Todos los capítulos de 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます: Capítulo 21 - Capítulo 30

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第21話

晴子の行き先など気にかける余裕はなかった。引っ越し業者のトラックがすでに到着しており、荷造りに追われていたからだ。七年暮らしたこの家だったが、いざ引っ越すとなると、荷物は思いのほか少なかった。普段着ている衣類や日用品を除けば、荷物といえば書斎の専門書と、引き出し三段分の原稿くらいだ。すべて合わせても、大きな段ボール箱数箱分に過ぎない。引っ越し業者のスタッフは、目の前の荷物のあまりの少なさに驚いた様子だった。「これだけですか」「ええ。これを運んでもらえますか。お願いします」ほかのものは、すべて置いていくことにした。スタッフはそれ以上何も言わなかった。料金はあらかじめ決まっていたし、運ぶ荷物が少ないなら、それはそれでありがたい話だ。先輩が手配してくれた新居に着いた宥里は、思わず目を丸くした。てっきり研究所の寮か、その近くに借りた手狭なアパートだろうと思っていた。ところが、目の前に現れたのは、立派な一戸建ての邸宅だったのだ。最初はほかにも住人がいるのかと思ったが、実際に足を踏み入れてみると、この邸宅の住人は自分一人だけだった。それに気づいた宥里は、すぐさま直樹に電話をかけた。電話の向こうで、直樹は慌てる様子もなく説明する。「研究所の寮は満室でね。外に一時的な住まいを探すしかなかったんだ」「それなら適当な場所でよかったのに。こんなに気を遣わなくても」「気を遣ってなんかいないさ。君は研究所が高待遇で招いた研究開発センター長なんだからな」直樹は誇らしげに笑い、宥里が次に何を言うか見透かしていたように、すぐに付け加えた。「それに、この家は俺が借りたわけじゃなくて、先生の知り合いの持ち物なんだ。どうせ空き家だから、遠慮なく使ってくれって話さ。お金なんて一銭もかかっていない」「でも……」「『でも』はなしだ。自分の家だと思って、安心して暮らせばいい。何か不便なことがあったら、いつでも俺に言うんだぞ。よし、俺はもう仕事に戻る」そう言うと、宥里の反論を待つこともなく、直樹はそのまま通話を切った。宥里は三階建ての立派な邸宅を見上げ、それから足元に置かれたわずかな荷物へと目を落とし、ありがたく好意に甘えることにした。結局、宥里は二階の南向きの部屋を選んだ。荷物を手早く片付けたあと、すぐに仕事へと取り掛かる。
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第22話

昨日、ママはすごく怒っていたみたいだったな。今日も迎えに来てくれるかな。陽太の心には、わずかな不安がよぎった。だが、すぐに富美子と彩葉が言っていた言葉を思い出す。おばあちゃんも叔母ちゃんも言っていたもん。僕とパパのお世話をするのがママの仕事なんだって。それがちゃんとできないなら、パパはママのことなんていらないんだって。だから、ママは絶対に迎えに来るはずだ。そう考えると、陽太はもう窓の外を見なくなり、確信に満ちた得意げな顔をした。放課後が近づくにつれ、ほかの子供たちも勉強どころではなくなり、それぞれランドセルを片付けながらおしゃべりを始める。「私のママ、ピアノがすごく上手なの。私、ママに教えてもらったんだよ」「私のママ、ケーキを作るのが上手なんだ。すっごく美味しいの。今度みんなに持ってきてあげるね」「僕のママ、超すごいんだよ。うちの飾り棚、ママのトロフィーでいっぱいなんだから」「私のママのほうがすごいもん」誰が言い出したのかは分からないが、子供たちは口々に、自分の母親を自慢し始めた。そのとき、陽太の隣に座っていた女の子が、彼のほうを振り向いた。「陽太くんのママは?みんなのママみたいにすごいの?」陽太は本当は話に加わるつもりはなく、黙々とランドセルを片付けているだけだった。だが、急に問いかけられ、その白くふっくらとした顔に、たちまち困惑の色が浮かんだ。「僕のママは……」陽太は小さな手で、ランドセルの肩紐を何度も撫でるようにもてあそぶ。「僕のママは、パパと僕のお世話をするだけの人だよ。何もできないから、自慢できることなんて何もないよ」陽太は小さな口をきゅっと結んだ。友達の前で恥をかきたくなくて、無理やり言葉を付け加えた。「でも、香織さんがいるんだ。香織さん、すごく賢いんだよ。科学者で、それで……」「それが陽太くんのママなの?」女の子が尋ねた。「違う、違うよ……」だんだんと声が小さくなり、顔もうつむいていく。心の中では、宥里への恨みがふつふつと湧き上がってきた。どうして香織さんが、僕のママじゃないんだよ。香織さんが僕のママだったら、みんなに言えるのに。僕のママは科学者で、毎日実験室で実験しているんだって。僕のママはたくさんのことを知っていて、世界でいちばん賢い人なんだって。考えれば考えるほど
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第23話

