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第41話 赤いランプ

 台所の棚を拭いていた紬は、指先に小さな硬いものが触れたのを感じた。 午前十時過ぎ。 その日は遅番で、出勤までまだ少し時間があった。 八重は近所の知人と買い物へ出ている。繁政は居間でテレビを見ていたが、音量を大きくしたまま居眠りしている。岩蔵は朝食と着替えを終え、介護用ベッドで眠っていた。 子どもたちは学校。 卓臣も仕事。 御厨家で、紬が一人で動ける数少ない時間だった。 食器棚の上段へ腕を伸ばし、油を含んだ埃を雑巾で拭う。 棚の端に、黒い小さな箱があった。「……何?」 紬は雑巾を置いた。 親指ほどの大きさ。 艶のない黒い外装に、小さな丸い穴がある。 最初は何かの充電器かと思った。 だが、よく見ると、その丸い部分は台所の中央へ向いている。 調理台。 食卓。 そして、紬が毎晩家計簿をつけている小さな机。 線が一本、棚の裏側へ延びていた。 紬の呼吸が浅くなる。 椅子を静かに動かし、その上へ立った。 機器の正面へ顔を近づける。 端に、小さな赤いランプがあった。 今は消えている。 紬は指を伸ばしかけた。 触れる直前で止める。 いつからあったのだろう。 昨日? 一週間前? もっと前? この棚は毎日拭いているわけではない。手の届くところだけ簡単に掃除し、上段までは数日に一度だった。 黒い箱の向きが、あまりにも不自然だった。 岩蔵の様子を確認するためなら、ここではない。 岩蔵の部屋は廊下の奥だ。 そこから台所は見えない。 紬は椅子から降りた。 胸の中で心臓が強く鳴る。 その音まで、どこかで聞かれているような気がした。 居間からテレビの笑い声が響く。 繁政は起きてこない。 紬は何もなかったように雑巾を取り、棚を拭き終えた。 黒い箱だけは触らなかった。         * 卓臣へ尋ねたのは、その日の夕食後だった。 わざと家族がいる場所で聞いた。「台所の棚にある黒い機械、何?」 卓臣は携帯電話を見ていた。 一瞬だけ指が止まった。「機械?」「棚の上」「ああ」 思い出したように答える。「見守りカメラ」 紬の背筋を冷たいものが通った。「誰の?」「じいさん」 卓臣は岩蔵の部屋を顎で示した。「最近、何するか分かんねえだろ」 紬は卓臣を見た。 岩蔵は一人で台所まで来られない。「で
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第42話 一時間だけの部屋

 部屋の鍵を開けた時、紬は思わず足を止めた。 ホテルではなかった。 狭い室内にあるのは、木目の剥げた机と、形の違う椅子が二脚。壁際には二人掛けの古いソファが置かれ、その前に小さなローテーブルがあるだけだった。 窓には白いブラインド。 天井の蛍光灯は少し暗い。 壁には、利用時間を守ってください、と印刷された案内が貼ってある。「……ここ?」「ああ」 律が扉を閉めた。「嫌だった?」「そうじゃないけど」 紬は室内を見回した。 駅から少し離れた雑居ビルの三階。会議や勉強、短時間の打ち合わせに使えるレンタルルームだと律は説明した。 廊下には同じような部屋がいくつも並び、隣からは若い男女の笑い声が聞こえる。その向こうでは複数人が会議をしているらしく、時折椅子を引く音がした。 二人で入っても、それだけで目立つ場所ではない。 紬はバッグの中の携帯電話を確認した。 卓臣に見られる位置情報では、駅前の商業施設周辺にいることになる。 勤務を終え、買い物をして帰る。 不自然ではない範囲の時間だった。「一時間だけ?」「五十分くらいで出た方がいいと思う」「うん」 律は時計を確認した。 紬はソファへ視線を向けた。 胸の奥が小さくざわつく。 律が、ホテルでも車でもない場所を借りた。 二人きりになれる部屋。 理由は考えなくても分かるような気がした。 自分も、それを嫌だとは思っていない。 むしろ会えなかった時間が長かった分、律へ近づきたいという気持ちは強くなっている。 紬が黙っていると、律は机の上に持っていた紙袋を置いた。「先に食べよう」「……食べる?」