جميع فصول : الفصل -الفصل 60

60 فصول

51話

 貴子が帰ったあとも、愛音はしばらく玄関のほうを見ていた。門の外で誰かに電話をかける姿が、カーテンの隙間から消えている。愛音はスマートフォンを手に取り、紗英とのメッセージ画面を開いた。今夜、航生さんと話す。着信を入れたら、何も言わずに録って。そう打ち込むと、すぐに了解と返ってきた。 画面を閉じ、愛音は夕食の支度に戻った。米を研ぎ、鍋に水を張り、冷蔵庫から味噌汁の具を出す。布巾を元の場所へ戻し、端をそろえた。エプロンのポケットにスマートフォンを滑り込ませ、布越しに指を入れた。親指を少し曲げると側面に触れる。位置を確かめてから、いつものように包丁を握った。まな板の上で、刃先を一度だけ確かめた。 玄関の扉が荒く閉まったのは、味噌汁を温め直しているときだった。続いて靴を脱ぎ捨てる音が二度響く。愛音は火を弱め、鍋の中をひと混ぜした。菜箸を置いて手を洗い、濡れた指を布巾で拭く。食卓には箸と茶碗を二人分並べてある。航生の分の箸が少し斜めになっているのに気づき、直そうとした手を途中で止めた。廊下を進む足音が近づき、食卓の椅子が床を擦るより先に航生の声が飛んできた。「貴子さんから電話があった。お前、会社に行ったって?」 愛音の手が止まった。火を消してから振り返る。航生の顔を見たのは一瞬で、すぐに食卓へ目を落とした。湯呑を持ち上げて置き直し、エプロンの袖口を指で引く。右手はポケットの中に残したまま、親指で画面の下端を探り、決めておいた場所を二度押した。布の内側で小さな振動が返ってきたが、航生は気づかずに椅子から腰を上げた。「俺に隠れて、何してた」「……隠してたわけじゃ」「隠してただろ。貴子さんに見られて、恥をかかされたのは俺だ」 航生は食卓を回り、愛音の前に立った。声が一段大きくなり、彼の影が台所の床まで伸びる。愛音は包丁をまな板の端へ寄せてから、両手を重ねた。背中側では鍋の蓋が小さく鳴っている。火を止めたはずなのに、余熱で汁が揺れていた。愛音はそちらへ目を向けず、航生のシャツの胸元に視線を置いた。「女が外で働くなんて、いまどき流行らないんだよ。俺の稼ぎで足りてるだろ。お前は家のことをやってればいいんだ」 航生は声を荒らげたまま、当然
last updateآخر تحديث : 2026-10-25
اقرأ المزيد

52話

 朝食の皿を下げようとした愛音の手元で、航生が箸を置いた。味噌汁の椀を食卓の端へ寄せ、こちらを見上げる。「今日から、母さんに来てもらう。家事を見てもらうことにした」 愛音は皿を持ち上げたまま、指を止めた。すぐに顔を上げる。「はい」「お前を信用してないわけじゃない。念のためだ。母さんも家にいる時間があるし、ちょうどいいだろ」 航生はネクタイを締め直し、満足そうにコーヒーを飲み干した。こちらに選ばせるつもりなど初めからない口ぶりだったが、最後には気遣った夫のような笑みまで添えている。 愛音は皿を流しへ運び、蛇口に手を伸ばしかけたところで止めた。航生が玄関を出て、扉が閉まる。足音が遠ざかってから、流し台に両手をついた。水は出さず、指先だけを縁に置いて数秒立つ。やがて手を離し、エプロンの紐を結び直した。 午前十時を少し過ぎたころ、インターホンが鳴った。モニターには依子が映っている。手土産はなく、片手にバッグを提げていた。愛音は玄関を開け、身を引いて通り道を空ける。「お義母さん。お待ちしていました」「航生に頼まれたから来ました。見るべきところは見ます」 依子は低い声で告げ、靴を脱ぐとつま先を揃えて端へ寄せた。愛音がどうぞと促すと、依子はまっすぐ台所へ入った。冷蔵庫を開けて中を一度見渡し、何も触れずに扉を閉める。洗濯機の前では洗剤の残量を確かめ、アイロン台へ目を移したあと、靴箱の戸も開けて中を確認した。愛音は半歩後ろをついて歩いたが、説明を求められるまでは口を開かなかった。 依子はダイニングの椅子に腰を下ろした。そこからは台所と食卓が見渡せる。ベランダへ続くガラス戸は斜め後ろにあり、洗面所の中までは見えない。 愛音は湯を沸かし、茶葉を急須に入れて湯呑を二つ並べた。湯の量も茶葉も、いつもと変えなかった。お茶を出すと依子は礼を述べ、湯呑を持ち上げた。愛音はその手元を見てから一歩退いた。愛音は空いた手でエプロンのポケットを一度押さえた。湯呑の縁を布巾で拭き、茶托の向きを揃えてから自分の席には座らず、依子の正面を避けた位置に立つ。依子が湯を口に運ぶ間、愛音は流しに残った小皿を洗い、音を立てないよう伏せておいた。「洗濯物を取り込
last updateآخر تحديث : 2026-10-26
اقرأ المزيد

