夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった のすべてのチャプター: チャプター 331 - チャプター 340

380 チャプター

第331話

「もう嫌」紗和は反射的に両手で顔を覆った。「わかった。もうしない」征臣は笑いながら、驚くほど素直に答えた。紗和が指の隙間からそっとのぞくと、征臣は何やら楽しそうに考えている。嫌な予感がした。紗和はこっそりベッドの端まで這い、逃げようとする。だがすぐに大きな手が伸びてきて、あっさりと引き戻された。「もう……」紗和は思わず声を上げた。「征臣、嘘つき!」「まだそれだけ声が出るのか」征臣は面白そうに目を細めた。「俺の努力が足りなかったらしいな」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、紗和は男の気配が変わったことを察した。征臣は逃がさないように、紗和の小さな手を大きな掌で包み込む。もっとも、今の紗和には本気で逃げ出すほどの力など残っていない。「昔のお前には、何度も腹を立てさせられた。いつか機会が来たら、一つずつきちんと清算してやろうと思っていたんだ」その声だけで、周囲の空気まで熱を帯びたように感じた。「これからも、俺を怒らせるつもりか?一度怒らせるたびに、こうして困らせてやる」紗和は心の中で、もうこの男を怒らせる勇気などないと思った。とはいえ、本当にひどい目に遭わされているとは感じていない。征臣の優しさは、ちゃんと伝わっていた。決して乱暴には扱わない。紗和の様子を見ながら何度も手を止め、頬や唇に口づけ、言葉をかけて安心させてくれる。強引に見えても、彼なりにずっと紗和を気遣っていた。窓の外は、すでにすっかり明るくなっている。さすがの征臣も、これ以上は続けられなかった。その気になれば今日一日どころか、この先1週間でも紗和を寝室から出さずにいられそうだったが、まだ片づけなければならないことが残っている。続きは、夜までお預けだ。紗和の胸の内は、静かな充足感で満たされていた。幸福感に包まれ、まだその余韻から抜け出せない。口では嫌だと言いながらも、こんなにも満たされた気持ちになるとは思っていなかった。これまで一度も味わったことのない感覚だった。征臣は紗和に、黒いドレスを選んだ。色合いこそ控えめだが、触れただけでも上質なものだとわかる。希少な天然繊維を丁寧に手織りした生地で、肌に沿う感触まで柔らかかった。征臣も黒のロングジャケットに、白いシャツ
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第332話

昨夜、玲司は怜央と意気投合し、場所を変えて一緒に酒を飲んだ。酔いが回った怜央は、紗和との過去を玲司に打ち明けた。玲司も初めは、気の毒な話だと思って聞いていた。もっとも、その内容は怜央にとって都合のいいように語り直されたものだった。紗和とは8年も一緒にいた。ところが莉乃に薬を盛られ、その莉乃が妊娠したことで、薫子から離婚を迫られた。そして紗和と別れた途端、今度は征臣に奪われた――怜央は、そう説明したのだ。莉乃との婚姻届はまだ提出していないことも、いつか必ず紗和を取り戻すつもりだということも話した。玲司がその話を疑わなかったのは、昨日の宴で怜央が見せた行動を目の当たりにしていたからだ。今の相手である莉乃が床に倒れても手を差し伸べなかった男が、元妻の名誉が傷つけられた瞬間には迷わず前に出て、真相を証言した。それでも玲司は、怜央に忠告した。「もう諦めろ。九条さんを相手にして勝てると思うか?こうなった以上、まだ元妻を取り戻したいと思ってることは、絶対に知られるな。お前だけじゃ済まない。御堂家まで無事じゃいられなくなるぞ。九条さんは今も、お前たちの会社の株を握ってるんだろ?」玲司は、純粋な親切心からそう言っていた。怜央の顔色は冴えなかったが、感情を爆発させる様子はない。理性を失っているわけではなく、ただ胸の内で苦しんでいるのだろう。征臣がわずかに指を動かすと、それを合図に執事が料理を運ばせた。まず運ばれてきたのは、伊勢海老を使った上品な椀物だった。続いて、肉厚の鮑をじっくり煮含めた一皿が並ぶ。紗和が黙々と食事をしていると、執事が征臣のそばへ寄り、声を落として尋ねた。「旦那様。花宮様がこちらで過ごしたいと仰っていますが、お通ししますか?」花宮様とは、莉乃のことだ。紗和は意識してそちらを見ないようにしていたものの、怜央が同じ食卓についていることには気づいていた。ただでさえ気まずいうえ、征臣を刺激するのも怖い。怜央のほうへ視線を向けることさえできなかった。ここにいる者は皆、多かれ少なかれ征臣を恐れている。紗和も正面から怜央を見る勇気はなく、ただ視界の端でその姿を捉えていた。それだけに、征臣が怜央のためにゲストルームを用意し、屋敷への宿泊まで許していることが不思議でならなかった。実際のところ、征臣はわざと怜
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第333話

