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第51話 声を残す女

 休憩室で一人、冷めた茶を飲んでいると、向かいの椅子が静かに引かれた。 紬は反射的に顔を上げた。サービスカウンターで働く村瀬佐和が、周囲を一度見回してから腰を下ろすところだった。五十四歳。奈津子よりもこの店で働いている期間は長いが、正社員ではないため役職はついていない。返品や商品券、宅配便、迷子の対応まで何でもこなし、客から理不尽に怒鳴られてもほとんど声を荒らげない女性だった。「御厨さん、今、少しいい?」「はい」 佐和の声は小さかった。 午後二時過ぎの休憩室には、冷蔵庫の作動音と売場から流れてくる音楽が微かに届いている。紬の前には昼食代わりの小さなパンと水筒があった。生活費を削られて以来、食べる量はまだ元へ戻っていない。それでも駅で倒れかけた日から、少なくとも勤務中に何も口へ入れないことだけはやめようとしていた。 佐和は紙コップのコーヒーを机へ置いたが、飲まなかった。「この前の一万円のこと、聞いた」 紬の指が止まる。「……そうですか」「私はその日、サービスカウンターにいたから。織部さんがみんなの前であなたを連れていったのも見てたし、そのあと四番レジに不足はなかったっていう話も聞いた」 紬は何と返していいか分からず、水筒の蓋を指でなぞった。「でも、誰も訂正してくれませんでした」「でしょうね」 佐和は驚かなかった。「織部さん、そういう人だから」 その言葉に、紬は顔を上げた。 奈津子の悪口を職場で堂々と口にする人はほとんどいない。陰では不満を言っていても、本人の前では従う。それがこの店では普通になっていた。「今までにもいたのよ」 佐和は続けた。「目をつけられた人。新人だったり、家庭の事情で急に休まなきゃならない人だったり、あまり言い返さない人だったりね。最初はシフトを変えられるの。次に、ちょっとしたミスをみんなの前で大きく言われる。そのうち、周りまでその人に問題があると思い始める」 紬は、自分の勤務表が赤いペンで何度も書き換えられたことを思い出した。早朝の翌日に閉店作業。休憩時間も毎日違う。夫から連絡があったことを、奈津子自身が口を滑らせた。「今まで、みんな辞めていったの」 佐和は机へ落とした視線を上げた。「証拠を残す前にね」 胸の奥が、ゆっくり冷えた。「証拠……」「勤務表、毎回写真に撮ってる?」「変更された後のもの
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第52話 退職祝いの食卓

 玄関を開けた瞬間、家の中から拍手が聞こえた。午後十一時を回っているのに、居間の照明はすべてつき、五人の子どもまで食卓の周りに残っている。凌雅は椅子へ深く座り、茉白と颯真は携帯を手元に置き、結莉は眠そうに目をこすっていた。湊人だけが何が始まるのか分からない顔で八重の隣に座っている。紬は靴を脱ぎながら、朝から胸の底に残っていた疲労とは別の重さを感じた。「やっと帰ってきたよ。主役がこんな時間まで外をうろついてちゃ、祝いも始められないじゃないか」 八重の声に促されて居間へ入ると、食卓には赤飯と酒が並んでいた。鯛の塩焼き、筑前煮、出汁巻き卵、酢の物、ほうれん草の白和え、茶碗蒸し、吸い物まであり、どれも紬自身がその朝に下ごしらえをしたものだった。八重から「今夜はめでたいから、普段よりちゃんとしたものを作りな」と命じられ、理由を尋ねても「いいから言われた通りにしな」としか返されなかった。鯛には飾り包丁を入れ、赤飯の小豆は前夜から水につけ、茶碗蒸しの出汁まで出勤前に取った。自分が何を祝うための料理を作っていたのか、紬は今になって理解した。「座れよ、母さん」 凌雅が言ったが、空いている椅子はなかった。いつもと同じ九脚の椅子に、八重、繁政、卓臣、五人の子ども、車椅子の岩蔵が位置を取っている。紬の席だけは、祝いの夜にも増えていなかった。律が実家で一脚の椅子を運んでくれた日のことが脳裏へ浮かび、紬は無意識に食卓から半歩離れた。「何のお祝いですか」 聞くまでもないと思いながら尋ねると、卓臣が酒の入った杯を持ち上げた。昨日スーパーへ現れ、紬の署名を真似た退職届を出した男は、家族の前ではすっかり機嫌を直しているように見えた。「母さんからも話があっただろ。紬は今月いっぱいでスーパーを辞める」「辞めません」「最後まで聞けよ」 卓臣は声を荒らげず、むしろ子どもたちへ説明する父親のように笑った。「来月から母さんは家にいて、家事とじいさんの介護に専念する。最近は仕事が忙しくて弁当も手抜きだったし、朝もバタバタしてただろ。これで家のこともちゃんとできるようになる」「マジ? じゃあ弁当もうちょい豪華になる?」 凌雅が最初に反応した。「肉増やしてよ。冷食とかじゃなくてさ」「よかったじゃん」 茉白は箸で赤飯を少し崩しながら言った。「お母さんが職場行かなかったら、変な男と会ってる
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第53話 私名義の一万円

