All Chapters of つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています: Chapter 21 - Chapter 30

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21話

 翌朝の食卓は、いつもと同じだった。焼いたパンの匂いがして、窓の外では通勤する車の音が途切れない。愛音は味噌汁を椀によそいながら、向かいの航生へ目を向けた。昨日までなら新聞を開いたまま顔を上げない時間なのに、今日は一度だけこちらを見た。目が合うと、すぐに紙面へ視線が戻る。  それだけだった。けれど、愛音は味噌汁の椀を置く位置を少しだけ変えた。航生が何かを気にしているのかは分からない。分からないまま、朝食を続ける。余計なことはしない。それが一番自然だった。  「今日、帰りは遅くなる?」  航生の声は普段と変わらない。愛音は箸を置かず、焼き魚の骨を外した。  「たぶんいつも通りです。買い物してから帰ります」  「そうか」  航生はそれ以上続けなかった。愛音も何も足さない。食器の触れ合う音だけが、妙に近く聞こえた。  朝食を終えたあとも、航生は何度か愛音のいる場所を目で追った。洗った茶碗を水切り籠へ置くときも、玄関で靴を履くときも、視線が合うことがある。そのたびに航生は何もなかったように視線を外した。  愛音は気づいていないふりをした。玄関の鏡で髪を整え、鞄の中を確かめる。財布、鍵、書類。いつもと変わらないものを一つずつ指で触れていく。靴紐を結んでいると、背後から声が落ちた。  「書類って、そんなにあるのか?」  愛音は顔だけ振り向いた。  「まだ少しあります。でも、あと何回かで終わると思います」  「そうか」  航生はそれ以上聞かなかった。愛音が玄関を出るときにも、呼び止めることはない。扉を閉めたあと、外の空気を一度吸ってから歩き出した。背中に視線が残っているような気がしたが、振り返らずに角を曲がった。  その日の夕方、愛音が洗濯物を取り込んでいると、玄関の鍵が回った。帰宅した航生は上着を脱ぎながら、リビングにいる愛音へ目を向ける。昨日までと同じ帰宅時間だった。  「最近、出かけること増えたな」  唐突だったが、声には軽さがあった。愛音は畳みかけていたシャツを一度広げ、それから袖を揃える。  「そうですか?」  「前より家にいない気がする」
last updateLast Updated : 2026-09-25
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22話

 翌朝、航生はいつもより早く起きていた。愛音が台所へ入ったときには、すでにコーヒーが一杯分だけ減っている。テーブルの端には新聞が置かれていたが、ページはほとんど進んでいなかった。  「今日は早いですね」  「目が覚めたからな」  航生はカップを持ち上げた。けれど一口飲む前に、愛音へ視線を向ける。ほんの少し長い。愛音が冷蔵庫を開けると、その視線も外れた。  朝食の支度をしている間、航生から話しかけてくることはなかった。食卓についてからも同じだった。ただ、愛音が鞄を持って玄関へ向かうと、背後から声が落ちる。  「今日は?」  「仕事です」  「そうか」  それだけだった。愛音は靴を履いて玄関を出る。扉を閉める直前に、航生の姿が鏡に映った。こちらを見ているようにも見えたが、顔を上げたときにはもう新聞へ視線を戻していた。  昼過ぎ、愛音のところへ貴子が訪ねてきた。手土産の袋をぶら下げたまま玄関に立ち、愛音を見るなり口元を上げる。  「相変わらずね。こういうところだけはちゃんとしてるじゃない」  「どういうところですか?」  「家のこと。私だったら、仕事して帰ってきてまでこんなことできないもの」  貴子は靴を脱ぎながら室内を見回した。以前と変わらない仕草だった。ソファへ腰を下ろすと、持ってきた菓子を愛音へ差し出す。  「これ、有名なお店の。知ってる?」  「名前だけなら」  「でしょうね。ちょっと高いから」  愛音が礼を言うと、貴子は満足そうに頷いた。昔からこういう話し方をする。自分が知っていることを相手が知らないと、それだけで少し上に立てるらしい。  「最近どう? 仕事」  「普通です」  「普通って便利な言葉ね」  笑いながら、貴子は菓子の箱を撫でた。  「私は最近、けっこう忙しくて。まあ、頼られると断れないじゃない?」  「大変ですね」  「そうなのよ」  貴子は楽しそうに頷いた。そのまま仕事の話を続ける。  「この前なんて、後輩の子が大きいプロジェクトに入
last updateLast Updated : 2026-09-26
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23話

