Todos los capítulos de 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます: Capítulo 31 - Capítulo 40

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第31話

晴子が「奥様」と声をかけた途端、まるで水を打ったように、ソファで笑い合っていた三人は一瞬にして表情をこわばらせ、ぴたりと口を閉ざした。宥里は口元にうっすらと笑みを浮かべた。スリッパに履き替えようとしたそのとき、自分用のスリッパを香織が履いているのが目に入り、すっかり履き替える気が失せてしまった。そのまま裸足でリビングへと踏み込んだ。彼女の足音が、乾いて響く。「ごめんなさいね。ずいぶんと楽しそうな家族団欒の邪魔をしてしまって」宥里は口を開いた。知輝が弾かれたようにソファから立ち上がった。宥里を捉えたその目の奥に、一瞬だけ動揺がよぎる。だが口をついて出たのは、冷ややかな叱責だった。「家族団欒だと?少しは頭を使ってから物を言ったらどうだ」宥里は思わず吹き出しそうになった。無論、呆れ笑いだ。服を乱したままの三人を指し示す。「じゃあ、私の勘違いってわけ?」香織が慌ててソファから身を起こした。その拍子に、もともと緩んでいた襟元がさらに大きくはだけてしまう。だが本人はまるで気づいていない様子で、ただ怯えた子犬のような目で宥里を見つめるばかりだ。「いや、その……違うんです。宥里さんが思っているようなことじゃなくて。もともとは陽太くんとふざけていただけで、それが、その……」「香織、あいつに説明などしてやる必要はない。心が汚れているやつには、何を見ても汚く見えるんだ」最後のひと言を、知輝は噛みつくように吐き捨てた。宥里は体の脇で拳を固く握りしめた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。知輝が何を言いたいのか、宥里には痛いほどわかっていた。七年前、二人の間に起きたあの行き違いのことだ。いや、宥里にとってそれは、ただの行き違いにすぎなかった。だが知輝にとっては、宥里が浅ましい下心から、わざと自分のベッドに潜り込んできた出来事だったのだ。その後どれほど証拠を並べ立て、言葉を尽くして潔白を訴えようと、知輝の中で宥里はとうに「有罪」と決まっていた。この七年間、彼が一度もその話を蒸し返さないのは、忘れたからでも水に流したからでもない。彼にとってそれは一生消えることのない汚点であり、口にするのさえ胸糞の悪くなる過去だったからだ。宥里は深く息を吸い込み、握りしめていた手をそっと開いた。これ以上何を言っても無駄だ。どうせ離婚す
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第32話

宥里は二階にある自分の書斎の前に立ったところで、ドアが半分開いていることに気づいた。ノブに伸びかけた手が宙で止まる。普段から出かける時はドアを閉める癖がついている。まして自分の書斎ともなれば、離れる時には必ず閉めていたはずだ。それが今、半開きになっている。つまり、宥里がこの家を出た後、誰かがこの部屋に入り込んだということだ。普段なら、知輝も陽太もこの書斎には近づかない。晴子に至っては、宥里の留守中に無断で立ち入るような真似は絶対にしない。宥里はドアの前に立ったまま、乾いた笑みを口の端に浮かべた。押し開けて中に足を踏み入れると、案の定、部屋の様子はすっかり様変わりしていた。デスクの上にあった、もともと宥里のものだった品々は、デスクライトを除いて、すべてぞんざいに机の下へと積み上げられている。代わりに置かれているのは、ひまわりのステッカーが貼られたノートパソコン。色とりどりのノートや書類が、かつて几帳面に整えられていたはずのデスクの上に雑然と広げられていた。デスクの前の椅子には、ご丁寧にひまわりの形をしたクッションまで置かれている。宥里が歩み寄ると、真っ先に視界に飛び込んできたのは、デスクの中央に置かれた一本の万年筆だった。有名ブランドの一品。万年筆のロレックスとも称される代物で、しかもオーダーメイド仕様だ。この一本だけで、一般的な会社員の月給二か月分に相当する。軸には、これまたひまわりが彫り込まれていた。宥里が万年筆を手に取ると、その下に置かれていたノートの表紙に、綺麗な字でこう書かれているのが目に入った。【桃木香織、今日も頑張れ!】「宥里さん……」書斎の入り口から、香織の声がした。宥里の手にある万年筆を見た瞬間、香織の顔がさっと強張る。慌てて駆け寄るなり、勢いよく万年筆をひったくった。あまりに乱暴な動作のせいで、宥里の体が思わずよろめいたほどだ。自分の動きが大きすぎたと気づいたのか、香織は取り繕うような笑みをこぼした。「……ごめんなさい。ちょっと、気が動転してしまって」万年筆を強く握りしめたまま、声を潜めて続ける。「これ、私が大学院を卒業した時に、先生からいただいたものなんです。私にとっては、すごく大切なもので……」宥里はその万年筆にちらりと視線を落とし、瞳の奥をわずかに翳らせた。
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第33話

