「そうだ。対局前の本人確認の時だけ、帽子とマスクを外したことがあったらしい。それ以外はずっとつけたままだった。当時はまだ規則もそれほど厳しくなくてな。身分確認さえ通れば、対局中の服装については、そこまで厳格な決まりがなかった」正臣はそう説明した。名人戦の開催が目前に迫る中、人を探すために残された時間は、もうあまり多くなかった。「おじいちゃん!」一冊読み終えた陽太が駆け寄ってくる。「おじいちゃん、この本読み終わったよ。褒めて」正臣はこの孫が可愛くて仕方がなく、笑いながら陽太を抱き上げた。「うちの陽太はすごいなあ。もう一人で一冊読み切れるのか」褒められた陽太は、小さな顔をぱっと輝かせた。富美子と彩葉もつられて笑い、その場は和やかな空気に包まれる。正臣は陽太のふっくらとした愛らしい顔をしばらく眺めたあと、ふと娘の彩葉の顔に視線を移すと、笑って言った。「そういえば、陽太は宥里にはあまり似ていないな。むしろ、だんだん彩葉に似てきている気がする」富美子の顔から一瞬だけ笑みが消えかけたが、すぐに言葉を継いだ。「彩葉と知輝は実の兄妹なんだから、甥が叔母に似るのは別におかしなことじゃないでしょう」「そうそう、どっちに似たって赤沢の血筋には変わりないしね」彩葉も鼻の頭を掻きながら相槌を打った。……宥里は午前中ずっと、書斎で原稿と資料の整理をしていた。午後は謙三の療養施設に顔を出すつもりだったが、ここ数日、宥里にあれこれ口うるさく言われてうんざりしたのか、今日は頑として「来るな」の一点張りだった。仕方なく、宥里はそのまま書斎にとどまり、午後も原稿整理に没頭した。おかげで日曜を迎える前に、ここ数年書き溜めてきた原稿をようやくすべて整理し終えることができた。そろそろ出前でも頼もうかと思っていた矢先、一本の電話がかかってきた。名前は表示されなかったが、宥里の記憶力は確かだ。この番号が唯人のものだとすぐにわかる。唯人とは、知輝の身の回りを担当するアシスタントとして、これまでも何度か顔を合わせたことがある。だが知輝は、仕事など家の外でのことに宥里が口を出すのを一切許さなかったため、宥里と唯人の間にはこれといった接点もなかった。顔を合わせるといっても、唯人が知輝の送迎に来た時に、たまたますれ違う程度だった。前
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