が勢力を拡大し続ける一方、篠原家の資産は年々目減りしている。時代遅れの貿易事業に固執し続けた結果、徐々に市場から取り残され、今では御堂家から回される利益の薄い仕事に頼るしかなくなっていた。それでも絵里香が仕事に身を入れないのは、自力で成功を目指すより、桁違いの名家へ嫁ぎ、有力者の妻として一足飛びに頂点へ上り詰めるほうが賢いと思っているからだ。確かに、絵里香自身の条件は悪くない。以前、怜央は将来有望な名家の息子を何人か紹介しようとしたことがある。ところが絵里香は相手の欠点ばかりをあげつらい、誰一人として気に入らなかった。やがて怜央も匙を投げ、紹介を頼まれてもまともに取り合わなくなった。それでも、これまでは絵里香をそれなりに大切にしてきた。だが紗和を巡る一件を通じて、絵里香が抱える悪意が少しずつ露わになっていった。怜央が罪滅ぼしのように篠原家を支え続けてきたせいで、絵里香はいつしか自分の立場を勘違いし、ついには怜央の結婚にまで口を挟むようになったのだ。今の怜央に、もう遠慮するつもりはなかった。自分のことに口を出すなと、はっきり釘を刺した。絵里香は言い返すこともできず、気まずさをごまかすようにシャンパングラスを一つ手に取り、莉乃へ差し出した。ところが怜央は、さらに追い打ちをかける。「その格好、本当にきれいだと思ってるのか?」絵里香は眉をひそめたものの、さほど気にした様子もなく、その場で軽く身を翻した。「何よ、怜央。このドレスのどこが悪いの?ここに入ってから、もう十数人の男が私を見てたわ」怜央の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。「あいつらは、タダで寝られそうな女かどうか確かめてただけだ」絵里香の顔が一気に赤くなった。そのドレスは胸元が大きく開いているだけでなく、ウエスト部分まで大胆にくり抜かれ、へそまで露わになっていた。言いたいことだけ言うと、怜央は二人をその
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第312話

瀬川はそのまま説明を続けた。「雅人さんは同世代では最年長で、下に従弟妹が8人いるため、9人の中心的存在として知られています。港都の2家は、葉山家や城戸家に比べると影響力ではやや劣ります。三浦家はバーやナイトクラブなどを数多く抱え、港都の夜の街を牛耳っている一族です。三浦玲司さん本人も、かなり自由奔放な人物だと聞いています。4家の中では最も資金力があるとも言われていますが、表には出しにくい金も多く、各方面への根回しにも巨額を投じているようです。汐見家は不動産で財を築いた一族です。今回来た玲司さんと汐見和樹さんは、それぞれの家の一人息子です。それだけ九条家との関係を重く見ているのでしょう」瀬川の調査に間違いはなかった。ほどなくして、九条家の者たちが一行を出迎える姿が見えてきた。「葉山社長、城戸社長、三浦社長、汐見社長――」絵里香は莉乃の手を引き、人垣をかき分けて最前列まで割り込んだ。そこで目にしたのは、葉山恭介(はやま きょうすけ)、城戸雅人、三浦玲司(みうら れいじ)、汐見和樹(しおみ かずき)の4人だった。恭介はまだ若く、黒のスーツをまとっていた。端正すぎるほど整った顔立ちに、広い肩、引き締まった腰、すらりと伸びた長い脚。まるでモデルのようにスーツを着こなしている。ただでさえ目を奪われる容姿だけに、名家の御曹司が集まる中でも、ひときわ強い存在感を放っていた。雅人は恭介よりもさらに端正で、隙のない印象だった。上質なスーツに深い赤のネクタイを合わせ、彫りの深い目元には眼鏡をかけている。輪郭も鋭く引き締まり、理知的で冷静な雰囲気を漂わせていた。恭介と雅人の落ち着いた佇まいに比べると、玲司はかなり砕けている。赤い模様の入った遊び心のあるスーツを着ていたが、その身体は鍛え上げられ、服の上からでも筋肉の線がはっきりとわかる。スーツ姿でありながら、どこか荒々しく、近寄りがたい迫力を放っていた。和樹は4人の中で最も控えめだった。背は高いものの体つきは均整が取れており、細いフレームの眼鏡をかけている。どうやら人前で目立つことを好む性格ではないらしい。4人のほかに、若い女性が3人同行していた。中でもひときわ目を引いたのは、恭介の隣に立つ葉山美玲(はやま みれい)だった。淡い紫色のドレスは、一目でわかるほ