つまるところ、人と人との間にある「大切にする、しない」の境界線は、驚くほどはっきりしているものなのだ。ただそれまでの宥里は、鳥籠の中に閉じ込められていたせいで、その扱いの差にすら気づけずにいたのだ。もちろん、今からでも遅くはない。宥里は香織を相手にせず、机の下に積み上げられた自分の荷物の前へと向き直った。中から持ち帰りたいものを選び出し、淡々と鞄に詰めていく。その様子を見て、香織はばつが悪そうに顔を曇らせた。「ごめんなさい。先生が、この書斎を使ってもいいと……私、荷物が多くて、それで宥里さんのものを先に脇へ寄せてしまって。あとでちゃんと片づけますので、その……」「気にしないで。残りは全部いらないから。この部屋にあるものは全部あなたにあげるから、好きにしていいわ」宥里の口調はひどく静かなもので、感情の色はどこにも滲んでいなかった。ただ事実を淡々と告げているだけだ。実際、彼女にとってもういらないのだ。この書斎も、この家も、ここにいる人たちも。すべて、もう手放す。けれど香織はどうやら勘違いをしたらしく、みるみるうちに目を赤く潤ませると、デスクを回り込んで宥里のそばへとすり寄ってきた。「宥里さん、怒らないでください」「怒ってなんかいないわ」ただ、疲れているだけだ。「今のは怒っておっしゃっているだけだって、私わかってます。ごめんなさい、全部私が悪いんです。宥里さんもご存じの通り、あの偽の結婚式のあと、地元で私の評判はかなり悪くなってしまって。ちょうどルームメイトも地元の子で、一緒に住み続けるのが難しくなって……それで家を出たものの、すぐには新しい部屋が見つからなくて。先生が同情してくださって、しばらくここに置いてくださっているだけなんです……いずれ出ていきますから……」宥里は今にも跪かんばかりの香織の様子を冷めた目で見下ろし、心底うんざりした声で言った。「もういいから。知輝もいないし、ここに監視カメラもないんだから、そんな芝居じみたことしなくていいわよ」香織の表情がぴたりと止まった。見透かされたことへの動揺が瞳の奥をよぎったが、瞬時にまた、先ほどまでの狼狽した様子を取り繕う。「違うんです、全部誤解です。私、本当に困っていて。家庭環境に問題があって、もし父にどこに住んでいるか知られたら、きっと……」宥里
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第34話