 翌朝、愛音は炊飯器の蓋を開けた。湯気が上がり、味噌汁の鍋から小さく泡が弾ける。航生はいつもより早く起きてきたが、昨日までのようにスマートフォンを見たまま立っていることはなかった。椅子を引き、新聞を一枚めくる。「今日は味噌汁、少し濃いかも」「そうか」 箸を持つ手が止まることもない。愛音は焼いた魚を皿へ移した。航生は魚に箸をつけ、湯飲みを手にする。会話はそれだけだった。 食後、愛音が食器を洗っている間に、航生は玄関で靴を履いた。出ていく前に台所へ顔を向ける。「今日は何時くらい?」「買い物をしてから戻ります。夕方には」「分かった」 扉が閉まる。愛音は水を止め、布巾で流し台の縁を拭いた。声も仕草も昨日までより穏やかだった。ただ、以前のように何も気にしていない様子へ戻ったわけではない。愛音はそれ以上考えず、鞄を持って家を出た。 昼前、駅から少し離れた商店街へ寄った。冷蔵庫の野菜が減っていたので、八百屋で白菜と長ねぎを選ぶ。牛乳も一本、卵も一パック。会計を済ませると、買い物袋が片手にずしりと下がった。 店を出たところで、向かいから女性が歩いてきた。「あら、愛音さん」 近所で何度か顔を合わせた女性だった。名前を呼ばれて、愛音も足を止める。「こんにちは」「お買い物? 今日は荷物が多いわね」「はい。少し買い足しました」 女性は袋を持ち替えた。「私もこれから帰ってお昼。重いでしょう」「大丈夫です」 二人の間には、買い物袋がひとつ置けそうなほどの距離があった。道を塞がないよう、愛音は少し端へ寄る。「そういえば、この前ね。駅の近くのカフェで、依子さんを見かけたのよ」「そうなんですか」 女性は買い物袋を持ち替えた。「うん。お友達と一緒なのかなって思ってたんだけど、朝桐さんのお嫁さんもいたでしょう? 愛音さんだったのね」 愛音の指が袋の持ち手へ食い込んだ。「はい。少しお話があって」「そうだったの。私、あとから依子さんにも会ったのよ。あのお店、ケーキがおいしいでしょうって話になって
last updateLast Updated : 2026-09-27
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24話

 数日間、家の中には大きな変化がなかった。航生は朝食を食べ、仕事へ出る。愛音は洗濯をして、夕方には食事を整える。会話は必要なことだけだった。  それでも、玄関を出るときに「今日は?」と聞かれることはある。愛音が予定を答えると、「そう」と返ってくる。声は穏やかだった。  その日の昼前、愛音が洗濯物を畳んでいると、スマートフォンが震えた。依子からだった。 『今日、少し時間を取れませんか』 『できれば早めに来てください』 『確認していただきたいことがあります』  普段なら、日程と必要な書類が一度に並ぶ。今回は短い文章が三つに分かれていた。愛音は時計を見る。予定していた買い物の時間をずらせば、午後には動ける。 『午後なら伺えます』  返信してから、洗濯物を一枚ずつ重ねた。しばらくして通知が鳴る。 『では、三時に。主人もいます』  愛音は予定表を開き、帰宅時間を組み直した。夕食の下ごしらえを済ませてから家を出る。鞄には財布と鍵、手帳だけを入れた。  朝桐家へ着くと、依子が玄関で待っていた。いつものように「どうぞ」と部屋へ通されたが、茶の準備はまだ整っていなかった。  剛生は窓際の椅子に座っている。愛音が席につくと、依子も向かいへ腰を下ろした。 「急に呼び出してごめんなさい」 「いえ」  依子の手がテーブルの上で止まる。剛生が一度だけ依子へ視線を向け、すぐに愛音へ戻した。 「少し、耳に入ったことがあるの」  愛音は背筋を伸ばした。 「先方のほうで、よくない噂を聞いたそうです」  依子の声は低かった。 「噂、ですか?」 「ええ。ただ、誰から聞いたのかまでは、こちらにも分かっていないの」  剛生がテーブルの端に置かれた紙を指先で押さえる。 「向こうも、直接確認したわけではない。誰かから聞いて、その人もまた別の人から聞いた、という程度らしい」  愛音は紙へ目を落とし、手を膝の上で重ねる。 「内容については、詳しく聞いていません」 「それがね」  依子が一度言葉
last updateLast Updated : 2026-09-28
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25話