 給料日の朝、紬はいつもより一本早い電車を降りた。駅前はまだ通勤客が増えきる前で、コンビニの搬入車が歩道脇に停まり、湿った夏の空気に排気ガスと焼きたてのパンの匂いが混じっている。スーパーへ向かう道を途中で曲がり、銀行のATMコーナーへ入ると、冷房の冷たい風が汗ばんだ首筋へ触れた。利用者は誰もおらず、機械の待機音だけが静かに響いていた。 紬は財布ではなく、制服の内側に隠してきた小さな紙を取り出した。新しく作った口座の番号と、暗証番号を忘れないため自分にしか分からない形で書いた控えだった。通帳は作らなかった。郵便物も届かないようにしてある。卓臣が毎月確認する給与口座とは別に、勤務先へ一万円だけ振り分けてもらうよう手続きをした、紬自身の口座だった。 画面へ番号を入力し、残高照会を押す。 数字が表示されるまでの数秒が、ひどく長く感じられた。 残高、一〇、〇〇〇円。 紬は瞬きをした。 もう一度、画面を見る。 一万円。 桁を間違えていない。千円でもなく、十万円でもない。自分が希望した通りの一万円が、そこにあった。十七万八千円前後の給与のうち、わずかな一部。それでも、その金は卓臣の管理する口座へ入っていない。 紬は画面へ指を触れそうになり、手を止めた。 引き出さない。 現金にすれば、家へ持ち帰ることになる。財布に入れれば八重に見つかる。服へ縫い込むにも限界がある。千円札一枚なら隠せても、一万円を現金で持つこと自体が今は危険だった。 画面の中にある方が安全だった。 誰にも触れられない場所へ、一万円だけ自分の名前で置かれている。 それだけで胸の奥が熱くなった。 これまで紬の給与は、振り込まれた日の朝に卓臣が確認し、別の口座へ移していた。給与明細には御厨紬と書かれていても、その金を紬が自由に使うことはできなかった。生活費として返されるのは五万円。それすら三万円に減らされた。必要な物を買いたければ理由を説明し、足りなければ自分が削るしかなかった。 華怜のために八万円を出せと言われた時も。 子どもの制服代が足りなかった時も。 岩蔵の介護用品を買う時も。 自分の金なのに、自分の意思で使えなかった。 今、画面にある一万円だけは違う。 八重が品数を増やせと言っても使わない。 卓臣が飲みに行く金が足りないと言っても渡さない。 静江が華怜のために必要だと
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第54話 助けないで

 律が紬の腕の痣に気づいたのは、午後三時を少し回った頃だった。平日のスーパーは夕方の混雑が始まる前で、レジ前には二、三人ずつ客が並んでいる。紬は四番レジで卵のパックを籠へ戻し、次の客が差し出したポイントカードを受け取った。半袖の制服から覗いた左腕には、卓臣につかまれた跡がまだ赤紫色に残っている。袖口を少し下げれば隠せると思っていたが、重い米袋へ手を伸ばした拍子に布が持ち上がり、その瞬間、列の先に立っていた律の視線が止まった。 律は何も言わなかった。買い物籠にはペットボトルの水と、歯磨き粉、箱入りのティッシュが一つずつ入っている。以前なら、必要のない物を買いながら紬のレジが空くのを待っていたこともあったが、今は店内で長く滞在すること自体が危険だと分かっている。順番が来るまで表情を変えず、客として紬の前へ立った。「いらっしゃいませ」 紬もいつも通りの声を出した。 水のバーコードを読み取り、歯磨き粉、ティッシュの順に通す。律は財布を開きながら、紬の腕へもう一度視線を落とした。「その腕」 声は小さかった。 紬の指が一瞬止まる。「お客様、こちらでよろしいですか」 わざと業務用の言葉で返すと、律はすぐに察した。「ああ。お願いします」 会計を終え、レシートをトレーへ置く。指先は触れない。「ありがとうございました」 律は商品を持って離れた。自動ドアの方へ向かうと思っていたが、数分後、紬が顔を上げると、店内奥の休憩スペースへ座っている姿が見えた。総菜売場とベーカリーの間に設けられた、客が購入した物を食べられる小さな場所だった。四人掛けのテーブルがいくつか並び、学生や年配の客が出入りしている。二人きりになる場所ではない。 胸の奥が重くなった。 会えば危険だと分かっている。それでも律は、痣を見たまま帰れなかったのだろう。 午後三時二十二分、交代の従業員が来た。「御厨さん、休憩十分だけ先に取って。織部さんが、このあと品出し入ってって」「十分ですか?」「うん。人足りないって」 紬は時計を見た。本来なら三十分の休憩だったが、問い返せばまた時間だけが過ぎる。勤務表の写真は朝に撮ってある。今日の休憩予定も残っている。紬は「分かりました」と答え、売場を出た。 休憩スペースへ向かう途中、奈津子の視線が背中へ刺さるような気がした。実際に見られているのかは分から
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第55話 作られた客の苦情

