جميع فصول : الفصل -الفصل 20

60 فصول

11話

 航生の手が止まった。   数秒して、鼻で小さく息を吐く。 「......何を急に言ってるんだよ」   愛音は何も答えなかった。 「記念日なのに、そんな話する?」   航生はファイルを閉じた。表紙を軽く押さえ、それから愛音の顔を見る。 「少し頭を冷やせばいい。明日になれば普通に戻るだろ」   愛音はテーブルの上の湯呑みを両手で包んだまま、しばらくそのままにする。   航生は立ち上がった。湯気はもう立っていなかった。 「帰ったらまた話そう」 「はい」   玄関の扉が閉まる。   靴音が遠ざかる。愛音はしばらくその場に座ったまま動かなかった。   やがて、スマートフォンを手に取る。連絡先を開き、迷わず一つの名前を選んだ。  航生は、離婚届に判を押す人間ではない。少なくとも、今のままでは。  本人に迫れば、意地でも応じないだろう。時間をかければ、調停になる。調停になれば、朝桐の家の名前も表に出る。  航生が頭の上がらない相手は、この世に二人しかいなかった。 「朝桐依子」   呼び出し音が鳴る。三回目で応答があった。 「愛音さん? どうしたの、こんな時間に」 「お話ししたいことがあります。航生さんとの離婚について、ご協力いただけないでしょうか」   電話の向こうで、一瞬だけ間があった。 「......協力、というと」 「航生さんの署名が必要です。私一人では、時間がかかると思っています」   愛音は湯呑みを見たまま、続けた。 「お義母様たちにとっても、悪い話ではないと思います」   依子はすぐには答えなかった。呼吸の音だけが、しばらく聞こえていた。 「......分かったわ。詳しい話を聞かせてちょうだい」 「ありがとうございます」 「近いうちに、一度会いましょう」   通話が切れる。   愛音はスマートフォンを机の上へ置いた。画面はすぐに暗くなった。  翌日の午後だった。インターホンが鳴った。   愛音は手を拭いて玄関へ向かった。モニターに映っていたのは依子だった。約束をしていたわけではない。 「突然ごめんなさいね」   扉を開けると、依子は軽く頭を下げた。手には小さなバッグを持っている。 「今度、親戚との会食があるでしょう? その前に一度、こちらを見ておこうと思って」 「どうぞ」
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12話

 あの日から、航生は「離婚」という言葉を一度も口にしなかった。   帰ったらまた話そうと言った本人が、帰ってきても何も切り出さない。愛音もそれ以上は触れなかった。触れなければ、このまま忘れたことにできると思っているのかもしれない。  それならそれでいい。愛音の側では、もう動き出していた。  数日後、愛音は朝桐家の門の前に立っていた。依子から届いた連絡には、先日のこともあるので一度お茶でも、とだけあった。指定された時間に訪ねると、玄関の扉はすぐに開いた。  門をくぐったとき、庭の植木はきれいに刈り込まれていた。玄関脇の鉢植えにも枯れた葉はない。愛音は足元を見ながら歩き、呼び鈴を押す前に手土産の紙袋を持ち直した。 「来てくださってありがとう。わざわざ時間を作ってもらってしまって」 「いえ」  依子は愛音の手元へ目を向けた。小さな紙袋を提げている。 「まあ、手土産まで。気を遣わなくていいのに」 「近くで見つけたものです」 「そう。では、ありがたくいただくわ」  依子は両手で紙袋を受け取った。袋を脇へ置くこともせず、そのまま居間まで丁寧に運んでいく。 「こちらへどうぞ。今日はゆっくりしていってちょうだい」  案内された席には、すでに茶器が用意されていた。依子が急須を手に取り、湯呑みに茶を注ぐ。茶托の位置を整えてから愛音の前へ差し出した。 「熱いから、気をつけて」 「ありがとうございます」 「先日は急に伺ってしまったでしょう? あれから少し気になっていたの。せっかく来てもらったのだから、今日は落ち着いて話せればと思って」 「はい」  依子は自分の湯呑みを両手で包んだ。ひと口飲み、静かに置く。 「家のことは、あれから何か変えた?」 「特には」 「そう。あなたらしいわね」  愛音は湯呑みの縁へ目を落とした。依子はそれを見てから、窓の外へ視線を移す。 「この前も思ったけれど、あなたはあまり物を増やさないのね」 「必要なものだけ置いています」 「そういう考え方なの」 「はい」 「航生は昔から物が多いでしょう。仕事の資料もそうだし、買ったまま忘れているものもあるし」 「書斎にはいろいろありますね」 「でしょう? あの子は自分で片づけているつもりなのだけれど、見ているほうは気になるものよ」  依子は少し笑った。 「昔から変わら
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13話