 数日間、愛音は依子との連絡を電話だけにした。朝の家事が終わってから、必要な確認があれば手帳へ書く。決まった時間に電話をかけ、終われば通話履歴だけを残す。依子から先に連絡が来たときも、愛音はその場で内容を聞き、必要なことだけ返した。  短い通話でも、沈黙が挟まることがある。周囲の音が入ると、相手の声が一瞬聞き取りにくくなる。愛音は聞き返し、手帳へ日付を書き足した。  書類を受け取る日は、電話で決めた。メッセージの画面を開くことはなくなった。  電話を終えると、愛音は手帳を閉じる。以前なら、そのまま画面に残った文章を読み返していた。今は通話の内容を記憶から拾い、日時と必要な事項だけを紙へ移す。書き終えたらペンを置き、手帳を鞄の内ポケットへ戻した。  依子とのやり取りは短くなった。必要なときに声を聞き、必要なときに会う。その繰り返しが続いている。  その日の午前、洗濯物を取り込んでいると、電話が鳴った。依子だった。 「今、大丈夫かしら」 「はい」 「準備していたものが、全部揃いました」  少し間がある。 「最後にお渡しするものもあります。今日、来られる?」 「午後なら伺えます」 「では三時に。主人もいるわ」 「分かりました」  通話が切れたあと、愛音は時計を見た。午後三時までに家事を済ませる。昼食を終え、食器を洗い、洗濯物をしまった。鞄へ財布と鍵、手帳を入れる。  玄関を出る前に、愛音は一度だけスマートフォンを確認した。新しいメッセージはない。画面を閉じ、端末を鞄へ戻す。  朝桐家では、依子が玄関まで出てきた。前に書類を受け取ったときと同じ部屋へ通される。剛生は窓際に座っていた。  テーブルには茶器と、厚みのある封筒が置かれている。 「こちらで最後です」  依子が封筒を愛音の前へ置く。  愛音は両手で持ち上げた。前に受け取った封筒より重い。紙が何枚も重なっている感触が、封筒越しに伝わる。 「確認は家でしてちょうだい。足りないものがあれば電話を」 「分かりました」  剛生が封筒へ目を向けた。
last updateLast Updated : 2026-09-29
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26話

 契約の話が出てから、航生の帰宅時間が少しずつ早くなっていた。夕食を終えても仕事の電話をすることが増え、リビングの机には見慣れない書類が重なっている。愛音が食器を片づけていると、航生がその書類を一枚ずつ揃え始めた。 紙の端を何度も合わせている。揃ったと思っても、また一枚だけ抜き出して確認する。その手が止まったとき、航生が顔を上げた。 「今度の会食だけど」 「はい」 「お前も来てもらわないと困る」 愛音の手が止まる。 「私もですか?」 「そうだ。先方も家族同伴を想定してる。こっちだけ一人じゃ格好がつかない」 航生は書類から目を離さない。 「仕事の話が中心だから、余計なことはしなくていい。隣に座ってくれればいいから」 「いつですか?」 「まだ先方と調整中だ。ただ、平日の夜になる」 「分かりました」 愛音が頷くと、航生はようやく顔を上げた。 「服装も、あまり堅すぎるのはやめてくれ。かといって普段着でも困る。先方に変な印象を持たれたくないからな」 「どのくらいの感じにすればいいですか?」 「そこは自分で考えてくれ」 それだけ告げると、航生はまた書類へ視線を落とした。 愛音は流しの前へ戻った。水を出し、皿についた泡を洗い流す。さっきの会話を頭の中で繰り返す必要はなかった。言われたことは明確だった。 「家族同伴というのは、奥さんが一緒にいるという意味ですよね」 念のため確認すると、航生は書類の端を指で押さえたまま頷いた。 「そういうことだ。向こうも夫婦で来るらしいからな」 「分かりました。では、合わせます」 「頼む」 短い返事だった。 ただ、六話の頃なら呼ばれることすらなかった場所へ、今度は自分から連れていくと言われている。その違いについて、愛音は口にしなかった。 翌日、愛音は依子へ連絡を入れた。会食のことを伝えると、電話の向こうでしばらく返事がなかった。 「……会食ですか」 「はい。契約前の顔合わせみたいなものだ
last updateLast Updated : 2026-09-30
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27話