53話

 依子が来るようになって三日目だった。朝は台所を見て、洗濯機の前に立ち、午後にはアイロン台のそばで愛音の手元を追う。冷蔵庫を開けることも、洗剤の残量を確かめることも、毎日欠かさなかった。愛音は尋ねられたことにだけ答え、家事の手を止めなかった。依子も余計なことは口にせず、目にしたものを確かめるように静かに歩いていた。二日目には、乾いたタオルの畳み方を見たあと、引き出しの中まで確かめた。三日目の今日も、依子は同じ時刻に来て、同じ椅子に座った。愛音はそのたびにお茶を出し、決まった手順で家の中を整えていた。依子が何を見ていたか、尋ねたことはない。 午後三時。依子はダイニングの椅子に座り、愛音の淹れたお茶を一口飲んだ。愛音は向かいの席には座らず、少し離れた場所で湯呑を手にしている。「航生には、ちゃんと家事をしていると報告します」 愛音の手が止まった。湯呑を口元に運びかけたまま、依子の顔を見る。礼を述べることも、問い返すこともしなかった。依子は湯呑を茶托に戻し、両手を膝の上に置く。壁の時計の針が進み、二人の間に数秒の沈黙が落ちた。「私は、どちらの味方でもありません」 依子の声は平らだった。湯呑の底が茶托に触れ、小さな音がした。「航生は私の息子です。でも、あの子のしたことも見ています」 依子は湯呑の縁を人差し指でなぞった。視線はそこに落ちたまま、指だけがゆっくり動く。窓から差し込む光がテーブルの端にかかり、湯呑の影が少しずつずれていた。依子はそれを見ても手を動かさず、言葉を探すように一度唇を閉じた。「出来れば、貴女には出て行って欲しい」 愛音は目を逸らさなかった。依子は顔を上げ、今度はまっすぐ愛音を見た。「ただ、家のことが出来る人がいないと困ります。あの子は一人では何も出来ない。貴女がいなくなれば、私が通うことになる」 依子の指が湯呑から離れた。テーブルの上に手を置き、爪先を揃えるように指を伸ばす。「それに、離婚の件が外に漏れれば、朝桐の家の体面にも関わります」 愛音は頷かなかった。湯呑を持つ手も、膝の上の指も動かさず、依子の言葉を最後まで聞いていた。責める口調ではない。それでも、出て行けという言葉と、家のことを任せたい
last updateآخر تحديث : 2026-10-27
اقرأ المزيد

