All Chapters of 黎明の月は二度と還らない: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

第1話

蒼海市きっての名家、御影家の御曹司である御影治正(みかげ はるまさ)の母が、何者かに階段から突き落とされて植物状態となり、10年後、ついに意識を取り戻した。蒼海市の名士たちはこぞって見舞いに訪れ、御影夫人を前に、治正がどれほど親孝行な息子か、母を突き落とした犯人を10年間も罰し続けてきたかを競うように語った。たとえその犯人が治正の高校時代の恋人であろうと、彼は一切容赦しなかったと。だが全員が話し終えると、長い間黙っていた御影夫人は不思議そうに首をかしげた。「犯人って、誰のこと?私を突き落とした人なんていないわ。自分で足を滑らせただけよ」カラン。治正の手から、果物ナイフが床へ落ちた。治正は愕然として顔を上げた。「母さん、今、なんて言った?」母を植物状態にしたのは、雪村黎月(ゆきむら りつき)ではなかったのか?治正の胸に、すさまじい動揺が込み上げた。母が眠り続けた年月と同じだけ、治正は黎月に復讐を続けてきた。それが今になって、黎月は無実だったというのか?「そういえば、黎月さんは?」御影夫人は慌てて尋ねた。「あの頃は、片親育ちだというだけで、二人の交際に反対していたわ。でも、私が池に落ちた時、あの子が身を挺して助けてくれるなんて思ってもみなかった。二人はまだ付き合っているの?もう結婚した?子どもは?」矢継ぎ早の問いが、治正の胸を鋭くえぐった。喉がひりつくほど乾き、治正は何も答えられなかった。なぜなら――出所した黎月に、片目の見えないホームレスと暮らすよう強いたのは治正自身だったからだ。それから、もう3年が経っている…………3年前。蒼海市の、とある高級クラブ。一人の女が、必死に便器をこすっていた。だぶだぶの作業着に包まれた体は、ひどく痩せ細って見えた。ようやく磨き終えると、女は力尽きたように床へへたり込み、1枚の写真を取り出した。写真に写っていたのは、彼女の両親と彼女自身、そして妹だった。「雪村、『Heaven』の個室で客が吐いた。片づけてきて」黎月はすぐに写真を大切そうにしまい、立ち上がった。出所から3か月が経っていた。本当なら真っ先に妹の雪村柚乃(ゆきむら ゆの)を児童養護施設へ迎えに行きたかった。だが前科のある黎月が妹を引き取るには、まず安定した仕事と生活基盤が必要だった。
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第2話

地獄の底から響くような男の声に、黎月は全身の血が凍るのを感じた。逃げなければ。だが次の瞬間、生温かい手に背後から首をきつく掴まれた。「聞こえないのか?俺が話しかけているだろう?」耳元にかかる吐息は、まるで悪魔がまとわりついているかのようだった。黎月は絶望に胸が締め付けられた。刑務所の作業場で左耳の聴力を奪われたあの爆発事故も、やはり治正の仕業だったのだ。黎月が震えているのに気づくと、治正の声はいっそう甘く、ねっとりとしたものになった。「どうして震えてる?昔の同級生に会ったんだ。挨拶くらいしたらどうだ?その仕事も俺が用意してやったんだぞ。礼の一言もないのか?」――な、何を言っているの……?黎月は唇をわずかに開いたまま、足元が崩れ落ちるような絶望に襲われた。1日でも早く出所するため、刑務所では問題を起こさず模範的に過ごした。名もないクラブで人目を避けて働いていれば、もう治正の目には留まらないと思っていた。だが結局、刑務所を一歩出たその瞬間から、すでに治正の掌の上だったのだ。黎月は怯えた目で治正を見上げた。3年ぶりに会う彼からは少年の面影はすっかり消え失せていた。背が高く、冷ややかな気品をまとった大人の男へと変貌していた。かつて愛した男を見つめ、黎月は懇願した。「御影さん、私はもう3年も服役しました。どうか、もう許してください」父を失い、3年服役し、片耳の聴力も失った。たとえ私に罪があったとしても、もう十分すぎるほど罰を受けたはずだ。――お願いだから、これ以上私を追い詰めないで。治正は聞く耳を持たず、芽衣の腰を抱き寄せると、悪意に満ちた目で黎月を見下ろした。「親切に仕事を用意してやったのに、迷惑だったみたいだな。それなら、もうトイレ掃除なんてしなくていい。フロアに出て、ショーダンサーにでもなったらどうだ?」黎月は何度も口を開きかけたが、声が出なかった。「どうした?嫌なのか?」――嫌に決まっている!黎月は勢いよく背を向けた。「もうここでは働きません!今すぐ辞めさせてください!」ドアへ駆け寄ると、黒服のボディガードが二人、行く手を塞いだ。このまま残れば、治正にどんな目に遭わされるか分からない。ところが、治正はあっさりと命じた。「行かせろ」救われた思いで外へ踏み出そうとした時、治
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第3話

