جميع فصول : الفصل -الفصل 40

60 فصول

31話

 それから数日、家の中は変わらなかった。朝になれば航生が起きる。愛音は朝食を並べ、空になった食器を片づける。洗濯機を回している間に掃除を済ませ、昼になれば洗濯物を取り込む。時計の針だけが、いつものように進んでいった。 翌朝も、目覚ましの音で目を覚ます。カーテンを開けると、薄い雲が空に広がっていた。愛音は窓を少し開け、外の空気を入れる。キッチンへ行き、炊飯器を確認する。米は炊き上がっていた。 航生が起きてくるまでに、味噌汁を温める。冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンを火にかける。油が広がる音を聞きながら、卵を割った。 「今日、帰り少し遅くなる」 「分かりました」 「夕飯、先に食べててもいいから」 「はい」 航生は時計を見て、椅子から立ち上がる。愛音は玄関まで見送り、扉が閉まる音を聞いた。 そのあと、食器を下げる。洗い終えた皿を水切り籠へ並べ、濡れた手をタオルで拭く。朝の光はいつもと同じように床へ差し込んでいた。 依子からの連絡が届いたのは、その日の午前だった。短い文面を読み終えたあとも、スマートフォンは何も知らせない。愛音は画面を伏せ、洗濯機の終了音が鳴るまで、そのまま家事を続けた。 ある日の昼前、スマートフォンが短く震えた。画面には依子の名前が出ている。愛音は指先で通知を開いた。 「提出しました」 それだけだった。 愛音は画面を見たまま数秒置き、返信欄を開く。 「ありがとうございます」 送信すると、画面はすぐに元の表示へ戻った。テーブルの上には朝に飲んだ湯飲みが残っている。愛音はスマートフォンを伏せ、その横にあった湯飲みを流しへ運んだ。 昼食を終えたあと、愛音は洗った食器を拭いた。皿を棚へ戻し、箸を引き出しへしまう。いつもなら午後の予定を確認する時間だった。カレンダーを開くと、以前書き込んだ予定の文字がいくつか並んでいる。愛音はそこへ新しい予定を書き足すことなく、画面を閉じた。 数日後、また依子から連絡が入った。 今度の文面も短かった。 「受理されました」 愛音はその文字を一度読んだ。もう一度読み直す必要はなかった。画面を閉
last updateآخر تحديث : 2026-10-05
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32話

 朝、キッチンに立っていると、背後から足音がした。 「愛音、今日って何か予定あったっけ?」  振り返ると、航生がネクタイを直していた。愛音は火を弱めてから時計を見る。 「今日は特にないわ」 「そっか」  航生は冷蔵庫を開けた。中を覗いてから、ペットボトルの水を取り出す。 「来月さ、また取引先との食事があるんだ。たぶん愛音にも来てもらうことになる」 「来月?」 「うん。まだ日にちは決まってないけど」  航生は水を一口飲んだ。 「うちの奥さんが一緒だと、向こうも安心するみたいだから」  愛音はフライパンの中身を皿へ移した。 「分かった。予定が決まったら教えて」 「頼むよ」  航生はそう言って、テーブルの上に置いていた鞄を手に取った。玄関へ向かう途中で一度振り返る。 「夕方までには帰ると思う」 「分かったわ」 「じゃあ行ってくる」 「行ってらっしゃい」  玄関の扉が閉まる。少しして、廊下の向こうからエレベーターの音が聞こえた。  愛音は食器を片付けた。洗った皿を水切りかごへ並べ、濡れた手を布巾で拭く。テーブルに残っていた航生のコップも流しへ運んだ。窓の外では車が一台通り過ぎる。朝の通りはいつもと変わらず、向かいの建物の窓にもいくつか人影が見えた。  時計を見ると、まだ午前の早い時間だった。  洗濯機が止まる。愛音は洗濯物を取り出してベランダへ運んだ。シャツを一枚ずつハンガーに掛ける。風が少し吹いて、袖が揺れた。  昼前になって、愛音は手帳を開いた。  今日の日付を確認する。  ページを一度めくり、翌日の欄を見る。そこにも予定はない。手帳を閉じて、机の端へ戻した。  掃除機をかけていると、玄関のチャイムが鳴った。 「お荷物です」  愛音は掃除機を止め、玄関へ向かった。 「奥様、こちらにお願いします」  扉を開けると、配達員が荷物を差し出した。伝票に印刷された名前を確認する。 「ありがとうございます」 「はい。こちら、お間違いないですね」 「はい」  愛音は受け取り、受領の手続きを済ませた。 「それでは失礼します」 「お疲れさまです」  配達員は軽く頭を下げ、そのまま廊下を歩いていった。  扉を閉める。  腕の中に残った箱を見る。航生宛ての荷物だった。愛音はそれをテーブルの端へ置いた。箱には送り主
last updateآخر تحديث : 2026-10-06
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33話

