航生の手が止まった。 数秒して、鼻で小さく息を吐く。 「......何を急に言ってるんだよ」 愛音は何も答えなかった。 「記念日なのに、そんな話する?」 航生はファイルを閉じた。表紙を軽く押さえ、それから愛音の顔を見る。 「少し頭を冷やせばいい。明日になれば普通に戻るだろ」 愛音はテーブルの上の湯呑みを両手で包んだまま、しばらくそのままにする。 航生は立ち上がった。湯気はもう立っていなかった。 「帰ったらまた話そう」 「はい」 玄関の扉が閉まる。 靴音が遠ざかる。愛音はしばらくその場に座ったまま動かなかった。 やがて、スマートフォンを手に取る。連絡先を開き、迷わず一つの名前を選んだ。 航生は、離婚届に判を押す人間ではない。少なくとも、今のままでは。 本人に迫れば、意地でも応じないだろう。時間をかければ、調停になる。調停になれば、朝桐の家の名前も表に出る。 航生が頭の上がらない相手は、この世に二人しかいなかった。 「朝桐依子」 呼び出し音が鳴る。三回目で応答があった。 「愛音さん? どうしたの、こんな時間に」 「お話ししたいことがあります。航生さんとの離婚について、ご協力いただけないでしょうか」 電話の向こうで、一瞬だけ間があった。 「......協力、というと」 「航生さんの署名が必要です。私一人では、時間がかかると思っています」 愛音は湯呑みを見たまま、続けた。 「お義母様たちにとっても、悪い話ではないと思います」 依子はすぐには答えなかった。呼吸の音だけが、しばらく聞こえていた。 「......分かったわ。詳しい話を聞かせてちょうだい」 「ありがとうございます」 「近いうちに、一度会いましょう」 通話が切れる。 愛音はスマートフォンを机の上へ置いた。画面はすぐに暗くなった。 翌日の午後だった。インターホンが鳴った。 愛音は手を拭いて玄関へ向かった。モニターに映っていたのは依子だった。約束をしていたわけではない。 「突然ごめんなさいね」 扉を開けると、依子は軽く頭を下げた。手には小さなバッグを持っている。 「今度、親戚との会食があるでしょう? その前に一度、こちらを見ておこうと思って」 「どうぞ」
آخر تحديث : 2026-09-18 اقرأ المزيد