 午後のレジ交代を終えた直後、紬は鴨志田から事務室へ来るよう呼ばれた。奈津子だけではなく、店長まで揃っていると聞いた時点で、胸の奥に嫌な重さが落ちた。制服のポケットには、朝撮影した勤務表の写真が入った古い端末がある。最近は呼び出されるたび、何を言われたか、何時だったか、誰がいたかを意識する癖がついていた。 事務室へ入ると、鴨志田の机に本部から転送された文書が置かれていた。奈津子は腕を組んで立ち、紬が椅子へ座るより先に、険しい声を出した。「また苦情よ」「私にですか」「そう。今度は本部へ直接」 奈津子が紙を紬の前へ滑らせる。匿名の女性客から電話で寄せられた申告を、本部担当者が書き起こしたものらしい。そこには、紬が勤務中に特定の既婚男性へ色目を使っていたこと、会計金額を意図的に安くしたこと、釣り銭を渡す際に必要もないのに男性の腕へ触れたことが書かれていた。最後には、こうした従業員を解雇しなければ店名を含めてSNSへ公表するという強い文言まで添えられている。 紬は最初から最後まで読み、紙を机へ戻した。「いつのことですか」 奈津子の眉が上がる。「そこ?」「いつ、どのレジで起きたことなのか書いてありますか」「書いてあるわよ。八月二十一日の午後四時十八分ごろ。四番レジ」 日付を聞いた瞬間、紬はその日の勤務を頭の中でたどった。午後四時台なら確かに四番レジへ入っていた。ただし、その時間に男性客を接客した記憶はなかった。最近は律が店へ来ること自体を減らしており、来たとしても必要最低限の会計しかしていない。「会計を安くしたというのは、何の商品ですか」「細かいところまでいちいち聞かないで」「確認するためです」「御厨さん」 鴨志田が間へ入った。「本部まで苦情が行ってるから、今回は店だけで済ませにくいんだよ。相手はSNSにも出すと言ってるし、まず会社へ出す謝罪文を書いてもらおうと思って」「何について謝るんですか」「だから、お客様に誤解を与えるような接客をしたことについて」「私がその男性を接客したことは確認したんですか」 鴨志田の口が止まった。「まだそこまで映像は」「確認する前に、私に謝罪文を書かせるんですか」 奈津子が苛立ったように息を吐いた。「あなたね、毎回毎回そうやって話を大きくして。お客様がわざわざ本部へ電話してるのよ。何もなければそ
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第56話 ロッカーの財布

 奈津子の財布がなくなったと分かったのは、午後一時を過ぎたころだった。昼の混雑がようやく落ち着き、紬が四番レジから交代してバックヤードへ戻ろうとした時、サービスカウンターから奈津子の甲高い声が響いた。普段なら客の前では抑えている声だったが、その日は周囲の視線も構わず、自分の鞄を開けて中身をひっくり返している。化粧ポーチ、名刺入れ、鍵、折り畳んだハンカチが次々とカウンターへ並べられ、その中央に財布だけがなかった。「ない。財布がないのよ」 近くの従業員たちも作業の手を止めた。奈津子の財布は、黒い革に金色の金具がついた長財布で、サービスカウンターの引き出しへ一時的に入れているのを紬も何度か見たことがある。佐和が朝はあったのかと尋ねると、奈津子は苛立ったように振り返った。「当たり前でしょう。昼前まではあったの。さっき見たらなくなってた」 鴨志田も事務所から出てきて、まず周辺を探そうと言った。サービスカウンターの棚、休憩室、事務所、トイレまで数人で手分けしたが見つからない。紬も返品商品の箱の下や、奈津子が伝票を置く棚まで探したものの、黒い財布はどこにもなかった。やがて奈津子は財布そのものを心配するより、誰かが盗んだという確信を強めるように口調を変えた。「従業員の持ち物、全部確認した方がいいですよね」「全員ですか」「当然でしょう。外部の人間がバックヤードへ入った形跡なんてないんだから」 そう言いながら、奈津子の視線はまっすぐ紬へ向いた。まだ誰の鞄もロッカーも確認していないのに、次にどこへ行くつもりかはその目だけで分かった。「御厨さんのロッカーから見ましょう」 周囲にいた二人のパート従業員が気まずそうに目を逸らした。以前の紬なら、その視線に耐えられず、自分から鍵を差し出していたかもしれない。何も盗んでいないことを証明するためなら、財布も鞄も、ロッカーの中身も全部見せればいいと思っただろう。 けれど奈津子は以前、匿名通報を理由に紬の許可なくロッカーを開け、中にあった弁当を盗品だと決めつけてゴミ箱へ捨てた。あの日から、見せさえすれば疑いは晴れるという考えは消えていた。何も悪いことをしていなくても、見る人間が最初から罪を決めていれば、置かれている物の意味まで勝手に変えられる。「本人の許可なく開けないでください」「は?」「私のロッカーです。確認が必要なら私が
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第57話 一時間だけ、紬になる