 昼過ぎ、インターホンが鳴った。愛音が玄関を開けると、貴子が立っていた。手には小さな紙袋がある。 「近くまで来たから。これ、よかったら食べて」 「ありがとう」  貴子は靴を脱ぎながら、室内を見回した。 「相変わらずね。ちゃんとしてる」  褒めているような声だった。けれど、視線は部屋の中を一通り眺めてから愛音へ戻ってくる。 「急に来て大丈夫だった?」 「うん。今日は家にいるから」 「そうよね。愛音って、いつも家にいるものね」  貴子はソファへ座った。紙袋をテーブルへ置くと、背もたれに体を預ける。愛音も向かいの椅子を引いたが、貴子はすぐにテーブルの上を見回した。置きっぱなしになっていた雑誌を一冊持ち上げ、表紙を眺めてから元へ戻す。 「私は最近、仕事が忙しくて。家にいる時間なんてほとんどないの。こういうふうに家をきれいにしていられるのって、ちょっと羨ましいかも」 「そう」 「でも私には無理。仕事もあるし。やっぱり外に出てるほうが性に合ってるのよね」  愛音は向かいに座った。 「貴子は忙しそうね」 「まあね」  貴子は笑った。 「この前も言ったけど、最近は若い子の面倒まで見なきゃいけなくて。自分の仕事だけならまだいいんだけど」  そこで一度、言葉が止まった。 「……その子、今度の案件にも入ってきたのよ」  愛音は黙って貴子を見る。 「前に話してた後輩?」 「そう。覚えてたの?」 「聞いたから」 「ああ、そうだったわね」  貴子は膝の上で手を組み直した。 「最初は補助だけって話だったのに、いつの間にか担当まで持つことになって。しかも私が見てた部分を、その子に引き継ぐことになったの」  声が少し速くなった。 「別に、仕事を取られたってわけじゃないのよ。会社としては効率を考えてるだけだし。私だって分かってる。でも、今まで私がやってきたところを、急に別の人に渡すって言われたら、普通はちょっと引っかかるでしょ」 「そうね」 「それで、来月からは別案件に回ることになったの。規模も今までより小さいし。まあ、会社ってそういうものだけど」  貴子はそこで一度笑った。けれど笑顔は長く続かなかった。スマートフォンがテーブルの上で震えると、画面を確認する。表示された名前を見て、すぐに伏せた。 「引き継ぎの連絡。今日も来てた」 「大
last updateآخر تحديث : 2026-10-07
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34話

 午後、愛音は寝室のクローゼットを整理していた。季節の服を入れ替えるため、棚の奥へ手を伸ばす。指先に布張りの小箱が触れた。  箱を引き出すと、表面に細かな埃がついていた。角の布は少し擦れている。長い間しまわれていたものだと分かる古さだった。日記や時計の箱とよく似た、古びた質感だった。愛音は袖口で埃を払い、机の上へ置いた。  その箱を開けることは、普段ほとんどなかった。中には小さなベビーリングが入っている。愛音が生まれたときから持っているものだった。詳しい由来を話したことがあるのは、隆二くらいだった。  蓋を開けると、薄い布の上に小さな金色のリングが収まっているはずだった。  愛音は箱を開いた。  何もない。  指先が箱の縁で止まった。もう一度、中を見る。布の皺を目で追い、隅まで確認する。リングが見えない。  箱を傾けた。小さな音もしなかった。  愛音は机の引き出しを開けた。そこには古い手紙や写真が入っている。ひとつずつ端へ寄せる。箱を置いていた場所も確認した。棚の奥、引き出しの中、寝室の小さな収納まで目を通す。  見つからない。  もう一度、最初に見た箱の中へ視線を戻す。薄い布だけが、リングの形にわずかにくぼんでいた。そのくぼみだけが、そこに何かがあったことを示していた。  箱を見つけた場所へ戻る前に、愛音はクローゼットの棚をもう一度見た。服の下に入り込んでいないか、棚板の端に落ちていないかを指先で確かめる。何も触れない。小箱だけが、最初からそこにあったように残っていた。  愛音は空になった箱を閉じた。  その日の夕方、航生が帰ってきた。玄関で靴を脱ぐ音がして、少ししてリビングへ入ってくる。「航生」「ん?」「少し聞きたいことがあるの」  航生はネクタイを緩めながら愛音を見る。「何?」「この小さなリング、知らない?」  愛音は机の上に箱を置いた。蓋を開けて見せる。  航生は箱の中を覗いた。「リング?」「ここに入れていたの。小さな金色のもの」「......ああ」  航生
last updateآخر تحديث : 2026-10-08
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35話