男の子の目には、陽太とその母親への羨望が浮かんでいた。「僕のパパ、自動車会社で働いているんだけど、陽太くんのママのアドバイスがすごく的確だったって言っていたよ」先ほどまでの新鮮な驚きが、今や陽太の心の中で大きな誇りへと変わっていく。僕のママって、そんなにすごいの……?今日は友達の前で恥をかくだけだと思っていたのに、まさか馬鹿にされるどころか、ほかの子たちから褒められ、羨ましがられることになるとは。その思いがけない事実が、陽太の幼い虚栄心を大いに満たしてくれた。なんだ、ママもそんなに悪くないのかもしれない。陽太は再び窓の外へ目を向けた。見慣れた車を見つけると、小さな顔にぱっと笑みが広がる。よし、今日ママが香織さんにちゃんと謝ってくれたら、許してあげてもいいや。放課後の時間になり、子供たちは先生に見守られながら、順番に校門へと向かっていった。校門に差し掛かったところで、陽太は先生の手を振りほどき、自分の家の車へ向かって、小さな足で駆け出した。一刻も早くママに会いたかった。本当にフランス語が話せるのか、自分の耳で確かめたかった。もう少しで車にたどり着くというところで、運転席のドアが開き、中から晴子が降りてきた。勢いよく駆け寄ってくる陽太に驚いた晴子は、慌てて数歩前に出て彼を止めた。「坊っちゃん、走ったら危ないですよ。転んだらどうするんですか」陽太はその場で立ちすくんだ。小さな眉をぎゅっと寄せた。「晴子さん?どうして晴子さんが来たの?ママは?」陽太は背伸びをして車の中を覗き込んだ。時折、宥里と晴子が揃って迎えに来ることもあったからだ。今日も宥里が車の中にいるものと思い込み、しばらく背伸びをして中を探したが、宥里の姿はどこにも見当たらなかった。「今日はお母様ではないのですね」先生が丁寧な口調で晴子に尋ねた。「はい」晴子が頷く。宥里への不満を抱いていた晴子は、ほかの保護者や陽太の前であっても、構わず先生にこう告げた。「これからは、私が坊っちゃんのお迎えに参ります。奥様はもうお迎えには来ないとおっしゃっていましたので」その言葉に、先生は一瞬戸惑ったが、深くは追及しなかった。学校に登録されている迎えの者であれば問題はないからだ。だが次の瞬間、隣から陽太の泣き声が響いた。「うわぁん!もういいもん!ママ
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第24話