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第313話

征臣は、否応なく人目を引く男だった。際立った容姿と恵まれた体格。整った眉と強い眼差しには、頂点に立つ者だけが持つ圧倒的な風格が宿っている。だが、その隣に立つ紗和も決して引き立て役にはなっていなかった。ひと目見れば忘れられないほどの美貌で、征臣に並んでもまるで見劣りせず、人々の視線をさらっていく。征臣ほどの男でさえ、紗和の輝きを覆い隠すことはできなかった。会場は瞬く間に、熱を帯びたざわめきに包まれた。「あの女性は誰?」やがて誰かが気づいた。「九条会長の恋人だ!」「さすが九条会長が選んだ人だ。あんなに華やかな美人がいるなんて」「なるほどな。レイクサイド・ガーデン邸は将来の奥様のために建てたって話だっただろ。あれほどの美人なら、九条会長があの庭に千種類以上の薔薇を集めたのもわかる気がする。奥様を引き立てるためだったのかもしれないな。さすがに見る目がある」感嘆の声が次々と上がる中、絵里香は雷に打たれたように立ち尽くしていた。今にもその場で気を失いそうだった。苦しげな顔で莉乃に問いかける。「莉乃……私、見間違えてる?お兄さんに……もう女がいたの?」あまりの衝撃に、絵里香はすぐに目を閉じてしまい、相手の姿をまともに確認することすらできなかった。だが隣にいる莉乃には、はっきりと見えていた。悔しさのあまり、ぎりっと歯を食いしばる。怜央の顔も、一瞬で険しく曇った。「紗和……紗和!」ほかにも彼女の正体に気づく者が現れた。「望月社長じゃないか」「本当だ。まさか望月社長だったとは……こんなふうに着飾ると、まるで別人だな。あれほどきれいな人だとは思わなかった」絵里香の周囲では、征臣の恋人は紗和だという声が途切れることなく飛び交っていた。絵里香は目を見開き、慌てて前方へ視線を向けた。真紅のドレスをまとい、鮮やかな赤い唇と、星のように澄んだ瞳を持つ紗和が、征臣に抱き寄せられている。膝から力が抜け、今にも崩れ落ちそうになった。「どうして紗和なの?少し似てるだけよ。同じ人のはずがない。絶対に違うわ」絵里香はすがるように莉乃を振り返った。「あの人、紗和じゃないわよね?莉乃、みんなが見間違えてるだけよね?」莉乃の顔は青ざめていた。しばらく姿を消していた紗和が、なぜ戻ってきた途端
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第314話

紗和の姿を目にした瞬間、怜央は衝動的に駆け寄りたくなった。だが紗和は別の男の腕に抱かれながら、拒むどころか、むしろその腕に身を委ねている。何より、紗和はもう自分の妻ではない。莉乃との結婚を公にした自分に、征臣を選んだ紗和を責める資格など、あるはずもなかった。耐え難い苦しみが一気に押し寄せ、怜央の頬を涙が伝った。紗和は8年もの間、自分を愛し続けてくれた。瀬川に言われたとおり、怜央は心のどこかで、紗和が本当に自分のもとを去る日など来ないと思い込んでいた。だが今、紗和は完全に怜央のもとを離れただけでなく、自分よりもはるかに優れた男の隣にいる。怜央は動揺し、恐れ、頭の中までひどく混乱した。無意識のうちに、そばにある何かへ手を伸ばす。異変に気づいた瀬川が、すぐに身体を支えた。「社長は今でも、望月さんがご自分のもとへ戻ってくるとお考えですか?」瀬川は、紗和が二度と戻らないだろうと思っていた。理由は単純だった。