 依子から連絡が来たのは、前に会ってから四日ほど経った午後だった。今度はお茶ではなく、少し相談したいことがあるという。愛音が指定された時間に朝桐家を訪ねると、依子は玄関まで出てきた。 「急に呼び出してしまってごめんなさいね」 「いえ」 「この前の話とは少し違うの。私だけではどうにもならなくて」  依子はそう言って愛音を居間へ通した。前回と同じ席には茶器が並んでいる。その横に、薄い封筒と数枚の書類が重ねられていた。 「実は主人の会社の契約書なの」  依子が封筒から書類を取り出した。紙の端は何度も触れられたらしく、少しだけ丸くなっている。 「数字が合わないところがあるみたいでね」 「数字ですか」 「ええ。契約金額と、別紙にある支払い予定の金額が合わないの。主人も担当の人に確認しているんだけれど、向こうは計算に間違いはないと言うのよ」  依子は一枚目を愛音の前へ置いた。 「こちらが本契約。こっちが追加分。合計すれば同じになるはずなのに、最後の数字だけ違うの」  愛音は書類を手に取った。紙は少し厚く、印刷された数字が細かく並んでいる。契約金額、支払日、内訳。視線を上から下へ動かしながら、指先で欄の位置を追った。 「何度も見たんだけれどね。主人も担当者も、数字ばかり見てしまっているのかしら」  依子の向かいには剛生もいた。眼鏡を外して机の上の書類を見ている。 「私も計算し直したが、どうにも分からなくてね」  剛生はそれだけ告げると、愛音の手元へ目を向けた。  愛音は返事をせず、二枚目の紙をめくった。最初の金額へ戻る。もう一度、別紙の数字を追う。合計欄で指先が止まった。 「ここです」  依子と剛生の視線が同じ場所へ集まった。 「この金額、前のページと同じ数字になっています」 「ええ。それが?」 「こちらの追加分を足す前の金額です」  愛音は二枚の紙を横に並べた。 「本契約の金額が一千二百万円。追加分が三百万円です。だから合計は一千五百万円になります。でも、この欄だけ一千二百万
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14話

 愛音が朝桐家を訪ねる機会は少し増えた。依子から呼ばれることもあれば、先日の書類について確認したいと連絡が来ることもある。剛生も以前ほど愛音を客として扱わなくなり、居間へ通すときには自分で椅子を引くようになった。 「この前は助かったよ」 「いえ」 「書類の件は、あれから確認してもらった。君が見つけたところで合っていたそうだ」  剛生はそう告げると、湯呑みを愛音の前へ置いた。以前のような沈黙はなかった。窓の外では庭師が植木の枝を払っている。小さな剪定ばさみの音が、一定の間隔で聞こえていた。 「修正もされたんですか」 「そのようだ。担当者が新しいものを持ってきた」 「よかったですね」 「ああ。あれを見つけてもらわなかったら、まだ揉めていたかもしれん」  剛生は少し笑った。 「君にこんなことを頼むとは思わなかったが、助かったよ」 「たまたま気づいただけです」 「それでも、気づいたのは君だ」  愛音は湯呑みに手を添えた。剛生はそれ以上続けず、庭へ目を向ける。  その日は、庭の木や近所の店の話から始まった。剛生は昔からある店が減ったことを話し、愛音は駅前に新しい店が増えたことを話した。依子が茶菓子を運んでくると、今度は季節の話になる。今年は雨が多い。庭の草も例年より伸びるのが早い。そんな取り留めのない話が続いていた。 「このあたりも、昔とはずいぶん変わったよ」 「駅の周りも新しい建物が増えましたね」 「そうだな。店も入れ替わる。長く続いているところを見ると、それだけで少し安心するよ」 「昔からある店は、なくなると寂しいですね」 「うん。新しいものも悪くないんだが、馴染んだものには馴染んだものの良さがある」  剛生は窓の外へ目を向けた。 「昔はこんなこと、気にもしなかったんだが」 「そういうものかもしれませんね」 「君も家ではよくやっているのか」 「できる範囲で」 「それで十分だろう」  剛生は湯呑みを持ち上げた。茶を飲みながらテレビの音に耳を傾ける。画面では昼のニ
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15話

