翌朝の食卓は、いつもと同じだった。焼いたパンの匂いがして、窓の外では通勤する車の音が途切れない。愛音は味噌汁を椀によそいながら、向かいの航生へ目を向けた。昨日までなら新聞を開いたまま顔を上げない時間なのに、今日は一度だけこちらを見た。目が合うと、すぐに紙面へ視線が戻る。 それだけだった。けれど、愛音は味噌汁の椀を置く位置を少しだけ変えた。航生が何かを気にしているのかは分からない。分からないまま、朝食を続ける。余計なことはしない。それが一番自然だった。 「今日、帰りは遅くなる?」 航生の声は普段と変わらない。愛音は箸を置かず、焼き魚の骨を外した。 「たぶんいつも通りです。買い物してから帰ります」 「そうか」 航生はそれ以上続けなかった。愛音も何も足さない。食器の触れ合う音だけが、妙に近く聞こえた。 朝食を終えたあとも、航生は何度か愛音のいる場所を目で追った。洗った茶碗を水切り籠へ置くときも、玄関で靴を履くときも、視線が合うことがある。そのたびに航生は何もなかったように視線を外した。 愛音は気づいていないふりをした。玄関の鏡で髪を整え、鞄の中を確かめる。財布、鍵、書類。いつもと変わらないものを一つずつ指で触れていく。靴紐を結んでいると、背後から声が落ちた。 「書類って、そんなにあるのか?」 愛音は顔だけ振り向いた。 「まだ少しあります。でも、あと何回かで終わると思います」 「そうか」 航生はそれ以上聞かなかった。愛音が玄関を出るときにも、呼び止めることはない。扉を閉めたあと、外の空気を一度吸ってから歩き出した。背中に視線が残っているような気がしたが、振り返らずに角を曲がった。 その日の夕方、愛音が洗濯物を取り込んでいると、玄関の鍵が回った。帰宅した航生は上着を脱ぎながら、リビングにいる愛音へ目を向ける。昨日までと同じ帰宅時間だった。 「最近、出かけること増えたな」 唐突だったが、声には軽さがあった。愛音は畳みかけていたシャツを一度広げ、それから袖を揃える。 「そうですか?」 「前より家にいない気がする」
Last Updated : 2026-09-25 Read more