夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった のすべてのチャプター: チャプター 321 - チャプター 330

380 チャプター

第321話

会場は騒然となった。征臣の平手打ちは、まるで容赦がなかった。すぐそばで一部始終を見ていた紗和でさえ、思わず身をすくめたほどだ。紗和はもともと、この件には自分で対処するつもりだった。ところが莉乃は、まるで手柄でも立てたかのように征臣の前へ進み出て、紗和を罵った。それが征臣の逆鱗に触れたのだ。莉乃は腹をかばいながら、床に尻をついたまま動けずにいた。腹から倒れ込まなかったことだけが、せめてもの救いだった。頬には焼けつくような痛みが走り、たちまち涙があふれ出す。口元には赤黒い血がにじみ、その姿は見る者が思わず目を背けたくなるほど痛々しかった。頬に触れようと指を伸ばしたものの、あまりの痛みに、まともに声さえ出せない。「ど……どうして……私を……」周囲の男たちも、さすがにこれはやりすぎではないかと思ったらしい。恭介が前へ出て、莉乃を助け起こした。莉乃は、これほど目を引く男が自分に手を差し伸べてくれるとは思ってもいなかった。その一方で、同じ会場にいる誠一も怜央も、助けようとはしない。これほどの規模の邸宅で開かれる宴ともなれば、地元の名士たちにとっても無視できない席だった。誠一も、早くから会場を訪れていた。恭介は莉乃を支えながら、征臣に向かって言った。「九条会長。いくら何でも、妹さんにここまですることはないでしょう」騒ぎはすでに会場中へ広がっていた。莉乃の結婚式に出席していた者たちは事情を知っていたが、遠方から招かれた客たちは、周囲の話を聞いて初めて入り組んだ関係を知った。その話は、美玲の耳にも入った。征臣の隣にいる紗和には、離婚歴がある。前夫も名のある一族の後継者で、その御堂家については葉山家側も多少の事情を把握しているらしい。ところが、その前夫は征臣の妹と関係を持ち、妻と子を捨てて九条家との縁談を選んだ。しかも結婚式当日、莉乃の醜聞を収めた映像が会場で流された。婚約中の莉乃が、複数の男から性的暴行を受けている映像だったという。そして今、莉乃は、その事件に遭ったのは紗和に陥れられたせいだと訴えている。警察まで連れてきた以上、まったく根拠のない話とも思えない。少なくとも、警察が事情を確認するだけの材料があるのは確かだった。それにもかかわらず、征臣は妹を殴り、警察官
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第322話

「いったい……何をするつもり?」「焦らないで。この香りをゆっくり楽しんで。あなたのために用意したプレゼントよ。男なしではいられないから、いつまでも怜央くんにつきまとうんでしょう?今夜は、この街でも指折りの遊び人たちを呼んであげたの。思う存分楽しめばいいわ。今夜が終わったら、また母性に目覚めて、街じゅうの男の子どもを産みたくなるかもしれないわね」「莉乃……あなたは、どこまで卑劣で下品なの!」「恥知らずなのは、あなたでしょう!鏡を見たことがないの?貧民街育ちのごみ同然の女が、私の夫を誘惑して、怜央くんにつきまとっている。恥知らずで、ふしだらなのはあなたよ。今日は望みどおり、徹底的に堕としてあげる」「私はもうあの人と離婚したの……あなたもすぐ彼と結婚するんでしょう。それなのに、どうしてまだ私を放っておけないの?」「そんな男を惑わせるような顔で、いつまでも怜央くんを誘惑するからよ。あの人が二度とあなたに触れたいと思わないようにしてやる!」「あなたは晴翔をそそのかして、私の脚が動かなくなるほどの怪我を負わせた。やっと治ったばかりなのに、それでもまだ足りないの?どうしてまた、こんなひどいことができるの?」「ええ、晴翔をそそのかしたのは私よ。それが何?怜央くんがあなたの言うことを信じるとでも思ってるの?あの人が信じるのは私だけよ。もう一つ教えてあげる。私の脚はね、ホームレスに襲われて金品を奪われたうえ、引きずり回されて怪我をしたの。でも、あなたに仕返しされたって言ったら、怜央くんは何の疑いもなく信じたわ。どう?身に覚えのない罪を着せられて、さぞ悔しかったでしょうね。でも、今夜はそんなものじゃ済まないわよ。好き放題されて、徹底的に踏みにじられるの。そうなったらもう、誰もあなたをまともな目では見なくなるわ」……録音は、あの日の真相をありありと暴き出した。莉乃は婚約披露の場に紗和を招くふりをして、薬で意識を奪った。さらに催淫作用のある香りを嗅がせ、複数の男に辱めさせようとしたのだ。莉乃は全身を震わせた。「嘘よ……こんなの嘘。合成された音声よ!」征臣は冷然と言い放った。「本物かどうかは、警察に鑑定してもらえばわかる」莉乃は、録音が本当に残っていたばかりか、征臣が公の場で流すとは夢にも思っていなかった。慌てて征臣の
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第323話