宥里は、部屋に入ってくるなり香織をかばい始めた知輝の様子を見て、噴き出したい衝動を必死にこらえた。「別に勘繰ってなんかいないわ。住みたいなら住めばいいし、どれだけ長くいてもいいから」宥里の声は波ひとつない静けさで、感情の欠片すら乗っていなかった。その乾いた反応に、知輝のほうがかえって戸惑いを見せる。意外そうに宥里を見つめた。「……本当に、気にしていないのか?」「まったく気にしていないわ」宥里は静かに首を縦に振った。知輝が宥里を見つめる目の色が、じわりと深くなった。瞳の奥に複雑な感情が入り混じっている。一瞬そうして見つめたあと、ようやく納得したように小さく頷いた。「結構なことだ。お前もようやく、少しは赤沢家の妻らしくなったな」宥里はおかしくて、同時にどうしようもなく皮肉に思えた。滅多にもらえない知輝からの「評価」を、よりによって香織のことで得られるとは。もう赤沢家の妻など続けたくないと思っている、まさにこのタイミングで、赤沢家の妻らしさを称賛される皮肉。「ちょうどいいところにいてくれたわ。晴子さんや陽太の前では言いにくい話もあるから」宥里はそう言うと、鞄の中から改めて印刷し直した離婚協議書と離婚届を二部取り出し、知輝の前へと差し出した。「前に洋介さんにお願いして届けてもらったけれど、あなたからの返事がずっとなかった。本気にしていないんだろうと思って、今日は自分で持ってきたの」書類を取り出したその瞬間、宥里は香織の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ喜色を、決して見逃さなかった。だが今は、香織にかまけている余裕はない。宥里は知輝をまっすぐに見据え、はっきりとした声で告げた。「サインして」目の前に再び突きつけられた書類を前に、知輝は一瞬呆気にとられ、それからすぐに眉間に深いしわを刻んだ。瞳の奥は暗く沈み、苛立ちの色が隠しきれないほどに滲み出ている。「宥里、一体何がしたいんだ?香織をしばらくうちに置いているだけだろう。新しい住まいが見つかり次第、出ていく話になっている。そんなことで、いちいち当てつけのような真似をする必要があるのか?」「住むこと自体には、文句なんて言っていないわ」宥里は知輝の荒々しい詰問を受けても、あくまで穏やかな様子を崩さなかった。怒っても、言い争っても意味がないことはとうに分かってい
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第35話

唯人は知輝の暮らしをサポートするアシスタントである。だからこそ、その裏事情も当然把握していた。知輝の言葉に、ハンドルを握る唯人の手が一瞬だけ止まる。あの女、いったい何をやらかして社長の機嫌を損ねたんだか……「かしこまりました」唯人は軽く応じたものの、さして気にも留めていなかった。彼にとっては、電話を何本かかけるだけの話にすぎない。車が発進し、ゆっくりと走り出す。知輝は眉根を寄せて窓の外を見つめていたが、ふと何かを思い出したのか、その険しさがわずかに緩んだ。「香織の新しい住まいの件だが、あいつは最近忙しくて手が回らないだろう。お前、時間を見つけて希望条件を聞いておいてくれ。物件探しも手伝ってやってくれ。費用はこれまで通り、会社持ちで構わない」「かしこまりました」唯人は今度は微笑みながら答えた。「会社に着いたら、真っ先に桃木さんに詳しい条件を伺っておきます」社内では、唯人は知輝の身辺担当のアシスタントだが、香織は知輝の業務担当の秘書であり、役職としては唯人よりずっと上にあたる。同時に、香織は社内のプロジェクト研究室の上級研究員でもあった。二つの重要な肩書きを兼ねていて呼び方がややこしいため、香織本人の希望で、社内では誰もが「桃木さん」と呼ぶことになっていた。一時間後、赤沢家の本邸。富美子は眉をひそめながら、唯人からの電話を切ったところだった。「誰からだったの?」彩葉が顔にパックを乗せたまま歩み寄ってくる。いつも優雅な母がひどく顔を曇らせているのを見て、思わず尋ねた。富美子は膝を揃えてソファに腰かけたまま、美しくネイルの施された指先でこめかみをゆっくりと揉む。「葉山からよ。知輝の指示で、宥里の今月分の生活費を止めるんですって」宥里の手元には、知輝から渡された家族カードが二枚ある。生活費の方は唯人を通して、毎月決まった日に宥里の口座へ振り込まれる仕組みになっていた。本来なら、そうなるはずだった。実のところ、知輝は毎月、富美子と彩葉にも小遣いを渡していた。そのため唯人は手間を省くべく、宥里の生活費を含めた家族全員分のお金を、いったんまとめて本邸の富美子の口座へ振り込んでいたのだ。今月分の小遣いと生活費は、実のところ、唯人が知輝を迎えに行くよりも前に、すでに富美子の口座へ送金済みだった。
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第36話

