晴子の行き先など気にかける余裕はなかった。引っ越し業者のトラックがすでに到着しており、荷造りに追われていたからだ。七年暮らしたこの家だったが、いざ引っ越すとなると、荷物は思いのほか少なかった。普段着ている衣類や日用品を除けば、荷物といえば書斎の専門書と、引き出し三段分の原稿くらいだ。すべて合わせても、大きな段ボール箱数箱分に過ぎない。引っ越し業者のスタッフは、目の前の荷物のあまりの少なさに驚いた様子だった。「これだけですか」「ええ。これを運んでもらえますか。お願いします」ほかのものは、すべて置いていくことにした。スタッフはそれ以上何も言わなかった。料金はあらかじめ決まっていたし、運ぶ荷物が少ないなら、それはそれでありがたい話だ。先輩が手配してくれた新居に着いた宥里は、思わず目を丸くした。てっきり研究所の寮か、その近くに借りた手狭なアパートだろうと思っていた。ところが、目の前に現れたのは、立派な一戸建ての邸宅だったのだ。最初はほかにも住人がいるのかと思ったが、実際に足を踏み入れてみると、この邸宅の住人は自分一人だけだった。それに気づいた宥里は、すぐさま直樹に電話をかけた。電話の向こうで、直樹は慌てる様子もなく説明する。「研究所の寮は満室でね。外に一時的な住まいを探すしかなかったんだ」「それなら適当な場所でよかったのに。こんなに気を遣わなくても」「気を遣ってなんかいないさ。君は研究所が高待遇で招いた研究開発センター長なんだからな」直樹は誇らしげに笑い、宥里が次に何を言うか見透かしていたように、すぐに付け加えた。「それに、この家は俺が借りたわけじゃなくて、先生の知り合いの持ち物なんだ。どうせ空き家だから、遠慮なく使ってくれって話さ。お金なんて一銭もかかっていない」「でも……」「『でも』はなしだ。自分の家だと思って、安心して暮らせばいい。何か不便なことがあったら、いつでも俺に言うんだぞ。よし、俺はもう仕事に戻る」そう言うと、宥里の反論を待つこともなく、直樹はそのまま通話を切った。宥里は三階建ての立派な邸宅を見上げ、それから足元に置かれたわずかな荷物へと目を落とし、ありがたく好意に甘えることにした。結局、宥里は二階の南向きの部屋を選んだ。荷物を手早く片付けたあと、すぐに仕事へと取り掛かる。
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