جميع فصول : الفصل -الفصل 30

38 فصول

第21話 十七分の逃避

 休憩室の壁掛け時計は、午後三時四十三分を指していた。 秒針が白い文字盤を擦るたび、乾いた音が狭い部屋へ落ちる。テーブルの上には、誰かが飲み残した紙コップと、裏返しに置かれた弁当の蓋。電子レンジの中には、朝、紬が詰めてきた小さな保存容器が残っていた。温める時間さえ惜しくて、そのまま持ち上げると、底は冷蔵庫の冷気をまだ抱えていた。「御厨さん」 背後から呼ばれ、紬の指が止まった。 織部奈津子は休憩室の入口に立ち、胸の前で腕を組んでいた。制服の襟元は乱れておらず、口紅も朝と変わらず赤い。売場では忙しさを理由に眉を寄せていたのに、紬を見る時だけ、その顔には妙な余裕が戻る。「四番レジ、夕方から一人欠けるから。今日、二時間残って」 命令は、天気の話でもするような平坦さだった。 紬は保存容器を持ったまま、時計へ目をやった。もともと三十分あるはずだった休憩は、午前の品出し応援と苦情対応で削られ、残っているのは二十分だけだった。「今日は、少し……」 言いかけると、奈津子の眉がわずかに上がった。「何?」 声は低くない。それなのに、紬の喉は閉じた。 昨夜、湊人が熱を出した。今朝には下がっていたが、学校から連絡が来るかもしれない。岩蔵の紙おむつも残り少ない。夕食の下ごしらえもしていない。けれど、それらを並べたところで、奈津子は事情と呼ばないだろう。言い訳と呼び替え、周囲へ聞こえる声で繰り返す。「……分かりました」「助かる。御厨さんなら断らないと思ってた」 奈津子は笑った。感謝ではなく、予想が当たった者の笑みだった。 革靴の音が遠ざかる。休憩室の扉が閉まると、冷蔵庫の作動音だけが残った。 紬は容器の蓋を開けた。昨夜の残りの煮物は、脂が白く固まっていた。箸で一つだけ口へ運ぶ。冷えた大根は味が濃く、噛むたび舌の傷へ塩気が触れた。 唇の端にも、薄く裂けた痕がある。 舌先がそこへ触れると、昨夜の暗い寝室が戻ってきた。 嫌だと言った。 疲れているからと頼んだ。 卓臣は笑って、妻が夫を拒むのかと言った。そのあとのことを思い出そうとすると、天井の染みだけがひどく鮮明になった。押し殺した呼吸。布団の擦れる音。隣の部屋で誰かが寝返りを打った気配。唇が切れたのは、顔を背けた時だった。 紬は箸を置いた。 これ以上食べると、吐きそうだった。 休憩室を出て、従業員用の
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第22話 消せない履歴

 律の番号は、十一桁の数字のまま消えた。 紬は休憩室の隅で携帯電話を握り、通話履歴の削除を確定するボタンへ親指を置いた。画面には、昨夜から今朝にかけて交わした短い着信が三件だけ並んでいた。名前は登録していない。それでも、その数字を見れば誰なのか分かる。 消去しますか。 白い文字が、紬の返事を待っていた。 冷蔵庫の作動音と、壁掛け時計の秒針だけが響いている。隣のロッカーでは、誰かが脱いだエプロンの裾が扉からはみ出していた。店内から聞こえる呼び込みの声は遠く、ここだけが取り残されているようだった。 紬は親指を下ろした。 数字が一瞬で消える。 何もなかったような画面を見つめたまま、胸の内側に薄い痛みが残った。 律とは、昨夜のうちに決めた。 番号は登録しない。家にいる時間帯は連絡しない。文章の中では互いの名前を書かない。写真は撮らない。位置情報も送らない。会った場所を予定表へ残さない。 決めたのは、関係を続けるためではない。 終わらせるまで、誰にも知られないためだった。 紬は携帯を伏せ、膝の上へ両手を重ねた。首元の赤みは、今朝には薄くなっていた。ファンデーションを重ね、制服の襟を少し高く留めている。昨日、奈津子がそこへ向けた視線を思い出すと、背中が冷たくなった。 秘密は、隠した瞬間から形を持つ。 何もない場所へ、誰にも見えない箱を置くようなものだった。ぶつからないよう気をつけるほど、そこにあることを自分だけが思い知らされる。 休憩が終わり、紬は四番レジへ戻った。 バーコードを読み取る電子音が一定の間隔で続く。牛乳、豆腐、食パン、猫砂、缶コーヒー。籠から商品を取り出し、傷みを見つけ、重いものを下へ、柔らかいものを上へ置く。「いらっしゃいませ」 声はいつも通り出た。 けれど、自動ドアが開くたび、目だけがそちらへ向いた。 制服姿の学生。杖をついた老婦人。子どもの手を引く母親。作業着の男。誰が入ってきても、紬は一度だけ顔を上げる。 律ではないと分かるたび、安堵と落胆が同時に残った。 来てはいけない。 会わない方がいい。 そう思いながら、来ないことに傷ついている自分がいた。「御厨さん」 奈津子の声で、紬ははっとした。「はい」「さっきから入口ばかり見てるけど。知り合いでも来るの?」 奈津子は隣のレジとの間に立ち、紬の顔を覗き込ん
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第23話 弁当を食べる人