書斎の中、宥里は離婚協議書を一枚一枚、丁寧に揃えていた。かつての家を出たあと、宥里はすぐに今の住まいである玉山邸へ戻ることはせず、その足で謙三のいる療養施設へと向かった。療養施設の病室では、介護士が謙三に薬を飲ませようと奮闘していた。頑固な彼は、何を言われても頑として口を開こうとしない。宥里が来たのを見て、介護士はほっと胸を撫で下ろした。まるで救世主でも見つけたかのような顔だ。「花谷さん、来てくださって助かりました。先生がどうしてもお薬を飲んでくれなくて。ちょっと説得していただけますか」宥里が中に入ると、直樹の姿が見当たらない。「先輩は、いらっしゃらないんですか?」謙三が鼻を鳴らした。「ふん、直樹は毎日忙しくしておる。お前とは違ってな」宥里にはわかっていた。これは、ここ数日顔を出していなかったことに対する、謙三なりの拗ねた言い方だ。「ここ数日、ここ数年分の原稿と文献を整理していたんです。来週には研究所に戻らないといけませんし。先生の自慢の教え子として、恥をかかせるわけにはいきませんから」そう言いながら、宥里は介護士の手から謙三の薬を受け取った。容器いっぱいに入った薬を見るだけで、宥里まで気分が悪くなりそうだった。これを毎日三回も飲まなければならない謙三の身になれば、なおさらのことだろう。「誰が自慢の教え子だ。一番手のかかるのがお前じゃろうが」謙三は仏頂面で言った。「はいはい、その通りです」宥里は笑って頷きながら、子供をあやすように薬を謙三の口元へと差し出した。「まずお薬を飲んでから叱ってくださいね」謙三は眉をぐっと寄せ、いかにも嫌そうな顔をしながらも、素直に口を開き、宥里に手伝われながら薬を飲み込んだ。「あら、やっぱり花谷さんの言うことなら聞くんですね。今度また先生が薬を嫌がったら、電話しちゃいますよ」介護士はにこにこしながら、薬箱と水の入ったコップを片付けた。「電話などせんでいい。子供じゃあるまいし、薬くらい自分で飲む」謙三はむっとした顔で返す。「はいはい」介護士は笑いながら病室を出て、二人きりにしてくれた。宥里は謙三のそばの椅子に腰を下ろしたものの、何か言いたげに、なかなか話を切り出せずにいた。謙三は横目でその煮え切らない態度を見ると、はっきりと促す。
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第37話

宥里は療養施設で謙三に付き添い、昼までそこにとどまった。一緒に昼食をとり、介護士を手伝って昼の薬を飲ませ終えたところで、謙三から鬱陶しそうに追い払われた。「はよ帰れ。はよ。ハエみたいにブンブンうるさくしおって。はよ行け」謙三は口をむっと尖らせながら急かした。口の端には、薬を飲んだ拍子についた水滴がまだ残っている。宥里も別に気を悪くしたりはしない。今の謙三は、ただ子供のように拗ねているだけだと分かっているからだ。介護士にいくつか頼み事をしてから、療養施設を後にした。源一郎がまだ中央病院に入院しているかどうか定かではなかったため、前回のように奈緒や貞末家の人間と鉢合わせするのを避けたくて、今回、宥里は連絡通路を通らなかった。療養施設の正面玄関からそのまま表通りへ回り、タクシーを拾うことにしたのだ。歩きながら、そろそろ車を買うべきかもしれないと考える。そうすれば、これからどこへ行くにしても便利になるはずだ。これまで乗っていた車はすべて知輝名義のものであり、あの家を出た時、当然のように向こうへ置いてきたのだ。いつ車を見に行こうかと頭の中で考えているうちに、いつの間にか外へ出ていた。薄暗い館内から、一気に眩しい陽光の下へ出たせいで、宥里の視界が一瞬だけぼやけた。しかも、目の前には階段が続いていた。咄嗟に体勢を崩し、体がそのまま階段の下へと傾いていく。あわや階段を転げ落ちそうになったその瞬間、力強い腕が宥里の腰に回り、その体をしっかりと受け止めた。「あり……」お礼を言いかけた宥里の言葉は、途中でぴたりと止まった。馴染みのある香りが鼻先をかすめる。眩しい陽光の下、そこにあったのは見覚えのある顔だった。サングラスをかけてはいるものの、その黒いレンズの奥にある、からかうような瞳の光までもが透けて見えるような気がした。宥里は雷に打たれたように、男の腕の中から素早く体を起こす。それ以上相手の顔を見ることもなく、相手をよけて、そのまま足早に立ち去ろうとした。強烈な違和感が、心臓のあたりからじわじわと全身に広がっていく。そこへ、頭上から見下ろすような男の声が降ってきた。「ふーん?知らないふりでもするつもりか?」サングラスの下、きりりとした眉が寄せられる。それから男は長い脚を一歩踏み出し、宥里へと近づいた。すらりと
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第38話