怜央は、彼女をあまりにも深く傷つけすぎた。一度でも怜央のもとを離れれば、怜央のいない人生が決して悪いものではないと気づく。瀬川の目から見ても、これまで怜央は何度も紗和を傷つけ続けていた。怜央は瀬川に支えられ、かろうじて立っていた。そして、うわ言のようにつぶやく。「そんなはずがない……」征臣は紗和と指を絡め、もう片方の腕を腰に回して、逃がすまいとするように自分の胸元へ抱き寄せていた。まるで大切なものを腕の中へ囲い込み、誰にも渡すつもりはないと示しているかのようだった。そのまま紗和を伴い、客たちの前へ歩み出る。最初に口を開いたのは玲司だった。「もう隣にこんなきれいな人がいたんですか。なるほど、城戸さんが妹さんを連れてこなかったわけですね。何か聞いてたんでしょう?」玲司は人懐こく、よくしゃべる男だった。だが口数が多いぶん、余計なことまで口にしてしまう。場の空気をあまり気にする様子もなく、今度は恭介へ目を向けた。「俺たちにまで事前に知らせる必要はないにしても、九条さんはせめて葉山さんには伝えておいたほうがよかったんじゃないですか?これじゃ、さすがにちょっと気まずいでしょう」痛いところを突かれ、恭介の顔に一瞬怒りがよぎった。それでもすぐに取り繕い、体面を崩さずに口を
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第315話

その感覚が正しいのか、紗和が確信するよりも早く、美玲のほうからこちらへ歩いてきた。赤ワインのグラスを手にしたまま、征臣と紗和の前で足を止める。「九条会長」征臣が答えるよりも先に、美玲は彼と金融界の有力者が交わしていた会話へ自然に入り込み、次々と鋭い意見を述べていった。自らの知識と才覚をさりげなく示し、相手からも株式市場に対する見方を高く評価される。紗和の顔から、わずかに血の気が引いた。二人が話している内容を、ほとんど理解できなかったからだ。美玲も、それに気づいたらしい。紗和の目の前で褒められたことがうれしいのか、どこか満足そうな表情を浮かべていた。やがて話が終わり、相手の男がその場を離れる。すると美玲は自らグラスを持ち上げ、征臣へ艶やかな笑みを向けた。「征臣さん、お帰りなさい。無事にこちらへ戻られたことを祝って、乾杯させてください」その目には、少女めいた憧れが浮かんでいた。しかも、親しげに名前で呼んでいる。それを見た瞬間、紗和の心はたちまち乱れた。自分は動揺しないと思っていた。だが、容姿も中身も非の打ちどころがなく、紗和自身でさえ見とれてしまうような女性が、意味ありげな態度で自分の男へ近づいている。そう考えただけで、胸の奥がざわついた。息が浅くなり、鼓動も速くなる。無意識のうちに、指先にも力がこもった。だが次の瞬間、征臣は誰の目にもわかる形で拒絶の態度を示した。社交辞令でやんわり断ったのではない。はっきりと、受け入れる意思がないことを示したのだ。美玲は、その場で固まった。東都随一の名家、葉山家の末娘として、美玲は何を学ぶにも、何を楽しむにも、常に最高の環境を与えられてきた。欲しいものがあれば、誰かが表からでも裏からでも差し出してくる。強い自信と自己肯定感を持ち、3人の兄にも大切に守られて育ったため、これまで大きな挫折などほとんど経験したことがない。これまで手にしたトロフィーも王冠も、ある意味では最初から美玲のために用意されていたようなものだった。そんな環境は、美玲に強い自信を与えた一方で、自分の思いどおりにならない状況に直面したとき、感情を抑えきれない一面も育てていた。薫子が話したとおり、美玲は昔から征臣に憧れていた。それは、彼が実業界で築いた伝説
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第316話

