「これに、名前は書かない」 席へ着くと、母はバッグから取り出した紙を、私の方へ向けた。 香織が送ってきた文案だった。昨夜、画面で見た署名の欄は、印刷された紙でも空いたままだった。 私はまだ、コートを膝へ畳んでいる途中だった。 「もう、決めたの?」 「決めた。美咲に決めてもらいに来たんじゃないの」 店の奥で、食器を重ねる音がした。窓の向こうを、買い物袋を持った人が歩いていく。 母が座っているのは、私と同じ小さなテーブルの向こうだ。 そこへ来るまで、どんな言葉を求められるのかと考えていた。 話を聞いてあげて。一度だけ会ってあげて。 覚悟してきた言葉は、出なかった。 「香織が陽翔と遊んでいるところは、私も見た。それは覚えてる」 母は紙の一行を指で押さえた。 「でも、美咲に代わって毎日育てていたなんて、私は見ていない。ここは、私の言葉じゃない」 私は、空いた欄を見つめた。 母にしか分からない昔の記憶が、全部、妹の望む形で出てくるのが怖かった。 けれど母は、自分が見たことと、見ていないことを分けていた。 「香織がしてくれたことまで、嘘にしなくていいよ」 「分かってる。それも、あの子に言う」 店員が飲み物を運んできて、母はいったん紙を手元へ引いた。 湯気の向こうで、母の顔が少し疲れて見えた。
Last Updated : 2026-10-11 Read more