紗和はようやく、征臣が警察を堂々と足止めし、莉乃に容赦なく手を上げた理由を理解した。形勢は一瞬にして逆転した。先ほどまで成り行きを見守っていた人々の見る目も変わり、今度は莉乃を責める声があちこちから上がり始める。とりわけ厳しかったのは、女性客たちだった。「望月社長の上場セレモニーでは、妊娠したことをあんなに得意げに話していたでしょう?人の夫を奪っておいて、元の妻まで陥れようとするなんて……やっぱりおかしいと思っていたのよ。望月社長が、そんな卑劣なことをする人には見えなかったもの」「九条会長に、あんな妹がいたなんて信じられない。相手が事を荒立てず黙っていたのをいいことに、今度は自分を陥れた犯人に仕立て上げようとするなんて、最低ね」「ここまで悪質なら、九条会長だって、きちんと責任を取らせるべきじゃない?」「でも望月社長は、自分から訴えようとはしなかったんでしょう?九条家の令嬢が帰国早々逮捕なんてことになれば、一族の評判にも関わるもの。だから今までは、やり直す機会を与えていたのかもしれないわね」「九条会長がどうするかね」膝をつき、必死に許しを乞う莉乃を前にしても、征臣の表情はほとんど動かなかった。そもそも、莉乃とは血のつながりすらない。九条家の令嬢を名乗る偽物が、自ら征臣の目の前までやって来て、勝手に墓穴を掘っているだけだ。莉乃が外で九条家の令嬢を名乗り、その肩書を振りかざす程度なら、征臣も目をつぶることはできた。むしろ莉乃を餌にして薫子を油断させ、遺産を分け合うつもりがあるように見せかけながら、最後には本来紗和のものであるすべてを取り戻すつもりだった。征臣が守るべき一線に触れない限り、好きにさせておくこともできた。だが今回は、明らかにその一線を越えている。もう一度手を回し、今度こそ莉乃を警察に拘束させるべきか。征臣がそう考えた、そのときだった。年老いた女の声が、会場に響いた。「征臣。今回だけは、莉乃を許してあげて」薫子が左右から支えられながら、宴会場へ入ってきた。その影響力を知らない者はいない。人々は自然と左右へ下がり、薫子のために道を空けた。人前である以上、征臣も最低限の体裁だけは整える。「おばあさま。どうしてこちらへ?」そう口にはしたものの、自ら迎えに行く気はないらし
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第324話