先ほど金融界の有力者を相手に意見を述べていたとき、美玲は征臣の態度が妙に冷たいことに気づいていた。あまりにも淡々としていて、相槌すらほとんど打たず、意見を返すこともなく、美玲が話し続けるのを黙って聞いているだけだった。だがそのときの美玲は、それを拒絶とは受け取らなかった。ほかの男たちと同じように、自分に見とれて言葉を失っているのだと思ったのだ。だからこそ、さらに一歩踏み込むような態度を取った。征臣が結婚したという話は聞いていない。何より、本来の婚約者は自分のはずだった。征臣は、紗和と一緒になったのは婚約のことを知らなかったからだと言った。ならば事情を知り、葉山家の令嬢である自分とも実際に顔を合わせた今、どちらを選ぶべきかは明らかなはずだ。美玲は、そう考えていた。征臣の態度を確かめようとしたのだ。ところが、幼い頃から誰よりも大切にされ、甘やかされてきた葉山家の姫であっても、征臣は少しも特別扱いしなかった。あまりにもはっきりと拒絶され、美玲の胸には激しい怒りが湧き上がった。もともと、それを内に押し殺せる性格でもない。美玲は紗和を横目でにらんだ。征臣に拒絶された怒りも、婚約を反故にするというのに簡単なひと言で済まされた不満も、すべて目の前の女へ向かった。紗和が異変に気づいたときには、美玲の指がワイングラスの脚を強く握りしめていた。次の瞬間、赤ワインが紗和の顔めがけて勢いよく浴びせられた。紗和が声を上げるよりも早く、強い腕が身体を引き寄せる。そのまま、さらに深く胸元へ抱き込まれた。顔を上げると、紗和は征臣の胸の中へすっぽりと包み込まれ、完全に庇われていた。赤ワインはすべて、紗和に背を向けた征臣のスーツへ降りかかった。深い赤の雫が、上質な生地の表面を伝っていく。周囲の客たちも、すぐに異変へ気づいた。後方にいた恭介が急いで前へ出て、美玲の腕をつかむ。「美玲!何してるんだ!」その声と動きで、あとから近づいてきた人々にも状況が伝わった。美玲が何の前触れもなく、この屋敷の主にワインを浴びせたのだ。その一件だけでも、気品ある外見の下に隠れた美玲のわがままと気性の激しさは十分に伝わった。紗和が顔を上げると、すぐ目の前に征臣の精悍な横顔があった。鋭く整った輪郭。美しい
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第317話

美玲がここまで取り乱すとは、恭介も想像していなかった。普段の妹は、いつも自信に満ちている。念入りに着飾らなくても人目を引くほど美しく、どんな場へ出ても決して見劣りしない。だが今日は、出かける前からいつになく身支度に時間をかけていた。お気に入りの6億円もするドレスを選び、普段以上に入念に装っている。それを見た恭介は、妹も大人になり、いよいよ結婚を意識する年頃になったのだと、むしろ喜ばしく思っていた。それなのに、少し前には過去の縁談を自ら持ち出してきた九条家が、突然このような態度に出た。事前の連絡も説明もないまま、「今知ったばかりだ」のひと言で済ませる。これでは、葉山家をあまりにも軽く見ているように映っても仕方がない。とはいえ、婚約といっても昔交わされた口約束にすぎなかった。婚約を証明する品も書面もなく、その後、両家が一度でも正式に確認し合った事実もない。約束を交わした和彦も、すでに亡くなっている。無効だと言われれば、それまでの話だった。征臣があえて明言しないのも、婚約を守る意思はないということなのだろう。それくらいは恭介にもわかっていた。互いに事情を察したうえで、何もなかったことにしてしまえばいい。そうすれば今夜の宴にも影響せず、美玲の今後の縁談にも傷はつかない。これほど恵まれた妹なら、相手が征臣でなくても十分に幸せになれる。ほかに良縁はいくらでもある。恭介はそう考えていた。だが美玲本人は、まったくそう思っていなかった。人前で感情を爆発させ、紗和に向かってワインまで浴びせた。そればかりか、すぐに謝れと諭されても反発し、自ら婚約の話まで暴露してしまった。周囲の客たちは、一斉に聞き耳を立てた。「あの美人が九条会長の婚約相手だったのか。今連れてる女性には少し及ばない気もするけど、あっちも色気と品があってきれいだな。紫のドレスが少し地味に見えるだけかもしれない。九条会長、どうするんだろうな」「いっそ二人とも手に入れればいいのに。俺なら、あんな女を二人も抱けるなら寿命が10年縮んだって構わないね」「馬鹿なこと言うな。あの人は葉山家の令嬢だぞ。お前がよくても、葉山家が許すわけないだろ」さらに、事情を知る者たちの間からは別の噂も聞こえてきた。「九条会長が抱いてるの、望月社