 午前四時二十分、台所の蛍光灯が白く鳴った。 紬は冷蔵庫の扉を細く開け、眠っている家の気配を背中で探った。廊下の向こうでは岩蔵の介護用ベッドがかすかに軋み、二階からは誰かの寝返りが天井を伝ってくる。隣の居間では、昨夜遅くに帰った卓臣がテレビをつけたまま眠っていた。音量を絞られた画面だけが、暗がりへ青い光を投げている。 冷蔵庫に残っていたのは、鮭の切り身が六つ、卵が八個、茹でておいたほうれん草、昨夜のきんぴらだった。 紬は鮭を一枚ずつ数えた。 凌雅、茉白、颯真、結莉、湊人。 五人分を取り出してから、指を止める。 最下段の奥に、端が少し崩れた小さな切り身が一つ残っていた。八重なら、見栄えが悪いと皿を押し返すだろう。卓臣なら、貧乏くさいと箸をつけない。だから自分の朝食にするつもりで、昨日安売りのパックから取り分けておいたものだった。 紬はその一切れを、五枚とは別の皿へ載せた。 昨日、川沿いで律が言った言葉が、まだ耳の奥に残っている。 紬が作ったものを食べてみたい。 冗談だと思った。 誰かに食べさせる料理は、紬にとって毎日の義務だった。米を研ぎ、栄養を考え、好みを覚えても、食卓で返るのは不足への不満ばかりだった。 卵焼きが甘い。  鮭が固い。  野菜が多い。  弁当箱がださい。  友達に見られたくない。 五つ並べて持たせた弁当が、夕方にはほとんど手つかずのまま戻ってくることもある。夏場に鞄の底で温まり、蓋を開けた瞬間に酸っぱい匂いがした。紬は誰にも見つからないよう中身を捨て、容器を洗う。そのたび、食べ物を粗末にした罪まで自分の胸へ残った。 それでも翌朝には、また五つ作る。 作らなければ母親失格だと言われ、作ればまずいと笑われる。 律は、本当に食べるつもりなのだろうか。 紬は小さな弁当箱を戸棚の奥から取り出した。以前、湊人が遠足で使っていたものだ。青い蓋には小さな擦り傷があり、角に貼られていた動物のシールは半分剥がれている。 これではみすぼらしい。 ほかにあるのは十人分の大きな保存容器だけで、新しい弁当箱を買う余裕もなかった。 紬は青い蓋を布巾で丁寧に拭いた。 フライパンへ薄く油を引き、鮭を並べる。じゅう、と小さな音が立った。換気扇は回さない。音で八重が起きれば、なぜ六枚焼くのかと聞かれる。 卵を割る時も、五人分とは別に一個
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第24話 妻の給料