薫子の言葉はあまりにも辛辣で、莉乃はついに泣き出した。それでも薫子は、まだ莉乃を見捨てるつもりはなかった。失敗した分は、すぐに取り返せと命じた。何としてでも征臣と恭介に近づき、二人がどんな取引を進めようとしているのか探らなければならない。薫子は昨日の宴にも、密かに人を忍び込ませていた。征臣が人前で縁談を断ったにもかかわらず、葉山家が怒って帰らなかったことを不審に思っていたのだ。征臣にできることなら、自分にできないはずがない。たとえ採算を度外視してでも、同じ案件を奪うつもりだった。紗和をグループに加えるという話まで出たのも、すべて莉乃の失態が招いた結果だと考えている。この件でも役に立てないのなら、代わりはいくらでも用意できる。そのとき自分がどうなるのか、よく考えておけ――そう脅された。莉乃は恐怖に震え、翌朝になると恥も外聞もかなぐり捨てて屋敷へやって来た。だが、門の前で警備員に止められた。征臣は莉乃を心底嫌っている。それでも、名目上は妹である以上、いつまでも完全に締め出し続ければ、かえって不自然に映ることもわかっていた。薫子からも電話が入り、莉乃に対する態度があまりに冷淡なせいで、事情を知らない古参の者たちまで彼女の素性を疑い始めていると責められた。まだ、正体を暴く時ではない。今後も莉乃を利用し、敵の警戒を解く必要がある。そう判断した征臣は、結局、中へ通すよう命じた。許可が下りると、莉乃は大喜びで食堂へ入り、迷わず怜央に一番近い席を選んだ。席につくなり、目の前に出された鮑を勢いよく食べ始める。妊娠中期に入り、急に食欲が増していた。その食べっぷりは、周囲が思わず目を向けるほどだった。怜央は思わず、嫌悪を顔に滲ませた。腹の子が自分の子供だとわかっていても、なぜか今の怜央には、莉乃の一挙一動が耐え難いものに感じられる。結婚式で恥をかかされたことも、昨日の宴で紗和に罪をなすりつけようとし、醜態をさらしたことも――そうした出来事が重なるたび、莉乃に対する情は怜央の中で少しずつ崩れていった。鮑を食べ終えた莉乃は、もう一皿欲しそうに征臣へ甘えた声を向けた。「お兄さま。この鮑、本当においしい。もう一ついただいてもいい?」征臣は、すぐには答えなかった。鮑一つ程度、惜しくも何ともな
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第334話

