蒼海市きっての名家、御影家の御曹司である御影治正(みかげ はるまさ)の母が、何者かに階段から突き落とされて植物状態となり、10年後、ついに意識を取り戻した。蒼海市の名士たちはこぞって見舞いに訪れ、御影夫人を前に、治正がどれほど親孝行な息子か、母を突き落とした犯人を10年間も罰し続けてきたかを競うように語った。たとえその犯人が治正の高校時代の恋人であろうと、彼は一切容赦しなかったと。だが全員が話し終えると、長い間黙っていた御影夫人は不思議そうに首をかしげた。「犯人って、誰のこと?私を突き落とした人なんていないわ。自分で足を滑らせただけよ」カラン。治正の手から、果物ナイフが床へ落ちた。治正は愕然として顔を上げた。「母さん、今、なんて言った?」母を植物状態にしたのは、雪村黎月(ゆきむら りつき)ではなかったのか?治正の胸に、すさまじい動揺が込み上げた。母が眠り続けた年月と同じだけ、治正は黎月に復讐を続けてきた。それが今になって、黎月は無実だったというのか?「そういえば、黎月さんは?」御影夫人は慌てて尋ねた。「あの頃は、片親育ちだというだけで、二人の交際に反対していたわ。でも、私が池に落ちた時、あの子が身を挺して助けてくれるなんて思ってもみなかった。二人はまだ付き合っているの?もう結婚した?子どもは?」矢継ぎ早の問いが、治正の胸を鋭くえぐった。喉がひりつくほど乾き、治正は何も答えられなかった。なぜなら――出所した黎月に、片目の見えないホームレスと暮らすよう強いたのは治正自身だったからだ。それから、もう3年が経っている…………3年前。蒼海市の、とある高級クラブ。一人の女が、必死に便器をこすっていた。だぶだぶの作業着に包まれた体は、ひどく痩せ細って見えた。ようやく磨き終えると、女は力尽きたように床へへたり込み、1枚の写真を取り出した。写真に写っていたのは、彼女の両親と彼女自身、そして妹だった。「雪村、『Heaven』の個室で客が吐いた。片づけてきて」黎月はすぐに写真を大切そうにしまい、立ち上がった。出所から3か月が経っていた。本当なら真っ先に妹の雪村柚乃(ゆきむら ゆの)を児童養護施設へ迎えに行きたかった。だが前科のある黎月が妹を引き取るには、まず安定した仕事と生活基盤が必要だった。
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