そう、黎月はもうすぐ死ぬ。刑務所にいた頃、すでに末期の胃がんと診断されていた。残された時間は半年もない。必死に働いて就労証明書を手に入れようとしていたのは、せめてまっとうな社会人として、胸を張って一目会いたかったからだ。そして死ぬ前に、少しでも多くのお金を柚乃に残したかった。クラブへ戻った黎月には、店長から最も汚くてきつい仕事ばかりが押しつけられた。それでも黎月は、何も言わずすべて引き受けた。疲れを知らないかのように働いた。食事の時も人と争わず、耐えきれないほど胃が痛めば安い鎮痛剤を一錠飲む。理不尽に責められても、うつむいたまま黙って耐えた。そんな黎月を見て、店長でさえこれ以上つらく当たるのが忍びなくなった。黎月がまた就労証明書を書いてほしいと頼むと、店長は気の毒そうに言った。「雪村、妹のことはもう諦めろ。上から許可が出ない限り、私だって就労証明には判を押せない」黎月はそれ以上食い下がらず、寂しげに背を向けた。階段で一人になろうと非常扉を開けた途端、半裸の治正が芽衣を抱いているところに出くわした。小柄な芽衣は、治正に甘えるように身を寄せていた。治正の手つきはどこまでも優しく、長い指が芽衣の体をなぞっていく。「治正、シャネルの新作バッグが欲しいな。限定品で、しかも2億円分の購入実績がないと買えないの」「そのバッグ、明日には芽衣の目の前に置いてやるよ」芽衣は心地よさそうに体を震わせた。「治正、誰かに見られたらどうしよう。怖いな」治正は階段の下にいる黎月へ冷たい視線を投げた。「芽衣、もし誰かに見られたら、そいつの目をえぐり取ってやる」鋭い視線に射抜かれ、黎月はびくりと肩を震わせた。慌てて背を向けた時、治正の声が飛んできた。「待て」黎月の足が止まった。心臓が喉から飛び出しそうだった。治正がまた新たな責め苦を思いついたのではないかと、恐怖が込み上げる。治正は冷たく命じた。「コンドームを二箱買って、『Heaven』の個室へ届けろ」黎月はようやく安堵の息をついた。コンドームを届けた時も、二人はまだ同じ場所にいた。黎月は品物を置くと、逃げるようにその場を離れた。どれほど時間が経ったのか。店長が黎月を見つけて言った。「『Heaven』の個室へ行け。隅々まで綺麗にしてこい」黎月は食べかけ
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第4話

