جميع فصول : الفصل -الفصل 50

60 فصول

41話

 鍵が回る音がした。愛音はリビングでタオルを畳んでいた。玄関から聞こえたのは、航生の声ではない。 「お邪魔するわね。あら、ちゃんと家にいるじゃない」  午前中は出かけると航生は言っていた。その航生が貴子を連れてリビングへ入ってくる。貴子は靴を脱ぎながら室内を見回し、畳みかけの洗濯物へ目を落とした。航生は玄関に置いた鍵を拾い、貴子の後ろから部屋へ入る。愛音は畳みかけのタオルを膝から外し、端を揃えてテーブルへ置いた。 「陽太くんから聞いたのよ。最近よく出かけてるんですって?」  愛音はタオルを重ねてから立ち上がった。 「いらっしゃい。何か飲みますか?」 「その前に、ちょっと見せてもらおうかしら」  貴子は返事を待たず窓際へ向かった。航生は何も言わず、その後ろについていく。愛音も二人のあとを追った。  貴子は最初にリビングの窓へ向かった。カーテンを少し引き、外側から光が入る角度で桟を確かめる。愛音は声をかけず、貴子の肩越しに指先を見ていた。  貴子の指が窓枠の桟をなぞる。指先を裏返して確かめたが、何も付いていない。次は洗面所だった。鏡の下から蛇口の根元へ指を滑らせ、最後にキッチンへ向かう。排水口の縁をなぞっても、指先は白いままだった。  洗面所から戻るときも、貴子は鏡に映った愛音を見ただけだった。何か言われるかと思っていたが、彼女は口を開かずにキッチンへ向かう。愛音は半歩遅れて続いた。  貴子は指を軽くこすり合わせた。スリッパが床を擦る音がして、リビングへ戻る。航生の足元は動かなかった。愛音は二人の後ろで手を組み、貴子が次にどこを見るかを待った。貴子はソファの背に目をやってから、今度はテーブルの表面を指先でなぞった。そこでも手を止めることなく、キッチンへ視線を戻す。愛音は畳みかけの洗濯物が崩れていないことを確かめ、手を伸ばしかけてやめた。 「お昼、まだでしょう。何か出せるの?」  貴子が時計を見た。午前十一時半を少し過ぎている。愛音は冷蔵庫を開けた。残っていた豚肉と小松菜、昨日の煮物。それから卵を二つ取り出す。 「すぐ用意しますね」  冷蔵庫の中身を見れば、作れるものはすぐに決まった。愛音は豚肉を取り出しながら、煮物の
last updateآخر تحديث : 2026-10-15
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42話

「今日は病院の日か。家のこともしとけよ」  航生はネクタイを締めながら、玄関の鏡を見ていた。愛音は食卓の皿を重ね、流しへ運ぶ。皿の底には、朝食のソースが薄く残っていた。水を出す前に、航生の手元へ目を向けた。ネクタイの端が曲がっていたが、愛音は指摘しなかった。 「はい」  航生が手を差し出す。愛音は椅子の背に掛けてあった上着を取り、皺を伸ばして渡した。彼は袖に腕を通し、鏡の前でネクタイの結び目を直す。愛音がテーブルの端に残ったパンくずを指で集める間も、航生は玄関の方へ目を向けていた。 「帰りは遅くなる」 「分かりました」  彼は鍵をつかんで玄関を出る。扉が閉まり、鍵の回る音が続いた。愛音は流しへ向かいかけた足を止める。蛇口から落ちた水が一滴、シンクの底ではねた。食卓には航生の使った箸が残っていた。愛音はそれを箸置きへ戻してから、水を出した。  病院へ着くと、愛音は受付で面会の手続きを済ませてから病室へ向かった。隆二はベッドの上で本を閉じ、彼女が持ってきた洗濯物の袋を受け取る。代わりに、床脇に置かれた紙袋を指した。中には書類や読み終えた雑誌が入っているらしく、持ち手をつかむと腕に重みがかかった。 「午後から降るらしい。傘は?」  隆二は窓の外を見たまま、枕元の時計へ目を移した。愛音も窓を見た。空は朝より暗く、病院の駐車場を歩く人が空を気にしている。 「折りたたみ傘を家に置いてきました」 「そうか」  隆二は時計をもう一度見た。秒針が一周する間に、病室のドアへ視線が向く。枕元のテーブルには飲みかけの水と、折り目のついた新聞が置かれていた。愛音は紙袋を持ち直したが、誰か来るのかとは聞かなかった。隆二が待っている相手を自分から尋ねる理由はない。 「重いだろう。気をつけて持っていけ」 「大丈夫です。中身は何ですか?」 「あとで見れば分かる」  隆二は答えをそれ以上続けず、掛け布団の端を整えた。愛音は紙袋の底を腕に乗せ直す。持ち手だけで持つより、少し楽だった。  ノックが二度鳴った。 「ああ、来たか」  入ってきたのは背の高い男だった。濃い色の上着を着て、手には何も持っていない。男はベッ
last updateآخر تحديث : 2026-10-16
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43話

