All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

紗和は笑いそうになった。千鶴子には、もう散々責められたあとだ。怜央は深く息をつくと、困り果てたように言った。「もうそんな意地を張るのはやめてくれないか?」「意地を張っているわけじゃないわ」紗和は怜央を見つめた。「ただ、あなたが嫌いなの。同じ部屋にいるだけで、吐き気がする」怜央はその場で凍りついた。まるで鋭い何かに突き刺されたように、声を荒らげる。「今、何て言った?俺が気持ち悪いだと?」紗和が自分にそんな言葉を向けるなど、信じられなかった。その一言で、これまで自分に言い聞かせてきた理屈が崩れ始めた。以前、紗和にもう愛していないと言われたときも、怜央はまるで信じなかった。ただ腹を立てて、拗ねているだけだと思っていた。だが今度は、気持ち悪いとまで言われたのだ。怜央は我を失いかけ、紗和の腕を強くつかむと、その唇をじっと見つめた。そして突然、襲いかかるように唇を重ねた。これまで怜央が普段から紗和にキスをすることはなかった。キスをするのは、決まって夜の営みのときだけだった。そのときだけは彼女を離そうとせず、何度も唇を奪った。だから紗和も、こんな展開になるとは思っていなかった。だがすぐに頭が冷えた。怜央は昔と何も変わっていない。結局、また自分の欲を満たしたいだけなのだ。紗和は必死に抵抗した。怜央の髪を何本も引き抜きそうになるほど激しく振りほどいて、ようやく解放された。怜央には分からなかった。以前のあの優しく従順だった紗和は、どこへ行ってしまったのか。紗和の爪が食い込み、怜央の顎には血がにじんでいた。彼は失望したように紗和を見た。「どうしてそこまで意地を張るんだ。確かに俺は莉乃を大切にしている。だが、妻はお前だ。それでも何が不満なんだ?これまで俺がお前を顧みず、莉乃ばかり優先してきたとしても、だからって、ここまで拒むことはないだろう。いったいどうしたんだ。子どもを持つことも嫌がって、今度はキスさえ拒む。俺と完全に縁を切れば、それで満足なのか?忘れるな。俺を愛している、一生そばにいたいと言ったのはお前だ。俺と別れて、どこへ行くつもりだ?まさか桐生拓真のほうが、俺よりいい男だとでも思ってるのか?俺以上の男には、もう出会えない。このまま突き放し続けたら、本当に後戻り
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第82話

その夜、紗和は気持ちよく眠っていた。だが、なぜか突然息苦しさを覚え、目を開けた。怜央が腕を回し、脚まで絡めたまま、深く眠っていたのだ。紗和は腕をどかそうとしたが、怜央の腕は重かった。暗闇に目が慣れるまで、しばらくぼんやりと天井を見つめる。やがて、何が起きたのか理解した。怜央は、紗和が自分と一緒に寝ていないことを宗一郎に知られるのを恐れたのだろう。そのため、紗和が眠ったあとに部屋の扉を開け、ここで寝ることにしたのだ。少なくとも別室で寝ていなければ、執事から宗一郎へ報告されることはない。使用人たちに何か勘ぐられ、噂をされても、わがままを言っているのは紗和のほうだと思われるだけだ。怜央は寝るときでさえ妻から離れようとしないのだから、彼に非があるはずがないということになる。紗和は怜央の腕を持ち上げようとした。だが、男女の力の差を甘く見ていた。怜央はただ腕を乗せているだけなのに、どうしても動かせなかった。そこで、起こすことにした。「怜央!」怒りを含んだ声に、怜央はようやく目を覚ました。紗和が腹を立てていることに気づいたのか、一瞬動きを止めたあと、腕をほどいた。紗和がベッドの端から起き上がろうとすると、怜央は再び引き戻した。「もう少し寝よう」そして、言い添えた。「何もしないから」だが紗和は応じなかった。怜央の手から腕を抜き、そのまま洗面所へ向かって身支度を整えた。洗面所から戻る頃には、怜央もすっかり目を覚まし、ベッドの中央に座っていた。