 数日後、愛音は隆二の見舞いへ向かった。 家を出る前に、いつものように必要なものを確認する。財布とスマートフォン。それから病院へ持っていくものを鞄へ入れた。玄関を出て鍵をかける。歩き出してから、ふと胸元へ指が触れた。 何もない。 そこにあるはずだったものを思い出しただけだった。愛音は指を離し、そのまま駅へ向かった。今すぐどうにかできることではない。航生に聞いたところで、もう手元にはないのだから。 病院に着くと、受付を済ませて隆二の病室へ向かった。いつもの廊下を歩く。窓から入る光も、消毒液の匂いも変わらない。隆二と少し話をして、持ってきたものを渡す。帰る頃には、外の空気が少し冷たくなっていた。 病院を出たところで、愛音は足を緩めた。 正面玄関の横にベンチがある。そこに男が一人座っていた。年齢は四十代くらいだろうか。濃い色の上着を着て、スマートフォンを見ている。 見覚えはない。 愛音はそのまま通り過ぎた。数歩進んだところで、背中に視線を感じたような気がして振り返る。 男はスマートフォンを見ていた。 目が合ったようにも見えたが、確かめるほどのことではない。愛音は前へ向き直った。 駐車場の脇を抜ける。病院の通用口へ続く細い道に入ったところで、後ろから声がした。「すみません」 愛音が振り返ると、先ほどの男が少し離れたところに立っていた。「はい?」「この近くに駅へ出る道ってありますか」 男はスマートフォンを手にしたまま周囲を見回した。「正面の道をまっすぐ行けば、案内があります」「ああ、そちらですか。ありがとうございます」 男は軽く頭を下げた。 それだけなら、ただ道を尋ねられただけだった。「こちらには、よく来られるんですか?」 続いた質問に、愛音は男の顔を見る。「たまに来ます」「お見舞いですか?」「はい」「ご家族の方が?」 同じことを聞き直された気がして、愛音は一度だけ瞬きをした。「そうです」「そうですか」 男は頷いた。
last updateآخر تحديث : 2026-10-09
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36話

 あの男と会ってから数日が過ぎた。何かが起きたわけではない。朝になれば目を覚まし、いつものように身支度をする。けれど家を出る前に廊下を一度見るようになった。玄関の鏡に映った外の景色まで確認してから、鍵を閉める。自分でも、以前はこんなことをしていなかったと思う。 その日も病院へ向かうために最寄り駅で降りた。病院まで歩く人の流れに混じりながら改札を抜ける。ロータリーにはバスが何台も停まり、タクシーを待つ人が並んでいた。病院の中とは違うざわめきがある。人の声と車の音が重なっていた。 植え込みの近くに男がいた。濃い色の上着を着てスマートフォンを手にしている。画面を見ているように見えたが、駅を利用する人の動きを眺めている時間のほうが長かった。 愛音は足を止めなかった。そのまま通り過ぎようとしたところで、背後から声がした。「先日は失礼しました」 振り返ると、やはりあの男だった。前回と同じ距離ではない。数歩離れた場所に立っている。「今日はお一人ですか?」 質問が早かった。「はい」「今日も病院へ?」 愛音は男の顔を見た。「どうして分かったんですか?」「前回もこちらへ来られていましたよね」 男は軽く笑った。声の調子は穏やかだった。けれど、愛音にはその返事が少しだけ引っかかった。前回のことを覚えている。それだけなら不思議ではない。けれど、今日も病院へ行くと決めつけるような聞き方だった。「西条さんは、いつもお一人なんですか?」 名字を呼ばれた瞬間、愛音の指が鞄の持ち手を握った。「どうして、そこまで聞くんですか?」「いや。少し気になっただけです」 男はそう返した。視線が一度だけ愛音の肩越しへ動く。駅の入口には人が途切れず入ってくる。男は駅員を探しているわけでも、電車を待っているようでもなかった。手にしていたスマートフォンにも、駅の案内や時刻表らしい画面は出ていない。「ご家族は一緒に来られないんですか?」 愛音はすぐには答えなかった。前回は質問されるままになっていた。 そういえば、最初に声
last updateآخر تحديث : 2026-10-10
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37話