 ワイパーが左右に動くたびに雨の向こうの景色が現れた。愛音は後部座席で紙袋を膝に載せたまま窓の外を眺めている。運転席の男は前を向き、ハンドルを握っていた。車内に流れるのはワイパーの音と雨粒が窓を叩く音だけだった。  病院の敷地を出てから二つ目の信号を越える。見覚えのある看板が視界を横切ったところで、愛音は前の座席に目を向けた。 「駅とは言っていませんが」  男は前を見たまま答えた。 「この病院から出る道は、ほとんど駅に向かいます。違いましたか」 「……合っています」  愛音は再び窓の外に視線を戻した。道を知っているだけなら不思議はない。隆二の知人なら病院へ来ることもあるだろう。けれど、行き先を決めつけられたまま車に乗っている状況は変わらない。紙袋の持ち手を握っていた指を少しだけ緩めると、流れていく建物の位置を確かめた。  車は速度を上げずに走っていた。急な車線変更もない。男は信号が黄色に変わると手前で止まり、青になるまで口を開かなかった。愛音はその横顔を見てから、座席の背もたれに触れない程度に姿勢を直した。 「あの、貴方は」  男の視線がルームミラーに向いた。目が合ったのは一瞬だった。 「八尋創一郎です。隆二さんには、公私ともにお世話になっています」 「八尋……」  口の中で名字を繰り返してみる。記憶を探っても思い当たる人物はいなかった。父の仕事関係なら知らない人がいてもおかしくない。それでも、父の病室に現れた時の様子が頭に残っていた。手ぶらで入ってきたのに迷いがなく、隆二も驚いた様子を見せなかった。 「父から、あなたの話は聞いたことがありません」 「隆二さんは、人のことをあまり話されませんから」  八尋はそれ以上説明しなかった。言葉を探しているようにも見えなかった。信号が変わり、車が滑らかに動き出す。愛音は膝の上の紙袋を見下ろした。父が何を話していて、何を話していないのか。娘の自分にも分からないことはある。 「ただ、お嬢さんのことだけは、よく伺っています」  紙袋の持ち手をつまんでいた愛音の手が止まった。 「聡明なお嬢さんだと」  窓の外を流れていた街並みが目に入らなくな
last updateآخر تحديث : 2026-10-17
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44話