怜央の声には、心からの悔恨がにじんでいた。一見すると淡々と事実を語っているだけのように聞こえる。だが実際には、莉乃に対する何より痛烈な告発だった。莉乃は妊娠を理由に、紗和と怜央の離婚が成立する前から婚約を迫った。それなのに、まだ夫婦だった二人が顔を合わせることさえ、紗和が怜央につきまとっている証拠のように言い立てていたのだ。これではもう、莉乃に言い逃れの余地はない。会場にいた誰もが、彼女がどんな人間なのかを察していた。薫子は眉間に深いしわを刻み、怜央を鋭く睨みつけた。その目は、獲物を狙う蛇のように冷たかった。ここまで言うことが変わる男を、薫子は見たことがない。以前、誰を愛しているのかと尋ねたとき、怜央は確かに莉乃だと答えた。だからこそ薫子も、莉乃を利用して御堂家との縁談を進めることを決めたのだ。ところが、それ以降の怜央はまるで手綱の切れた馬のように誰にも止められなくなり、今では大勢の前で元妻をかばっている。紗和も、怜央が自分のために口を開くとは思っていなかった。話しているあいだ、怜央の声はわずかに震えていた。何度もためらうように紗和へ目を向けていたが、紗和は一度も見返さなかった。ただ征臣の胸元に、どこか意地を張るようにぴたりと身を寄せている。この件を紗和自身の口から説明するのは、難しかった。征臣を刺激したくない以上、自分から怜央との過去を持ち出したくはない。だが、何を説明するにしても、怜央との関係を避けて通ることはできなかった。それに、紗和がどれだけ言葉を尽くすよりも、怜央本人が口にしたほうが、はるかに説得力がある。「もういい」征臣が不快そうに口を開いた。低い声には、誰にも逆らわせない圧があった。「莉乃はもう子供じゃない。自分のしたことには、自分で責任を取らせます。被害を受けた紗和を差し置いて、俺が勝手に許すことはできません」だが薫子は引き下がらなかった。「征臣、家族でしょう。いつまでもこんなふうに争っていてどうするの。莉乃はあなたと一緒に育った子なのよ。どうすれば、この件を水に流してくれるの?」薫子がここまで折れたのは、征臣の人脈と実力を目の当たりにし、これ以上完全に敵対するのは得策ではないと判断したからだ。御堂家の人間も、この会場にはいる。何として
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第325話

薫子は、本心ではこの話を受け入れるつもりなどなかった。ゆっくりと紗和の前まで歩み寄り、その手を取る。年老いて乾いた掌で紗和の手を撫でながら、いかにも相手を思いやっているかのような口調で語り始めた。「女性にとって一番大切なのは、夫を支えて、家庭を守ることではないかしら。征臣はあなたをとても大切にしているようだし、妻としての役目をきちんと果たしていれば、穏やかで幸せな結婚生活を送れるはずよ」薫子は優しく微笑んだ。「仕事を始めれば、会食や付き合いでお酒を飲む機会も増えるでしょう。家を空けることだって多くなる。家庭と仕事を両立するのは、そう簡単なことではないわ。あなたもそう思わない?」紗和自身に辞退させようという、実に巧妙な誘導だった。薫子からすれば、紗和の生まれやこれまでの経歴を考えれば、征臣ほどの男に選ばれ、真っ先に皆の前で紹介してもらえただけでも、十分すぎるほどの幸運なのだろう。その立場を羨み、奪おうとする女はいくらでも現れる。わざわざ仕事を始めて余計な面倒を抱え込むより、征臣の心をつなぎ止めることに専念したほうがいい。女が仕事で力を持てば、かえって夫婦関係にひびが入る。薫子は、紗和にそう思わせようとしていた。表向きは、あくまで紗和の幸せを案じているように聞こえる。紗和は素直にうなずいた。「おばあさま。私と征臣のことを認めてくださって、ありがとうございます。おばあさまにも支えていただけるのなら、ぜひ挑戦したいです。征臣が教えてくれて、後ろ盾にもなってくれるなら、私にもきっとできると思っています。誰にも劣らないくらい、しっかりやってみせます」言い終えた途端、薫子の顔色が変わった。紗和には、はっきりとした意志がある。野心もあり、征臣の考えが何を意味しているのかも理解していた。何より、この話は紗和自身にとっても願ってもない機会だった。九条グループの内部へ入り、株主や経営陣と直接接触できる立場にならなければ、両親の死の真相を追うことはできない。たとえ薫子がここで認めなくても、征臣ならいずれ別の機会を作ってくれただろう。ただ、その時期はもっと先になっていたはずだ。せっかく目の前に転がり込んできたこの好機を、紗和に逃すつもりはなかった。薫子はひと息置き、莉乃を呼んだ。「莉乃、こちらへ来
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第326話