若き日の清隆は、ある商談の席で一人の女性と出会った。すでに家庭を持つ身でありながら、二人は強く惹かれ合った。彼女は妻の座も、公に認められることも望まなかった。数年にわたり清隆に寄り添いながら、彼の仕事にも家庭にも、一度として波風を立てなかった。清隆は、そんな彼女の献身に深く心を動かされた。のちに彼女が亡くなったあとも、決して忘れることのできない存在として、その面影は心の奥に残り続けた。清隆が人を遣わし、弔意を伝えさせたときのことだった。そこで初めて、彼女が清隆との間に息子を産んでいたことを知った。彼女は誰もが知るほどの人気女優だったため、子供の存在は徹底して隠されていた。表向きは彼女の年の離れた弟として育てられ、やがて海外へ移り住んだという。伝統芸能の家系で育ったその息子は、際立った才能に恵まれていた。そしてのちに、美雲を陰から支える伴侶となったのも、その男だった。美雲と夫がともに亡くなったあとになって、清隆はようやく知った。実の息子はすでにこの世になく、そのうえ孫娘まで行方がわからなくなっていたのだ。ちょうどその頃、征臣は九条家の名義で葉山家に融資を求めていた。真相を知ったばかりの清隆は、息子夫婦を死に追いやったのは九条家だと思い込み、激怒した。そして息子の葉山修一(はやま しゅういち)に、九条家には一切金を貸すなと厳命した。修一は従うほかなかった。こうした事情は、次の世代には何一つ伝えられていなかった。そのため恭介も長らく何も知らず、今回も征臣の屋敷へ美玲を伴ってやって来たのだ。恭介が一連の事情を知ったのは、出発前に祖父からすべてを打ち明けられたときだった。ただし、この過去を決して公にすることはできない。明るみに出れば、清隆が生涯をかけて築いてきた名声に傷がつく。恭介は、莉乃こそ清隆の実の孫娘だと信じていた。それでも事情を公にするつもりはなく、ただ胸の内で彼女を気遣っていた。清隆も同じだった。あの子には美雲の遺産がある。葉山家が表立って手を貸す必要はない――そう考え、莉乃の素性を公表するつもりはなかった。ただ、莉乃が拘束されたときだけは、わずかに手を回し、外へ出られるよう力を貸していた。そうした事情があったからこそ、恭介はほかの者よりも莉乃に寛容だった。
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第335話

昨夜、紗和と征臣は初めて身体を重ねたばかりだった。しかも征臣は以前から何度も、紗和との子供が欲しいと口にしている。それなのに、自分は隠れて避妊薬を飲もうとしていた。知られたらどれほど怒るのか、紗和には想像もつかなかった。ところが、征臣の顔に浮かんだのは、紗和がこれまで一度も見たことのない表情だった。その瞳には、痛々しいほどの心配が滲んでいる。「こういう薬が、どれだけ身体に負担をかけるか知ってるのか?」長いまつ毛がかすかに震えた。どうやら紗和は、この薬を以前から持ち歩いていたらしい。ここ数日、紗和はほとんど征臣の目の届くところにいた。口にするものも身の回りのものも、すべて彼の指示で用意されている。当然、この薬を用意したのは征臣ではない。紗和が誰にも会わず、突然こんなものを手に入れられるはずもなかった。クルーザーにもこの屋敷にも、外から自由に荷物を届けることはできない。だとすれば、一番可能性が高いのは、普段使っていたバッグの内ポケットだろう。小瓶は小さく、内ポケットも目につきにくい。征臣が気づかなかったのも無理はなかった。だが、今はもう見つけてしまった。湧き上がったのは、怒りよりも胸を抉られるような痛みだった。なぜ紗和は、避妊薬をいつも持ち歩く必要があったのか。怜央との結婚生活で、必要だったからではないのか。好き好んで、こんな薬を飲み続ける女などいない。征臣は紗和の顎に手をかけた。「もう飲んだのか?飲んだなら吐き出せ……頼むから」怒りとも焦りともつかない感情に揺れながら、それでも口調だけは命令するように強かった。「まだ……飲んでない」紗和自身にも、なぜなのかわからなかった。今にも何かが壊れてしまいそうな征臣の顔を見ていると、ひどく胸が痛んだ。たまらず、事情を打ち明けた。「ごめんなさい。本当は先に相談するべきだった。征臣、私、九条グループでちゃんと仕事がしたいの。でも入ってすぐに妊娠したら、あなたの人を見る目まで疑われるし、私自身の実力だって認めてもらえないと思う」紗和は視線を落とした。先ほどソファに座ってから、ずっとそのことを考えていた。今はまだ、子供を持つ時期ではない。「だから避妊しようとしたのか?」「うん」紗和は小さくうなずいた。征臣は
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第336話