 傘を閉じると玄関先に水滴が落ちた。愛音は傘立てに差し込み、濡れた靴底を玄関マットで拭う。靴の縁についた泥もティッシュで取り除いた。顔を上げたところで手が止まる。玄関には甘い匂いが残っていた。いつもの空気とは違う。愛音は靴を脱ぐ前に一度だけ息を止めた。  廊下に紙袋を置き、中から隆二の洗濯物を取り出す。ほかの荷物はそのままにして脱衣所へ向かった。窓を開けるのは後でいい。愛音は洗濯機の蓋を持ち上げた。  隆二の衣類を入れようとしたとき、浴室の扉が半開きになっているのに気づいた。いつもなら閉めている。手を伸ばして扉を押すと、白い床の隅に細いものが落ちていた。  髪だった。愛音の髪はもっと暗い。床にある一本は明るい茶色で、指先でつまみ上げると手のひらからはみ出すほど長かった。愛音はそれを掌に載せたまま動かなかった。換気扇の低い音が頭上から続いている。  浴槽の縁に目を移す。水滴が乾ききっていない。排水口の蓋は少し斜めになっていた。シャンプーボトルも、いつも置いている位置から数センチずれている。どれも元に戻せる程度のことだった。愛音は髪をティッシュで包み、手の中で握った。    ティッシュ越しに髪の細さが伝わった。愛音は包みを洗面台の端へ置きかけて、すぐに手元へ戻す。捨てる場所を考えるように視線が動き、結局それをポケットへしまった。洗濯機の表示が点滅している。愛音はボタンを押す指に力を込めた。  脱衣所へ戻り、洗濯機に衣類を入れる。洗剤を量り、蓋を閉めた。スタートボタンを押すと機械が低く唸り始める。愛音の手は一度止まったが、すぐに洗面台の下から掃除用のブラシを取り出した。  排水口の蓋を外すと、濡れた髪が指に絡んだ。愛音は一本ずつ取り除き、用意した小さな袋に入れる。ぬめりの残る部分をブラシでこすると、手首に細かな振動が返ってきた。何度か水を流してから時計を見る。午後六時を少し過ぎていた。  浴室を出て寝室へ向かう。ベッドの上にはシーツが整えられている。愛音は端をつまんで剥がし、枕カバーも外した。枕の中央に長い髪が一本残っていた。先ほどの髪と同じ色だった。愛音は粘着ローラーを取り、髪を巻き込むように転がした。紙を一枚剥がすと、髪は簡単に取れた。  新しいシーツを広げる。角
last updateآخر تحديث : 2026-10-18
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45話

 夕食の片づけを終えた愛音は、濡れた布巾を洗って流しの脇に掛けた。リビングから航生の笑い声が聞こえる。テレビの音に混じって響く声を背に、愛音は自室へ向かった。ドアを閉めると笑い声が一段遠くなる。机の前に座り、ポケットからティッシュの包みを取り出した。指先で形を確かめてから机の隅へ置く。しばらくそれを見つめ、スマートフォンを手に取った。紗英の連絡先を開いて発信する。呼び出し音は二回で止まった。 「お疲れー。病院どうだった?」  紗英の声はいつも通りだった。愛音は椅子の背に寄りかからず、机に両肘を置いた。 「うん。雨だったから、父の知り合いの人に駅まで送ってもらった」 「へえ、ついてるじゃん」  それ以上は尋ねられなかった。愛音は机の上の包みを少し横へずらす。話す順番を考えてから口を開いた。 「家に帰ったら、浴室に髪が落ちていたの。私のものより明るくて長い髪」 「うん」 「カップも二つ洗ってあった。片方は私が使っているものじゃない。寝室の枕にも同じような髪が残っていたから、シーツを替えた」  紗英の相槌が短くなった。電話の向こうで息を吸う音がした。 「……は? それ、航生さん、家に連れ込んだってこと?」 「そうだと思う」 「で、あんたは何したの」 「掃除した」  紗英は数秒黙った。それから短く笑い、息を吐いた。 「愛音らしいわ。……ほんと、らしすぎて腹立つ」  愛音は包みの端を指でなぞった。壁の向こうから航生の笑い声が響く。テレビの音が続いている。愛音は指先でティッシュの折り目を押さえた。 「ちょっと待って。髪が落ちてて、カップが二つあって、寝室まで片づけて。それで本人には何も聞いてないの?」 「聞いていないよ」 「なんであんたが片づけなきゃいけないのよ。使った人間が自分で洗えばいいでしょうが。シーツだってそう。誰が使ったかも分からないものを、あんたが洗って元に戻す必要なんてないじゃない」  紗英の声が少しずつ大きくなる。愛音は机の端に置いたペンを揃えた。一本だけ向きがずれていたので、隣のペンと平行にする。 「……ごめん」 「そこで謝らない! あんたは何も悪いことしてないでしょ」  愛音は返事をせず、ペンから手を離した。紗英の息が一度大きく聞こえてから、声の調子が戻る。 「
last updateآخر تحديث : 2026-10-19
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46話