 給料日の朝だけ、卓臣は紬より早く起きた。 午前六時十二分。台所では味噌汁が煮え、五つの弁当箱が調理台に並んでいる。焼いた鯖の匂いと、炊きたての米の湯気が狭い室内へこもっていた。 紬が卵焼きを切り分けていると、背後で椅子を引く音がした。「通帳。」 振り返ると、卓臣が寝癖も直さないまま手を出していた。昨夜は午前一時を過ぎて帰宅したはずなのに、目だけは冴えている。「まだ、朝ごはんが」「先に出せ。今日だろ、給料日」 紬は包丁を置いた。 流し台の下に置いた古い布袋から通帳を取り出す。自分名義のものなのに、手渡す時には借り物を返すような気持ちになった。 卓臣は表紙を開き、スマートフォンを操作した。残高照会の数字を見て、鼻で小さく笑う。「今月も同じくらいか」「残業が少なかったから」「言い訳はいい」 十七万八千四百二十円。 画面に表示された金額は、数秒後には別の口座へ送金された。卓臣の指が軽く動くだけで、紬が一か月立ち続けて得た金が消える。 朝九時から夕方六時まで。欠員が出れば残業し、苦情があれば頭を下げ、奈津子の機嫌次第で休憩も削られる。その時間の重さは、通帳には数字でしか残らない。 給与明細には、御厨紬と印字されている。店で客に罵られた時も、品出しで腰を痛めた時も、その名前で働いた。けれど振り込まれた瞬間から、金だけが卓臣のものになる。自分の名が書かれた紙と、自分には触れられない残高。その二つを並べるたび、紬は名前だけを借りられているような気がした。 卓臣は通帳を閉じると、財布から一万円札を五枚抜いた。「今月分」 テーブルへ置かれた紙幣は、味噌汁の湯気でわずかに揺れた。「五万円……?」「毎月そうだろ」「でも、今月は凌雅の部活動費が一万八千円で、茉白の制服の夏用スカートも買い替えないといけなくて」「だから?」「それだけで三万円近くなるから、食費と日用品が」 卓臣は面倒そうに椅子へ背を預けた。「お前が食費を削れば済むだろ」「もう削ってるの。お肉も魚も、値引きの時間に」「じゃあ、お前の分を減らせばいい」 声には怒りさえなかった。 当然のことを教えているだけという顔だった。「十人分で五万円は、どうしても」「足りない足りないって、金の使い方が下手なんだよ。母さんも言ってたぞ。昔はもっと少ない金でやってたって」 八重は食卓
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第25話 冷え切った身体

「男ができると、仕事まで雑になるのね」 奈津子は、紬にだけ聞こえる声でそう言った。 午後八時を過ぎた売場には、閉店前特有の疲れた空気が漂っていた。総菜売場では値引きシールを貼る音が続き、レジ周辺には消毒液と濡れた段ボールの匂いが混じっている。客足が途切れるたび、紬は籠を拭き、釣り銭を数え、返却された商品を棚へ戻した。「……何のことでしょうか」 声を抑えて尋ねると、奈津子は口元だけで笑った。「とぼけなくてもいいの。昨日だって、その前だって、入口ばかり見てたでしょう。休憩時間にどこかへ消えるし、首にあんなものまでつけて帰ってくるし」 紬の手が止まった。 レジ脇に積んだ袋の端が、指先で小さく鳴る。「みんな見てるわよ。御厨さん、外に男がいるんじゃないかって」 誰が言ったのかとは聞けなかった。聞けば、本当に噂があると認めることになる気がした。 昨日までと違うのは、奈津子がもう隠そうともしないことだった。早出、削られる休憩、他人が断った返品処理。紬が何か言おうとすれば、「私生活を職場へ持ち込まないで」と先に塞がれる。 律と会っているのは事実だった。その後ろめたさが、仕事で何をされても耐えなければならないような錯覚を生んだ。「御厨さん、閉店後に冷蔵倉庫の在庫確認お願い」 奈津子は伝票の束を差し出した。「一人で、ですか?」「何か問題ある?」「いつもは二人で」「今日は人が足りないの。男と会う時間はあるのに、仕事はできないなんて言わないわよね?」 最後の一言は、少し離れた場所にいたパート従業員にも届いたらしい。女性が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。 紬は伝票を受け取った。「分かりました」「そう。最初から素直に言えばいいのよ」 閉店の音楽が流れたのは午後九時だった。 客がいなくなり、自動ドアの電源が落とされる。シャッターが降りる金属音の向こうで、外の世界が切り離されていく。 紬は厚手の作業用上着を羽織り、クリップボードを持ってバックヤードへ向かった。 冷蔵倉庫の扉を開けた瞬間、白い冷気が頬へぶつかる。 外の蒸し暑さで汗ばんでいた肌が、一息で縮んだ。 棚には乳製品、加工肉、惣菜材料がケースごと並んでいる。天井のファンが低く唸り、冷気を絶え間なく押し下ろしていた。 紬は伝票へ商品名と数を書き込む。 牛乳十二ケース。  ヨーグ
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第26話 指輪を外す時間

