Todos los capítulos de 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます: Capítulo 41 - Capítulo 50

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第41話

「そうだ。対局前の本人確認の時だけ、帽子とマスクを外したことがあったらしい。それ以外はずっとつけたままだった。当時はまだ規則もそれほど厳しくなくてな。身分確認さえ通れば、対局中の服装については、そこまで厳格な決まりがなかった」正臣はそう説明した。名人戦の開催が目前に迫る中、人を探すために残された時間は、もうあまり多くなかった。「おじいちゃん!」一冊読み終えた陽太が駆け寄ってくる。「おじいちゃん、この本読み終わったよ。褒めて」正臣はこの孫が可愛くて仕方がなく、笑いながら陽太を抱き上げた。「うちの陽太はすごいなあ。もう一人で一冊読み切れるのか」褒められた陽太は、小さな顔をぱっと輝かせた。富美子と彩葉もつられて笑い、その場は和やかな空気に包まれる。正臣は陽太のふっくらとした愛らしい顔をしばらく眺めたあと、ふと娘の彩葉の顔に視線を移すと、笑って言った。「そういえば、陽太は宥里にはあまり似ていないな。むしろ、だんだん彩葉に似てきている気がする」富美子の顔から一瞬だけ笑みが消えかけたが、すぐに言葉を継いだ。「彩葉と知輝は実の兄妹なんだから、甥が叔母に似るのは別におかしなことじゃないでしょう」「そうそう、どっちに似たって赤沢の血筋には変わりないしね」彩葉も鼻の頭を掻きながら相槌を打った。……宥里は午前中ずっと、書斎で原稿と資料の整理をしていた。午後は謙三の療養施設に顔を出すつもりだったが、ここ数日、宥里にあれこれ口うるさく言われてうんざりしたのか、今日は頑として「来るな」の一点張りだった。仕方なく、宥里はそのまま書斎にとどまり、午後も原稿整理に没頭した。おかげで日曜を迎える前に、ここ数年書き溜めてきた原稿をようやくすべて整理し終えることができた。そろそろ出前でも頼もうかと思っていた矢先、一本の電話がかかってきた。名前は表示されなかったが、宥里の記憶力は確かだ。この番号が唯人のものだとすぐにわかる。唯人とは、知輝の身の回りを担当するアシスタントとして、これまでも何度か顔を合わせたことがある。だが知輝は、仕事など家の外でのことに宥里が口を出すのを一切許さなかったため、宥里と唯人の間にはこれといった接点もなかった。顔を合わせるといっても、唯人が知輝の送迎に来た時に、たまたますれ違う程度だった。前
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第42話

電話が繋がるやいなや、受話器の向こうから、直樹の切羽詰まった声が響いた。「宥里、頼みがあるんだ」直樹はひどく焦っていて、呼吸まで乱れている。「娘がバーで飲みすぎて、トラブルに巻き込まれて店から出してもらえないらしいんだ。迎えに来てくれって連絡があったんだが、俺は急な出張で遠方にいて、どうしても戻れない。他の人間に頼むのも、どうも心配で。あれこれ考えたんだが、君に頼むしかなくてな」宥里は若浦詩音(わかうら しおん)と会ったことがあった。直樹には、妻との間に詩音という一人娘がいた。その後、直樹の妻は病気で亡くなり、以来、父娘二人で支え合って生きてきたのだ。直樹は目に入れても痛くないほど可愛がっていたが、仕事があまりに忙しく、目を配りきれないことも多かった。「わかりました。住所を送ってください。すぐに向かいます」詩音は成人したばかりの若い娘だ。酔っ払ってバーのような場所に一人でいるのは、それだけで十分に危険だった。宥里は一刻を争うと思い、直樹から送られてきた住所を受け取ると、すぐさまタクシーを呼んで向かった。……バーの中では、知輝が無表情に店員を呼び、運転代行の手配を頼んでいた。洋介がそれを聞いて、面白がるように目を細めながら、グラスを揺らして揶揄した。「どうした?宥里さんに来てもらえなかったのか?」知輝は淡々と「ああ」とだけ答え、表情にはこれといった変化もない。洋介がふっと鼻で笑った。「宥里さんも、ずいぶん面倒な態度を取るようになったもんだな」知輝はグラスを手に取ると、背もたれに寄りかかりながら、冷ややかな声で言った。「勝手に拗ねていればいい。構っていられない」洋介は得心したように笑い、皮肉めいた口調で続けた。「俺が思うに、あれはお前相手にわざと駆け引きしているだけだろう。まったく、あいつも大概バカだよな。もう少しやり方を考えればいいのにな」今日一緒に飲んでいるのは、学生時代から知輝や洋介と付き合いの深い友人たちだった。彼らはみな、知輝が結婚していること、そして知輝が自分の妻をろくに大事にしていないことも知っていた。少しでも妻を尊重する気があれば、他人が自分の妻をこんなふうに嘲笑するのを許すはずがない。洋介がそう言い終えると、周りの男たちも、つられて笑い声を上げた。知輝はわずかに眉根
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第43話