 数日が過ぎても、愛音の暮らしに目立った変化はなかった。朝は決まった時間に起き、洗濯機を回す。朝食を済ませたあとは片づけをして、必要な買い物へ出る。航生の帰宅時間が遅い日も続いていたが、愛音は時計を見ながら食事を温め直すだけだった。  テレビをつければ、経済のニュースが流れることもある。けれど、画面を長く見ることはなかった。洗った食器を拭き、棚へ戻す。テーブルの上に残った郵便物を端へ寄せる。いつもの動作を繰り返しているうちに、依子から連絡が届いた。 『少し話したいことがあるの。時間をもらえるかしら』  愛音は短く返事をした。  指定された日は、午後から雨が降っていた。朝桐家へ着くと、依子が一人で待っていた。剛生の姿はない。案内された居間には二人分の茶器が置かれている。 「今日は主人が出ているの。ちょうどよかったわ」 「はい」 「この前のこともあるでしょう? 少し、あなたと話しておきたいと思って」  依子は急須から茶を注いだ。湯呑みを愛音の前へ置くと、茶托の位置まで指先で整える。雨が窓を細かく叩いている。室内には時計の音だけが響いていた。 「この前、主人の書類を見てもらったでしょう」 「はい」 「あれから、あなたを見る目が少し変わったみたいなの」  愛音は湯呑みに手を添えた。 「そうですか」 「ええ。細かいことによく気づく人だって」  依子は一度笑った。 「それでね。少し変な話をしてもいいかしら」 「どうぞ」 「もしも、の話よ」  依子は茶を一口飲んだ。湯呑みを置くまでに、いつもより少し長い間があった。 「もし航生が、今とは違う人と一緒になったほうがいいとしたら……あなたはどう思う?」  愛音の指が止まった。  雨音が一度強くなる。 「どういう意味でしょうか」 「そのままの意味よ。夫婦がずっと同じ形でいるとは限らないでしょう?」  依子は窓の外を見た。 「仕事をしている人なら、隣にいる人にもそれなりのものが求められる。家柄もそう。政財界とのつながりがある家
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16話

 昼間の家は、いつも通りだった。洗濯物を取り込み、畳んだ衣類をそれぞれの場所へ戻す。キッチンでは食器の触れ合う音がして、テレビからはニュースの声が流れていた。貴子が立ち寄った日は、玄関先で愛音の服装を見て小さく笑った。 「もう少し外へ出る格好をしたら? 家にいるだけなら、それでもいいんでしょうけど」  愛音は曖昧に笑って、買ってきたものを冷蔵庫へしまった。貴子が帰ったあとも、洗ったグラスを布巾で拭く。昼の時間は、そうして過ぎていく。電話が鳴れば手を止め、荷物が届けば受け取る。家の中で必要なことは、ひとつずつ片づけていった。  夜になると、ひとつずつ音が消えていった。食器を洗う水音が止まり、洗濯機の終了を知らせる電子音も聞こえなくなる。廊下の明かりを落とすと、家の中には冷蔵庫の低い駆動音だけが残った。航生の帰宅を待っている間も、愛音はいつもの場所に座っていた。  テレビを消す。時計の針が進む音が、昼間より近く聞こえた。窓の外を車が一台通り過ぎる。ヘッドライトがカーテンの隙間を横切り、それもすぐに消えた。航生から帰宅を知らせる連絡はない。最近は遅い時間になることも珍しくなく、愛音も玄関へ続く廊下を何度も振り返ることはなくなっていた。  愛音は一度立ち上がり、キッチンの戸棚を確かめた。明日の朝に使うものを手前へ寄せる。冷蔵庫を開け、足りないものを頭の中で確認する。それからリビングへ戻り、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。  時計の表示は日付を越えていた。壁際の時計も同じ時刻を示している。愛音は一度だけ耳を澄ませた。寝室のほうから物音はしない。玄関も静かだった。誰かが起きている気配はない。今夜は、まだ玄関の鍵が回る音もしていなかった。  画面が暗い部屋を白く照らす。昼間なら家事の途中で何度も手を止めるところだった。今は違う。指が画面を滑る速度も、文字を打つ間隔も一定だった。入力した文字を一度読み返してから消すこともない。  新しいメッセージが届いていた。紗英からだった。 『予定より早いです』  続いて、もう一件。 『このまま進めても大丈夫でしょうか』  愛音は画面を見たまま動かなかった。数秒後、既に届いていた内容を上か
last updateآخر تحديث : 2026-09-20
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17話