 会食の日、愛音は約束の時間より少し早く店に着いた。紺色のワンピースの裾を一度だけ整え、店の前で足を止める。ガラス越しに見える店内は静かで、奥の個室からかすかに話し声が漏れていた。  航生は先に受付へ向かっている。振り返ると、愛音がついてきていることを確認するように目を向けた。  「こっちだ」  「はい」  個室へ入ると、すでに取引先の担当者が一人待っていた。航生が挨拶を交わし、愛音も頭を下げる。担当者は柔らかな笑顔で席を勧めた。  「今日はお越しいただいてありがとうございます。奥様もご一緒とは、聞いていましたが実際にお会いするのは初めてですね」  「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」  愛音は席についた。航生の隣。向かいには担当者が座る。  最初の話題は仕事とは関係のないものだった。店の料理や季節の話から始まり、担当者が最近見つけた店の話へ移る。航生も笑いながら相槌を打ち、愛音は聞かれたことにだけ答えた。  料理が運ばれてくるたびに、担当者が簡単な感想を口にする。愛音も一度だけ「おいしいですね」と返した。酒が進むにつれて、三人の会話も少しずつ砕けていった。  航生は仕事の話になると姿勢を正した。担当者が契約の条件に触れかけると、すぐに資料へ手を伸ばす。けれど今日はまだ本題に入らないらしい。  「こういうところは、仕事の話ばかりしていると疲れますからね」  担当者が笑う。  「せっかくですから、今日はゆっくり食事をしましょう」  「ありがとうございます」  航生も笑って返した。  愛音はグラスを持ち上げる。氷が一度だけ触れ合った。  契約の話はまだ出ない。  そう思っていたところで、担当者がグラスを置いた。  「そういえば、最近ちょっと面白い話を聞きましてね」  「面白い話ですか?」  航生が笑って返す。  「ええ。こちらの近辺では、けっこう有名な話らしくて」  担当者は愛音へ視線を向けた。  「朝桐さんの奥様って、最近よく一人で出かけられているそうですね」
last updateLast Updated : 2026-10-01
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28話

 会食から数日が過ぎても、航生の様子は以前と少し違っていた。朝食の席で愛音が予定を話すと、一度だけ確認するように聞き返す。夕方に帰宅すると、玄関に置かれた愛音のバッグを見ることもあった。  「今日は遅かったな」  「仕事が少し長引いただけです」  「そうか」  それ以上は聞かない。けれど、以前ならそこで終わっていた会話に妙な間が残るようになった。愛音は気づかないふりをして、湯飲みに手を伸ばした。  外へ出る用事はほとんどない。必要なものは宅配で届くし、買い物もまとめて済ませている。仕事に出ている航生とは違い、愛音が一日の大半を過ごす場所は家の中だった。  それでも、まったく人と会わないわけではない。  朝、ゴミを出しに外へ出ると、向かいの家の女性と鉢合わせた。  「あら、おはようございます」  「おはようございます」  「最近、よくお見かけしますね」  愛音は一瞬だけ相手の顔を見た。笑顔は変わらない。けれど、その言葉が少し引っかかった。  「そうですか?」  「ええ。昼間もお家にいらっしゃることが多いでしょう? この前もベランダにいらしたから」  「そうですね。最近は家にいることが多いんです」  「ご主人、お仕事がお忙しいんでしょう?」  「ええ。帰りも遅いですから」  女性はそれ以上踏み込まず、軽く頭を下げて自宅へ戻っていった。愛音もゴミ置き場から離れたが、歩きながら先ほどの会話を思い返した。  家にいる。  ただ、それだけのことだ。  なのに、外から見れば何か理由があるように映るらしい。  玄関へ戻って鍵を閉める。愛音はそこで一度だけ振り返った。  自分では何も変わったことをしていない。外へ出ることが少ないのも今に始まったことではない。それでも、外から見える情報は思っているより多いのかもしれない。  誰が家にいるか。  誰が帰ってきたか。  昼間に窓が開いていたか。  そんな小さなことまで、近所では意外と見られている。  その日の昼過ぎだった。  リビングに置いたスマートフォンが鳴
last updateLast Updated : 2026-10-02
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29話