つい先日、知輝も彼女に向かって同じことを言ったばかりだった。洋介が嘲るように言うと、周りの男たちも、鼻で笑う者、低く笑う者、意味ありげな目でこちらを見る者と、それぞれの反応を見せた。知輝はといえば、ただ冷たい目でその一部始終を眺めるだけで、宥里をかばって場を収めようとする素振りは一切なかった。それどころか、素っ気ない表情で車のキーを宥里に放り投げると、言った。「車は外だ。先に外で待っていろ」宥里は胸の不快感を押し殺しながら、そのキーを知輝に投げ返した。「言ったでしょう、あなたを迎えに来たわけじゃないって」今は知輝に構っている時間などなかった。一刻も早く、詩音を見つけ出さなければならない。もし、詩音の身に何かあれば、直樹がどれほどの衝撃を受けるか、想像もしたくなかった。しかもこんな時に限って、何度電話をかけても詩音は出ない。広いバーの中を、宥里は必死に探し回った。知輝は、宥里が車のキーを投げ返してそのまま歩き去っていくのを見て、口元を引き締め、眉を深く寄せた。「あいつ、本当にお前を探しに来たんじゃないのか?」洋介は少し意外そうな顔をした。知輝は何も言わず、黙ったまま、宥里が化粧室の方へ向かうのを見つめていた。宥里は一通り店内を探し回っても見つからなかったため、化粧室も確認してみようと思い立ったのだった。化粧室にたどり着くと、中からかすかに、女の子の泣き声が聞こえてきた。「詩音?そこにいるの?」宥里は小さな声で呼びかけた。個室の中の泣き声がぴたりと止まったが、返事はなかった。「私、花谷宥里よ。覚えている?あなたのお父さんの後輩なの。あなたが小さい頃、会ったことがあるでしょ」宥里はさらに奥へと歩を進めた。個室のドアがわずかに開き、隙間から涙で化粧のすっかり崩れた女の子の顔がのぞいた。来たのが本当に宥里だと確認すると、女の子はこらえきれずに大声で泣き出した。「お父さんは?どうして来てくれないの?」宥里は急いで駆け寄り、女の子を胸に抱き寄せた。「お父さんは遠方の学会に出席していて、戻ってこられないの。だから代わりに私が迎えに来た。何があったのか、話して。私がなんとかするから」女の子は宥里の腕の中で身を縮めた。よほど怖かったのだろう。「あの人たち、帰してくれないの。ホテル
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第44話