 夕食のあと、航生はソファに座ったままスマートフォンを眺めていた。愛音は向かいの椅子で湯飲みを手にしていたが、画面を追う航生の指がふと止まった。「そういえば、あのネックレスってさ」 顔を上げる。航生はスマートフォンを伏せた。「前に話してただろ。生まれたときから持ってるってやつ」「はい」「あれ、もうなくてもいいんだろ?」 愛音は湯飲みを置いた。探している様子を見せる必要はなかった。なくなったことも、渡した先も、もう知っている。「どうしてですか?」「いや。使ってないだろ」 航生は肩をすくめた。話題にしたこと自体に深い意味はないらしい。けれど、その一言で愛音が話を向ける余地ができた。「そうですね。でも、少し気になっていて」「何が?」「あのネックレスです」 愛音は声を落とした。急ぐ必要はない。航生が聞き返すのを待ってから、続ける。「昔から持っているものなので、なくなったと分かると少し困ります」「別に、また買えばいいだろ」「同じものは買えません」 航生は鼻で笑った。「そんな大げさなものなのか?」「物そのものというより、持っている場所が決まっていたものなので」 愛音は一度だけ指先を膝の上で揃えた。「ただ、少し気になる話を聞いたことがあります」「何それ」 航生の目が上がった。スマートフォンを持つ手も止まっている。愛音はすぐには続けなかった。航生がこちらを見る時間をそのまま置く。こういう話は、最初から細かく説明するより、聞かれたことだけ答えたほうが耳に残る。「昔のものなので、少し気になっているだけです」「昔って、どれくらい?」「私が生まれたときからです」 航生は眉を寄せた。「古いものを本人の知らないところへ渡すと、あとからよくないことが起きることがあるそうです」 声は一定だった。言葉を急がず、一つずつ置く。航生の表情を見ながらも、こちらから意味を足すことはしない。「よくない
last updateآخر تحديث : 2026-10-11
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38話

 ネックレスの件は、それから数日のうちに片づいた。航生が連絡したらしく、愛音のもとへ戻ってきた箱の中には、見慣れた細い鎖が収まっている。愛音は何も確認せず、いつもの場所へしまった。けれど、駅で会った男のことだけは、どこにも戻す場所がなかった。 その日の午後、近所の店からの帰り道だった。家の前まで来たところで、顔を合わせることのある近所の女性に呼び止められた。買い物袋を片手にしたまま、女性は世間話の続きをするような調子で口を開いた。「そういえば、この前ね。あなたのこと聞かれたのよ」「私のことですか?」「うん。名前を聞かれたわけじゃないんだけど。ほら、ここの家の奥さんってどんな人なのって」 女性は困ったように笑った。「最初は不動産か何かかなって思ったの。でも、そんな感じでもなかったのよね。病院へ行くことがあるかとか、昼間は家にいることが多いかとか」「どんな人でしたか?」「男の人。知らない人だったと思う。私も買い物から帰ったところだったから、少し話しただけよ」 女性は袋を持ち直した。中から野菜の入った袋が少し覗いている。「変なことを聞かれたから覚えてただけ。私も詳しくは答えてないから大丈夫よ」「何か、他に聞かれましたか?」「うーん……。家族と一緒に住んでるのかとか、そのくらいだったかな。あと、最近よく見かけるかって」 女性は少し考えてから首を傾げた。「でも、そんなの近所の人なら誰でも気になるんじゃない? 引っ越してきた人かなって思ったのよ」「そうですか」「あなた、何かあった?」「特にはありません」 愛音がそう答えると、女性はそれならよかったと笑った。話はそこで終わり、女性はそのまま家の向こうへ歩いていった。 玄関を閉めたあと、愛音は靴を脱ぐ前に一度立ち止まった。今聞いた言葉を頭の中で並べる。家の奥さん。昼間。病院。家族。どれも、それだけなら珍しい話ではない。 数日後、隆二の病室で見舞いをしていると、看護師がベッド脇を通りかかった。愛音がいつものように挨拶すると、看護師も足を止める。「そういえ
last updateآخر تحديث : 2026-10-12
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39話