怜央は、その後ろ姿を見つめていた。唇がかすかに動き、紗和の名を形作る。何かをつかもうとするように手を伸ばしたが、その先にはもう何もなかった。紗和は最初から最後まで、一度も怜央を見なかった。まるで、初めから知らない人間であるかのように。怜央が話しているあいだも、何度となく視線を送った。それでも紗和は、ただの一度も目を向けなかった。怜央は驚き、同時にどうしようもない無力感に襲われた。紗和が、どうして突然……いくら考えても、答えは出なかった。そのとき、明るい声が飛んできた。「おい、ずいぶん女運がいいんだな」玲司のほうから、怜央に声をかけてきた。「九条さんの女は、御堂社長の元妻なんだろう?そのうえ、今度は九条さんの妹と一緒になったって?九条家の女を二人も選ぶなんて、よほど縁があるらしい」怜央は胸の奥に込み上げた苦いものをのみ込んだ。玲司は心底楽しそうに笑っている。笑顔で話しかけてきた相手を殴りつけるわけにもいかない。しかも玲司は、地位も財力も影響力も持つ男だ。表情をこわばらせながらも、怜央は礼を失わないよう答えた。「俺だって、こんなことを望んでいたわけじゃない……あの頃は、どうかしていた」玲司は声を上げて笑った。怜央が、妊娠している今の相手には目もくれず、紗和の後ろ姿ばかり未練がましく追っていたことにも、とっくに気づいているのだろう。今の言葉が誰のことを指しているのかも、玲司にはわかっているはずだ。それでも玲司は、慰めるような口調で言った。「別れたものは仕方ない。もう考えるな」怜央は、それでも諦めきれなかった。「離婚届は、まだ受理されていない」玲司の笑みが止まった。このまま怜央を放っておくのはまずいと感じたらしい。「受理されたかどうかなんて関係ない。今のあの人は、もう九条さんの女だ。さっき見ただろう?九条さんは身内にだって容赦しない。九条さんの女を取り戻そうなんて考えたら、本当に殺されかねないぞ。行こう。外で少し遊ばないか」怜央は重い息を吐き、胸の奥に渦巻く感情を押し殺しながら、黙ってうなずいた。征臣の苛烈さは、その場にいた誰の想像をも超えていた。怜央から見れば、莉乃は腹に子を宿した征臣の妹だ。それでも征臣は、大勢の前で容赦なく頬を打ち、床に倒れるほど
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第327話

それだけではない。身体の手入れまで、いつも以上に念入りに済ませていた。紗和は、征臣の気持ちを一つずつ確かめるように、これまでのことを思い返した。征臣は以前、自分に恋愛感情はないと言っていた。けれど、その言葉を自ら何度も覆している。昔の二人が親しげに写る写真を見せてくれた。困ったときには助け、危険から守り、料理まで作ってくれた。つらい時期にも、ずっとそばにいて支えてくれた。その一つひとつが、本当に何の愛情もなくできることなのだろうか。初めて会ったときの征臣の態度が、その後の印象を決めてしまっていた。だから紗和はずっと、征臣は自分に恋愛感情など抱いていないのだと思い込んできた。征臣自身も、初めからそういうつもりだとはっきり言い、その後も何度か同じことを口にしている。前回は、まだ紗和に覚悟ができていなかった。今だって、征臣が本当に自分を愛しているのかと問われれば、断言はできない。それでも、心の準備はできていた。何より、二人で過ごす時間を重ねるうちに、紗和の中にも彼に触れたいという自然な欲求が芽生えていた。征臣に促され、紗和は寝室の奥へ進んだ。入口には巨大なガラス壁が設けられ、その足元には密閉された水槽が埋め込まれている。色とりどりの魚が泳ぐ幻想的な通路を抜けると、その先に寝室が広がっていた。室内は礼拝堂を思わせるほど広い。床一面には、絹と羊毛を織り合わせた白い手織りの絨毯が敷き詰められ、裸足で歩けば足裏が沈み込むほど柔らかかった。中央に置かれた大きなベッドも、見るからにふっくらとしている。壁一面を占める窓の向こうには専用のインフィニティプールがあり、そのさらに先には広大な湖が続いていた。紗和は、これほどの贅沢を想像したことさえなかった。けれど、ゆっくり湖を眺める暇もないまま、征臣の腕に引き寄せられる。漆黒の瞳の奥に、濡れたような淡い光が宿っていた。紗和は以前から、征臣の目は綺麗だと思っていた。大きく澄んでいて、どこか少年のような無垢さすら残している。ただ普段は、人を見下ろすような強烈な圧があり、まともに見つめ返せる者がほとんどいないだけだ。気づけば紗和は、壁際までゆっくりと追い詰められていた。「前に、関係を正式に認めたら、俺の求めに応じると言ったな」
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第328話