宥里が一向に出てこないため、知輝は痺れを切らし、再度代行運転を呼んだ。代行はすでに待機している。知輝は時計に目をやると、眉をわずかに寄せ、席を立った。「もう帰るのか?」洋介が尋ねた。「ああ、明日も用事がある」知輝は頷き、上着を手に取りながら、視線を再び化粧室のほうへ向けた。ちょうどスマホを手に取り、宥里に電話をかけようとしたところで、香織からの着信が入る。「先生、実験室が停電して、閉じ込められて出られないんです。真っ暗で……怖いです……っ」電話の向こうから聞こえる香織の声は震えていて、明らかにひどく怯えている様子だった。「大丈夫か?」化粧室のほうへ向かおうとしていた知輝の足が止まった。「とにかく、そこを動くな。今すぐ行く」「はい……はい……先生、早く……本当に……きゃっ!」短い悲鳴のあと、電話が切れた。「香織!香織!」知輝が何度かけ直しても、香織は一向に電話に出ない。「どうした?香織に何かあったのか?」洋介も顔をこわばらせて立ち上がった。仕事上、香織は会社にとって重要な社員だ。それだけでなく、香織は知輝が最も目をかけている教え子であり、洋介とも仲がいい。「ああ。実験室が停電して、香織が中に閉じ込められたらしい」知輝は洋介に説明しながら、足早に出口へと向かっていく。会社の実験室でトラブルが起きたと聞いて、洋介もそれ以上その場に留まる気にはなれず、同席していた面々に一言断ってから、知輝の後を追った。「どうして急に停電なんか起きたんだ?あのビル、予備電源があるはずだろ。作動しなかったのか?」洋介は相当緊張していた。実験室は会社の中枢部門だ。何かあれば、会社への影響は計り知れない。「わからない。おそらく故障だろう。香織は今一人で実験室に閉じ込められている。何があったのかもわからない」電話を切る直前に聞いた香織の悲鳴を思い出し、知輝は思わず足を速めた。そこへ、再び着信音が鳴った。香織からだと思い、画面も確かめずに電話に出た。「香織、さっきどうした?怖がるな、今すぐ行くから!」化粧室の個室で、その声を聞いた瞬間、宥里の全身が凍りついた。ドアの外から響くばんばんという音に、宥里は我に返る。「知輝、私今、化粧室で男たちに囲まれているの。早くこっちに来て、助
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第45話

同じ頃、知輝はすでにバーを出ていた。洋介が後ろから追いつき、問いただした。「香織なのか?」「いや、宥里からだ」知輝は車のキーを代行運転に投げ渡した。「こんな時に、また何の邪魔をしに来たんだ!」洋介は苛立たしげだった。宥里がまた大げさに騒ぎ立てて、知輝の気を引こうとしているだけだと決めつけていた。「放っておけ」知輝も明らかに同意見だった。助手席のドアを開け、そのまま乗り込む。車が発進し、猛スピードで、知輝の会社の方向へと走り去っていく。化粧室の中、宥里の頭の中は真っ白になり、耳の奥ではまだ耳鳴りが響いていた。だが我に返る間もなく、目の前の男に、個室から無造作に引きずり出されていた。背後で、詩音の悲鳴が上がる。「きゃあ!離して!宥里さん……宥里さん、助けて!」詩音が繰り返す呼びかけに、宥里は必死で自分を落ち着かせようとした。今はもう、警察に通報する機会を逃してしまっている。もう一度、男たちと交渉を試みるしかない。「もう一度言うわ。あなたたちがやっていることは、もう犯罪よ。私たちを帰してくれるなら、いくらでも払う。金額を言って、すぐに振り込むから」相手が動じないことを恐れ、宥里はさらに念を押した。「言い値で払うから!」だが、相手の反応は宥里の期待とはまるで違っていた。先頭に立つ男が鼻で笑った。「舐めてんのか!俺たちが金に困ってるように見えるか?」「おい女、花丸市の薬師丸家って聞いたことあるか?お前の目の前にいるのが、その薬師丸家の御曹司だ」「大人しく俺たちについてくりゃ、痛い目を見ずに済むものをな」薬師丸哲男(やくしまる てつお)と呼ばれるその先頭の男は、目を細め、下卑た目つきで宥里を眺めた。「元々はあっちの成人したばかりの小娘で遊ぶつもりだったが、まさか色っぽいのがもう一人来るとはな。少し年増だが、その分色気があってそそるじゃねえか。俺の好みだ。ガキの方はお前らにくれてやる。俺はこっちの女をいただくぜ」そう言うと、哲男は宥里を引きずるようにして外へと連れ出そうとした。残りの男たちは、詩音を両脇から抱えながら、下品な笑い声を上げつつ哲男の後についていく。その頃、バー二階の個室のドアが開き、ちょうど商談を終えた絢斗が中から出てきた。個室の中には、彼を見送るために大
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第46話