「ああ」 袋から出てきたのは、蓋のついた紙容器が二つと、小さなパンが二袋だった。 容器を開ける。 白い湯気と一緒に、野菜とコンソメの匂いが広がった。「スープ?」「駅の店で買った」 人参、玉ねぎ、じゃがいも、小さな鶏肉。 特別高価なものではない。 律は二脚の椅子を机の前へ並べた。 向かい合うようにではなく、少し斜めに。「今日は、座って食べてほしかった」 紬は椅子を見た。 二脚ある。 どちらにも誰かの荷物は置かれていない。 片方は律。 もう片方は、自分。「そのために借りたの?」「それもある」「一時間しかないのに?」「一時間あるから」 律は紙袋から木製の
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第43話 偽物のメッセージ

 湯船へ肩まで沈んだ時、紬はようやく一日の終わりを感じた。 午後十一時十八分。 浴室の曇った鏡には、輪郭のぼやけた自分の顔が映っている。八重に早く入れと急かされ、岩蔵の着替えを済ませ、五人分の明日の予定を確認し、最後に洗濯機を回してから入った。 脱衣所の棚には携帯電話を置いていない。 家の中に小型カメラと録音機があると分かってから、紬は端末を浴室へ持ち込むことをやめた。 今日は寝室の充電器へつないである。 それでも、連絡が来ることはない。 律とは家にいる時間に連絡しない。 何度も決めたことだった。 紬は目を閉じた。 レンタルルームで向かい合って飲んだ温かいスープが浮かぶ。 二脚の椅子。 図書室の窓際。 自分の名前。 思い出しただけで胸の奥が熱くなることに、まだ慣れなかった。         * 寝室では、卓臣が廊下の音を聞いていた。 浴室の扉が閉まる。 少しして、シャワーの音。 卓臣はベッドから立ち上がった。 机の端で充電されている紬の携帯電話を取る。 画面を点ける。 暗証番号。 以前、紬へ無理にロックを解除させた時に指の動きを見ていた。 六桁。 一度で開く。「……やっぱ変えてねえじゃん」 卓臣は小さく呟いた。 通話履歴。 何もない。 メッセージ。 家族と学校、スーパーからの業務連絡だけ。 写真には値札や子どものプリント、家計用のレシート。 検索履歴にも、律へつながるものはなかった。 位置情報も、今日一日はスーパーと駅前の商業施設、御厨家を行き来しているだけだ。 卓臣の眉間に皺が寄る。 何も出ない。 これだけ調べても。 だからこそ、隠しているという確信だけが強くなる。 華怜からは、律の番号をすでに送られていた。 何かあった時のため。 そう言って交換した番号だ。 卓臣は紬の携帯で新規メッセージ画面を開いた。 十一桁の数字を入力する。 宛先の名前は表示されない。 紬は登録していないらしい。 そのことさえ気に入らなかった。 証拠を残さないためだ。 そうとしか思えない。 卓臣は文章を打った。〈今日会いたい。いつものホテルに来て〉 読み返す。 自分なら、女に会いたい時はこれで十分だった。 送信する。 数秒後、画面に送信済みの表示が出る。 卓臣は携帯を握ったまま待った
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第44話 罠の外側

 会わないと決めた翌日から、律の姿は本当に消えた。 スーパーの自動ドアが開いても、黒いスーツは入ってこない。 日用品売場を何度も回る男もいない。 レジへ洗剤一つを持って並ぶ客もいなかった。 紬は商品を通しながら、ときどき無意識に入口へ目を向けた。 そのたび、すぐに視線を戻す。「いらっしゃいませ」 牛乳。 食パン。 豆腐。 洗剤。 バーコードを読み取る電子音が、一定の間隔で続く。 会わない。 連絡もしない。 勤務先で偶然顔を合わせる以外は、近づかない。 二人で決めた。 律が、調査会社のような人間に追われている可能性があると言ったからだった。 華怜と卓臣は互いの携帯電話を使い、偽物の文章まで送り合っている。 位置情報も知られている。 勤務時間も調べられている。 なら、どこかで誰かが見ていてもおかしくない。 そう言われた時、紬は怖くなった。 