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第318話

征臣は、落ち着きのある低い声で答えた。「婚約のことは、確かに覚えていません。ですが、10年前に葉山家へ電話をかけ、3億ドルを貸してほしいと頼んだことは覚えています」その場の空気が、わずかに変わった。征臣は淡々と続ける。「あなたのお父上は貸してくれなかった。3億どころか、1ドルもです。つまり葉山家は、この10年間、俺を娘の婚約相手だと考えたことなど一度もなかったということでしょう。説明が必要なのは俺ですか?それとも、まず葉山家から説明していただけますか?」恭介は大きく動揺した。そんな話は、まったく聞かされていなかったのだ。周囲にいたほかの名家の者たちも、一斉に葉山家へ視線を向けた。これほど力を持つ家なら、数億ドル程度は決して出せない額ではない。それなのに、相手が最も苦しい時期に冷たく突き放し、1ドルすら貸さなかった。それが成功した今になって態度を変えたのだとすれば、あまりにも現金だと思われても仕方がない。恭介が言葉を失うと、征臣は再び穏やかな表情に戻った。ただし、それは意識して整えられた社交上の表情にすぎない。相手の機嫌を取っているわけでもなければ、その必要もなかった。征臣はゆっくりと続ける。「両家とも忘れていたのなら、この婚約はなかったことにしましょう。過去の件についても、これ以上問うつもりはありません。九条家と葉山家は、これまでどおり先代から続く付き合いを保てばいいんです。先ほどのことも不問にします。ただし、同じことは二度と起こさないでいただきたい」明らかに、恭介が引き下がるための道を残していた。恭介も、道理をわきまえない男ではない。美玲が我がままを言ったにせよ、何かに刺激されたにせよ、同じ騒ぎを繰り返させるわけにはいかなかった。征臣の話が事実なら、葉山家にも婚約を履行しろと迫る資格はない。それに、今ここですべての結論を急ぐ必要もなかった。恭介には征臣と進めたい共同プロジェクトがある。この一件のせいで、本来の目的まで潰す理由はない。恭介は小さくうなずき、新しいグラスを手に取った。「九条会長のおっしゃるとおりです。美玲はまだ若い。結婚のことは、いずれ改めて考えればいいでしょう。縁談に困るような娘でもありません。求婚者なら、海外まで列が続くくらいです。まだ感情を抑えるの
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第319話

目の前にいる息をのむほど美しい女性が、家柄にも後ろ盾にも頼らず、若くして上場企業を率い、誰もが知るヒットゲームまで生み出していた。恭介たちも、決して愚かではない。征臣の話が事実なら、それがどれほど価値のある実績かは、十分に理解できた。一方、美玲も確かに優秀ではある。だが、その「優秀さ」には、金と権力によって作られた部分が少なくなかった。美玲が大会へ出場するたび、葉山家は事前に関係者へ話を通していた。3人の息子のあと、ようやく生まれた一人娘。美玲は一族全員にとって、文字どおり宝のような存在だった。幼い頃から何不自由なく育てられ、徹底的に甘やかされてきた。だが、美玲本人はそのことに気づいていない。周囲もまた、わざわざ真実を教えようとはしなかった。何をしても順調に進む。どんな競技へ挑んでも上位に入り、次々とトロフィーを手にする。