Xホテルは、若者に人気の高級ホテルだった。バーのオーナーは絢斗に笑いかけた。「あそこに行く客は、羽目を外す人も多いですよ」絢斗が興味を示せば、女性を何人か紹介するつもりなのだろう。だが顔を上げた瞬間、目に入ったのは、絢斗の冷たく光る瞳だった。オーナーはたちまち身をすくませ、その場に凍りついて言葉を失った。絢斗は裏口の方向を見つめていた。たった今、宥里の姿を見た気がした。あの宥里が、ずいぶん派手に遊んでいるじゃないか…………宥里と詩音は、そのまま裏口から連れ出され、路地へと引きずり込まれた。「離して!離してよ!」宥里はもがきながら声を張り上げた。スマホはバーの化粧室に落としたままだ。今はもう電話で通報することもできず、声を出して周囲の注意を引くしかなかった。「助けて!助け……うぐっ……」だが宥里の助けを求める声は最後まで続かず、男の分厚い手で口を塞がれてしまった。「うるせえな、このアマ」哲男は、下卑た目で宥里の顔を眺めながら言った。「今は大人しくしてろ。あとで嫌ってほど叫ばせてやる」路地の入り口を、何人かの通行人が通りかかり、宥里たちのほうに目をやった。だがそれも一瞬のことで、すぐに立ち去っていく。誰も足を止めず、助けようとする者などいなかった。通行人には、路地裏で酔っ払った男女が騒いでいるだけに見え、面倒に関わりたくないと避けられていた。宥里は口を塞がれたまま、体を哲男にがっちりと抱え込まれていた。おまけに哲男たちは身なりも上等で、一目で裕福な家の御曹司だとわかる格好をしている。暗がりの中、遠目に見れば、まるで宥里が恋人の腕に甘えて寄りかかっているようにさえ見えただろう。宥里は、こちらを一瞥してはすぐに通り過ぎていく通行人たちを見つめ、それから背後で同じく取り押さえられている詩音に目をやった。じわじわと絶望が胸を満たしていく。体をよじり、なんとか抜け出そうともがく。だがそうすればするほど、相手の腕はさらに強く締まっていった。「暴れんな。これ以上暴れたら、ここでヤっちまうぞ……ぐあっ!」つい先ほどまで宥里に卑劣な脅し文句を吐いていた男の体が、次の瞬間、そのまま横へ吹き飛んだ。体は前方のゴミ箱に叩きつけられ、ゴミの山の中へと沈んでいった。哲男に抱え込まれたまま、宥里の
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第47話

「花丸市の薬師丸家の御曹司だぞ!お前ら、とんでもねえ相手に手を出したこと、わかってんのか!」絢斗は煩わしそうに、太朗を一瞥した。「任せる」太朗が一瞬きょとんとした。「でも、今どきこんなことして大丈夫なんですか?」絢斗は呆れたように太朗を一瞥した。「なら、ちゃんと筋を通して対処しろ」「了解です!」太朗は指示を受けると、体を軽くほぐしながら、男たちのほうへと歩いていった。宥里は壁に手をついたまま立っていた。細い指を壁に強く押し当てている。呼吸はまだ荒く、耳の奥では耳鳴りが続いていた。絢斗が歩み寄り、宥里の頭上に影を落とした。「前にも言ったはずだ。涙は何の解決にもならない。今、誰に見せるために泣いているんだ?」同じ男の口から、また同じ言葉を聞くことになった。宥里は息を呑んだ。瞳がわずかに震えた。七年前も、この男は今より何倍も冷たく、残酷な口調で彼女にこう言ったのだ。「泣いたって無駄だ。涙は何も解決しない」「帰れ。みっともなく纏わりつくな」「誰もお前なんかに同情しない。ただ滑稽だと思うだけだ」過去の記憶が、次々と宥里の脳裏に蘇ってきた。宥里は手の甲で乱暴に頬の涙を拭った。目を閉じ、必死に呼吸を整えようとする。息をするたびに蘇りかける記憶を、必死で押し戻した。「宥里さん……」詩音の心細げな声が、宥里を我に返らせた。「詩音……」宥里はすぐさま気を取り直し、詩音のもとへ駆け寄った。詩音は恐怖のあまりその場にへたり込み、呆然自失としていた。宥里に抱きしめられて、ようやくわっと泣き声を上げた。「もう大丈夫、大丈夫だからっ」宥里は詩音を抱いたまま、そっと言葉をかけた。腕の中の詩音はまだ震えが止まらない。まもなく警察が駆けつけた。太朗はひどく低姿勢に、破れた服と顔の浅い擦り傷を指さしながら、警官に言った。「へへ、お巡りさん。こっちはやられそうになったから、身を守っただけですよ」警官は太朗を一瞥し、それから地面で苦しげにのたうち回り、まともに立ち上がれもしない男たちに目をやると、しばし言葉を失った。これで、身を守っただけだというのか。交番では、宥里が詩音を抱いたまま、警察に事の経緯を説明した。そこへバーのオーナーもバタバタと駆けつけ、化粧室に落ちていた宥里
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第48話