「お願いします」という一言が、黎月に残された最後の尊厳まで粉々に打ち砕いた。治正の瞳が揺れた。この数年、どれほど徹底的に復讐しても、黎月が彼に屈したことは一度もなかった。地獄のような高校3年生の頃、男子生徒たちに腕を踏みつけられ、骨折した時も、黎月は泣かなかった。大学入試で全国トップクラスの成績を収め、喜びに胸を膨らませて受け取った難関大学の合格通知を、治正に目の前で破り捨てられた時も、涙を見せなかった。治正にまともな仕事をことごとく潰され、物乞いや路上で歌うことを強いられても、決して屈しなかった。刑務所へ送られた時でさえ、口にしたのは「妹だけは見逃して。私が罪を償うから」という一言だけだった。その黎月が今、治正の足元にひざまずいている。骨ばった手で機嫌を取るようにズボンの裾を掴むその姿は、卑屈どころか、彼の目にはひどく浅ましく映った。本来なら、治正はたまらなく愉快な気分になるはずだった。ところが胸に湧いたのは、理由の分からない怒りだった。何度か呼吸を整え、ようやく口元だけに冷たい笑みを作った。「黎月、人にものを頼むなら、そんなやり方じゃ駄目だろう」治正は黎月の顎を持ち上げた。「俺を満足させてみろ。お前みたいな女にも、まだ捨てきれないプライドがあるのか見せてもらおう」治正は、黎月が演技をしていると決めつけていた。かつて治正が彼女に甘かったことを利用し、哀れな姿を装って同情を引こうとしているのだと。だが床に膝をついていた黎月は、突然服を脱ぎ捨て、治正の膝の上にまたがった。唇にそっと口づけられて初めて、治正は黎月が何をしようとしているのか悟った。こうしたことに慣れていない黎月の動きはぎこちなく、それがかえって痛々しかった。治正は思わずその唇に応えそうになった。だが、彼女への憎悪がすぐに彼を正気へ引き戻した。次の瞬間、治正は黎月の顎を乱暴に掴んだ。骨がきしむほどの痛みが走る。黎月は感情の消えた目で見つめ返した。「御影さん、私のやり方のどこがいけなかったでしょうか?」――気に入らない。その態度の何もかもが!治正は冷たく笑った。「性悪なだけじゃなく、骨の髄まで卑しい女だったとはな!お前が母さんを階段から突き落とした時、俺が何をしていたか知ってるか?手術台の上で、お前を助けた時に煙で傷め
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第5話

『Heaven』にて。黎月はステージの中央に倒れ込み、周囲には酒の空き瓶が散乱していた。身につけていた服は酒でびしょ濡れになり、色あせたシャツが痩せこけた体に張りついている。すでに10本以上の強い酒を無理やり飲まされていた。「ほら、飲めよ。どうして止めるんだ?何を被害者ぶってる?」「お前みたいな腹黒くて手段を選ばない性悪女は、7年前に治正のお母さんを突き落としたくせに、今度は自分から治正の愛人になろうとしてる」「治正を誘惑して浮気させるつもりなんだろ?どこまで恥知らずなんだ?」つい先ほど、治正は昔の同級生たちを呼び集めた。そして黎月を皆の前に立たせ、治正を誘惑したと無理やり認めさせたうえ、芽衣に数え切れないほど頭を下げさせた。それでも芽衣の怒りは収まらず、何十本もの強い酒を飲み干すまで許さないと言い出した。黎月は床にひざまずき、何度も必死に土下座した。「結城さん、私が身の程知らずでした。私が恥知らずでした。私はふしだらな女です。売女です。全部私が悪いんです。どうか別の方法で仕返ししてください。お酒だけは飲めません。本当に飲めないんです」胃がんを患う黎月にとって、酒は絶対に口にしてはいけないものだった。もうすぐ死ぬとしても、まだ柚乃に会えていない。この数年で貯めた60万円も、妹の手に渡していなかった。――今夜、ここで死ぬわけにはいかない。芽衣は顔をしかめて黎月を蹴り飛ばした。治正は芽衣を止めながら、見物していた同級生たちへ目配せをした。その直後、黎月はステージへ引きずり上げられた。……強い酒が胃を焼き、内臓を切り裂くような痛みが走る。黎月は飲んでは吐き、酒に濡れた床へ無残に倒れ込んで、全身を痙攣させていた。さすがに様子がおかしいと気づいた同級生たちは、それ以上無理に飲ませることをためらい、治正の顔色をうかがった。治正は、酒で全身を真っ赤にして倒れている黎月を見て、鼓動が一瞬止まりかけた。――いつから、こんなに痩せ細っていた?気づかれないほどわずかに眉を寄せたが、芽衣へ向き直る時には、いつもの優しい表情に戻っていた。「芽衣、もう気は済んだか?」「ふん!」芽衣は腕を組み、顔を背けた。「可哀想になったの?」治正は眉をひそめた。その瞬間、黎月に抱きかけたわずかな同情は消え去った。「そん
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第6話