54話

 朝食の湯気が食卓に残っている。愛音は鍋から味噌汁を椀によそい、航生の席へ運んだ。けれど航生は椅子に腰を下ろさず、洗面所と食卓の間を行き来している。洗面台の鏡を覗き込んではネクタイを締め直し、結び目を指で押さえて形を整えた。いつものネクタイではない。濃い色の布地には折り目が残り、結び目の脇には新品のタグを外した跡がわずかに見えた。 洗面台の端には、見慣れない香水の瓶が置かれていた。蓋は少し開いたままで、鏡の前に置かれた航生のスマートフォンから短い振動音がする。航生はすぐに手を伸ばし、画面を確かめると伏せて食卓の端へ戻した。少ししてまた裏返し、画面を見てから何もせずに伏せる。愛音は味噌汁の鍋に蓋を戻し、焼き魚の皿を食卓の中央へ置いた。「今日、父が退院します。午前中に病院へ行きます」 航生は鏡を見たままネクタイの結び目を引いた。「ああ、そう。あとで」 スマートフォンがまた光った。航生は食卓へ戻りかけた足を止め、画面を覗いてからすぐに裏返す。椅子には触れず、鞄の中を探って財布と鍵を確かめた。「お前は親父さんの世話ばっかりだな。家のことは疎かにするなよ」「はい」 愛音は箸を揃えた。航生は味噌汁に口をつけることなく鞄を掴み、玄関へ向かった。靴を履く足取りは朝の慌ただしさに似合わず軽く、靴べらを戻す手にも急かされるような動きはない。扉が閉まると、家の中には換気扇の音だけが残った。愛音は食卓へ戻り、手つかずの味噌汁を持ち上げる。表面に薄い膜が張り始めていた。椀を流しへ運び、残った朝食を片づけてから、病院へ持っていく鞄を手に取った。 病院に着くと、愛音は先にナースステーションへ向かった。担当の看護師に退院後の注意点をもう一度確認し、世話になった礼を伝える。看護師は書類の束を揃えながら、薬の飲み方と次の受診日を説明した。愛音は手帳を開き、必要な項目を書き留める。会計窓口で精算を済ませると、受け取った書類を封筒へ入れ、折れないよう鞄の内側にしまった。 病室では隆二が着替えを終え、ベッドの端に腰掛けていた。荷物は小さな鞄と紙袋だけで、枕元もすでに片づいている。愛音が鞄の持ち手を掴むと、隆二が手を伸ばしてその腕を制した。「それは自分で持つ」「
last updateآخر تحديث : 2026-10-28
اقرأ المزيد

55話

 タクシーを降りると、隆二の家の門が夕方の光を受けていた。庭の木は枝先を伸ばし、門柱のそばに落ちた葉が風に押されている。愛音は紙袋を持ち直し、もう片方の手で鞄から合鍵を取り出した。鍵についた小さな傷を親指で確かめてから、鍵を回して玄関を開けると、閉め切っていた家の空気が玄関にこもっていた。「窓、開けるね」 隆二が靴を脱いで居間へ向かう間に、愛音は廊下と居間の窓を開けた。外の空気が入り、カーテンの裾が揺れる。居間の隅に置かれた時計は、家を空けていた間も変わらず時を刻んでいた。隆二は居間の椅子に腰を下ろし、足元へ鞄を置いた。愛音はエプロンを取らず、袖を肘までまくって台所へ入る。米を計り、ボウルに入れて水を注ぐ。指先を水に沈めると、冷たさが手首まで伝わった。米を研ぐ手は淀みなく動き、水を替えて鍋に移す。火にかけてから卵を割り、箸で溶いた。小さなフライパンを温め、卵焼きを手早く巻き上げる。漬物は冷蔵庫から出して食べやすい大きさに切り、小鉢へ移した。 米を研いだ水を捨てようとしたとき、一度だけボウルの縁から水がこぼれた。愛音は手を止め、台の端を見下ろした。水が細く広がっている。布巾を取って拭き、濡れた指を一度振ってから、再び鍋の様子を確かめた。居間から隆二が台所を見ていたが、声はかからない。愛音はまな板を洗い、使った道具を乾いた布巾の上へ揃えて置いた。お粥の火を弱め、焦げつかないよう木べらで鍋底をなぞる。卵焼きを切り分け、漬物の小鉢を並べる。湯気の立つお粥を器に移す頃には、窓から入る風も少し落ち着いていた。 食卓にお粥と卵焼き、漬物を並べると、愛音は隆二の向かいに座った。隆二は箸を取り、お粥を一口すくった。器を傾ける角度を確かめるようにして口へ運び、何も言わず二口目をすくう。愛音は急須を持ち上げ、隆二の湯呑に茶を注いだ。湯気が立ち上る間、隆二は器の縁を見つめていた。「あの家に、お前の居場所はあるのか」 急須を傾けていた愛音の手が止まった。茶が湯呑の縁近くまで満ちている。愛音は少しだけ角度を戻し、急須を持ったまま顔を上げた。隆二は愛音を見ず、お粥の表面に浮かぶ湯気を追っている。「さっきの電話のあと、顔が変わった」「……仕事の電話だったから」
last updateآخر تحديث : 2026-10-29
اقرأ المزيد