宥里はその写真を拡大表示した。一目で分かった。これは間違いなく自宅で撮られたものだ。香織が陽太を抱いて座っているソファの位置は、まさに毎晩、知輝の帰りを孤独に待ち続けていた宥里の定位置だった。ソファの前のローテーブルに飾られた花も、数日前に宥里自身が買ってきたものだ。宥里の指先がわずかに震え、画面を戻そうとしたところで、誤って陽太のアイコンに触れてしまった。そのまま、彼のアカウントのページへと切り替わった。異なる日時、異なる場所。だが、どの写真にも必ず香織の姿があった。それらが次々と目に飛び込んでくる。宥里は子供のことには比較的おおらかな母親で、陽太のプライバシーを進んで詮索するようなことはなかった。だが記憶の限り、陽太はSNSへの投稿を好む子供ではなかったはずだ。かつて陽太を連れて出かけたときや、彼の大好きなお菓子を手作りしたとき、「SNSに投稿してみる?」と尋ねたことが何度もあった。そのたびに、陽太の答えはいつも同じだった。「しない。子供っぽいから嫌だ」宥里はそれ以上深く追及することはなかった。ただ子供の意思を尊重していただけだ。それどころか、その頃はむしろ、まるで小さな大人のように振る舞う陽太を、可愛らしいとさえ思っていた。てっきり本当に投稿が嫌いなのだと思い込んでいたから、彼が何かを投稿しているところを、これまで一度も目にしたことがなかったのだ。宥里は写真を一枚一枚、下へとスクロールしていった。日付は、ちょうど一年前まで遡っていく。つまり、少なくとも一年前から、陽太はすでに香織と面識があったのだ。この一年間、彼は何度も香織と会っていた。一緒に出かけ、一緒に美味しいものを食べ、一緒に簡単な実験をして……本来なら母親である自分と作るはずだった思い出を、陽太はすべて香織と共有していたのだ。唯一違うのは、自分と一緒にいるときの写真には、父親である知輝の姿がどこにもないことだった。だが香織と一緒のときは、いつも決まって知輝が寄り添っている。そうか。陽太は投稿が嫌いだったわけじゃない。自分の投稿を、母親である自分にだけ見せない設定にしていたんだ。なぜかは分からないが、今その設定が解除され、自分にも見えるようになった。それはつまり、陽太はもう母親である自分を必要としていないということだった。それらの写真を
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第25話

「あっ、はい」太朗は慌てて速度を元に戻したが、それでも視線は何度もバックミラーへ向かっていた。ついに我慢できず、口を開いた。「僕の見間違いじゃないと思うんですけど。さっき玉山邸の前を通ったとき、二階に明かりが点いていたのを見たんです」後部座席の男が、ゆっくりと目を開けた。だが、何も言わない。太朗はさらに続けた。「誰か、住み始めたんですかね」そう言いかけて、はっと目を見開いた。「ああ、あの家って、確か以前、宥里さんに……」「豊口」絢斗が、ようやく静かな声で口を開いた。ボスの声を聞いて、太朗は思わずびくりと背筋を伸ばした。「はい」絢斗は眉をひそめた。「……お前、そんなに口数の多い男だったか?」太朗は額に冷や汗を浮かべ、思わずハンドルを強く握りしめた。「す、すみませんでした……」……今日の知輝は、最近になく気分が晴れやかだった。少し前、直樹から確かな知らせを受けたばかりだった。あの量子発振ジャイロの開発者が、来週には研究所の研究開発センターに正式に着任するという。すべてが順調に進めば、来週にはその開発者本人と直接対面できる可能性が高い。これで、会社が抱えていた最大の難題も、一気に解決へと向かうことになる。そんなわけで、知輝の機嫌は上々だった。退勤前、昼間は出ずにいた下請け先からの電話に、わざわざ折り返しをかけたほどだ。取引の話がひと通り済んだあと、相手は知輝に取り入ろうと、露骨なお世辞を口にした。「あはは、そういえば、実はうちの息子が、御子息と同じ学校に通っていましてね。さっき息子のSNSで、御子息が投稿なさったお写真を拝見したんですよ。『だいすきなママと』というお写真です。いやあ、お子さん、本当に可愛らしいですね」「ありがとうございます」知輝は礼儀正しく応じた。相手が世辞を言っているのは百も承知だ。それでも、その話を聞くのは決して悪い気分ではなかった。陽太があんな写真を投稿できたということは、宥里も自分の非を素直に認め、息子の機嫌をきちんと取ったということだろう。あの母子の仲がまた良くなったのなら、こちらとしても肩の荷が下りるというものだ。だが、相手はさらに言葉を続けた。「奥様も本当にお綺麗ですね。うちの家内など足元にも及びませんよ」その言葉を聞いた瞬間、知輝の顔がすっと曇り、声にも冷や
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第26話