芽衣をなだめ終えた治正は、ふと魔が差したように就労証明書を一枚用意し、再び『Heaven』へ戻った。なぜか、黎月の瞳に宿っていた生気のなさを思い出すと、言いようのない胸騒ぎがした。個室のドアを開けると、骨と皮ばかりに痩せ細った黎月が床に膝をつき、震える手で散らばった写真の切れ端を拾い集めていた。治正は、そばのゴミ箱に血のついたティッシュがいくつも捨てられているのを目ざとく見つけた。治正は鼻で笑った。――ずいぶん安っぽい芝居だ。ようやく切れ端を拾い終えた黎月は、よろめきながら立ち上がり、振り向いたところで治正に気づいた。慌てて口元の血を拭う。治正は嘲るように言った。「わざわざ血のりまで用意して、今度はどこの男の前で同情を買うつもりだ?」黎月は呆然とした。胃が痙攣するたび、胸の奥まで締めつけられる。黎月は自嘲するように笑った。「御影さんには、何もかもお見通しなんですね」ぱしっ。書類が乾いた音を立てて黎月の顔に当たった。治正は嫌悪を隠そうともせずに言い放った。「就労証明書だ。持って消えろ」黎月は就労証明書を大切そうに折り畳んだ。ここ数日で初めて、その口元に喜びが浮かんだ。これさえあれば、柚乃に会える。貯めた金をすべて渡し、自分の今の状況もきちんと話そう。柚乃は幼い頃から芯の強い子だった。私がもうすぐ死ぬという事実も、きっと受け止めてくれるはずだ。――治正。これでもう、二度と私を苦しめることはできないよ。黎月は焦る気持ちを抑えて週末が明けるのを待った。平日になると必要な手続きを済ませ、期待を胸に児童養護施設を訪れた。ところが、必要書類を受け取った職員は不思議そうな顔をした。「雪村柚乃さんですか?あの子なら、ここにいたのは1か月にも満たず、その後すぐに引き取られましたよ」その言葉に、黎月は頭を殴られたような衝撃を受けた。「そんなはずありません!柚乃はここにいるんです。御影さんがここへ預けるのを、私自身の目で見ました。柚乃には手を出さないって……私に、そう約束したんです!」取り乱した黎月は、警備員に無理やり外へ連れ出された。それでも絶望を押し殺し、もう一度中へ入って妹の行方を確かめようとした。その時、聞き覚えのある女の声がした。「あんたの妹がどこへ行ったか、知りたい?」黎月は
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第7話

治正は黎月を地面へ叩きつけた。「どこまで性根が腐ってるんだ!」黎月はその場にうずくまり、いつまで経っても痛みから立ち上がれなかった。治正の目に、かすかな驚きがよぎった。――なぜ、あんなにも苦しそうなのか。まったく力など入れていないはずなのに。歩み寄ろうとした時、芽衣がか弱い声を上げた。「治正、きっと私が彼女だから嫉妬して、こんなことをしたのよ。私まで植物状態にされるんじゃない?」治正の顔が険しくなった。助け起こそうとしていた手を止め、痩せ細った黎月を乱暴に引き起こした。「死んだふりをするな。芽衣に謝れ!」だが黎月は力なく治正にもたれかかった。「御影さん、私が憎いんでしょう?」その声は、あまりにも弱く、かすかだった。「私を殺してください」妹がいなくなった今、この世界で生きている意味などもうなかった。その瞬間、治正の目の前が暗く沈んだ。抑えきれない怒りと複雑な感情が入り混じり、胸の奥へ押し寄せた。――どうして、そんな勝手が許される?罪を犯しておきながら、今までのうのうと生きてきた女が、どうして死なせてくれなどと言えるのか。治正は黎月を引きずるようにして車へ押し込んだ。車内で、治正は黎月の体を覆うようにのしかかった。両手で強く押さえつけ、屈辱的な姿勢のまま身動きできなくした。「御影さん!何をするんですか?離してください。離して!おかしいですよ。私はお母さまを突き落とした犯人なんでしょう?その相手に、何をしているんですか?あっ!」治正が突然、黎月の首筋に激しく唇を押し当てた。黎月は目を見開き、さらに激しく抵抗した。ぱんっ!必死にもがく黎月に苛立った治正は、犯人に手加減する必要などないとばかりに、その頬を平手で打った。治正は冷たく吐き捨てた。「7年前に母さんを突き落とし、今度は俺の彼女まで傷つけた。結局、俺の気を引くためにやったんだろ?こうして相手をしてやってるのに、今さら清純ぶるな」決して強い平手打ちではなかった。それでも黎月は、全身の骨が崩れ落ちたように力を失った。「もう、あなたはいりません。御影さんのことは、とっくに諦めました」求める勇気もなければ、もう求めたいとも思わなかった。黎月は水面さえ揺れない深い淵のように静まり返っていた。その姿を見ていると、治正
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第8話