 午前一時を過ぎても、紬は眠れなかった。 ホテルのカーテンは厚く閉じられ、外の光をほとんど通さない。枕元の小さな照明だけが、白いシーツの皺を淡く照らしていた。空調は低い音を立て、浴室から持ち込んだ湿った温気がまだ部屋の隅に残っている。 風呂で温めた身体は、もう震えていなかった。 それでも紬は毛布を胸元まで引き上げ、ベッドの端へ背を預けていた。 律は少し離れた椅子に座っている。シャツの袖を折り、ネクタイを外したまま、テーブルに置いた紙コップの湯気を見ていた。 触れてほしいと紬が言えば、近づく。  何も言わなければ、距離を置く。 その当たり前のことが、今夜の紬にはまだ慣れなかった。 左手を毛布の外へ出す。 薬指に、細い銀色の輪がある。 長いあいだ見慣れてきたはずなのに、ホテルの灯りの下ではひどく異物めいて見えた。 紬は親指で指輪の縁をなぞった。「どうした」 律が気づいた。「これ」 指を少し持ち上げる。 律の視線が紬の薬指へ落ちた。「結婚指輪」「ああ」「外したこと、ないの」 律は何も言わなかった。 紬は指輪を回そうとした。 皮膚へ食い込んで、簡単には動かない。結婚した頃より指の関節がわずかに太くなったのか、それとも最初から合っていなかったのか。指輪の下には、日焼けもせず、洗剤にも晒されなかった細い皮膚が隠れている。「もらった時から、少しきつかった」 紬は呟いた。 記憶の中の宝飾店は明るかった。 卓臣は仕事があると言って来なかった。八重と静江が同行し、式場の担当者が用意した見本から選ばされた。『これでいいでしょう。どうせ毎日つけるものなんだから』 八重がそう言った。 紬が試着して、「少しきついかもしれません」と口にすると、静江はため息をついた。『華怜の体調がまた悪くなったのに、あんたは指輪のサイズくらいで時間を取らせるの?』 その言葉で、紬は黙った。 卓臣が受け取った指輪を紬の指へはめたのは、結婚式当日だった。愛しているとも、似合うとも言わなかった。カメラの前で、指輪交換の順番だから入れただけだった。 少し痛かった。 でも、妻になれば、それくらい我慢するものだと思った。「愛情の証じゃなかった」 紬の声が落ちた。 律は椅子から立ち上がらない。「式で必要だったから買っただけ。サイズも、直してもらえなか
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第27話 母からの請求書

 着信音が鳴ったのは、夕食の味噌汁へ豆腐を入れた時だった。 鍋の表面が小さく揺れ、白い角が湯気の向こうへ沈んでいく。紬は濡れた指をエプロンで拭い、調理台の端へ置いていた携帯電話を見た。 画面に表示された名前だけで、肩がこわばった。 久世静江。 実母から電話がかかってくることは珍しくない。 だが、静江が紬へ連絡する時は、たいてい何かを頼む時だった。 華怜が欲しい物がある。  華怜の体調が悪い。  華怜を怒らせた。  華怜の代わりに何かをしてほしい。 紬自身の調子を尋ねられた記憶は、すぐには思い出せなかった。 居間から八重の声が飛んでくる。「味噌汁、まだなのかい!」「今できます」 紬は返事をし、着信を切った。 すぐにもう一度鳴る。 今度は切れる前に、メッセージが届いた。 ――電話に出なさい。 短い文字が、命令そのものだった。 紬は鍋の火を弱めた。 呼吸を一つ整えてから、通話ボタンを押す。「もしもし」『遅い!』 耳へ当てた瞬間、静江の声が刺さった。 紬は反射的に携帯を少し離した。『母親から電話してるのに、何をしてたの』「夕飯の支度をしてて」『そんなもの、あとでいいでしょう。華怜のことなんだから』 やはり、と思った。 紬は空いている手で鍋の蓋を少しずらした。味噌の匂いが立ち、目の前にある日常へ意識を戻そうとする。「華怜がどうかしたの?」『あんた、何も聞いてないの?』「何を?」『律さんと揉めたのよ』 胸の奥が小さく縮んだ。 紬は流し台を見た。 そこには十人分の茶碗が並んでいる。一つずつ洗って乾かし、今夜また使うために伏せておいたものだった。『最近、律さんの態度がおかしいんですって。冷たいし、華怜が不安になって聞いてもまともに取り合わない。携帯だって壊れたままなのよ』 紬の指先から血の気が引いた。 あの夜のことだ。 華怜が律の携帯を壁へ投げた。 それを知っているのは律と華怜だけのはずだった。「それで?」『それでじゃないでしょう! 華怜がどれだけ傷ついてると思ってるの。昨日なんか、ほとんど眠れなかったのよ』 静江の声が高くなる。『昔からあの子は身体も心も繊細なの。あんたみたいに何を言われても平気な子とは違うんだから』 何を言われても平気。 紬は唇を閉じた。 幼い頃から聞いてきた言葉だ
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第28話 子どもに見つかった笑顔

