午後は、いつもどおりだった。 役所と銀行での手続きを終えたあと、二人とも出社し、雪臣は会議へ、珠希はデザイン部へ向かった。帰宅して夕食をとり、順にお風呂へ入った。特別なことは何も起きていない。 ――私、今日本当に、結婚したんだよね? 氷室珠希。今日一日、あらゆる書類にその名を書いたが、何が変わったかと聞かれたら、どうにも答えが浮かばない。入浴前に外した指輪は、寝室のケースにしまってある。今夜はもう外へ出る用事もない。家政婦の三板も帰宅した。もう、誰かの前で雪臣の妻として振る舞う必要はない。なにもついていない左手を見ると、より一層入籍した実感が薄れた。 水色のパジャマに身を包み、珠希はリビングのソファに座ってテレビをぼんやり眺めていた。隣では、雪臣がタブレット端末で仕事の資料に目を通している。彼の薬指をちらりと見ると、今夜もやはりマリッジリングがあった。彼もお風呂を済ませているはずなのに、また嵌め直したのだろうか。それとも、入浴中も外さなかったのか。指輪をつけたまま過ごす人もいるが、彼がいつもつけているサファイアのピアスは、毎晩必ず外していることに気がついた。そのことが、少し気にかかった。 二人の間に会話はない。しかしテレビの中で芸人が何か言うたび、部屋の静けさを紛らわせるように賑やかな笑い声が響いた。 少し前に開けておいた窓から、やわらかい風が入ってくる。入浴後の火照りも、もうすっかり引いていた。 「九月に入ったからか、日暮れのあとはもう結構涼しいね」 外はすっかり姿を変えて、昼間の日差しからは想像できない、秋めいた夜のにおいがした。それでも、夏が終わったと言い切るにはまだ早い。庭では虫が鳴いている。 テーブルの上にタブレットを伏せた雪臣は、なにも言わず、風に揺れるカーテンをじっと見ていた。 「雪臣くん、寒いの?」 「…………いや」 雪臣は膝の上で手を組んで、ほどき、そしてまた組んだ。何か言ってくるのかと思ったが、彼は結局なにも言わずに、今度は黙ってテレビの方へ顔を向けた。 「……じゃあ、そろそろ寝ようかな」 言ってから、もう一度、雪臣の左手を見た。 ……このまま、おやすみ、と別々の部屋へ
Terakhir Diperbarui : 2026-09-22 Baca selengkapnya