 「行ってくる」  航生はネクタイを整えながら玄関を出た。愛音はいつもの位置に立ち、頭を下げる。扉が閉まり、鍵のかかる音が聞こえてから顔を上げた。  洗濯カゴには前夜から航生のスーツが入っている。クリーニングに出す前にポケットを確認するのは日課だった。上着を持ち上げて内ポケットに指を入れると、折り畳まれた紙が一枚出てきた。広げると領収書だった。ホテルの名前と日付。その下に記された金額を目で追う。  愛音は壁のカレンダーを見た。記載された日付には小さな丸がついている。あの日は航生が帰宅前に「今日は遅くなる」と連絡してきた日だった。領収書をもう一度見てから、愛音は洗面台へ向かった。紙を折り直さず、白い天板に伏せて置く。口元が一瞬だけ動いた。すぐにスーツへ手を戻す。  午前中の掃除は寝室から始めた。掃除機のコードを伸ばし、ベッドの脇から床をなぞっていく。ヘッドをベッドの下へ差し込んだところで、硬いものにぶつかった。押しても動かない。愛音は掃除機を止めた。  音が消えた寝室で、モーターの余韻だけが耳に残った。膝をつき、ベッドの下を覗く。床板の端に、小さな金属が引っかかっていた。指を伸ばしてつまみ出すと、片耳分のピアスだった。小さな石がついている。愛音の耳には、こんなものを着けた覚えがない。  しばらく手のひらに載せていたが、やがて立ち上がった。洗面所から白いタオルを持ってきて床に広げる。その中央へピアスを置き、スマートフォンを構えた。正面から一枚。少し角度を変えてもう一枚。大きさが分かるように物差しを横へ置き、三枚目を撮る。壁のカレンダーが日付まで入る位置にスマートフォンを移動させた。 撮った画像を一枚ずつ確認する。ピアスの石が光を反射していたので、照明の向きを変えてもう一枚撮り直した。日付の数字がぼやけていないか拡大し、画面の端に物差しの目盛りが残っていることも確かめる。撮影した時刻が表示されているのを見てから、愛音はスマートフォンを伏せた。タオルの上には小さなピアスだけが残っていた。  撮影を終えるとピアスを拾い、タオルを畳んだ。掃除機を再び動かす。ベッドの下を念入りに吸い、床に残った細かな埃を取り除いた。いつもならここで次の部屋へ移る。愛音はコードを巻く前に、もう一度ベッドの下を覗いた。  玄関のゴミ箱を空にしようと袋を取り出したと
last updateآخر تحديث : 2026-10-19
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47話

「行ってくる」  航生を玄関で見送った愛音は、扉が閉まるのを待ってから鍵を掛けた。洗濯カゴを持って脱衣所へ向かい、洗濯機に衣類を入れる。洗剤を量ってスタートボタンを押し、終了まで十五分のタイマーを設定した。鳴るまでが今日の最初の作業時間だった。  自室へ戻り、ノートPCを開く。画面には未読メッセージの数字が並んでいた。共有ボードの端には赤い表示がいくつもついている。愛音は一つずつ確認したものの、すぐに手を動かそうとはしなかった。ほかのメンバーが進めてくれているはずだったし、今日の午前中に取り戻せる分もある。まずはコーヒーを淹れよう。椅子を引いて立ち上がり、キッチンへ向かった。  戻ってきたとき、チャット欄に紗英の名前が表示されていた。続けて着信が入る。愛音はイヤホンを耳に差し込み、通話を受けた。 「やばい。進捗が遅れてる」  紗英の声はいつもより低かった。愛音はカップを机の右端に置き、共有ボードを開き直した。 「こっちの監視がきつくて、動きづらい」 「分かってる。そっちの事情も聞いてるけど、数字がね」  紗英が画面を見ながら項目を読み上げていく。先週から更新されたデータはほとんどない。担当している解析のうち、愛音の確認待ちが三本。ほかのメンバーが進めた部分にも、主席研究員の承認がなければ次へ回せない資料が残っていた。  愛音は該当する項目を開いた。更新日時を確認し、画面を拡大する。数値の列を追っていた指が途中で止まった。最後に確認した日付は、記憶していたよりも前だった。 「向こうから昨日、前倒しで報告を出してくれって言われた。担当の人の声、ちょっと低かった」  紗英はそこで言葉を切った。向こうの顔も名前も愛音には分からない。いつも紗英を通して届く要求だけが、画面の文字になって残る。 「期限は九日後。何度も言うけど、私たちは大丈夫。でも、あんたが動けないとどうしようもない」  愛音はペンを取った。手帳を開いたところで、ペン先が紙に触れないまま止まる。椅子の背に身体が当たり、そこでようやく自分が前のめりになっていたことに気づいた。 「……分かってる」 「確認待ちの三本だけでも動かせる? こっちでできるところは進める。だけど、最後の判断はあんたにしかできない」 「今日、一件は回す。残りも確認する」 「お願い。あと、無理に返事だけして後回
last updateآخر تحديث : 2026-10-20
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48話