 味噌汁の鍋から、細い湯気が立っていた。 夕方六時を少し回った台所は、八月の熱気と火を使う暑さが重なり、窓を開けていても空気が重い。換気扇が低く唸り、フライパンでは人数分に薄く切り分けた豚肉が、玉ねぎと一緒に音を立てていた。 紬は木べらを動かしながら、エプロンのポケットが震えたことに気づいた。 一度だけ。 短い振動だった。 八重は居間でテレビを見ている。繁政は風呂へ入り、凌雅と颯真は二階。結莉は宿題を広げたまま居間の床で寝転んでいる。 卓臣はまだ帰っていなかった。 紬は火を弱め、流し台の陰へ半歩移動した。 携帯電話を取り出す。 番号だけが表示されていた。 登録していなくても、もう覚えている。 律。 文章は一行だけだった。 ――弁当、おいしかった。ありがとう。 それだけ。 名前もない。 いつ食べた、どこで会ったとも書かれていない。 二人で決めた通り、誰かに画面を見られても意味が分からない文章だった。 紬はその文字を見つめた。 青い小さな弁当箱。 空になるまで食べてくれた白米。 最後の一粒を箸先ですくった律の手。 自分の作ったものが誰かの口へ入り、捨てられずに消えていく光景を思い出した途端、胸の奥に小さな温かさが灯った。 唇が緩む。 自分では気づかなかった。「何それ」 背後から声がした。 紬の肩が跳ねた。 振り返る。 台所の入口に茉白が立っていた。 学校の制服からTシャツと短パンへ着替え、長い髪を高い位置で結んでいる。片手には空になったグラス。冷蔵庫へ麦茶を取りに来たらしい。 十五歳の娘の視線は、紬の顔ではなく携帯電話へ向いていた。「何が?」 紬は反射的に画面を伏せた。 その動作がまずかった。 茉白の眉が寄る。「今、笑ってたじゃん」「……そう?」「笑ってた」 紬は返す言葉を探した。 普段、家で自分がどんな顔をしているのか考えたことがなかった。 朝は時間を確認する。 食卓では家族の皿を見る。 八重が口を開けば機嫌を読む。 卓臣が帰れば、靴の脱ぎ方や鞄を置く音から酔っているかどうかを判断する。 笑う必要のある場所が、どこにもなかった。「ちょっと、知り合いから」「誰?」「仕事の人」 口にしてから、喉が乾いた。 完全な嘘だった。「仕事の人から連絡来ただけで、そんな顔する?」
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第29話 同じ香りの夜