 翌朝、依子から電話が入った。前日の声にあった硬さは薄れている。呼び出し音が切れるまでの間も短かった。 「昨日は、ごめんなさいね」 「いえ。大丈夫です」 「少しだけ、話せるようになったの。航生さんのこと」 愛音は椅子を引いた。電話を耳に当てたまま、窓の外を見る。 「昨日、航生さんから聞かれたのは、会食で出た噂についてよ。誰から聞いたのか。それと、愛音さんが最近よく一人で出かけているという話は本当なのかって」 「それで、どう答えたんですか?」 「隆二さんの件を出したわ」 依子は少し間を置いた。 「入院や退院のときに書類のことで相談に乗ったでしょう。あのときの手続きが残っていたし、あなたが一人で動くこともあった。だから、外から見れば一人で出歩いているように見えたのかもしれないって」 愛音は黙って聞いた。 「それから、最近は家にいることが多いとも伝えたわ。だから、噂のように夫婦仲が悪くて外を出歩いているわけではない。そういう説明にしたの」 「航生さんは?」 「少し聞き返してきたけれど、それ以上は続かなかったわ。隆二さんの件なら、航生さんも知っているでしょう?」 「はい」 「だから、そこから先へは広げなかった。私が知っているのも、その範囲だけだから」 依子の説明には、余計な話が入っていない。愛音が何をしていたのかを細かく並べることもなく、実際にあった出来事だけを拾っている。 「それで、航生さんは納得したんですか?」 「納得したというより、そこで話が止まった感じね。少し黙ってから、そういうことなら分かった、と」 愛音は視線を落とした。 「分かりました」 電話を切ったあと、愛音はしばらく動かなかった。昨夜は聞けなかった話が、朝になってようやくつながった。航生が知りたかったのは、噂の内容だけではない。誰から出たものなのか。その話がどこまで広がっているのか。そこを確かめようとしていたらしい。 それでも、依子は余計なことを話していない。愛音が家にいることも、最近の生活も、必要なところだけを拾って説明している。
last updateLast Updated : 2026-10-03
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30話

 朝はいつもと変わらなかった。航生が出かける支度をする音が廊下から聞こえ、玄関の扉が閉まる。しばらくして足音も消えると、家の中はいつもの静けさに戻った。愛音は時計を確認してから、リビングへ戻った。 テーブルの上には、前夜から置いていた書類がある。封筒の位置を直し、予定していた時間まで待つ。時計の針が進む音だけが聞こえていた。 愛音は引き出しを開けた。奥から古い通帳と印鑑ケースを取り出す。ケースを開くと、見慣れた認印が収まっていた。 印鑑を手のひらに乗せる。何度も使ったものではない。けれど、ケースの中で長く保管されていたためか、金属の部分には薄いくすみが残っている。愛音は布で軽く拭いてから、机の上へ置いた。 書類を一枚ずつ確認する。名前の位置。日付。押印する欄。前に依子から渡された書類と照らし合わせるように、指先で欄を追っていく。見落としがないことを確かめると、書類を揃えて重ねた。 そのとき、玄関のほうからインターホンが鳴った。 愛音の手が止まる。 もう一度、音がした。 「はい」 返事をしてから立ち上がる。机の上に置いた印鑑ケースを閉じ、書類を重ねたままにして玄関へ向かった。 モニターを見ると、宅配便の制服が映っている。愛音はロックを外した。 「お届け物です」 「ありがとうございます」 荷物を受け取る。伝票を確認してから扉を閉め、印鑑ケースのある机へ戻った。箱を一度廊下の端へ置き、時計を見る。 ほんの数分だった。 椅子を引く。座る前に一度だけ机の上を見た。書類も印鑑も、出ていったときのままになっている。 愛音は椅子に座った。 インターホンが鳴る前に置いていた位置と、何も変わっていない。書類の角を揃え直し、印鑑ケースを机の中央へ寄せる。さっきまで聞こえていた宅配便の足音も、もう玄関の外には残っていなかった。 印鑑ケースを開く。朱肉の蓋を外すと、乾いた布のような匂いに混じって、朱肉特有の油の匂いがした。 蓋の内側を確認し、印面を朱肉へ軽く押し当てる。赤い色が細かな溝へ入り込んでいく。何度も押しつけることはせず、印面を持ち上げた。 
last updateLast Updated : 2026-10-04
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