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黎明の月は二度と還らない
黎明の月は二度と還らない
Author: ピリ辛かも

第1話

Author: ピリ辛かも
蒼海市きっての名家、御影家の御曹司である御影治正(みかげ はるまさ)の母が、何者かに階段から突き落とされて植物状態となり、10年後、ついに意識を取り戻した。

蒼海市の名士たちはこぞって見舞いに訪れ、御影夫人を前に、治正がどれほど親孝行な息子か、母を突き落とした犯人を10年間も罰し続けてきたかを競うように語った。

たとえその犯人が治正の高校時代の恋人であろうと、彼は一切容赦しなかったと。

だが全員が話し終えると、長い間黙っていた御影夫人は不思議そうに首をかしげた。「犯人って、誰のこと?私を突き落とした人なんていないわ。自分で足を滑らせただけよ」

カラン。

治正の手から、果物ナイフが床へ落ちた。

治正は愕然として顔を上げた。「母さん、今、なんて言った?」

母を植物状態にしたのは、雪村黎月(ゆきむら りつき)ではなかったのか?

治正の胸に、すさまじい動揺が込み上げた。

母が眠り続けた年月と同じだけ、治正は黎月に復讐を続けてきた。

それが今になって、黎月は無実だったというのか?

「そういえば、黎月さんは?」御影夫人は慌てて尋ねた。「あの頃は、片親育ちだというだけで、二人の交際に反対していたわ。でも、私が池に落ちた時、あの子が身を挺して助けてくれるなんて思ってもみなかった。二人はまだ付き合っているの?もう結婚した?子どもは?」

矢継ぎ早の問いが、治正の胸を鋭くえぐった。

喉がひりつくほど乾き、治正は何も答えられなかった。

なぜなら――出所した黎月に、片目の見えないホームレスと暮らすよう強いたのは治正自身だったからだ。それから、もう3年が経っている……

……

3年前。

蒼海市の、とある高級クラブ。

一人の女が、必死に便器をこすっていた。だぶだぶの作業着に包まれた体は、ひどく痩せ細って見えた。

ようやく磨き終えると、女は力尽きたように床へへたり込み、1枚の写真を取り出した。

写真に写っていたのは、彼女の両親と彼女自身、そして妹だった。

「雪村、『Heaven』の個室で客が吐いた。片づけてきて」

黎月はすぐに写真を大切そうにしまい、立ち上がった。

出所から3か月が経っていた。本当なら真っ先に妹の雪村柚乃(ゆきむら ゆの)を児童養護施設へ迎えに行きたかった。だが前科のある黎月が妹を引き取るには、まず安定した仕事と生活基盤が必要だった。

しかし、高卒で前科もある黎月に仕事はなかなか見つからなかった。飲食店のホール係にすら雇ってもらえない。

幸い、このクラブには客にも従業員にも訳ありの人間が多く、彼女の過去を気にする者はいなかった。

個室では、十数人ほどの若者がカードゲームやカラオケに興じ、大いに盛り上がっていた。

清掃員の黎月に見向きもする者はいない。

黎月は床にひざまずき、吐瀉物を片づけ始めた。

突然、男の声が響いた。「おいおい、蒼海第一高校が誇る成績トップの高嶺の花じゃないか。学生の頃は、他人にペンを貸しただけで、返ってきたら念入りに消毒液を吹きかけてたくせに。今じゃ床に這いつくばってゲロ掃除かよ。もう汚いとも思わないのか?」

黎月は、声の主がかつて自分に言い寄ってきた同級生だと気づいた。断られた後も、男は気にした様子もなく「なら友達でいよう」と笑っていた。

ところが、あの事件が起きてからというもの、誰よりも執拗に黎月をいじめたのは、この男だった。

汚らしい吐瀉物を前に、黎月は黙って手を動かし続けた。

背後にいた男が、黎月をまき散らされた吐瀉物の上へ蹴り倒した。「おい、聞いてんのか!耳でも聞こえなくなったのか?」

「あっ!」

痛みと汚れに耐えながら、黎月は自嘲するように唇を歪めた。

聞こえない?