 午前零時を過ぎてから、玄関の鍵が回った。 紬は台所の流しに立ったまま、手を止めた。 家の中はすでに静かだった。岩蔵の部屋から、ときおり寝息とも呻き声ともつかない音が聞こえる。二階では子どもたちが眠り、八重と繁政の部屋も灯りが消えている。 紬だけが起きていた。 明日の弁当用に米を研ぎ、洗濯機が止まるのを待っていた。割れた携帯電話は応急処置として透明な保護フィルムを貼り、調理台の端に伏せてある。 昨日、卓臣に投げられたものだった。 玄関から革靴の音が近づく。「まだ起きてたのか」 卓臣が台所へ顔を出した。「洗濯が終わってないので」「ふうん」 酔っている。 目元が少し赤い。 紬は濡れた手を布巾で拭き、卓臣が脱いだ上着を受け取ろうとした。 その瞬間だった。 甘い香りがした。 花の匂い。 夜気や酒、煙草の匂いに混じりながら、それでも分かるほど濃く残っている。 金木犀。 紬の指が止まった。 よく知っている香りだった。 華怜が何年も好んで使っている香水だ。 母の静江が、「華怜には甘い香りが似合う」と誕生日に贈って以来、妹は似た系統の香水を買い続けていた。 実家へ行けば玄関にも残る。 電話越しに華怜の話を聞くだけでも、紬にはあの香りが思い出せるほどだった。 卓臣は気づかず、上着を紬の手へ押しつけた。「これ、明日クリーニング出しとけ」「……はい」 襟元に目がいく。 濃い赤とも、くすんだ薔薇色とも見える小さな汚れ。 口紅だった。 華怜がよく使う色と同じだった。 偶然かもしれない。 香水だって、同じものを使う女性はいる。 けれど、旅館の精算票を見たあとでは、偶然という言葉の方が不自然だった。 紬は何も言わなかった。 上着を椅子の背へ掛ける。「洗わないのか?」「クリーニングに出すんでしょう」「シャツ」 卓臣が顎で示す。 白いシャツの胸元にも、薄く同じ色がついていた。「明日でいいです」 紬は再び流しへ向かった。 米を研ぐ。 一度白く濁った水を捨て、新しい水を入れる。 背後で、卓臣が動かなくなった。「おい」「何ですか」「それだけ?」 紬は手を止めた。「何がですか」「見ただろ」 卓臣が自分の胸元を指で擦った。 赤い色が、指先へ薄く移る。 自分から見せるような仕草だった。「見ました」
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第30話 四人の食卓

 静江から電話が来たのは、土曜の朝だった。「今日、お父さんの誕生日だから。夕方六時には来なさい」 祝ってほしい、ではなかった。  来られるか、とも聞かれなかった。 紬は洗濯物を畳む手を止め、耳元の携帯電話を持ち直した。「今日?」「そうよ。華怜たちも呼んであるから。久しぶりに家族で食事にしましょう」 家族。 その言葉に、紬は視線を落とした。膝の上には凌雅のシャツが広がっている。襟には落ちきらなかった皮脂汚れが残り、あとでもう一度手洗いしようと思っていた。「料理は?」「何言ってるの。あんたが作るに決まってるでしょう」 静江の声に呆れが混じった。「お父さん、煮物が好きでしょう。刺身も買ってきて。華怜は最近疲れてるから、台所には立たせないでよ」「でも、こっちの夕飯もあるから」「御厨さんのお義母さんに事情を話せばいいじゃない。実の父親の誕生日よ」 紬は返事をしなかった。 八重が快く送り出す姿は想像できない。「それと、六人分だから」「分かった」「料理は多めにね。華怜、最近食欲が戻ってきたみたいだから」 電話はそこで切れた。 紬は暗くなった画面を見つめた。 静江は料理の量には紬を数える。 けれど、食べる人間として数えているのかどうかは分からなかった。 午後四時過ぎ、紬は久世家の台所に立っていた。 実家へ来たのに、懐かしさはなかった。 まな板の位置も、鍋の置き場所も、戸棚の中の皿の並びも知っている。子どもの頃から何度も使った台所だった。けれど、自分の家という感覚はとうに失われていた。 鍋では筑前煮が湯気を立て、魚焼き器には鯛の切り身が並んでいる。父の隆が好きだった出汁巻き卵も焼いた。刺身は来る途中で安い店を二軒回って買い、菊の葉を敷いて大皿へ盛り直した。 静江は居間から一度も立たなかった。「紬、醤油差しが汚れてる」「あとで拭く」「あとじゃなくて今やればいいでしょう」「煮物見てるから」「言い訳しないの」 紬は布巾を取った。 昔と同じだった。 指示を受けるたび、身体が先に動く。 午後五時四十分、卓臣が来た。 薄いグレーのジャケットに、外向けの柔らかな笑顔をまとっている。「お義父さん、おめでとうございます」「わざわざ悪いな」 隆が照れたように笑う。「いえいえ。家族ですから」 卓臣は手土産の焼酎を差し出
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