56話

 あれから数日が過ぎても、朝の手順は変わらなかった。目覚ましが鳴ると愛音は台所へ立ち、炊飯器の蓋を開けて米の具合を確かめた。味噌汁を温め直し、卵を溶いてフライパンへ流す。箸で端を寄せながら形を整え、焼き上がった卵を皿へ移す頃には、テレビから天気予報が聞こえていた。窓の外は薄曇りで、予報士が午後の降水確率を伝えている。 航生が寝室から出てきた。いつもより口元が緩み、手首には見慣れない腕時計が光っている。新しい革ベルトはまだ硬そうで、航生は食卓へ向かう途中にも文字盤を覗いた。スマートフォンを箸の脇へ置き、画面を上にしたまま椅子に座る。愛音は味噌汁を二つの椀によそい、航生の前へ滑らせた。椀の向きを揃え、箸置きの位置を直してから自分の席についた。 箸が皿に触れる音が続く。航生は新聞を広げず、食事の合間にもスマートフォンへ目を落としていた。通知が来るたびに画面が明るくなり、彼は内容を確かめてから伏せることなく、手元へ引き寄せていた。愛音はご飯を一口食べ、味噌汁を飲んだ。湯呑を少しずらして箸を置き、焼いた卵を二つに分ける。いつもと同じ器、同じ席、同じ朝の番組。窓の向こうで車が一台通り過ぎ、テレビの天気予報士が傘のマークを指し示した。愛音が最後の一口を食べ終える頃、天気予報が終わった。 画面が情報番組の話題コーナーに切り替わり、女性キャスターが明るい声で次の話題を紹介した。スタジオの背景には企業のロゴや街の映像が並び、画面の隅には小さく「業界の注目ニュース」と表示されている。「続いては、業界の噂です。製薬ベンチャーのTinker Bellが、画期的な新薬の開発に成功した模様、と関係者の話から分かりました」 画面の下に、社名が大きく表示された。愛音は急須を手に取り、航生の湯呑へ茶を注ぎ始めた。「来春にも大手が出資を決める見通しとのことです」 キャスターは手元の資料を見ながら短く補足し、コーナーは三十秒ほどで終わった。画面の社名はすぐに消え、何事もなかったように別の映像へ切り替わった。画面は次の話題へ移り、スタジオには別の映像が流れ始める。愛音の手は急須を傾けたまま止まっていた。茶が湯呑の縁まで上がり、表面が小さく揺れる。愛音はそこでようやく気づき、注ぐのをやめて急須を戻した。 内容
last updateآخر تحديث : 2026-10-30
اقرأ المزيد