同時に、少しだけ安心した。 会わない理由ができたからだった。 自分から終わらせるのではない。 危ないから今は会わない。 そう思えば、まだ耐えられた。 けれど、日が過ぎても苦しさは薄れなかった。         * 生活費が三万円になってから、冷蔵庫の中身は目に見えて減った。 肉は以前より薄く切る。 豆腐ともやしで量を増やす。 魚は切り身を半分にする。 八重が八品を要求するため、一皿の量を減らしてでも皿数だけは揃えなければならない。 紬は献立を考えるたび、紙の上へ数字を書いた。 米。 牛乳。 卵。 介護用の紙おむつ。 洗剤。 学校の集金。 どれかを消しても、別の何かが残る。 だから自分を消した。 朝食は食べない。 昼は水か、売場で廃棄になるパンの端があれば少し。 夜は家族が残した味噌汁だけ。 最初の数日は腹が鳴った。 眠る時、胃が痛んだ。 一週間を過ぎる頃には、その痛みにも慣れ始めた。 身体が慣れたのではない。 空腹を無視することに慣れただけだった。「御厨さん」 午後七時過ぎ。 奈津子に呼ばれ、紬は品出し用の段ボールを抱え直した。「今日、閉店後に返品整理もお願い」「今日は九時までの予定ですが」「だから九時から」「明日、六時半からです」「知ってる」 奈津子は何でもない顔をする。「若い子に残業させるわけにいかないでしょう
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第45話 笑っている妻

 写真の中で、紬は笑っていた。 華怜はそれを見つけた瞬間、指先を止めた。 町外れのホテルの一室。遮光カーテンは閉じられ、テーブルの上には調査員から受け取った封筒と、数枚の写真が広げられている。 一枚目。 駅の階段で身体を崩した紬を、律が抱き留めている。 二枚目。 駅員室の前。椅子へ座る紬と、その少し離れた場所に立つ律。 三枚目。 律から温かい飲み物を受け取る紬。 そして四枚目。 帰り際、振り返った紬が律を見上げている。 その口元が、ほんの少しだけ笑っている。「……何、この顔」 華怜は写真を持ち上げた。 紬は化粧をしていない。目の下には疲れが残り、以前より頬もこけている。髪も美容院で整えたようなものではなく、一つに結んだだけ。 華怜なら、人に撮られる時には絶対に選ばない姿だった。 それなのに。 姉は穏やかだった。 幸せそう、という華やかさではない。 肩から力が抜けている。 何かを警戒して目を伏せてもいない。 律へ向けている目が、ただ静かだった。「こんなものじゃ使えない」 卓臣が写真をテーブルへ投げた。 紙の角がグラスへ当たり、小さな音を立てる。「は?」 華怜が顔を上げる。「見ろよ。駅員いるだろ」 卓臣は一枚を指で叩いた。「階段で倒れそうになったから支えた。駅員室で休ませた。飲み物買った。いくらでも言い訳できる」「でも抱いてるじゃん」「一瞬だろ。ホテルに入った写真でも、キスしてる写真でもねえ」 卓臣は舌打ちした。「こんなもん持って裁判だの何だの言っても、向こうに倒れた人を助けただけですって言われたら終わりだ」 華怜は聞いていなかった。 写真の中の律を見ている。 カメラを向けられた写真ではない。 だからだろうか。 律の目も違って見えた。 華怜と撮る写真では、頼めば笑う。肩を寄せれば動かずにいる。腕を絡めても、振りほどかない。 けれど、こんな目はしない。 紬を見る律の顔には、何かを確かめるような静かな緊張がある。 心配。 そう呼べば簡単だった。 だが、華怜にはそれ以上のものに見えた。「律、こんな顔するんだ」「何?」「私といる時、こんな顔しない」「知るかよ」 卓臣は苛立った声を出す。 華怜の胸の中で、熱いものが膨らんだ。 姉が自分より美しいわけではない。 若いわけでもない
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第46話 署名しない朝