宥里が詩音を連れて交番での聴取を終え、外に出た時にはすでに夜も更けていた。成人したばかりの詩音は、よほど恐ろしかったのか、いまだに恐怖から抜け出せず、宥里にぴったりと寄り添っていた。「見て、さっき助けてくれた人だよ」詩音が前方を指さした。まだ声が震えている。宥里が顔を上げると、すらりとした長身の絢斗が少し離れた場所で電話をしているのが目に入った。何を話しているのかはわからないが、その眉間には険しさが浮かび、近寄りがたい雰囲気をまとっている。黄色みがかった街灯の下、その影は長く長く伸びていた。宥里の視線に気づいたのか、絢斗は電話を切ると、こちらへと歩いてきた。近づいてくる男を見て、宥里は反射的に立ち去ろうとした。だが、彼の手に自分のスマホがあるのに気づき、足を止める。絢斗は宥里の一メートルほど手前で立ち止まった。「お前のスマホだ」「ありがとうございます」宥里は小さく礼を言い、スマホを受け取った。そばにいた詩音が、絢斗を見上げて思わず声を漏らした。「わあ、すごく背が高いんだねー!」絢斗の目つきがすっと冷たくなる。「宥里にはずいぶん丁寧なのに、俺にはずいぶん馴れ馴れしいんだな」詩音は一瞬きょとんとした。彼女にとって宥里は、父を通じて幼い頃から何度も顔を合わせてきた、昔からよく知る大人だった。一方、絢斗とは今日が初対面だ。つい距離感が分からないまま、気軽に声をかけてしまっただけだった。「す、すみませんでした……」詩音が慌てて姿勢を正すと、絢斗はようやく少しだけ表情を緩めた。それにしても、この人はどうしてこんなに怖いのだろう。冷たい顔で、すごく怖い!詩音は思わず宥里の後ろに隠れ、もう絢斗のほうを見ようとしなかった。「この子も困ってるじゃないですか。そんなに怖がらせないでください」宥里は視線を伏せたまま、絢斗の目を見ようとせず、声も冷ややかに突き放すようなものだった。絢斗が鼻で笑うと、一歩前に踏み出した。強烈な威圧感が迫ってくる。「なんだ、俺がさっきお前を助けたこと、忘れたのか?」「ええ、覚えてます。お礼も、もう言いましたよね」宥里の顔には余計な表情ひとつ浮かばず、声にも相変わらず感情の揺れはなかった。絢斗は思わず苦笑した。「ひと言のありがとうで済ますつも
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第49話