腰に巻かれたタオルは、かろうじて留まっているだけに見えた。拭ききれていない水滴が、肌の上をゆっくり伝っている。普段の征臣は、いつだって隙なく身なりを整えている。それなのに今日は、身体の水気すらろくに拭き取らず、髪も半乾きのままだ。内心では、それほど待ちきれなかったのだろう。紗和は、細い肩ひものナイトドレスをまとっていた。征臣の姿を認めると、その裾にそっと手をかける。滑らかな生地が肌をすべり、するりと足元へ落ちた。征臣が息を止めた。これほどはっきりと、紗和のすべてを目にしたことはない。世界で最も美しく、何より大切なものが、今、目の前にある。以前も一度、理性を失いかけたことはあった。だがあのときは距離が近すぎて、こうして全身を目にする余裕などなかった。今は違う。紗和の瞳には駆け引きも誘惑もなく、ただ静かな情愛だけが宿っていた。どこか迷子の小鹿を思わせるような、まっすぐで無垢な眼差しだった。それでいて、わずかに噛んだ柔らかな唇も、しなやかな身体の曲線も、成熟した女性だけが持つ豊かさと生命力に満ちている。細い腰には余分な肉がほとんどなく、その華奢さと柔らかな曲線との対比が、息をのむほど美しかった。まるで、絵の中からそのまま抜け出してきたようだった。征臣が言葉もなく見入っていることに気づき、紗和は自分から歩み寄った。そして、腰に巻かれたタオルへ手をかける。露わになった身体は、まるで彫刻のように均整が取れていた。筋肉は過度に盛り上がっているわけではない。もともとの大きな骨格に沿って、必要なところにだけ厚みのある筋肉がついている。厚い胸板に、広い肩。そこから引き締まった腰へ落ち、長い脚へと続く。胸から腹、脚に至るまで、どの線にも無駄がなく、力強さがあった。以前、征臣の身体を洗ってやったことはある。それでも、こうして正面からゆっくり見るのは初めてだった。紗和は背中にも目を向けた。特別な鍛錬をしているわけではないというのに、背筋は翼を広げたような美しい線を描き、身体全体に力が満ちている。征臣は紗和を抱き上げ、そのまま寝室の中央へ向かった。紗和は次々と落ちてくる優しい口づけを受け止めながら、不意に尋ねた。「征臣。葉山家は、どうしてもあなたと縁を結びたかった
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第329話