57話

 自室で手帳を開いた愛音は、ページの余白にペンで丸を三つ書いた。二つ目の丸をなぞり、さらにその内側へ小さな丸を重ねる。横に貴子と書いたところでペン先が止まった。前日に紗英と話した内容を思い返し、愛音は手帳を閉じた。スマートフォンを取り、貴子の連絡先を開く。先日はお騒がせしました。お詫びに昼食をご馳走させてください。よろしければお仕事のお話も伺えたら嬉しいです。そう打って送信した。 返信を待つ間、愛音は洗濯物を取り込んで畳み、掃除機をかけた。窓を開けて空気を入れ替え、洗面所の鏡を拭く。洗濯かごを空にして、取り込んだタオルの端を揃えながら棚へ戻した。スマートフォンは棚の上に置いたままで、手に取るたびに時間を確かめることもしなかった。三時間ほど経った夕方、通知音が鳴った。画面には駅前のホテルのレストラン名と、しょうがないわね、という短い返事が表示されている。愛音は指定された店を確認し、返事を送ってからスマートフォンを伏せた。手帳をもう一度開き、貴子の名前の横に置いたペンを揃える。丸の外側には何も書き足さず、ページを閉じて引き出しへしまった。外出の支度を済ませ、鍵をかけたか、指先でもう一度確かめた。 ホテルのレストランに着くと、貴子は窓際の席に座っていた。バッグを隣の椅子に置き、メニューを開いている。愛音が近づくと、貴子は腕時計に目を落としてから顔を上げた。「お待たせしました。今日はありがとうございます」「忙しいのに、わざわざ来てあげたのよ」 愛音は向かいの席に座り、メニューを開いた。貴子はページをめくる手を止め、一番高いコースを指で示す。愛音も同じものを注文した。貴子がメニューを閉じるのを見届けてから、愛音は自分のメニューを揃えてテーブルの端へ置いた。「貴子さんの選ばれるものは、いつも間違いがないですね」 貴子は少し顎を上げ、バッグを椅子の背に掛け直した。前菜が運ばれてくると、愛音はナイフとフォークの位置を確かめるように手元を整えた。貴子がひと口食べてから、愛音も同じようにナイフを入れる。皿の上の料理を小さく切り分け、口に運んでからナプキンを膝に置き直した。「最近、ニュースを見ていて、製薬の業界って噂が早いんだなと思いました。航生さんも、朝に興奮していて」 貴
last updateآخر تحديث : 2026-10-31
اقرأ المزيد

58話

 TinkerBellの会議室には、開発資料を映したモニターと、進捗表を印刷した紙が並んでいた。愛音は席に着くと、手元の資料を開き、日付と数値をもう一度確かめた。今朝までに更新した部分には付箋をつけてある。紗英が隣へ座り、パソコンを起動したところで、会議室の扉が開いた。 入ってきた女性を見て、紗英の指が一瞬止まった。以前の進捗確認で顔を合わせていた代理人ではない。女性は二人に軽く会釈し、向かい側の席へ資料を置いた。「初めまして。如月綾瀬と申します。本日から投資家側の窓口を担当します。よろしくお願いします」「研究責任者の西条愛音です。こちらはプロジェクト管理を担当している遠野紗英です。よろしくお願いいたします」 愛音は立ち上がり、落ち着いて頭を下げた。綾瀬も同じように会釈を返したが、表情からは歓迎なのか警戒なのか読み取れなかった。紗英が以前の担当者について何か尋ねかけたように見えたものの、すぐに口を閉じて資料へ目を落とす。代理人が交代した理由は、説明されなかった。 綾瀬は席に着くと、手元の資料を一枚めくった。「まず、以前の進捗について確認させてください。前回の報告では、予定していた工程に遅れが出ていました。特に以前の進捗報告で遅れが明らかになった時点について、理由を伺えますか」 愛音は指先を資料の端に添えた。以前の報告時点。記録に残っている数字と工程は、すぐに説明できる。けれど、その遅れが生まれた時間の内訳まで、仕事の資料に書かれているわけではなかった。「当初の計画に対して、実作業に充てられる時間を十分に確保できませんでした。そのため、検証と記録の整理が予定より後ろへずれています。確認が必要な工程を飛ばして帳尻を合わせることは避けたので、遅れが表面化しました」「作業時間を確保できなかったのは、研究上の問題ですか。それとも人員や環境の問題でしょうか」 綾瀬の声に責めるような響きはなかった。問いは簡潔で、答えを曖昧にすれば次の質問が来ることも分かった。愛音は資料の工程表を開き、該当する欄を示した。「研究上の問題だけではありません。私自身が作業に使える時間が予定を下回ったことが主な要因です。現時点で、実験手順や結果の再現性に問
last updateآخر تحديث : 2026-11-01
اقرأ المزيد