 黒いボールペンが、卓臣の指先へ当たって止まった。「辞めません」 紬はもう一度言った。 声は震えていた。 喉の奥が狭く、最後の一音は掠れた。それでも言葉を取り消さなかった。 朝の食卓から音が消えていた。 湯気を立てる味噌汁。焼いた鮭。小鉢に分けた昨夜の煮物。九脚の椅子に座る家族と、車椅子の岩蔵。 箸も止まっている。 八重は口を半分開けたまま紬を見ていた。 怒っているというより、理解できないものを目にした顔だった。「……今、何て言ったんだい」「仕事は辞めません」 紬は退職届から目を離さず答えた。 紙の下には、卓臣が書いた日付がある。 勤務先の名前。 一身上の都合。 あとは自分が署名すれば、紬自身の意思で退職する書類になる。「嫁の分際で」 八重の声が低くなる。「家長が辞めろと言ってるんだよ」 紬の指先が冷たくなった。 家長。 その言葉は、昔から御厨家で何度も使われていた。 卓臣が決める。  八重が認める。  繁政は黙っている。 そこへ紬の意思が入る場所はなかった。「五人も子どもがいる母親が、男に会うために働きたいなんて恥ずかしくないのかい」 八重の声が大きくなる。「スーパーで何をしてるか知らないけどね、外で色気づいて家のことを疎かにするくらいなら、辞めるのが当たり前だろう!」「男に会うために働いているわけではありません」「じゃあ何のためだい!」 答えようとして、紬は止まった。 仕事が好きだから。 そう言えれば簡単だった。 けれど違う。 スーパーでの仕事は苦しい。 足が腫れるまでレジに立つ日もある。休憩を削られ、奈津子には人前で怒鳴られる。冷蔵倉庫へ閉じ込められ、匿名の投書を読み上げられ、ロッカーまで勝手に開けられた。 何度も辞めたいと思った。 制服を見るだけで胃が痛んだ朝もある。 それでも。 給与明細には御厨紬と書かれている。 卓臣の妻ではない。 五人の母でもない。 御厨家の嫁でもない。 働いた人間として、自分の名前が記されている。 来月から一万円だけ、新しい口座へ入る。 まだ一度も振り込まれていない。 それでも、その一万円へ続く道を今ここで閉じることはできなかった。「母さんさ」 凌雅が箸を置いた。「もう辞めれば?」 十七歳の息子は、面倒そうに前髪を掻いた。「学校
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第47話 嫁を遅刻させる家

 目を開けた瞬間、部屋の明るさがおかしいと紬は思った。薄いカーテンの向こうが、もう白んでいる。いつもなら午前四時二十分、窓の外には夜の色が残っているはずだった。枕元へ手を伸ばして目覚まし時計を引き寄せると、液晶は真っ暗で、背面から伸びるコードが床へ垂れていた。コンセントが抜かれている。紬は身体を起こして携帯電話を見る。午前五時二分。起きる予定だった時刻を四十二分も過ぎていた。「……うそ」と漏らしてから、箪笥の裏の録音機を思い出し、唇を閉じた。 布団を跳ね上げると、心臓が一気に速くなった。今日の勤務は午前七時からで、家を出るのは六時十二分が限界だった。その前に十人分の朝食、五人分の弁当、岩蔵の介助、洗濯物の取り込みまで済ませなければならない。目覚まし時計のコードへ手を伸ばした時、昨日の朝のことが蘇った。退職届。卓臣の平手。そして、今日中に店から追い出してやる、という声。紬はコードには触れず、髪をまとめながら廊下へ出た。 階段を下りる途中で、台所から食器の触れ合う音がした。八重はすでに起きており、紬の姿を見るなり眉を吊り上げた。「遅い! 何時だと思ってるんだい。朝飯はどうするの」「すみません。今作ります」「昨日から何度言わせるの。八品だよ。朝からちゃんと八品」 紬は冷蔵庫を開けた。残っている材料で、八品を十人分などとても揃えられない。「今日は時間がないので、味噌汁と鮭と卵と――」「時間がない? あんたが寝坊しただけだろう。家族にしわ寄せする気かい」「寝坊じゃありません。目覚ましの電源が抜けていて」「知らないよ、そんなこと。自分の時計くらい自分で管理しな」 八重は腕を組んだまま、調理台の前から退こうとしなかった。紬はその横を抜けて炊飯器の蓋を開ける。昨夜のうちに予約しておいた米だけは炊けていた。「七時から仕事なんです。六時すぎには家を出ないと」「だから何だい。卓臣の許可もなく仕事へ行くくせに、家のことまで手を抜くのかい?」「辞めるとは言っていません」「まだ言うかね。家長に逆らってまで外へ出たいなんて、よっぽど外にいいことがあるんだろうね」 紬は返事をせず、味噌汁の鍋を火へかけてフライパンへ鮭を並べた。卵は薄く焼いて切り分けるしかない。納豆を小鉢へ分け、漬物、かぼちゃ煮、海苔、冷ややっこを出せば、見た目だけなら八品になる。包丁を握ったところ