太朗は小さく口を尖らせ、腑に落ちない様子だった。宥里さんの連絡先くらい、ボスはとっくに知っているはずでは?先生が渡した離婚協議書には、宥里さんの電話番号もちゃんと書いてあったし。ああ、そうか。離婚届の件は、先生がボスに頼んだことを宥里さんに知られないようにしたいから、ということか。つまりボスは今、自然に宥里さんと連絡先を交換するための、もっともらしい口実が欲しいわけだ。宥里は絢斗のスマホをしばらく見つめてから、結局は自分の電話番号を入力した。そのまま端末を返しながら、言った。「これでいいですか?」絢斗は画面の番号にちらりと目をやると、画面を消した。「ああ、いい」宥里はそれ以上何も言わず、詩音の手を引いてその場を立ち去った。絢斗に別れの挨拶すらしなかった。「あ、宥里さん……」太朗は宥里の迷いのない後ろ姿を見つめながら、思わず舌打ちした。「挨拶のひと言もないのか」絢斗は視線を戻し、車のほうへと歩き出しながら、小さく呟いた。「礼儀がなってないな」……翌朝、香織は病室のベッドで、青白い顔をして目を覚ました。知輝はここで一晩付き添っていたらしく、その端正な顔には疲労の色が濃く滲んでいた。「先生……私のせいで、一晩中眠れませんでしたよね」知輝の瞳には穏やかな色が浮かんでいて、怒っている様子はない。「お前が無事なら、それでいい」彼は香織の体を支えながら起き上がらせ、さりげなく背もたれの角度まで調整してやった。「そういえば、まだちゃんと聞けていなかった。昨日は土曜日だったのに、どうしてあんな遅い時間に実験室へ?」香織の目元がじわじわと赤くなっていく。まるで悪さをした子供のような顔だった。「先生、私……先生が最近ずっと、量子ナビゲーションシステムの部品の件で頭を悩ませておられるのを知っていました。花谷研究所からも、なかなか返事がもらえなくて。私、先生のためにも、会社のためにも、心配で仕方なくて。部品の問題が解決しない限り、会社はずっと相手に命綱を握られたままになってしまう。だから、技術的な課題を少しでも早く解決できるように、自分にできることをしたかったんです」香織は顔を上げ、不安そうな目で知輝を見つめた。「昨日は陽太くんもいなくて、晴子さんもお休みで。一人で暇だったから、実
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第50話

病室の知輝は、洋介との電話を切るなり、すぐさま宥里に電話をかけた。一度目は、コール音が途切れるまで応答がなかった。知輝はスマホの画面を見つめ、もう一度かけ直した。香織はベッドの上で静かに知輝を見つめていた。右手が無意識に、シーツをきゅっと握りしめている。一方、玉山邸では、宥里がちょうど朝食を作っていた。この家に越してきてから、まともにコンロの火を使うのは、今日が初めてだった。これまでは適当にゆで卵を二つ作って済ませるか、出前を頼むかのどちらかだった。だが今日は事情が違う。詩音が昨夜、ここに泊まったのだ。詩音はちょうど身支度を終えて二階から降りてくると、いい匂いに誘われるようにキッチンへとやってきた。「わあ!宥里さん、何作ってるの?めちゃくちゃいい匂い!」詩音が小走りで駆け寄り、コンロを覗き込む。宥里は笑って答えた。「適当に作っているだけよ。ダイニングに座って待っていて。もうすぐできるから」以前あの家にいた頃、知輝と陽太は、宥里が料理をしている間は決してキッチンには入ってこなかった。父子そろって、調理中の油っぽい匂いを嫌がるのだ。詩音は首を振った。「ううん、ここで待ってる。だって、いい匂いすぎるんだもん!」そう言った通り、詩音は本当にその場を離れず、まるで飢えた狼のような目で、今にも鍋に飛びつきそうな勢いで見つめていた。「宥里さん、前は料理できなかったよね!あれ、たしか……」詩音は何年前だったか思い出そうとしたが、うまく思い出せず、そのまま話を続けた。「まあとにかく、何年も前、まだお母さんが生きてた頃。うちに食事に来て、キッチンでお母さんの手伝いをしてくれてたよね。そしたら、危うくうちの台所を燃やしかけたの覚えてる」その「惨事」を思い出したのか、詩音はぶるっと身震いした。「あれ、本当に怖かったんだから」宥里は思わず噴き出した。もちろん、その一件は宥里もよく覚えている。あれはもう八、九年ほど前のことだ。当時の宥里はまだ二十歳にもならず、今の詩音と同じくらいの年頃だった。あの頃は本当に料理ができなくて、しかもキッチンに入るのも初めてで、あたふたしながら大惨事になりかけたのだ。詩音は宥里の穏やかな横顔を見つめ、その手慣れた料理の手つきを眺めながら、真面目な口調で言った。「なん
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