「本当に、もう俺を愛していないのか?莉乃なら、俺が抱きしめてもこんな態度は取らない」怜央はそう言った。紗和は返事もせず、部屋を出た。階下へ下りると、千鶴子もすでに起きていた。しばらくすると、家政婦が目を覚ました晴翔を抱いてやって来た。「みんな起きたのなら、先に朝食にしましょう」千鶴子が言った。朝食を終える頃から、少しずつ客が訪れ始めた。今日は宗一郎の80歳を祝う宴の初日だった。宴は7日間にわたって開かれ、その間、祝いに訪れる客を毎日もてなすことになっている。御堂家の直系親族や親しい友人は奥の広間へ通され、最高級の料理と酒が振る舞われる。通りがかりの人々にも、庭に席を設けて料理を提供することになっていた。そちら
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第83話

紗和は視線を外すと、莉乃をわざわざ出迎えようとはせず、そのまま隣の給湯室へ水を飲みに入った。だが突然、背中に冷たい視線を感じた。振り返ると、莉乃も給湯室に入ってきて、紗和を見つめていた。その目には、陰鬱な嫉妬がにじんでいる。紗和が御堂家の将来の女主人として客をもてなしていることが、妬ましくて仕方がないのだろう。紗和は相手にしなかった。そこへ、怜央が入ってきた。紗和に少し用があって捜しに来たのだが、莉乃の姿を見つけると、わずかに顔色を変えた。怜央と莉乃の関係については、宗一郎が怜央を後継者候補として見定め始めた際、すでに詳しく調べられていた。だから怜央は、莉乃には来てほしくなかった。だが、彼が口を開くより先に、莉乃がか細い声で呼びかけた。「怜央くん」莉乃は怜央のそばにいる紗和を完全に無視した。蔑むような視線を紗和に向けたあと、そっと怜央の腕に自分の腕を絡ませる。まるで自分こそが本物の御堂夫人で、紗和は御堂家に仕える家政婦にすぎないとでも言いたげだった。怜央は、この場でそのような振る舞いをするのはまずいと思ったのか、さりげなく腕を抜いた。「どうして来たんだ?」「今日はおじいさまのお誕生日のお祝いでしょう。私が来ないわけにはいかないわ」莉乃は紗和を無視したまま、熱を帯びた目で怜央を見つめた。「怜央くん、今日は絵里香さんと一緒に来たの。それから、絵里香さんに私と一緒にイギリスへ行ってもらえるよう手配してくれて、本当に嬉しかった。わざわざ私の面倒を見てもらわなくてもよかったのに。私たち、会ったときからすぐに意気投合して、とても楽しく過ごせたのよ」それを聞いて、紗和はようやく相手が誰なのか分かった。怜央の母方の従姉で、数多い従兄弟や兄弟姉妹の中でも、怜央が唯一親しくしている女性。怜央の伯父の娘、篠原絵里香(しのはら えりか)だった。今日の絵里香は、豹柄のワンピースを着ていた。もともと派手で目立つことを好み、それに見合うだけの容姿も持っている。身長は178センチあり、10センチのハイヒールを履けば、たいていの女性より頭半分以上高かった。周囲から持ち上げられることにも慣れているため、全身から傲慢さがにじみ出ていた。ただ、自分を高く見積もりすぎており、結婚相手には兆単位の資産を
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第84話

そのとき、晴翔の世話をしている家政婦がやって来て、晴翔の姿が見当たらないと小声で告げた。事情を聞くと、先ほど怜央がいる前で、莉乃が晴翔としばらく遊んでいたらしい。紗和はそれほど心配せずに言った。「見つからないなら、放っておいていいわ」家政婦は困ったように答えた。「ですが、今日は旦那様の80歳のお祝いです。晴翔様は御堂家の後継者に指名されている怜央様の最初のお子様ですから、奥様が必ずお尋ねになりますし、ご自分の隣に座らせるはずです。何とご説明すれば……」紗和は家政婦を下がらせると、自分も席に着こうとした。そのとき、莉乃が晴翔の手を引いて入ってくるのが見えた。晴翔は莉乃の手をしっかり握っていた。