 玄関で靴を履き替えていると、背後から航生の声が飛んできた。「今日も病院?」 愛音はバッグの持ち手を握り直した。「うん。隆二さんのところへ」「そんなに見舞いに行くほどのことか?」 振り返ると、航生はリビングの入口に立っている。出かける前の愛音を見ているだけで、手にはスマートフォンがあった。「入院しているから」「それは分かってる。でも毎日のように行く必要があるのか? 家のことだってあるだろ」 愛音は玄関脇の時計へ目を向けた。予定より少し早い。洗濯物も片づけている。朝食の食器も流しには残していない。「家のことは済ませてあるよ」「そういう問題じゃないんだよ。外から見たら、家にほとんどいないみたいに見えるだろ」 航生はそれだけ言うとスマートフォンへ視線を落とした。愛音は返事をせず、靴のかかとを整える。玄関のドアを開けると、廊下の空気が入ってきた。 それから数日、出かけるたびに似たような言葉が増えた。バッグを持つと「今日はどこ?」と聞かれ、病院だと答えれば「何時に帰る?」と続く。ある日は出る直前に「誰かと会うのか」とまで聞かれた。愛音が「隆二さんのお見舞い」と答えると、航生は「それなら早く帰ってこいよ」とだけ返した。 帰宅すると、今度は時計を見る。「ずいぶん遅かったな」と言われることもある。予定していた時間を伝えていても、帰宅した時刻だけは確認される。愛音が玄関で靴を脱いでいる間に、航生はスマートフォンの画面を見ながら「今日は何してた?」と尋ねる。「病院に行ってたよ」「それだけ?」「うん」「ふうん」 短いやり取りが終わるたび、愛音はバッグを置く場所を少し考えるようになった。出かける予定を書き込んでいた手帳も、開いたままテーブルに置かなくなった。冷蔵庫の横に掛けたカレンダーには病院へ行く日がいくつも並んでいる。その印を見ていると、航生が後ろから覗き込んできたことがある。「結構行ってるな」 指先が止まった。「必要だから」「でも、毎日は多いだろ」 航生はカレンダーを見たまま続けた。「週に一回くらいでいいん
last updateآخر تحديث : 2026-10-13
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40話

 隆二の病室を出るとき、愛音はベッド脇のテーブルに目を向けた。飲みかけの水が入ったコップと、読みかけの新聞が置かれている。愛音が鞄を持ち上げると、隆二は新聞から顔を上げた。 「もう帰るのか」 「うん。長居しても疲れるでしょう?」 「お前が来て疲れるなら最初から呼ばんよ」   隆二は新聞をベッドの上へ置き、老眼鏡を外して鼻の付け根を揉んだ。愛音は笑って返したものの、すぐには扉へ向かわなかった。話したいことがないわけではない。ただ、ここで話せることには限りがある。次に来る日を伝えてから頭を下げた。 「また来るね」 「ああ。気をつけて帰れよ」   隆二は新聞を取り直し、紙面に目を落とした。   病室の扉を閉める。廊下ではワゴンを押した看護師が通り過ぎた。愛音は壁際に寄って道を空け、その後ろを歩き出す。エレベーターの前で、車椅子の老人と付き添いに先を譲る。扉が閉まるまで、点滴スタンドの車輪が床を擦る音が続いていた。一階で下りると、受付の前には会計を待つ人が数人並んでいる。その脇を抜けて出口へ向かった。いつもの帰り道のはずだった。   案内板の下を通りかかったところで、窓際のソファに見覚えのある男が座っているのが目に入った。濃紺のスーツ。膝の上に封筒を置き、中身を確かめるように端を指で押さえている。靴音に気づいたのか、男は顔を上げた。 「あれ。愛音さんじゃないですか」   陽太だった。   愛音は足を止めた。出口までは、あと十歩ほどある。陽太は立ち上がらずに笑顔を向けてくる。鞄を肩へかけ直し、会釈をしてソファへ数歩戻ると、陽太は膝の上の封筒を持ち上げて見せた。 「どうしてこちらに?」 「仕事ですよ。鳳凰総合病院の人間が、わざわざ別の病院まで来るんです。書類を届けろって言われて。面倒くさいったらないですよ」   宛名は、陽太の親指に隠れて見えなかった。愛音が目を向けるより先に、封筒は膝へ戻された。 「愛音さんは、またお父さんのお見舞いですか?」 「はい。今、帰るところです」 「そうですか」   ロビーのスピーカーが誰かの名前を呼んだ。会計の列が一人ぶん進む。陽太の視線が愛音の顔から鞄へ
last updateآخر تحديث : 2026-10-14
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