あ、足の骨を折る!?太朗はぶんぶんと手を振った。「まさか、そんなつもりじゃありません!ボス、ここは花丸市ですよ。海外じゃないんですから。ちゃんと法律を守らないと……」絢斗は太朗のぐだぐだした話を聞く気も失せ、ふんと鼻を鳴らして、そのまま療養施設の中へと歩を進めた。長い脚が一歩踏み出すたび、普通の人なら二歩はかかる距離を、一歩で進んでいく。太朗は慌てて小走りでついていく。百八十センチはある長身なのに、絢斗の隣では妙に小さく見えた。それでも口だけは休みなく動き続ける。「そういう意味じゃありません、ボス。せっかく宥里さんに会えたんですから、腰を落ち着けて、穏やかに昔の話でもして誤解を解けばよかったのに。何であのまま行かせちゃったんですか」絢斗はサングラスを外した。端正な顔の眉間に、深い皺が二本寄った。「あいつと、何の昔話をしろって言うんだ」言い終えると、絢斗は歩幅を速め、太朗を置き去りにした。数歩でエレベーターに乗り込み、振り返ると、すぐさま扉を閉めた。一歩出遅れた太朗は、そのまま扉の外に締め出されてしまった。「ボス、待ってくださいよ……!」太朗は昇っていくエレベーターを呆然と見つめながら、思わず首を振った。「何もかも申し分ない人なのに、口だけはとことん素直じゃないんだから」謙三の病室は、宥里が去ったあと、いつもの静けさを取り戻していた。絢斗がノックして入ってきた時、謙三は文献に目を通しているところだった。「おお、来たか」絢斗の姿を見て、謙三は手にしていた文献を置いた。「一足遅かったな。宥里はさっき帰ったところだ」絢斗は頷くと、そばにあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。「下で見かけました」「では、話したのか?」謙三が意外そうに尋ねる。「大して話してません」絢斗は形のいい長い指で、高級そうなサングラスを弄びながら言った。「俺の顔を見るなり、逃げるように去っていきましたよ」謙三は表情を変えず、絢斗に対する態度も淡々としたものだった。「宥里とお前たち貞末家との間のことに、俺は口を出さん」言い終えると、謙三は体を横に傾けて引き出しを開け、中から宥里の離婚協議書と離婚届が入った書類袋を取り出すと、絢斗の方へ放り投げた。「ちょうどいい。この件、俺からは頼みにくい。お前が
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第39話