莉乃の歩調が速くなっても、つま先立ちになるようにして懸命についていき、顔には得意げで楽しそうな笑みを浮かべていた。紗和は家政婦と目を合わせ、戻ってきたでしょう、と視線で伝えた。だが、次の瞬間に起きたことは、誰も予想していなかった。晴翔が、よく通る声で呼んだのだ。「ママ!」それまで隣の旧友と談笑していた宗一郎の表情が、わずかに険しくなった。晴翔が怜央と紗和の養子であることは、親戚たちも皆知っている。母親と呼ぶなら紗和のはずなのに、どうして別の女をママと呼ぶのか。続く莉乃の言葉に、広間中が騒然となった。「おじいさま、80歳のお誕生日に、実のひ孫を連れてお祝いに来ました。ご存じなかったでしょうけれど、晴翔は本当は私と怜央くんの子どもなんです」莉乃は得意げに笑い、周囲のどよめきなど意に介さなかった。怜央は叔父や年長者たちの席でもてなしをしていたが、その瞬間、背筋を強張らせた。ほとんど親子らしい情などない父の誠一が、テーブル越しに意味ありげな目を向けてくる。まるで、結局お前も俺と同じ人間だったのかと嘲笑っているようだった。怜央は、その視線が気に入らなかった。一方、宗一郎の顔色はますます険しくなっていった。鼻から漏れるような老いた声で尋ねる。「紗和。怜央は、いつからこの花宮という娘とそんな関係になっていた?」怜央は珍しく平静を失っていた。紗和が答えるより先に、自ら口を開いた。「おじいさま、この件はもう俺が処理しています。莉乃も、今日が終わったら海外へ戻って、学業を続けると約束し
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第85話

莉乃が晴翔の手を引いている間、晴翔の目にはもう紗和の姿など映っていなかった。晴翔は莉乃に両手を伸ばし、甘えるように言った。「ママ、抱っこ」だが莉乃は子どもを抱いたことなどほとんどなく、抱く気もなかったため、笑うだけで応じなかった。晴翔は少し寂しそうな顔をした。そして、そばにいた紗和に気づくと、今度は紗和へ手を伸ばした。「紗和おばさん、抱っこ」以前、晴翔が腹痛を起こしたとき、紗和は夜通し車を走らせて大きな病院へ連れていった。容体が心配で、午前1時半になっても救急外来の前にある硬いベンチに座り続けていた。だが今の晴翔は、紗和が自分の母親ではないことを、もうはっきり理解しているらしい。呼び方を変えることにも、少しのためらいもなかった。周囲の人々は、複雑な目で紗和を見た。紗和は怜央の代わりに宗一郎の祝宴を切り盛りし、朝から休む間もなく働いていた。それなのに、怜央の愛人が子どもの手を引いて現れ、わざわざ人前で見せつけるように挑発してきた。しかも怜央は、真っ先にその愛人をかばった。さらに皮肉なことに、晴翔はもともと紗和が養子として迎え、ずっと彼女を「ママ」と呼んでいた子どもだった。その子が今日、突然呼び方を変え、「おばさん」としか呼ばなくなったのだ。怜央が紗和を見る目に、わずかな後ろめたさが浮かんだ。これほど大勢の前で紗和に恥をかかせるつもりなど、彼にはなかった。紗和には、その後ろめたそうな視線のほうが不可解だった。自分がしているときは何とも思わなかったくせに、皆に知られた途端、今さら何を後悔しているのだろう。怜央は宗一郎に言った。「DNA鑑定をする必要はありません。莉乃の言っていることは事実です」その言葉を聞いた宗一郎の顔に、険しい怒りが浮かんだ。目の前の椀をつかむと、そのまま怜央へ投げつける。「この家は、まだお前が勝手に決めていい場所ではない」椀は大きな音を立てて怜央の額にぶつかり、たちまち大量の血が流れ出した。そばにいた家政婦が、驚いて悲鳴を上げた。莉乃もその瞬間になって、ようやく不安そうな表情を見せた。執事は莉乃のそばへ行くと、晴翔を強引に抱き上げ、片手を差し出した。「花宮さん、ご自分で抜きますか。それとも、こちらで取らせていただきますか」莉乃の顔