 数日後、依子から連絡が入った。今度は短い誘いではなかった。 『一度、主人も交えて話をしたいの。都合のいい日に来てもらえるかしら』  愛音は予定を確認してから返事をした。指定された日は午後から晴れていた。朝桐家へ着くと、依子が玄関まで迎えに出た。居間へ通される。前に二人で座ったときとは違い、長いテーブルの向こうには剛生も席についていた。三人分の茶器が並び、テーブルの中央には封筒が一つ置かれている。テレビはついていない。時計の音だけが妙に大きく聞こえた。  依子は向かいの椅子に座り直した。前回のように茶を勧めるだけの雰囲気ではない。剛生の前には小さな時計が置かれ、その横に封筒がある。愛音はそれを見てから、二人の顔へ視線を戻した。決めたことを確認するための席に見えた。 「あなたも、もう分かっていると思うけれど」  依子の指が湯呑みの縁に触れる。 「航生がこれから仕事を続けていくなら、家庭のことまで外で騒がれるのは避けたいの。離婚そのものを止めるつもりはないわ」 「私も、騒ぎにしたいわけではありません」 「それなら話は早い」  剛生がそう続けた。 「ただ、急いで進める必要もない。こちらの準備が整ってからにしてほしい」  愛音は小さく頷いた。準備という言葉について、それ以上は尋ねなかった。依子も、それ以上の説明を足さなかった。 「今日は、少し大事な話をしたくて」  依子が向かいの席を示した。 「はい」  愛音は腰を下ろした。剛生は手元の茶を一度見てから、顔を上げる。 「航生と別れるつもりがあるなら、私たちも力になろう」  唐突だった。  愛音はすぐには返さなかった。膝の上で指を重ねる。剛生の声は低く、言葉を選ぶような間があった。 「前にも話したでしょう。結婚というのは、二人だけのことではない」 「はい」 「だからこそ、余計な騒ぎにはしたくないの」  依子が続ける。 「あなたが航生との生活を終えたいというなら、こちらも反対はしないわ」  愛音は二人の顔を順に見た。依子は姿勢を崩していない
last updateآخر تحديث : 2026-09-21
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18話

 朝、愛音は航生に一言だけ確認を頼んだ。夕方までに分かれば教えてほしい、明日の朝に必要だから。航生はスマートフォンから目を上げずに、分かった、とだけ答えた。  ただ、その日の午後、航生が出かける支度を始めた頃から少し様子が違っていた。シャツを選ぶ時間が長い。鏡の前で襟元を直し、髪にも手を入れている。普段なら適当に済ませる香水まで使った。  愛音はキッチンからその姿を見ていた。以前の日記にあった記憶が、ふと重なる。帰宅時間が遅くなったこと。身につけるものが変わったこと。あの頃と同じ香りが、玄関まで流れてきた。 「今日、夕食はいらないから」  航生は靴を履きながら、軽く手を上げた。 「どこか行くんですか?」 「ちょっと付き合いがあってさ。仕事関係」  それだけだった。愛音はそれ以上聞かなかった。  玄関の扉が閉まる。しばらくして、外から車の音が遠ざかっていった。  夕方になっても、朝に頼んだ連絡は届かなかった。愛音は一度スマートフォンを見たが、画面を伏せた。約束を思い出させるための連絡を送ることもしない。  日が暮れてから、航生から短いメッセージが届いた。 『今日は遅くなる。先に寝てて』  愛音は画面を開いた。 『分かりました』  返信すると、すぐに既読がついた。少しして、もう一件届く。 『夕飯もいらない。明日のことは朝でいいよ』  愛音はその文章を読んだ。朝に確認すると言っていたことも、夕方までに知らせると言っていたことも、もう話題にはならないらしい。  愛音はスマートフォンをテーブルへ置いた。  しばらくして、また通知が鳴った。 『友達と少し飲んでるだけだから』  愛音は画面を見た。 「そうですか」  声に出す必要もない言葉を、心の中でそのまま置いておく。  夕食を一人分だけ用意する。食器を並べる音が、広いテーブルの上で小さく響いた。テレビをつけても内容は頭に残らない。食べ終えたあと、食器を洗って水を切る。  時計を見る。  九時を過ぎても、玄関は静かだった。十時を過ぎても同じだった。  愛音はリビングの照明を一つ消した。残った明かりの下で、テーブルの上に置かれた時計を見た。以前なら、その針が進むたびに玄関へ目を向けていた。今は時刻を確認するだけだった。  時計の秒針が一周する。  愛音は立ち上がり、食器棚を閉
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19話