 朝五時半。愛音は台所の明かりをつけた。冷蔵庫から卵を取り出し、味噌汁の鍋を火にかける。いつもと同じ順番で手を動かしながら、流しの脇に置いた手帳へ一度だけ目を向けた。すぐに閉じて、フライパンをコンロに載せる。 卵を割り入れると、白身が薄く広がった。航生は黄身が半熟なのを好む。愛音は火を強めたまま、フライパンの前で数秒動かなかった。白身の縁が茶色くなり、黄身の表面まで固まっていく。裏返した卵の端が焦げたところで火を止めた。 味噌汁を椀によそい、味見をする。愛音は塩をひとつまみ足した。もう一度味を確かめてから箸を並べる。時計は六時を少し回っていた。 寝室のドアが開き、航生があくびをしながら出てきた。愛音は焼いた卵を皿に載せ、味噌汁と一緒に食卓へ運ぶ。「いただきます」 航生は卵を一口食べた。箸が止まる。皿へ目を落とし、焦げた縁を箸先で押した。「なんだこれ。固いじゃん」「すみません、焦がしました」「お前さ、一日家にいて、朝飯もまともに作れないのか」 航生は味噌汁をすすった。次の瞬間、椀を食卓へ置く音が響く。「これもしょっぱい。何やってんだよ」 愛音は立ったまま、食卓の端へ目を落とした。航生は箸を置き、椅子の背にもたれる。「貴子さんにも見てもらったばっかりだろ。気ぃ抜いてんじゃねえの」「はい」 愛音は頭を下げた。いつもより深く、首筋が見えるほどに。航生はしばらく皿を見ていたが、やがて立ち上がって鞄を取りに行った。「あー、もういい。今日、帰り遅くなるから。夕飯いらない。外で食う」「分かりました」 航生は返事を待たずに玄関へ向かった。靴を履く音がして、扉が閉まる。愛音は頭を下げたまま数秒動かなかった。やがて顔を上げ、食卓へ戻る。焦げた卵を皿ごと持ち上げ、流しへ運んだ。 皿を洗い、卵を捨てる。味噌汁は捨てずに自分の椀へ移した。時計は七時四十分を指している。愛音は手帳を開き、隅に数字を一つ書いた。ペンを置いて窓の外を見る。通りを歩く人の姿が小さくなっていった。 午前中の家事を片づける。洗濯物を干し、掃除機をかけ、台所の作業台を拭いた。買い物バッグを手に取
last updateآخر تحديث : 2026-10-22
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49話