けれど、それは紗和の考えすぎだった。征臣が本当に紗和に何かを渡すつもりなどないのなら、もっと早く、いくらでも手を打てたはずだ。その気になれば、紗和一人の人生など簡単に潰せる。それでも征臣は、大勢の前で紗和を自分の伴侶として紹介し、名家との縁談まで退けた。奪うどころか、紗和が想像していた以上のものを与えようとしている。胸の奥にこびりついていた不安が、ようやく少しずつ薄れていった。「ありがとう、征臣……そうだ、私、親友がいるの。今度ここに遊びに来てもらってもいい?」征臣の目元が柔らかく緩んだ。「ここはお前の家だ。好きにすればいい」紗和が素直に気持ちを切り替え、もう薬を飲むとも言わなくなったことで、征臣の機嫌も自然と直っていった。やはり紗和は、幼い頃と変わらない。素直で、少し宥めればきちんとこちらを向いてくれる。昨夜も、自分でもやりすぎたと思うほど求めてしまった。それでも最後には、ちゃんと落ち着かせることができた。紗和は何もかも申し分ない。穏やかで、驚くほど素直だ。顔立ちは息をのむほど美しく、身体も征臣の好みにこれ以上ないほど合っている。あとは、自分を愛してくれさえすればいい。それ以上、望むものなどなかった。そんなことを考えていると、紗和が顔を上げ、甘えるように身体を寄せてきた。「征臣、少し外を歩きたい。付き合ってくれる?」紗和はまず、これから自分が暮らす場所をきちんと知っておきたかった。まだ母屋の外にさえ、ほとんど出ていない。彩葉を招いたとき、自分で庭や施設を案内できるくらいには、この屋敷のことを把握しておきたかった。征臣は迷わずうなずいた。そして勲と秘書に指示し、予定していた海外とのオンライン会議まで延期させた。今日は仕事を切り上げ、紗和に付き合ってゆっくり過ごすつもりらしい。陽射しは穏やかだった。ところがテニスコートに着いた途端、紗和は来なければよかったと少しだけ後悔した。コートでは、美玲が軽快に動き回っていた。身体のラインがよくわかるスポーツウェアに身を包み、額に汗を浮かべながらラケットを振っている。向かいで相手をしていたのは、恭介だった。二人に気づいた恭介はラケットを置き、水を飲みながらこちらへ歩いてきた。「征臣。勲さんたちから、午
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第337話

そんな美玲の思惑に、紗和が気づかないはずもなかった。美玲の目には、征臣への憧れと熱が隠しきれずに滲んでいる。だが征臣は、そんな視線などまるで気づいていないかのように、受け取ったラケットをそのまま紗和へ差し出した。「帰ってきてから、ずっと休んでばかりだっただろ。ろくに身体も動かしてない。お前が打て」紗和は一瞬だけ迷ったものの、すぐに笑ってラケットを受け取った。「うん。じゃあ、やってみる」恭介は少し驚いた。「征臣、望月さんもテニスできるのか?」見下しているわけでも、皮肉を言っているわけでもない。純粋に紗和を心配したのだ。恭介は、美玲が紗和をひどく嫌っていることを知っている。縁談がなくなったのも、すべて紗和のせいだと思っていることも。そんな美玲が、試合にかこつけて紗和に無茶な球をぶつけないか、それが気がかりだった。紗和は穏やかに笑った。「少しだけなら」すると美玲が、不満そうに口を挟んだ。「できるならできる、できないならできないでしょう?『少しだけ』なんて変よ。征臣さんは、このコートまで造ったくらいだから、お上手なんでしょう?私は征臣さんに教えていただきたいわ」まるで紗和が無理にラケットを奪ったとでも言いたげな口ぶりだった。だが征臣は、何でもないことのように答えた。「俺も恭介と同じで、テニスはほとんどやらない。このコートは紗和が少しできるから、そのために造った」その一言で、美玲の表情が目に見えて曇った。ちょうどそのとき、別の声が聞こえてきた。「お兄さま、ここにいたのね」笑みを含んだ、親しげで耳当たりのいい声だった。だが紗和には、聞くだけで気分が悪くなる声だ。やって来たのは莉乃だった。薫子に命じられ、征臣と恭介がどんな取引を進めているのか探るため、こうして屋敷に入り込んでいる。葉山グループがドイツ製の全自動設備を25台導入する計画は、まだ入札前で、外部には一切公表されていない。ただ実際には、取引先の候補はすでにかなり絞り込まれていた。そのことを知る者も、ごく一部に限られている。恭介がこの屋敷に招かれ、征臣と商談を進めていることも、本来なら外に漏れてはならない話だった。正式に発表されれば、関連企業の株価にも影響が出る可能性があり、美玲自身にも大きな利益が関
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第338話