 数日後の午後。家事を一通り終えたところで、愛音のスマートフォンが短く震えた。画面には依子の名前が表示されている。 『準備していたものが揃いました。今日か明日、お渡しできます』  愛音は時計を見た。予定を少し組み替えれば外へ出られる。夕方までに戻ることもできそうだった。 『今日の午後なら伺えます』  ほどなく返信が届いた。 『では三時に。主人もおります』  愛音は了解の文字を返してから、台所へ戻った。洗い終えた食器を拭き上げ、洗濯物を取り込む。いつもの手順を崩さないまま、出かけるための鞄を用意した。中には財布と鍵、それから小さなメモ帳だけを入れる。余計なものは持たなかった。  三時少し前に朝桐家へ着くと、依子が玄関まで出てきた。以前よりも表情が柔らかい。けれど、愛音を見る目が以前と同じではないことには気づいていた。 「どうぞ。こちらへ」  通された部屋には剛生もいた。テーブルの上には茶器と一通の封筒が置かれている。依子は椅子を勧めると、その封筒を愛音の前へ滑らせた。 「必要なものをまとめてあります。確認は家でゆっくりしてちょうだい」  愛音は封筒を手に取った。思っていたより軽い。けれど、紙の重なった感触が指先から伝わってきた。 「ありがとうございます」  剛生が封筒へ目を向けた。 「印鑑証明も入っている。足りないものがあれば知らせてくれればいい」 「はい」 「こちらで用意できるものは進めておく。あまり時間をかける必要もないだろう」  愛音は一度だけ剛生の顔を見た。視線はすぐに封筒へ戻す。 「分かりました。確認してみます」  それ以上の話は続かなかった。依子が茶を勧め、愛音が一口飲む。湯気の向こうで時計の針が進んでいた。  朝桐家を出てからしばらく、愛音は封筒のことを考えていた。今回はその場で中を確認しなかった。依子と剛生の前で一枚ずつ広げる必要はない。家に持ち帰ってから落ち着いて見る。そのほうが間違いがないと思った。  帰り道では、いつもの店先に立ち寄った。夕食に使う野菜を選び、牛乳を一本だけ買う。店員に会釈をして外へ出ると、買い物袋の中で野菜が小さく擦
last updateآخر تحديث : 2026-09-23
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20話

  愛音は指先を、引き出しの取っ手からゆっくり離した。 「明日、依子さんのところへ行く前に、確認したいことがあって」   噓ではなかった。ただ、何を確認するのかまでは言わなかった。   航生の視線が、鍵のかかった引き出しから愛音の顔へ移る。 「鍵、かけてるのか」 「大事な書類も入っているので」   それだけ答えて、愛音は引き出しから手を離した。航生はしばらく引き出しを見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外す。 「そうか」   それ以上は聞かなかった。ネクタイを緩めながら、寝室を出ていく。   足音が遠ざかる。愛音はしばらく動かなかった。指先には、まだ鍵の冷たさが残っている。   鍵はかかっている。   それでも、次に同じことがあったとき、同じように切り抜けられるとは限らなかった。  朝の食卓は、いつもと変わらなかった。愛音が味噌汁を椀によそっていると、航生はスマートフォンを眺めながら箸を動かす。料理に手をつけてから「今日は外で食べるかもしれない」とだけ告げ、愛音の返事を待たずに席を立った。   朝食を片づけながら、愛音は冷蔵庫の中を確認した。夕方までに戻れば夕飯の支度には間に合う。外出の理由を聞かれても、買い物と答えれば済む程度の予定だった。今までと違うのは、外で依子と会うことを自分から決めている点だけだった。   昼過ぎ、愛音は依子と約束したカフェへ向かった。駅から少し離れた店で、窓際には買い物帰りの客が何人か座っている。依子は先に来ていて、テーブルの上には薄いファイルが置かれていた。「これで大丈夫そうね」愛音が書類を確認すると、依子は頷いた。「あとは必要なところだけお願い。細かいことは主人のほうで進めるから」愛音は紙をめくり、印鑑を押す場所を指で確認した。「こちらは私が準備します」依子はコーヒーへ口をつける。「ええ。できれば早めに済ませたいわ」店内には食器の触れ合う音が続いていた。二人の会話は、周囲から聞けば家族に関する事務的な相談にしか聞こえない。愛音も声の調子を変えなかった。   依子から渡されたファイルの中には、前に確認したものと同じ書類もあった。愛音は一度見た箇所を飛ばさず、名前と日付を照らし合
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