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第86話

紗和は意外そうに尋ねた。「怜央に会いに来たんじゃないの?どうしてそのお酒を私に?」怜央が戻ってきたことは、つい先ほど聞いた。ただ、出血が多かったため、休まざるを得なかったらしい。その間、莉乃が何をしていたのか、紗和は気にも留めていなかった。それなのに突然自分を追ってきたため、紗和は警戒し、受け取ったグラスをすぐ階段脇の台に置いた。莉乃も自分のグラスを置くと、声を上げて笑った。「違うわ。最初から紗和さんに会いに来たのよ。上へ行ったって聞いたから、追いかけてきたの」「私に?」紗和は尋ねた。「莉乃、何の用?」莉乃は軽く手を振った。「紗和さん、晴翔が私をママって呼んで、紗和さんのことはおばさんって呼んだから、怒ってるの?」紗和は静かに答えた。「別に。あなたはもともと晴翔の母親だもの。母親を名乗るなら、もう少しあの子に向き合ったら?子どもを育てるって、時間も手間もかけて、そばにいてあげることだから」莉乃の顔に、怒りと軽蔑が一瞬浮かんだ。紗和にそんな口調で諭されることが、よほど気に入らなかったらしい。だが、すぐにまた笑みを浮かべた。紗和には、その不自然な笑顔がひどく白々しく見えた。それでも本人は、こんな作り笑いでごまかせると思っているらしい。自分を子どもとでも思っているのだろうか。とはいえ、何を言いたいのかくらいは聞いてやってもよかった。「正直、あなたが晴翔を引き取っても腹は立たない。私ももう、あの子はいらないから。怜央も、もういらない」その言葉を聞いた瞬間、莉乃の目にわずかな苛立ちが走った。莉乃は、怜央を思いどおりに動かせることを、ずっと誇りにしていた。怜央が紗和には冷たく無関心なのに、自分の頼みなら何でも聞く。そのことが、歪んだ優越感を満たしていたのだ。莉乃にとって何より大切なのは、紗和より上に立つことだった。初めて紗和を見たときから、彼女を踏みつけることに歪んだ快感を覚えていた。もし紗和がもう怜央を気にしなくなれば、莉乃の楽しみは大きく減ってしまう。怜央が自分を大切にし、甘やかす姿を見せつけても、紗和が苦しむところを見られなくなるからだ。莉乃は言った。「怜央くんがいらないって、本当に桐生さんを捕まえたから?」紗和の目に、莉乃には気づけない嘲り
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第87話

そう言うと、莉乃は自分のグラスのワインを先に飲み干した。紗和は愛想笑いを浮かべながら、莉乃を見た。仲のいい友達――本気で自分を馬鹿だと思っているのだろうか。それでも紗和は、すぐにはグラスに手を伸ばさなかった。紗和が飲まないのを見て、莉乃は焦ったように声を上げ、いかにも傷ついたという顔で言った。「紗和さん、私は本当にあなたのことを思って言ってるのよ。まさか、今日のことでまだ怒ってるの?それくらい許すこともできないの?」紗和は笑みを浮かべると、赤ワインのグラスを取り、口をつけた。莉乃の目に、悪意に満ちた光が浮かぶ。「もう飲んだわ。まだ用があるから、行くね」紗和はそう言って、背を向けた。莉乃の目が暗く沈む。そして、少し距離を置きながら、急ぐ様子もなく紗和のあとをついていった。宗一郎から直接責められたわけではない。だが、無視されたこと自体が、莉乃にとっては耐え難い屈辱だった。紗和は宗一郎に認められているのに、自分は認めてもらえない。紗和に負けることだけは、どうしても許せなかった。それに、あの日のことも忘れられなかった。寝室にいたのが紗和ではなく自分だと分かった途端、怜央は露骨に不機嫌になった。欲情していたくせに、自分とは関係を持たず、一人で済ませた。あの屈辱が再び胸によみがえり、莉乃の憎しみはさらに膨れ上がった。必ず紗和を破滅させてやる。莉乃は、女の身体を強制的に興奮させる薬を手に入れ、赤ワインに混ぜていた。紗和が飲んで歩けなくなったら、酔った彼女を介抱するふりをして外へ連れ出す。