だが薫子も、まさか征臣が縁談をきっぱり断りながら、葉山家との関係まで損なわずに済ませるとは予想していなかっただろう。初めから、すべて計算のうちだったのだ。紗和は改めて、征臣の思慮深さに感嘆した。「今は、そんなことに気を取られるな」言い終えるや否や、紗和が反応するより先に、その唇を塞ぐ。今までとは、まるで違った。絶え間なく押し寄せる波のような熱に、紗和はたちまちのみ込まれていく。ところが不意に、紗和はいたずらっぽく征臣の胸を押し返した。その瞬間、征臣の顔からすっと温度が消えた。バスルームから漏れる淡い光が、冷えた表情と、そこに滲む警告めいた色を浮かび上がらせる。紗和は思わず怯んだように布団へ潜り込んだ。ここまで来てもなお、何も隠さずにいるには恥ずかしさが勝ったのだ。だが次の瞬間、征臣はその布団を引きはがし、暗がりへ放り投げた。薄明かりの中で、険しかった表情がゆっくりと変わっていく。冷たさが消え、代わりにかすかな笑みが浮かんだ。やがてそれは、紗和がこれまで一度も見たことのない、どこか艶めいた意地の悪い笑みに変わる。もう逃がすつもりなどない。そう言わんばかりの顔だった。身体を縮こまらせた紗和を、征臣はもう一度自分のもとへ引き寄せた。「怖がるな」一度言葉を切り、低く続けた。「大切にする」寝室の中央に、かすれた声が静かに響いた。……しばらくして征臣が顔を上げると、紗和の艶を帯びた頬には、いつの間にか涙が伝っていた。その姿を見た途端、征臣の胸がわずかに痛む。鍛えられた大きな身体には、獲物を抱え込む獣のような力強さがある。それでも、紗和に触れる手つきだけはどこまでも慎重だった。力の抜けた紗和を片腕で抱き上げ、近くのソファへそっと横たえる。紗和は驚いた小鳥のように身を預けたまま、ほとんど動かなかった。頭がぼんやりして、考える余裕もないらしい。暗がりでソファから落ちないよう、征臣は脇のランプをつけた。淡い黄色の明かりが、寝室の一角だけを柔らかく照らす。その光のおかげで、紗和にも征臣が何をしているのか、はっきりと見えた。明暗の境に浮かぶ身体の線は、息をのむほど美しかった。立っているときも、身体をかがめたときも、男らしい力強さが際立っている。征臣
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第330話

その間、征臣はほとんど紗和の顔から目を離さなかった。「征臣……私……」言いかけた言葉を、征臣の低い声が遮る。紗和が何を訴えたいのかは、もうわかっていた。それでも、あえて念を押す。「一度始めたからには、簡単には終わらせない」「もう……簡単なんかじゃないわ」頭がぼんやりしていても、それくらいはわかる。もう十分すぎるほど時間が経っていた。征臣は紗和の顎に指を添え、親指で唇をそっとなぞった。そして、心の奥まで見透かすように目を細めた。「俺が用意したものは、全部受け取ってもらう」少しして、低い声が続いた。「冷えてきたか?」吐息には、満足げな気だるい笑いが混じっている。「俺が抱いていれば、寒くない」耳元に落ちるかすれた声に翻弄されながら、紗和は残った力で答えた。「寒く……ない」強がっているのに、どこか懇願するようにも聞こえる。その声を聞いた瞬間、征臣の中に潜んでいた意地の悪さが、また顔を出した。首筋へ顔を埋め、甘い香りを確かめるようにゆっくり息を吸い込む。「窓の外をゆっくり見たいって、ずっと言っていただろう?」紗和は必死に首を振った。「見ない……明日見るから……」だが、根っから腹黒い征臣に、そう簡単に太刀打ちできるはずもない。この男は、本当に狐も顔負けだった。普段は禁欲的で自制の利く顔をしているくせに、いざ本性を見せれば、誰よりも不埒で、誰よりも狡猾なのだから。征臣はその身体を抱き上げ、壁一面の窓へ連れていった。背後から、低い声が落ちてくる。「見ろ。湖がきれいだ」紗和が目を見開き、何か言おうとしたとき、膝にひんやりとしたガラスの感触が触れた。室内には明かりがついている。そのため窓ガラスには紗和の姿が淡く映り込み、背後にいる征臣の目にもはっきり見えていた。征臣は真っ赤になった耳に唇を寄せ、軽く噛む。そして、ひそやかな声で告げた。「知っているだろう。俺は今まで、一度も女に触れなかった。今日、お前のために初めて、自分で決めていたことを破った」それから、ごく当然のことのように続けた。「だから、これからは責任を取れ」紗和にはもう、言い返すだけの力が残っていなかった。ただ心の中で、この男は本当に意地が悪いと思う。以前は、どうしてあん
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