last updateآخر تحديث : 2026-08-23
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第48話 夫からの退職連絡

 午前九時を少し過ぎたころ、紬は四番レジの釣り銭を確認していた。昨日の遅刻を取り戻すように、開店前から品出しを手伝い、冷蔵ケースの補充まで済ませている。右頬にはまだ薄い熱が残っていたが、ファンデーションで赤みを隠し、髪もいつも通り一つに結んだ。レジ横の時計を見た時、店内放送ではなく、奈津子本人が早足で近づいてきた。「御厨さん、店長が呼んでる。事務室」 奈津子の声には、いつものような露骨な嘲りがなかった。そのことの方が紬には不気味だった。交代の従業員へレジを任せ、バックヤードへ向かうと、事務室の扉は半分開いている。中では鴨志田が机の上の書類を何度も揃え直し、紬が入ってきたことに気づくと、使っていたボールペンを静かに置いた。「御厨さん、ちょっと座って」「はい」 椅子へ腰を下ろす前に、紬は机の上へ視線を落とした。翌月の勤務表の印刷途中らしい紙が何枚かあり、見慣れた従業員名が縦に並んでいる。その中に、自分の名前がなかった。胸の奥が冷えたが、すぐには口を開かず、鞄を膝へ置いて鴨志田の言葉を待った。「実はね、今朝、ご主人から電話があったんだ。家庭の事情で今月いっぱいで退職することになった、と。御厨さん本人とも話がついているから、勤務の整理を進めてほしいって言われてね」「私は退職すると言っていません」 言葉は考えるより先に出た。鴨志田が瞬きをし、椅子の背から少し身体を起こす。紬は自分の声が震えていないか確かめるように一度息を整え、膝の上で重ねた指をゆっくり離した。「昨日、夫から退職届へ署名するよう強要されました。でも署名していません。退職にも同意していません」「強要って……夫婦で話し合ってたんじゃないの?」「話し合いではありません。夫が書いた退職届を渡されて、署名しろと言われました。私は拒否しました」 鴨志田は椅子の背へ身体を預け、片手で額を押さえた。「ただ、ご主人からは、御厨さんも最終的には納得したと聞いてるんだよ。家庭の事情もかなり大変みたいだし、そこは二人で整理してもらわないと、会社としても……」と続ける声には、すでに紬自身より卓臣の説明を土台に話を進めようとする響きがあった。「私の雇用契約に、卓臣は関係ありません」 事務室の空調音が妙に大きく聞こえた。以前なら、店長が困った顔をすれば、それだけで謝って引き下がっていた。けれど今は、机の上から消
last updateآخر تحديث : 2026-08-24
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第49話 三度目の遅刻

 最初に泥の匂いへ気づいたのは、午前四時二十七分だった。 隠していた目覚ましで起きた紬は、まだ暗い廊下を通って洗面所へ向かい、前夜に回した洗濯機の蓋を開けた。子どもたちのシャツ、八重の肌着、卓臣のワイシャツ、岩蔵のタオルは中にある。それなのに、今日着るはずだったスーパーの制服だけがなかった。 紬は一度、洗濯籠を確かめた。乾燥室にもない。物干し場へ続く勝手口を開けると、湿った朝の空気が頬へ触れた。庭の隅、昨夜の雨でできた水たまりの中に、白いブラウスと濃紺のエプロンが沈んでいた。泥水を吸った布は重く、袖口には靴底で押されたような黒い跡までついている。 胸の奥が冷えたが、紬はすぐには拾わなかった。台所へ戻り、戸棚の奥に隠していた古い端末を持ってくる。通信契約は切れているが、写真には日時が残る。庭全体が分かるように一枚、水たまりへ落ちた制服をもう一枚、壁時計が写る位置からさらに一枚撮った。