そのまま車へ押し込み、用意した男に襲わせ、その一部始終を動画に撮るつもりだった。紗和が少しでも逆らえば、その動画を怜央に送りつける。紗和が男の前でどれほど淫らなのか、見せつけてやればいい。それだけではない。伊織や拓真にも送り、誰にでも抱かれる安っぽい女だと思い知らせるつもりだった。莉乃は笑いをこらえるのに苦労した。紗和を思いのままに操れる日を、すでに思い描いていたのだ。だが紗和は階段を上り、角を曲がってからも、かなり先まで普通に歩いていった。少し離れた場所に隠れて見ていた莉乃は、紗和に何の異変もないことを目の当たりにした。あまりにも普段どおりだった。莉乃は戸惑った。薬を売
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第88話

男はほかでもない、誠一だった。誠一はベッドの上の莉乃を見て、眉をひそめた。どうしてこの女が、こんなところにいるのか。宗一郎の信頼を得た怜央が御堂ホールディングスを引き継いでからも、誠一には体裁の保てる役職すら与えようとしなかった。そのことが、誠一にはますます気に入らなかった。とはいえ、怜央と真正面から対立するわけにもいかない。まずは事情を確かめることにした。「どうしてここにいる?」そう尋ねながら莉乃の様子を見て、誠一ははっとした。「まさか、薬を盛られたのか?」誠一も先ほどまでかなり酒を飲んでおり、酔いが回ってきたため、自分の部屋へ休みに来たところだった。すでに理性は大きく揺らいでいた。次の瞬間――……誠一はようやく身体を起こすと、疲れと喉の渇きを覚え、ベッド脇に置かれていた酒を無造作につかんで飲んだ。莉乃はとっくに、目の前の男が怜央ではないことに気づいていた。怜央であるはずがない。だが、誠一が誰なのかは知らなかった。しばらくして、誠一はようやく何かを思い出したように尋ねた。「お前は……誰だ?」長年、女遊びを重ねてきた誠一には、それなりの経験があった。しかも、その見立てを外したことはほとんどない。この女は、どう見ても子どもを産んだことのある身体ではなかった。莉乃は答えず、誠一の手を取ると、唇を寄せた。午後の大半をそこで過ごし、夜の宴が始まる頃になって、莉乃はようやく正気を取り戻した。本来の目的を思い出すと、すぐに全身を念入りに洗い、服を着替えて部屋を抜け出した。莉乃の胸には、紗和への憎しみが渦巻いていた。心の中で、何千回、何万回と呪い続ける。少し油断したばかりに、最も大切に守ってきたものを、紗和のせいで失ってしまった。これまでどれほど誘惑されても守り抜いてきた初めてを、見ず知らずの男に、こんな形で奪われたのだ。考えれば考えるほど腹が立ち、気を失いそうになるほどだった。本来なら、これを切り札にして怜央を一気に手に入れるつもりだった。子どもを産んでいるのに初めてだというのは不自然だと、自分でも分かっている。だが、あの一度以外はずっと怜央だけを想い、誰とも関係を持たずにいたのだと説明するつもりだった。怜央さえ満足させられれば、きっと信じると
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第89話

宗一郎は胸を押さえ、言葉を吐くたびに指を震わせていた。怜央も覚悟はしていたはずだった。それでも、その言葉を聞いた瞬間、こらえきれず涙がこぼれた。宗一郎の容赦ない言葉は、彼の心の最も深い傷をえぐった。胸の奥が激しく痛んだ。広間は、水を打ったように静まり返っていた。怜央は紗和の姿を目で探した。以前、会社で結果を出せず、宗一郎から厳しく叱責されたときには、紗和がいつも懸命に彼をかばってくれた。宗一郎も紗和の言葉を聞けば、それに免じて多少は怒りを収めていた。だが今、紗和は固く唇を閉ざしている。もう彼のために、一言たりとも口を開くつもりはないのだろう。当然だ。怜央は手を強く握りしめた。自分の不貞を正当化するために、紗和に言い訳をさせる資格など、どこにあるというのか。