 この五日間で、航生が夕食を家で食べたのは一度だけだった。帰りが遅くなるという連絡が来るたびに、愛音は食器を片づけて自室へ戻った。洗い物を終えた手でノートPCを開き、夜のうちに進められる作業を進める。時計を見る回数は増えたが、玄関の鍵が鳴る頃には家計簿の画面へ戻していた。 その夜も、時計の針が十時を回っていた。玄関の鍵が回る音を聞き、愛音は自室を出た。航生は鼻歌を混ぜながら靴を脱いでいる。ネクタイを緩めた手が胸元で止まり、上機嫌な声が廊下に響いた。「いやあ、今日は話が進んだわ。新しい取引先の件、俺の提案でまとまりそうなんだよ」「そうなんですね」「向こうも分かってるんだよ。何が必要なのかって。最初は渋ってたけど、俺が説明したら納得してさ。やっぱり仕事は話の持っていき方だな」 航生は靴箱に手をつき、鞄を持ち直した。愛音は相槌を打ちながら、壁の時計へ目を向けた。秒針が一周する前に、ポケットのスマートフォンが短く震える。愛音は手を入れかけて、すぐに下ろした。「まあ、これでしばらく忙しくなるかもな。お前も家のこと、ちゃんとやっとけよ」「はい」 航生は廊下を進みかけ、ふと思い出したように振り返った。「あの朝のこと、まだ気にしてんのか。今度から注意しろよ。それだけだ」 愛音は頭を下げた。「はい」 航生は満足した様子で自分の部屋へ向かった。扉が閉まる。愛音はその音を聞いてからポケットのスマートフォンを取り出した。画面には紗英からの着信が残っている。愛音は自室へ戻り、ドアを閉めた。 椅子に腰を下ろしたところで、再び端末が震えた。今度は通話だった。愛音はイヤホンをつけて応答する。「戻せた。さっき向こうに報告書を出した。期限より二日早い」 紗英の声を聞きながら、愛音はノートPCを開いた。共有ボードを確認すると、赤い表示が消えている。提出済みの欄に報告書の名前が移り、更新日時も新しくなっていた。愛音の肩がわずかに下がる。背もたれに身体を預け、長く息を吐いた。「依頼主、安心してるって。代理人の人から『確認しました。ありがとうございます』って連絡が来た」「……
last updateآخر تحديث : 2026-10-23
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50話

 平日の昼過ぎ、インターホンが鳴った。愛音は机の上の手帳から顔を上げ、モニターを確かめる。映っていたのは貴子だった。 指先がページの端を押さえたまま止まる。愛音は手帳を閉じて引き出しにしまい、ノートPCの画面を見た。電源は落ちている。ランプも消えていた。引き出しを押し戻し、椅子から立つ。廊下を進む途中で一度足を止め、リビングのテーブルに視線を走らせてから玄関へ向かった。手帳の角が引き出しに挟まっていないか、戻って確かめたい気持ちを指先で押しとどめる。インターホンの画面はすでに暗くなっていた。「こんにちは。急にごめんなさいね」 貴子は菓子の袋を片手に持っていた。靴を脱ぎながら室内を見回し、廊下の先へ目を向ける。窓枠を確かめようとしたのか、顔が少し上がったが、すぐに視線を戻した。「どうぞ」 愛音が案内すると、貴子は先にダイニングへ入った。いつも愛音が座る椅子を引き、袋をテーブルに置く。愛音は湯を沸かし、湯呑を二つ並べた。お茶を運ぶころには、貴子は椅子の背にバッグをかけて待っていた。愛音は向かいに座り、湯呑を手元へ寄せる。「あなた、先週の水曜、何してたの」「何、というと」「駅前のビル。ガラス張りの。あなたが入っていくの、見たのよ」 貴子の指が菓子の袋の口にかかった。愛音は湯呑を置き、数秒、相手の目を見た。窓から差し込む昼の光が、湯呑の縁に細く映っている。揺れはない。「……仕事です。引継ぎで不備がありまして」「え、まだ仕事していたの」 声がわずかに裏返った。袋を開けかけた貴子の手が止まり、口元に浮かんだ笑みも固まる。「資料を取りに行きました」 愛音はそこで言葉を切った。どこへ行き、誰と会い、何を扱ったのか。貴子が知りたいのはその先だろう。けれど、答えを求める視線に合わせて説明を重ねる理由はなかった。「資料って。主婦が資料取りに行くの。何の?」「お伝えできません」 愛音は湯呑を持ち上げた。お茶はまだ熱く、唇をつけてから少し待つ。貴子は菓子を一つ取り、口に入れる。二度ほど噛んでから愛音を見た。視線は手元へ落ち、台所の方へ流れ、また顔に戻ってくる
last updateآخر تحديث : 2026-10-24
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