――そう、もう聞こえない。

治正にでっち上げの罪で刑務所へ送り込まれた後、黎月は彼の差し金で壮絶な嫌がらせを受け続けた。収監からわずか1か月で作業場の爆発事故に巻き込まれ、左耳の聴力を失ったのも、その時だった。

男がさらに手を上げようとすると、別の同級生が止めに入った。

「もういいだろ。こんなの相手にムキになるなよ。

昔の雪村は、家柄もよくてプライドの高いお嬢様だったよな。母親を早くに亡くしてたけど、親父さんは蒼海市一の名外科医でさ。本人も美人で、あの御影にも溺愛されてたんだぜ。

それが今じゃ、殴られても罵られても反抗すらできない惨めな負け犬だ」

ペッ。

黎月は、頭に唾を吐きかけられたのをはっきりと感じた。

以前の彼女なら、とっくに反撃していただろう。

だが……高校3年生の時に受けたいじめ、卒業後3年間続いた過酷な仕打ち、そして3年に及ぶ獄中生活が、彼女の誇りも気骨もとっくに粉々に打ち砕いていた。

自分一人なら、死んでも屈しなかっただろう。

しかし黎月には妹がいる。自分だけの身ではなかった。

もしここで逆らえば、治正の怒りの矛先が妹に向けられてしまう。

「自業自得だろ!治正はあれだけこいつを大事にしてたんだ。学校の用具室が火事になった時だって、死に物狂いで逃げ出したのに、こいつがまだ中にいると知った途端、迷わず火の中へ戻って助けた。今も背中に大きなやけどの痕が残ってるし、半年もまともに声が出なかったんだぞ!

それなのにこいつは、治正のお母さんが二人の交際に反対したことを逆恨みして、治正が療養している間に階段から突き落とし、植物状態にしたんだ!」

その話になると、同級生たちは正義感に酔ったように、次々と黎月を責め立てた。

浴びせられる無数の視線が、悪夢のような高校最後の1年を呼び戻した。

あの年、誰もが御影夫人をあんな目に遭わせたのは黎月だと言った。

治正も例外ではなく、黎月を骨の髄まで憎んだ。

治正のひと言で、黎月の父、雪村誠(ゆきむら まこと)は名医から世間から罵られる「人殺しのヤブ医者」へと転落し、その汚名を着せられたまま投獄され、獄中で自ら命を絶った。

治正は蒼海第一高校を黎月だけの地獄に変え、登校するたびにいじめに遭うよう仕向けた。初めのうち、黎月は必死に抵抗し、転校して逃げようとさえした。

だが黎月が逆らうたび、刑務所にいる父が怪我をしたという知らせが届いた。

そして転校しようとした時、父の訃報が届いた。

父の葬儀の日、治正は珍しく一輪のデイジーを手に現れ、誠の遺影に一礼した。

その振る舞いが丁寧であればあるほど、続く言葉は冷酷だった。「俺がお前のために用意した牢獄で、おとなしくしていろ。そうすれば妹は無事だ。妹まで失いたくはないだろう?」

どうにか大学入試まで耐え抜き、好成績を収めた黎月だったが、治正が裏で手を回したため、どの大学にも進めず、働くしかなかった。

治正は黎月を憎み抜き、少しでもまともな仕事に就くことを許さなかった。彼女に許されたのは、路上で歌って小銭を稼ぎ、廃品を拾い、物乞いをすることだけだった……

治正は、人並みの暮らしに戻る道をことごとく奪った。黎月は身なりもぼろぼろになり、誰からも蔑まれる存在へと突き落とされた。

そして最後には、いとも簡単に罠を仕掛け、黎月を3年間も刑務所へ送り込んだ。

黎月はようやく吐瀉物を片づけ終えた。

黎月は逃げるように個室を飛び出した。だが角を曲がったところで、一人の女にぶつかった。

「すみません、本当にすみません!」

黎月は深々と頭を下げた。

「きゃっ!私のシャネルのバッグ!汚い、あっちへ行ってよ!」

黎月ははっと息をのんだ。

この女には見覚えがあった。治正が大学時代から付き合っている恋人だ。

黎月が二人の通う大学で清掃員として働いていた頃、治正が結城芽衣(ゆうき めい)に優しく口づける姿を、何度も目にしていた。

治正がどれほど芽衣を愛しているか、黎月は痛いほど知っていた。黎月が芽衣の靴をうっかり汚してしまっただけで、治正は芽衣を宥めるため、いとも簡単に黎月へ濡れ衣を着せ、刑務所へ送り込んだのだから。

「ごめんなさい。すぐにここから離れます!」

芽衣がここにいるということは、治正も……

だめ!絶対に治正に見つかってはいけない!

黎月は身を縮め、芽衣の脇をすり抜けようとした。

その時、背筋が凍るような声が響いた。「黎月」

続いて、氷のように冷酷な嘲笑が鼓膜を打った。「久しぶりだな」

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