だが、自分は本当にそこまで腐った人間なのだろうか。金さえ与えておけばおとなしくしているように見えた莉乃が、自分勝手な思惑のために、怜央の立場も顧みず、こんな騒ぎを起こすとは思わなかった。長年守り、甘やかしてきた相手の本性が、これだったのだ。怜央はうつむいたまま、黙り込んだ。宗一郎は容赦しなかった。低い声で言った。「時期から見て、その子を身ごもったのは、紗和があれほど苦しんでいた頃だろう。よくもそんな真似ができたものだ。紗和に、どう顔向けするつもりだ。すべてが明らかになった以上、今日ここで必ずけじめをつける。怜央。お前はわしの孫であり、御堂家の後継者でもある。ならば、わしの下す処分を受け入れられるな?」怜央には、宗一郎の言わんとしていることが分かっていた。ここで「口を出すな」と言えば、明日にでもグループからも一族からも追放される。以後、御堂家の権力にも財産にも、二度と触れさせてもらえないだろう。今の怜央には、宗一郎と決裂できるほどの力はなかった。だが、処分を受け入れると言えば、ただでは済まない。過去に誠一が問題を起こしたときも、金も権限も取り上げられたうえ、吊るされるようにして殴られ、肋骨を3本折られた。怜央はもう一度、紗和を見た。助けを求めるような目だった。だが紗和は、何も言わなかった。怜央はうなずいた。息苦しいほどの威圧感に屈するしかなかった。宗一郎は言った。「今すぐ、そこに跪け」こ
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第90話

紗和は思った。どうせ離婚するのだから、もうこの場の出来事から心は離れている。怜央がどれだけ打たれようと、何も感じなかった。自分が望んでいるのは、ただ離婚だけだった。処罰が終わると、宗一郎の怒りも少しは収まったらしい。胸元を押さえていた手を、ゆっくり下へ滑らせる。莉乃は今が機会だと思い、慌てて口を開いた。「おじいさま、怜央くんももう十分反省していますし、罰も受けたじゃありませんか。怜央くんはおじいさまのお孫さんですし、晴翔だって御堂家のひ孫なんですから……」だが、ようやく収まりかけていた宗一郎の怒りが、再び燃え上がった。「誰が、晴翔をわしのひ孫だと認めた?」その一言に、莉乃は呆然とした。周囲の人々も、皆あっけに取られている。DNA鑑定の結果は明白で、晴翔は間違いなく怜央の実子だった。千鶴子も思わず口を挟んだ。「あなた、DNA鑑定でごまかしようはないでしょ。それに、怜央だって以前きちんと調べているじゃない」後継者を決める際、宗一郎、誠一、怜央の三人は、親子関係を確かめるために3回も鑑定を受けていた。だからこそ、千鶴子はそう言ったのだ。莉乃は再び希望が湧き、笑みを浮かべかけた。千鶴子まで口を出した以上、宗一郎も御堂家の体面を考えざるを得ないはずだ。晴翔が自分と怜央の子どもなら、御堂家の直系のひ孫にあたる。そして鑑定上の母親である自分にも、子どもを連れて御堂家に入る資格がある。だがそのとき、宗一郎の重々しい声が響いた。「晴翔は、不貞の末に生まれた婚外子だ。すでに執事には、怜央との養親子関係を解消するための書類を用意させてある。あとで怜央が署名すれば、法的にも怜央の子ではなくなる。もっとも、この子を放り出すつもりはない。今後は本邸で、わしが引き取って育てる。もともと戸籍上は怜央の養子として迎えられた子だ。手続きが済み次第、御堂家の相続権は一切持たせん。外にも存在を公表しない。今後、この子の立場について、誰かが気を揉む必要もない」宗一郎の言葉に、その場にいた全員が言葉を失った。莉乃は慌てた。「そ、そんな……ありえません。晴翔は怜央くんの実の子なんですよ。そんなの、ありえない……」宗一郎がそんな決定を下すとは、思ってもいなかった。晴翔が親から切り離されるなど、絶対にありえな
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