貴子が帰ったあとも、愛音はしばらく玄関のほうを見ていた。門の外で誰かに電話をかける姿が、カーテンの隙間から消えている。愛音はスマートフォンを手に取り、紗英とのメッセージ画面を開いた。今夜、航生さんと話す。着信を入れたら、何も言わずに録って。そう打ち込むと、すぐに了解と返ってきた。 画面を閉じ、愛音は夕食の支度に戻った。米を研ぎ、鍋に水を張り、冷蔵庫から味噌汁の具を出す。布巾を元の場所へ戻し、端をそろえた。エプロンのポケットにスマートフォンを滑り込ませ、布越しに指を入れた。親指を少し曲げると側面に触れる。位置を確かめてから、いつものように包丁を握った。まな板の上で、刃先を一度だけ確かめた。 玄関の扉が荒く閉まったのは、味噌汁を温め直しているときだった。続いて靴を脱ぎ捨てる音が二度響く。愛音は火を弱め、鍋の中をひと混ぜした。菜箸を置いて手を洗い、濡れた指を布巾で拭く。食卓には箸と茶碗を二人分並べてある。航生の分の箸が少し斜めになっているのに気づき、直そうとした手を途中で止めた。廊下を進む足音が近づき、食卓の椅子が床を擦るより先に航生の声が飛んできた。「貴子さんから電話があった。お前、会社に行ったって?」 愛音の手が止まった。火を消してから振り返る。航生の顔を見たのは一瞬で、すぐに食卓へ目を落とした。湯呑を持ち上げて置き直し、エプロンの袖口を指で引く。右手はポケットの中に残したまま、親指で画面の下端を探り、決めておいた場所を二度押した。布の内側で小さな振動が返ってきたが、航生は気づかずに椅子から腰を上げた。「俺に隠れて、何してた」「……隠してたわけじゃ」「隠してただろ。貴子さんに見られて、恥をかかされたのは俺だ」 航生は食卓を回り、愛音の前に立った。声が一段大きくなり、彼の影が台所の床まで伸びる。愛音は包丁をまな板の端へ寄せてから、両手を重ねた。背中側では鍋の蓋が小さく鳴っている。火を止めたはずなのに、余熱で汁が揺れていた。愛音はそちらへ目を向けず、航生のシャツの胸元に視線を置いた。「女が外で働くなんて、いまどき流行らないんだよ。俺の稼ぎで足りてるだろ。お前は家のことをやってればいいんだ」 航生は声を荒らげたまま、当然
آخر تحديث : 2026-10-25 اقرأ المزيد