午前四時三十一分。撮影を終えてからようやく制服を拾い、浴室で泥を流した。「朝から何やってるんだい」 背後で八重の声がした。紬が振り返ると、寝間着の上へカーディガンを羽織った八重が洗面所の入口に立っている。「制服が庭に落ちていました」「自分で落としたんだろう」「昨夜、洗濯機に入れました」「知らないよ。そんなことより朝飯はまだかい」 八重は制服の泥など見えていないような顔で台所へ戻っていった。紬は濡れたブラウスをタオルで挟み、ドライヤーを当てた。完全には乾かない。替えの制服はスーパーのロッカーに一着あるが、そこまで普段着で行けば着替える時間が必要になる。朝食と弁当、岩蔵の介助を終えて家を出た時には、いつもより十八分遅れていた。 駅まで走り、一本遅い電車に乗った。スーパーへ着いたのは始業六分後だった。奈津子はタイムカードの前で待っていた。「また?」「申し訳ありません」「この前も遅刻したばかりでしょう」「はい」「家庭の事情は仕事には関係ないからね」 紬は頭を下げた。泥のことは言わなかった。今ここで話せば、また家庭の恥を持ち込むなと言われるのが分かっていたからだった。ただ休憩に入った時、手帳へ午前四時三十一分に制服を庭の泥水から発見し、午前六時十八分に自宅を出て、午前六時五十一分に駅へ着き、午前七時六分に打刻したと書いた。数字にすると、朝の混乱が少しだけ自分から離
last updateآخر تحديث : 2026-08-25
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第50話 書かされた始末書

 午後四時を過ぎたころ、四番レジの精算機が普段とは違う警告音を鳴らした。紬はちょうど別の客へ釣り銭を渡しており、音の方を振り返る余裕もなかったが、サービスカウンターから奈津子が足早に近づいてくるのが視界の端に入った。閉店まではまだ何時間もあり、夕方の買い物客が増え始めている。買い物籠の車輪が床を擦る音と、レジの電子音が重なる中で、奈津子だけが紬へまっすぐ向かってきた。「御厨さん。ちょっと手を止めて」「今、お客様が」「交代するから。すぐ来て」 奈津子の声が必要以上に大きく、会計を待っていた客まで顔を上げた。紬は目の前の女性へ謝ってから、交代に入ったパート従業員へレジを譲った。奈津子はその場から離れようとせず、周囲へ聞こえる声で「一万円も合わないなんて普通じゃないでしょう」と言ったため、近くにいた客たちの視線が一斉に紬へ集まった。「一万円?」「あなたのレジ。精算で一万円足りないの」「私の?」「さっきまで入ってたでしょう」 紬は反射的に今日の勤務を頭の中でたどった。午前から四番レジに入っていたが、午後二時から二時四十分までは休憩だった。その間は別の従業員が交代に入っている。戻ってからも何度か返品処理でレジを離れており、一日中一人で操作していたわけではない。「不足が出たのは何時ですか」「そんなことより、一万円よ。一万円」「時間が分からないと、誰がレジを使っていたか確認できません」「まず謝るのが先でしょう」 奈津子は紬を連れたまま事務室へ向かった。通路ですれ違う従業員たちが紬を見ている。前日に破られた始末書のことも、三度の遅刻も、職場内ではすでに噂になっているのだろう。今度は金銭不足まで重なれば、奈津子が何も説明しなくても「また御厨さん」と思われる。紬は喉の奥へ上がった謝罪の言葉をいったん飲み込み、制服のポケットへ手を入れた。古い端末ではなく、今日は普段使いの携帯電話を録音できる状態にしてある。画面を見ず、指先だけで録音を開始した。 事務室では鴨志田が精算表を広げて待っていた。机の中央に赤字で一万円不足と書かれ、その横へ四番レジの番号が記されている。奈津子は紬が座る前から、「最近こういうことばかりですよね。遅刻の次は現金ですか」と言い、鴨志田へ同意を求めるように顔を向けた。「織部さん、まだ抜いたと決まったわけじゃ」「でも御厨さんのレジですよ
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