それから3年後。蒼海総合病院のVIP病室。御影夫人が「私を突き落とした人なんていないわ」と口にした瞬間、病室は水を打ったように静まり返った。先ほどまでにぎやかに話していた見舞客たちも、そろって口をつぐんだ。治正は長い沈黙の後、ふっと鼻で笑った。「母さん、寝ぼけてるのか?監視カメラには、黎月が母さんを突き落とすところが映ってた。映像が間違ってるとでも言うのか?」そう口にした途端、治正の胸が大きく脈打った。――映像が改ざんされている可能性だって、ないとは言い切れない。秘書がすぐにスマホを取り出し、10年前の監視カメラの映像を御影夫人に見せた。そこには、夫人と話していた黎月が手を伸ばし、その直後に夫人が階段から落ちる様子がはっきりと映っていた。治正は画面を指した。「母さん、見てくれ。黎月は明らかに、母さんへ手を伸ばしてる。自分で足を滑らせたはずがない」黎月が無実であるはずがない。もし、本当に無実だったら……俺が10年もの間、黎月を苦しめ続けてきたことは何だったのか。御影夫人はスマホを受け取り、映像を何度も繰り返し見た。「どうして、こんなふうに……」やがて自分の頭を軽く叩いた。「思い出したわ!」治正とその場にいた全員が、一斉に御影夫人を見た。「確かに、あの時、黎月さんは私に手を伸ばしたわ。でも、私を突き落とすためじゃない。あの子がわざわざ祈願してくれたお守りを、私に渡そうとしたのよ!」治正の表情がこわばった。話を聞くほどに、不安が膨れ上がっていく。「そんなはずはない。映像が間違っているはずがない。母さんを突き落としたのは黎月だ!」――俺がこれまで黎月にしてきたことは正しかった。間違ってなどいない。すべて、黎月が受けるべき報いだったのだ。御影夫人は首を横に振った。「治正、よく考えてみて。交際を反対されたことを本当に恨んでいたなら、私が池に落ちた時、どうして身を挺して助けてくれたの?あのまま溺れ死ぬのを待てばよかったじゃない。わざわざ自分の手を汚す必要なんてないでしょう?」その言葉を聞いた途端、治正の足から完全に力が抜けた。手のひらにじっとりと汗が滲み、鼓動が激しく乱れた。治正は底知れない恐怖に呑み込まれていく。黎月が無実だったこと以上に恐ろしい疑問が、頭をよぎった。いったい誰が映像を改ざんし、黎月に罪
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第9話