知輝は、先ほど下請け先との電話で耳にしたSNS投稿のことを思い出した。あのときはてっきり、陽太が自分と宥里の写真を、仲直りのしるしとして投稿したのだとばかり思っていたのだ。だが今、晴子の話を聞いて、知輝は慌ててスマホを取り出し、陽太のSNSを開いた。そこでようやく気づいた。あの【だいすきなママと】という投稿に添えられていたのは、陽太と香織が身を寄せ合う写真だったのだ。そして、その無邪気な投稿に誰よりも早くいいねを押していたのは、ほかでもない宥里自身だった。次いでいいねを押していたのは、妹の彩葉だ。「陽太。これはどういうことだ!自分の母親が誰かも分からないのか。こんな誤解を招くような投稿を、勝手にしていいと思っているのか!」知輝は珍しく、陽太に本気で怒りを露わにした。怒鳴りこそしなかったが、その眼差しはぞっとするほど冷ややかだった。陽太はたちまち怯えて泣き出し、香織の腕の中へ逃げ込むように身を寄せた。「勝手になんかしてないもん。僕はただ、香織さんにママになってほしいだけだもん。もうママなんていらない。ママは迎えにも来てくれないし、何の役にも立たないんだから、いらない」知輝が本気で腹を立てているのを見て、香織は慌てて陽太を庇うように抱きしめた。「先生、陽太くんをあまり叱らないであげてください。きっと、つい感情に任せて投稿してしまっただけなんです。本当は、奥様にもっと自分のことを見てほしかったんだと思います。私にも責任があります。陽太くんが投稿していたとき、きちんと見ていればよかった。もっと早く気づいて止めていれば、奥様にも嫌な思いをさせずに済んだのに……ごめんなさい。全部、私が悪いんです」そう言うと、香織は目元と鼻先を赤くし、ぽろぽろと涙をこぼした。まるで理不尽に責められ、健気に耐えている小動物のようだった。知輝の険しい目つきがわずかに緩み、声にも柔らかさが戻る。「お前のせいじゃない。宥里が日頃から陽太を甘やかしすぎているせいだ。いったい、普段どんな躾をしているんだ」そう言いながら、知輝は宥里に電話をかけようとした。だが発信ボタンを押そうとして、今朝、彼女の番号を着信拒否に設定したことを思い出す。着信拒否を解除してから、知輝は改めて電話をかけた。一度目は、すぐに切られた。二度目にかけると、今
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第27話

スマホの画面の光に照らされ、香織の瞳がふと暗く陰り、唇がわずかに引き結ばれた。だが再び顔を上げたときには、いつもの物分かりのいい従順な表情に戻っていた。「もう遅い時間ですし、先生がいらっしゃるなら、陽太くんのことはお任せしても安心ですね。私……」そう言うと、腕の中で甘えたままの陽太をそっと下ろした。「そろそろ失礼しますね」知輝は腕時計へ目をやり、わずかに眉を寄せた。「病院に戻るのか。それとも、自分の部屋に戻るのか」香織は微笑んだが、その笑顔はどこか寂しげだった。「もう外出許可の時間を過ぎてしまったので、病院には戻れないんです。借りている部屋にも、今夜は戻れなくて……」香織は気丈に振る舞うように笑った。「でも、大丈夫です。近くのビジネスホテルに泊まりますから」「それはいけない」知輝はすぐさま香織の言葉を退けた。その目には申し訳なさが浮かんでいた。「陽太のためにわざわざここまで来てくれたんだろう。今夜はここに泊まっていけ。明日の朝、俺が送っていく」「でも……」香織はためらい、どうしたものかという顔をした。「そうですよ、香織様。泊まっていってください。部屋はいくらでもありますから、どうぞ気兼ねなく」香織が遠慮しているのだと察した晴子も、後押しするように声をかける。陽太は香織が泊まると聞いて、嬉しさを抑えきれず、香織の手を握って離さなかった。「そうだよ、泊まっていってよ。僕と一緒に寝よう。僕の部屋、すごく広いんだよ。泊まって、お願い!」「それじゃあ……分かったわ」香織は陽太の押しに負けたという様子で、柔らかく笑いながら承諾した。香織が承諾したのを見て、晴子も微笑んだ。「坊っちゃんは、本当に香織様のことがお好きなんですねえ」香織は陽太を抱き上げた。「私も陽太くんのこと、大好きよ」陽太は嬉しそうに香織の腕に収まりながら、心の中で考えていた。ママがたまにいないのも悪くないな。そうすれば、香織さんが泊まってくれるんだもん。その夜、陽太はなかなか寝つかなかった。寝る前、香織にせがんで、しばらく一緒に遊んでもらった。だが、いざ眠るとなると、毎晩添い寝をしながら物語を聞かせてくれた宥里の代わりに、あまり読み聞かせの上手ではない香織が隣にいることが気になり、なかなか寝つけなかった。眠れないもどかしさが、少し
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第28話