かつての宥里は、家族全員を笑顔にできてこそ、自分の存在に価値があると思っていた。だが、この一連の出来事を通して、宥里は少しずつ気づき始めていた。自分の存在そのものに、すでに価値があるのだと。誰かに認めてもらう必要などなく、ただ自分自身を、自分の目で見つめてやればいいだけなのだと。もっとも、この当たり前の道理に気づくまでに、彼女は二十八年もの歳月を要してしまったのだが。土曜の朝、宥里は起きてすぐ、ゆで卵二つとコーヒー一杯を、自分のために用意した。それを持って書斎に戻り、原稿の整理を再開する。富美子からの電話がかかってきたのは、ちょうど卵の殻をひとつ剥き終えたところだった。画面に表示された【お義母さん】という文字を見て、宥里は眉をわずかに寄せたものの、結局は電話に出た。繋がった途端、受話口の向こうから、富美子の頭ごなしの叱責が飛んできた。「陽太から聞いたけど、あなた、もう一週間も家に帰ってないそうね?」「ええ」宥里は素直に認め、静かに聞き返した。「何か問題でも?」富美子は、宥里がこんなにも平然と認めてくるとは思ってもみなかった。弁解のひとつもせず、それどころか逆にどうしたのかと聞き返してくるとは。「どうかしましたか、ですって!?」常に上品を装う富美子が、電話口で珍しく声を張り上げた。「赤沢家の長男の嫁だというのに、赤沢家の体面を保てるような器量もなければ、人前に出して誇れるようなところもない。それでも、これまで陽太を育ててきたこともあるし、あなたなりにおとなしくこの家の務めを果たしてきたから、私たちも受け入れてきたの。別に、あなたに赤沢家のために何か大きなことをしてほしいなんて思ってない。でも、せめて夫や子供の身の回りのことくらいは、きちんとしてほしいわ。それが専業主婦として、最低限やるべきことじゃないの?」富美子の詰問を聞きながら、宥里は深く息を吸った。離婚届はすでに手続きが進んでいるとはいえ、離婚が成立していない以上、富美子は今も宥里の姑であり、宥里がまだ赤沢家の嫁であることに変わりはない。言うべきことがあるとしても、それは本来、知輝の口から言われるべきことのはずだ。それなのに、どうやら知輝は赤沢家の誰にも何も伝えていないらしい。あるいは、そもそもこんなことをわざわざ伝える価値もないと思っている
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第40話

富美子は現役を退く前、国内屈指の芸術系大学の副学長を務めており、同時に著名な音楽家でもあった。長年芸術界で人と付き合ってきただけあって、話し方も振る舞いも、常に上品さを第一としてきた。人前で見苦しく取り乱すことなど、滅多にない。ただし、実の娘である彩葉が相手の時だけは、例外だった。彩葉は富美子の剣幕に驚き、身をすくめながら一歩後ずさった。「もう、声が大きいわよ。陽太が驚くじゃない」そこで富美子はようやく、陽太がすぐ近くで本を読んでいたことを思い出し、慌てて目を向けた。だが当の陽太は、ただ小首を傾げてこちらを見ているだけで、驚いた様子はない。それを見てほっと胸を撫で下ろす。「陽太、大丈夫よ。おばあちゃんと叔母ちゃんがちょっと話していただけ。本を続けて読んでいなさい」「おばあちゃん、叔母ちゃん、もう少し静かに話して」陽太は小さな眉をひそめて文句を言うと、また本に視線を戻した。富美子は顔を険しくしたまま、彩葉を少し離れた場所へ連れていった。「これが最後の警告よ。あの時のことは二度と口にしないで。特にお父さんとお兄ちゃんには絶対に知られちゃだめ。赤沢家は由緒ある学者の家系よ。赤沢家の体面を傷つけるようなことは、どんなことであっても許されないの、わかった?」彩葉はしゅんと肩を落とし、自分の失言を悟ると、素直に頷いて謝った。「わかったわ。今日は宥里に腹が立って、つい口が滑っただけなの。もう言わないから、お母さん怒らないで」娘のしょげた様子を見て、富美子の心もいくらか和らいだ。「あなたって、どうしてお兄ちゃんみたいにしっかりしてくれないのかしら」富美子はしばし考え込んで言った。「やっぱり、早くいいご縁を見つけてあげないと。結婚して、家庭を持てば、あなたも少しは落ち着くでしょうから」結婚の話が出た途端、彩葉の整った顔がほんのり赤く染まった。富美子が、昔から付き合いのある家の息子に誰かふさわしい相手はいないかと考えを巡らせていたところ、ふと娘の赤らんだ顔に目が留まった。「考えるだけ無駄よ。洋介はあなたには向いてないわ」それを聞いた彩葉の顔が、たちまち曇った。「なんで。わたし、洋介のことが好きなの。子供の頃からずっと好きだったのに、何が向いていないのよ」「あなたが好きでも、向こうがあなたを好きじゃなきゃ
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