莉乃はすぐに口を挟んだ。「紗和さん、テニスって難しいのよ。美玲さんが簡単そうに打ってるからって、自分にもできると思わないほうがいいわ。美玲さんは本格的にやってるんだから。無理して怪我でもしたら、あとで腹を立てるでしょう?やめておいたほうがいいんじゃない?」恭介も、それには一理あると思った。美玲が私情を持ち込み、わざと強い球を打ってくるのではないかと、彼も心配していたのだ。「望月さん、無理しないほうがいい。俺がこのまま美玲の相手をする」間に入ろうとしたが、紗和は淡く笑って断った。「大丈夫です」こうして、一対一の試合が始まった。紗和はまだ十分に身体が温まっておらず、序盤は美玲に立て続けにポイントを奪われた。莉乃が得意げに、美玲へ声援を送る。だが紗和はほどなく、美玲の弱点を一つ見抜いた。そこを集中的に突き始めると、試合の流れは一気に変わった。余裕を見せていた美玲も次第に押され始め、互いに譲らない展開へと変わっていく。やがて美玲は、紗和の球についていけなくなった。恭介は、とっくに様子がおかしいことに気づいていた。「望月さん、初めてどころか、『少しだけ』って腕でもないだろ。ずいぶん強いじゃないか」征臣は笑うだけで、何も答えなかった。実際、紗和はテニスができる。それも、以前かなり真剣に練習したことがあった。大学1年の頃、学内でテニス大会が開かれ、優勝賞金は6万円だった。紗和はどうしてもその金を手に入れ、祖母の誕生日プレゼントを買いたかった。そこで必死に練習を重ね、見事優勝したのだ。社会人になってからは、ほとんどラケットを握っていない。それでも一度身につけた基礎は、身体にしっかり残っていた。しばらく打ち合ううちに、当時の感覚も少しずつ戻ってくる。一方、美玲の顔は真っ赤になっていた。暑さのせいではない。恥ずかしさと怒りのせいだった。初めは紗和を一方的に圧倒し、1ポイントも与えずに負かすつもりだった。ところが、紗和の動きは時間が経つほどよくなっていく。反対に美玲は、次第に守るだけで精いっぱいになった。それでも、自分の実力が足りないとはどうしても認められない。紗和ができないふりをして油断させたせいで、本来の力を出せなかったのだ――そう思い込んだ。だが実際の
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第339話