陽太は素早くキッチンへ駆け込んだ。目に入ったのは、宥里のパジャマを着た女性が、忙しそうに立ち働く後ろ姿だった。「ママーッ!」大きな声で呼びかけ、朝ごはんは何を作ってくれたのかと続けて尋ねようとしたところで、コンロの前にいた女性が振り返った。「ふふ。陽太くん、おはよう」香織が笑顔で挨拶した。陽太は固まった。ママじゃない。香織さんだ。そこへ知輝もやってきて、宥里のパジャマを着た香織を見て、一瞬動きを止めた。自分のパジャマ姿に知輝の視線が向いていることに気づき、香織は慌てて弁解した。「あ、あの、昨夜、陽太くんと遅くまで遊んでしまって、晴子さんはもう眠っていたので、起こして着替えを用意していただくのも申し訳なくて。それで、その……勝手に奥様のパジャマをお借りしてしまいました。ごめんなさい、先生。ちゃんと洗ってお返ししますから」知輝は目を伏せると、気に留める様子もなく答えた。「気にするな。パジャマの一枚くらい構わない。あいつはたくさん持っているし、一枚なくても困りはしない」そう言うと、香織のことはそれ以上気に留めず、晴子のほうを振り返った。「宥里は?」晴子は気まずそうに口元を引きつらせながら、正直に答えた。「いらっしゃいません」知輝の表情が険しくなった。宥里のやつ、どんどん図に乗ってきたな。まさか、一晩中家に帰らないとは。「奥様にお電話しましょうか」晴子が尋ねた。「放っておけ」知輝は冷たい顔のまま、いつものように食卓についた。そこで初めて、宥里がいないため、朝食が用意されていないことに思い至る。次の瞬間、香織がトレイを手に歩み寄り、湯気の立つ味噌汁のお椀を一つずつテーブルに並べた。「早く目が覚めたので、朝ごはんを作ってみたんです」味噌汁を置くと、香織はもう一度キッチンへ戻り、炊きたてのご飯、卵焼き、焼き鮭を運んできた。すべてをテーブルに並べ終えると、香織は知輝の向かいに腰を下ろした。そこは、これまでずっと宥里が座っていた席だった。「実家にいた頃は、よく家族の食事を作っていたんです。両親も弟も、私の料理を喜んで食べてくれて。さあ、先生、陽太くん、どうぞ召し上がってください」そう言いながら、香織は知輝と陽太の前に、焼き鮭の皿をそれぞれ置いた。「ありがとう。朝から大変だっただろう」知輝は箸で
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第29話