岩吉はどこまでも辛辣だった。「何の後ろ盾もない娘が、私が手塩にかけて育てた後継者に取り入ろうなど、身の程知らずにもほどがある。治正、私は幼い頃から教えてきたはずだ。弱みを作るな。大切な人や物ほど、心の奥に隠しておけと。それなのに、お前は隠すどころか、たかが医者の娘一人を救うために自分の命まで投げ出しかけた。私たちが注いできたものを、すべて無駄にするつもりか!?」岩吉の声が次第に大きくなるにつれ、治正の心は深い闇へ沈んでいった。「お前があの娘を自分の命より大切にしていなければ、私も手を下す必要はなかった。つまり、あの娘を壊したのはお前自身だ」治正の足から力が抜けた。父へ向けた目には、憎しみしかなかった。――そうだ。どうして忘れていたのだろう。親父は抜け目がなく、計算高く、本心を隠すことに長けた冷酷な経営者だった。他人に好意を持とうが嫌悪を抱こうが、本音を決して顔に出さない。治正が黎月と交際し、何度か家へ連れてきた時も、岩吉はいつも彼女を気に入っているように振る舞っていた。だが、物分かりのよい父親を装ったその顔の裏で、とうの昔から黎月を破滅させようとしていたのだ。治正が黙り込んでいると、岩吉は何でもないことのように椅子へ腰を下ろした。「何も持たない小娘一人だ。壊れたところで、どうということはない。壊されずに済んだとしても、あの家柄では、せいぜい父親の跡を継いで、少し名の知れた医師になるのが関の山だ。お前と釣り合うはずがない。黎月に罪を着せたのは、私の息子が母親を傷つけた犯人を前にした時、私と同じように情けを捨て、冷徹に切り捨てられるか試すためでもあった」岩吉はますます満足そうに続けた。「結果は上出来だった。さすが私の息子だ。命を投げ出すほど愛した女を、最後には容赦なく10年も苦しめ続けた。見事だ。父親として誇らしいよ」治正は全身を震わせた。目の前の男は、一人の女性から家族も人生も奪っておきながら、なぜこれほど平然と、壊して当然だったかのように語れるのか。本来なら、父の胸ぐらを掴み、その卑劣さを怒鳴りつけるべきだった。だが治正は肩を震わせたまま立ち尽くし、声を殺して泣くことしかできなかった。父への激しい怒り以上に、10年もの間、自分が黎月にしてきたことを思うと、底なしの絶望に襲われた。治正が勢いよ
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第10話

30年近く生きてきて、治正は初めて本当の絶望を知った。「黎月さんが収監された後、旦那様は社長の名を使い、刑務所側に特別な扱いをさせていました。黎月さんは毎日のように暴行を受けていたそうです。殴られたり、紙で腰を切りつけられたりする程度は、まだ軽いほうでした。最も深刻だったのは、旦那様が仕組んだ作業場の事故です。その事故で、黎月さんは左耳の聴力を失いました」――だからか。だから出所後の黎月は、俺の言葉を何度も聞き取れずにいたのか。当時は苛立ちしか感じなかった。だが今は、胸が無数の針で刺されるように痛んだ。治正は絶食をやめ、秘書が運んできた食事を必死に口へ運びながら尋ねた。「黎月の今の状況は分かったのか?どこにいる?無事なのか?」この3年間、自分の復讐から解放されていたのなら、黎月は持ち前の強さで、妹と二人で穏やかに暮らしているはずだ。秘書は黙ったまま、受刑者の健康診断記録を差し出した。治正が急いで書類を開く。その文字を追う治正の耳に、秘書の声が届いた。「黎月さんは服役中、すでに末期の胃がんと診断されていました。あれから3年も経っています。黎月さんは、とっくに……裏街で亡くなっています」カラン。手にしていた箸がテーブルに落ち、乾いた音を立てた。――違う。――そんなはずはない。黎月はあれほど強い人間だった。医師の娘で、幼い頃から衛生にも健康にも人一倍気を配っていた。胃がんになるはずがない。だが治正は思い出した。あの事件以来、黎月は治正が用意した地獄の中で生きてきたのだ。水もろくに飲めず、塩辛い漬物で飢えをしのぎ、高架下やゴミ捨て場で夜を明かしていた。生き延びることさえ難しい暮らしで、健康に気を配る余裕などあるはずがなかった。3年前、高級クラブ『Heaven』の個室で見た、ゴミ箱に捨てられていた血のついたティッシュ。あの時は同情を引くための芝居だと決めつけて嘲り、そのうえ酒まで無理やり飲ませた。――どれほど痛かったのだろう。「違う。そんなはずはない」治正の喉が締めつけられた。「あいつは生きようとする気持ちが人一倍強かった。何があっても生き抜くはずだ。柚乃を一人、この世に残すわけがない」高校時代、あれほどひどいいじめを受けても、黎月の明るい瞳には、いつも未来への希望が宿っていた。黎月は何度も言って
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