だから美玲は、自分には人並み外れた才能があるのだと信じていた。投資で成功したのも、葉山家の人脈を通じて、世間にはまだ出回っていない情報を事前に得られたからにすぎない。美玲自身は知らなくても、兄たちや、もっと冷静に物事を見る周囲の男たちは理解していた。葉山家の後押しがなければ、今までの成果のどれ一つとして手にできなかった可能性さえある。留学先は家が用意した。受賞の裏には家の働きかけがあり、株取引で得た利益さえ、一族の人脈からもたらされた情報に支えられていた。周囲の誰もがわかっていることを、美玲だけが認められない。彼女の目には、いつだって自分しか映っていなかった。征臣が紗和を庇い、自分の面目を潰したことに腹を立て、九条家が約束を破ったのだと人前で責め立てた。その結果、一族にまで恥をかかせ、兄に自分を庇わせ、征臣から説明を引き出そうとした。だが征臣は、その場を簡単に収めただけではない。同時に、皆の前で紗和の価値まで明確に示してみせた。涙さえ、何の役にも立たなかった。美玲は怒りで顔を真っ赤にし、恭介の背後へぴたりと身を隠したまま、誰の顔も見ようとしなかった。恭介はすぐに口を開いた。「確かに、茨の中でも自らの力で咲いた薔薇のほうが、うちの温室育ちの花より、九条会長にはお似合いでしょう」そしてグラスを軽く掲げた。「お二人のことを、ひと足先に祝
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第320話

そのとき、宴会場の入口から突然、悲鳴が上がった。制服姿の警察官が数人、莉乃に案内されて会場へ入ってくる。莉乃は前置きもなく紗和を指さした。「この女です!あの日、私を縛り上げたのはこの女です。早く逮捕してください!」会場に衝撃が走った。警察官たちが紗和のもとへ向かおうとした瞬間、征臣はそれより早く動いた。ボディガードに合図し、行く手を塞がせて紗和へ近づけさせない。警察官たちも、力ずくで押し通ろうとはしなかった。征臣の立場も、その背後にある人脈も承知しているのだろう。あくまで冷静な態度を崩さず、告げた。「九条さん。そちらの女性には、不同意性交等事件に関与した疑いがかかっています。すでに証言と物的証拠もそろっており、事情を伺うため署までご同行いただく必要があります。捜査の妨げになるようなことはお控えください」会場は一瞬にして騒然となった。今日、紗和は九条家当主の婚約者として華々しく紹介され、誰もが見上げるような場所へ押し上げられたばかりだ。その紗和に、重大な性犯罪への関与が疑われているなど、誰が想像しただろう。紗和には、すぐに何のことかわかった。莉乃の結婚式で起きた、あの事件だ。あの一件で、莉乃は集団による事件への関与を疑われ、一度警察へ連れていかれた。その後、征臣から、莉乃は釈放された一方、事件に関わった裕福な家の男たちは逮捕され、不同意性交等罪に問われる可能性が高いと聞いている。あの日、莉乃は複数の男から性的暴行を受け、その様子まで撮影されていた。だが、そもそも罠を仕掛けたのは莉乃のほうだ。薬で紗和の意識を奪い、あの男たちの餌食にしようとした。紗和は逆に莉乃を取り押さえ、ベッドに縛りつけただけだった。そのあと、あれほどの事態になるとは思ってもいなかった。あのクラブには、莉乃や絵里香の息のかかった人間ばかりがいた。莉乃を拘束しておかなければ、追い詰められた彼女が誰かを呼び、紗和に危害を加えさせるかもしれない。そう考えただけだった。その後に起きたことは、紗和とは何の関係もない。とはいえ、莉乃がその事実を利用して自分に罪を着せようと思えば、できなくはないことも、紗和は認めざるを得なかった。莉乃を縛ったロープには、紗和自身が触れている。部屋を出てエレベーターへ向かう姿も防犯カメラに残っ
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