ふと何かを思い出したように、知輝は言葉を継いだ。「お前の実家のほうは、また少し落ち着いたら、俺が直接ご両親と話をしてくる」このところ、知輝は本当に多忙を極めていた。来週に予定されている、謙三の研究所に新しく着任する研究開発センター長との面会準備、会社に山積している案件の処理。それに加えて、もうすぐ教授への昇進審査も控えている。そのうえ父の頼みで、姿を消したあの天才棋士まで探し出さなければならない。とにかく次から次へと厄介事が重なり、とてもすべてには手が回らない状態だった。そこへきて、宥里の態度はあまりにも意固地で頑なだった。これ以上、この件で彼女と不毛な言い争いをしたくはない。だったら、時間が空いたときに自分から直接出向き、向こうの親を納得させれば済む話だ。知輝はそう考えていた。実家の話を振られると、香織はそっと目を伏せた。「大丈夫です。両親には、私から事情は話しました。ただ、分かってはもらえませんでした。世間体が悪いから、早く別の人と結婚しろって言われていて……でも、しばらく実家に帰らず、距離を置いていれば大丈夫です。今すぐどうにかしなければならないことでもありませんから」そう口では言っているものの、その声には隠しきれないつらさが滲んでいた。「何か困っているなら、遠慮せずに言ってくれ」知輝がそう促すと、香織はためらうように唇を結んだ。だが、やがて意を決したように口を開く。「実は、今住んでいるアパートのことで……一緒に住んでいる友人が私と同郷で、あの結婚式のことも知られてしまったみたいなんです。これまでどおり一緒に暮らすのは、もう難しくて……その子は私の両親とも顔見知りなんです。父がいつその子から居場所を聞き出して、また無理やり結婚をさせようと連れ戻しに来るかと思うと、不安で……だから、なるべく早く新しい部屋を探さないといけなくて……」その話を聞いていた陽太が、慌てて知輝を見上げた。「だめだよ。香織さんが好きでもない人と結婚するなんて絶対だめ。パパ、なんとかしてよ。香織さんを助けてあげて」知輝は頷き、はっきりと告げた。「心配ない。いい部屋が見つかるまで、しばらくうちに住めばいい」「え?」香織は驚いたように目を瞬かせ、ひどく戸惑った表情を見せた。「そんなことはできません。ただでさえ私のことで奥様に誤解され
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第30話

暗証番号は変更されていなかった。宥里はそのまま番号を入力し、静かに家の中へと足を踏み入れた。一階のリビングのソファでは、まだパジャマ姿の香織と陽太が、じゃれ合いながら笑い転げていた。「あははっ!香織さん、やめて、くすぐったい!もうしないってば!もうお化けの真似をして驚かせたりしないから!」「もう、陽太くんったら。お化けの真似で驚かせるなんて、悪い子ね。お仕置きしちゃうわよ」香織はそう言って、陽太の脇腹を両手でくすぐった。陽太はソファの上を転げ回りながら、身をよじって笑い声を上げる。お仕置きとは名ばかりで、心から楽しそうに笑っていた。宥里は玄関先に立ち尽くし、その無邪気な光景を黙って見つめていた。胸の奥がちくちくと痛んだ。最後に陽太が自分に甘えて、こんなに無邪気に笑いかけてくれたのは、いったいいつだっただろう。ずっと、陽太が成長したのだと思い込んでいた。六歳になった子供は背伸びしたい年頃だから、もう甘えたり、はしゃいだりしなくなったのだと。でも本当は違ったのだ。あの子はただ、自分に甘えなくなっただけ。自分と一緒に遊ばなくなっただけだった。陽太がもっと小さかった頃は、片時も離れずに甘えてくる子だった。どこへ行くにも、必ずママのそばにいなければ気が済まなかった。三十分でも姿が見えなければ、泣き喚いてママを探した。だからあの頃の自分は、どこにも行けなかった。陽太が眠りについたときにだけ、ようやく自分だけの時間ができた。いつも子供にまとわりつかれ、ひどく疲れ果てていたけれど、それでも、その日々を喜んで受け入れていたのだ。だが、気づいていなかった。周囲の環境が、幼い子供にどれほど大きな影響を与えるかを。この数年間、知輝や赤沢家の者たちが自分に向けてきた態度は、知らず知らずのうちに、じわじわと陽太の心に染み込んでいったのだ。以前の自分は、その見えない檻の中に閉じ込められ、それに気づくことすらできなかった。ただひたすら家族の機嫌を取り、すべて自分が悪いのだと思い込んでいた。今こうして、その檻の外に出て、ようやく物事の本質に気づくことができたのだ。「朝っぱらから、二人して何を騒いでいるんだ。二階まで響いていたぞ。まったく、うるさいな」軽やかな足取りで、身なりを整えた知輝が二階から下りてきた。眉間にわずかに
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