ここで紗和が「何て言われてるの?」と聞き返せば、美玲は待ってましたとばかりに過去の噂を並べ立てるだろう。そうやって傷つけるつもりなのだ。わざわざ相手の思惑に乗り、自分の過去を好き勝手に論評させるつもりはなかった。紗和は、ふっと笑った。「知る必要なんてないわ。他人が何を言ってるかなんて、どうでもいい。あなたが何を言いたいのかも、聞くつもりはない。そもそも私、あなたのこと嫌いなの。私の性格や考え方が気に入らないなら、一つだけ言っておくわ。だから何?あなたに何ができるの?」そう言って、美玲の目をまっすぐ見つめた。その瞬間、美玲は思わず息を呑んだ。紗和の眼差しには、気圧されるほどの強さがあった。すぐには言葉が出てこない。言い返せなかったこと以上に、自分が紗和に嫌われていることも、相手にする価値すらないと思われていることも、美玲には耐え難かった。何より許せなかったのは――あなたには私をどうすることもできない、と真正面から突きつけられたことだった。紗和は美玲をひと目見据えると、そのまま背を向けて立ち去った。その頃、屋敷の別の場所では、怜央と玲司が遅い眠りからようやく目を覚ましていた。和樹に誘われ、3人で温泉につかり、疲れを取ることにした。玲司はもともと夜型で、怜央は昨夜、失意のままかなりの酒を飲んでいる。二人ともまだ眠そうな顔で、湯船の縁にもたれていた。玲司は怜央を気の毒に思う一方、酔った勢いとはいえ胸の内をすべて打ち明けてきた姿を、どこか放っておけないとも感じていた。怜央の話にそれほど嫌悪を抱かなかったのは、玲司自身、夜の街で、妻がいながら平然と外で遊ぶ男を嫌というほど見てきたからでもある。少なくとも怜央は、結婚中に外で遊び回っていたわけではない。妊娠した女に対して責任を取ろうともしている。3人は、そのままとりとめのない話を続けた。昨日は港都からも多くの名家が訪れていた。その中でも玲司と和樹が特に厚く迎えられたのは、九条家と古くから付き合いがあるためだ。中でも三浦家は、望月家とも遠い縁でつながっていた。関係をたどれば、玲司は九条家の令嬢にとって、遠縁の叔父にあたる。もし怜央が本当にその令嬢と結婚していれば、怜央にとっても親族になっていたはずだった。玲司は、ふと思い出したよう
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第340話

「この人が、莉乃の父親だって言うのか?」一度にあまりにも多くの事実を突きつけられ、怜央の頭は混乱していた。考えがまるで追いつかない。莉乃の父親なら知っている。邦彦という、どこか脂っぽく野暮ったい中年男だ。写真の中でピアノを弾いている、涼やかで端正な男とは似ても似つかない。だが玲司は、当然のことのように答えた。「そうだよ。このピアノを弾いてる人が、あの子の父親だ。伝統芸能の家の人で、たしか女方ではなく、立役を得意にしていたはずだ。舞台は見たことないけど、とにかく顔のきれいな人だった」少し懐かしむように、玲司は続けた。「初めて会ったときは本当に驚いたよ。端正って言葉がそのまま人の形になったみたいでさ。今まで見た男の中でも、一番と言っていいくらいきれいだった」どう考えても、邦彦とは別人だ。それでも怜央は、最後まで確かめずにはいられなかった。「名前は?」玲司は首をひねった。「その頃はまだ子供だったから、さすがに覚えてないな。ただ、名前に『明』って字が入ってた気がする」これではっきりした。邦彦であるはずがない。そして、莉乃の父親が邦彦であることも間違いない。だとすれば、答えは一つしかなかった。莉乃は九条家の令嬢ではない。偽物だ。征臣や勲が、莉乃にあれほど冷淡だった理由もようやくわかった。二人が莉乃を少しも好かず、身内として扱おうとしないのは、最初から偽物だと知っていたからなのだ。もっと早く、その可能性に気づくべきだった。そうでなければ、いくら何でもあそこまで露骨に冷たくする理由がない。では、莉乃はどうやって九条家の令嬢になりすますことができたのか。怜央の頭に、すぐ薫子の顔が浮かんだ。あれほど莉乃を全面的に庇っている以上、薫子が偽装を知らないはずがない。邦彦と薫子は以前から親しく、邦彦自身も何度も九条家に出入りしていた。それなら、なぜ薫子は莉乃を九条家の令嬢に仕立て上げたのか。御堂家を騙し、縁談をまとめるためだけなのか。考えても、すぐには答えが出なかった。ただ一つ確かなのは、自分がこれまで信じてきたものが、根底からひっくり返ったということだけだった。怜央が黙り込んでいるのを見て、玲司が不思議そうに顔を覗き込んだ。「どうした、怜央。顔色悪いぞ」
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