59話

 TinkerBellの作業室で、愛音は検証結果をまとめた資料を開いていた。画面には完了した項目と未確認の項目が並んでいる。前回の進捗確認で説明したとおり、遅れている工程を急いで終わらせるより、確実に確認を進める必要があった。とはいえ、使える時間が限られている現状では、すべてを同じ順番で進めるわけにもいかない。 愛音は作業予定の表を更新し、優先順位を見直した。検証の一部を先に進めれば次の判断に必要なデータが揃う。ただし、その場合は別の確認が後ろへずれる。どちらを選んでも影響は残るため、研究責任者として決めなければならなかった。 資料を整理していると、創一郎から連絡が入った。進捗について少し話したいという内容だった。愛音は画面に目を戻し、最新の数値を確認してから返信した。説明する内容は決まっている。問題は、その方針をどこまで認めてもらえるかではなく、自分の判断として筋道を立てて伝えられるかだった。 指定された時間にオンラインの打ち合わせが始まると、画面の向こうに創一郎の姿が映った。彼は手元の資料に目を通してから顔を上げた。「進捗表を確認しました。前回の報告から、検証はどこまで進みましたか」「予定していた確認のうち、こちらの項目は完了しています。残っているのは結果の照合と記録の整理です。現段階では研究の方向性を変更する必要はないと考えています」 愛音は共有画面を切り替え、完了した項目と未完了の項目を示した。数値の根拠と確認手順を順番に説明する。創一郎は途中で口を挟まず、要所で資料へ目を落としながら聞いていた。「今後の進め方については、どう考えていますか。こちらから希望を出すこともできますが、まずは愛音さんの意見を聞きたいです」 愛音は一瞬だけ指を止めた。 希望を聞かれたのだ。進捗を報告する場なのだから、質問そのものは不思議ではない。それでも、答えを急かされず、自分の考えを先に求められることに、わずかな戸惑いがあった。「私は、次の報告までに一次確認を終えることを優先したいです。その結果を見てから追加の検証が必要か判断したほうが、作業の重複を避けられます。記録の整理も並行して進めますが、確認の精度を落としてまで期限に合わせることは避けたいと考えていま
last updateآخر تحديث : 2026-11-02
اقرأ المزيد

60話

 夕食の支度を終えた愛音が廊下を通りかかったとき、書斎の扉が少しだけ開いていることに気づいた。中から航生の声が聞こえる。仕事の電話なら珍しくもない。けれど、いつもより声が低く、語尾に妙な柔らかさが混じっていた。「分かってる。今は無理だって。あとで連絡するから」 愛音は足を止めた。扉の隙間から見えた航生は、机に片手をついてスマートフォンを耳に当てていた。パソコンの画面には何かの資料が開かれているが、視線はそちらに向いていない。返事を待つように黙ったあと、航生の口元が少し緩んだ。「そんなに気にしなくていい。ちゃんと考えてるから」 仕事相手に向ける声とは違う。愛音がそう感じたのは、航生と長く暮らしてきたからかもしれない。家で電話をするときの彼は、相手が誰であっても要件を先に済ませたがる。忙しさを理由に話を切り上げることも多い。それなのに今は、相手の言葉を待つ時間さえ惜しんでいないようだった。 航生がふと廊下のほうへ顔を向けた。愛音は反射的に手にしていたタオルへ目を落とし、歩き出す。足音を立てすぎないよう気をつけるつもりはなかったが、自然と歩幅が小さくなった。「じゃあ、また連絡する」 背後で通話が切れる音がした。続いて椅子の脚が床を擦る。愛音は振り返らず、洗面所へ向かった。タオルを棚にしまい、蛇口をひねる。水が流れる音の向こうで、書斎の扉が閉まった。 誰と話していたのか。確かめようと思えば、今なら何か聞けるかもしれない。けれど、何を尋ねるというのだろう。仕事の電話だったと答えられれば、それ以上は追及できない。愛音が見たのは、航生が誰かと親しげに話していたという事実だけだった。 手を拭きながら、愛音の頭に別の声が蘇った。 航生の退院ではなく、隆二が退院した日。愛音がその報告をしようと電話をかけたとき、受話口の向こうから聞こえた若い女性の声。 ――航生さぁん、まだぁ? あの甘えるような呼びかけを聞いた瞬間のことは、今でも覚えている。愛音はその場で何も尋ねず、通話を終えたあとに手帳へ書き留めた。声。女。若い。『航生さん』。短い記録だったが、聞き間違いではないと忘れないために残したものだった。 愛音は濡れた手をもう一度タオ
last updateآخر تحديث : 2026-11-03
اقرأ المزيد
السابق
123456
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status