 机の上へ資料を並べ終えた時、律はしばらく何も言わなかった。 駅から少し離れた雑居ビルの三階。以前、二人で温かいスープとパンを食べたレンタルルームには、あの日と同じ古い机と二脚の椅子、壁際の小さなソファが置かれている。蛍光灯の白い光の下へ、紬が数週間かけて残した記録の複製が、一枚ずつ時間の順に広がっていた。 泥水に沈んだ制服。 前後輪の空気を抜かれた自転車。 物置の奥から見つかった通勤鞄。 電源を抜かれた目覚まし時計。 卓臣が紬の署名を似せて書いた退職届。 掲示されたものと時刻が異なる勤務表。 一万円不足を疑われた日の始末書と、紬が休憩中だったことを示す操作履歴の控え。 匿名苦情が申告した時刻に男性客など映っていなかったことを記したメモ。 奈津子の財布が紬のロッカーから見つかった際の写真と、佐和を含む立会人の記録。 最後に、小さな記録媒体が二つ。「こっちは職場?」 律が尋ねた。「うん。奈津子さんとの会話。もう一つは卓臣が職場へ来た日」「家に帰ったら覚えてろって言ったやつ?」「入ってると思う」 紬は向かいの椅子へ座ったまま答えた。手には何も持っていない。それでも、机の上へ並んだ紙を見るだけで、指先が落ち着かなかった。 一枚一枚は自分が残した。 その時には必要だった。 けれど、こうして他人の前へ並べると、自分の日常が別の人間の生活のように見えた。これほど何かをされながら、毎朝弁当を五つ作り、岩蔵の介助をし、制服へ着替え、レジで笑っていた女が本当に自分なのか分からなくなる。 律が偽造された退職届を手に取った。 複製だから紙の感触まで同じではない。それでも、御厨紬と書かれた署名を見た瞬間、その口元が硬くなった。「これ、本当に卓臣さんが店へ持ってきたんだな」「うん」「本人じゃない人間が名前を書いたと分かって、それでも最初、店は処理しようとした?」「店長は卓臣の話を信じかけてたから」 律の指が紙の端へ食い込む。 紬はその手を見た。「破らないで」 律がはっとしたように力を緩めた。「悪い」「複製だから破っても大丈夫だけど」「大丈夫じゃない」 律は紙を机へ戻し、一度目を閉じた。「ごめん。俺が怒るために見せてもらったわけじゃなかった」 その言葉に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。「怒ってる?」「怒ってる」「誰に
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第58話 退職勧奨書

 午後二時十分、紬は四番レジから外された。 交代に入った従業員から「店長が事務室で待ってるって」と告げられた瞬間、胸の奥に嫌な重さが沈んだ。奈津子から直接呼ばれる時とは違う。今日は朝から店長の鴨志田も奈津子も必要以上に紬へ声をかけず、サービスカウンターの内側で何度も書類を見ながら話していた。 紬はロッカーへ向かう途中で、制服のポケットへ入れた携帯電話を確かめた。 録音を始める。 画面は見ない。指先だけで操作し、ポケットへ戻す。最近は、何か言われてから録音を始めるのでは遅いことがあると知った。最初の言葉ほど、その場にいた人間が後から変えたがる。 事務室の扉を開けると、鴨志田と奈津子が並んでいた。 机の中央に、一枚の書類が置かれている。「座って」 鴨志田の声はいつもより硬かった。 紬は椅子へ腰を下ろしたが、机の上の紙にはまだ触れなかった。表題だけは、こちら側からでも読めた。 退職勧奨書。 喉の奥が乾いた。「これは何ですか」「見た通りよ」 奈津子が先に答えた。「これまでの勤務状況を踏まえて、会社として一度きちんと話をした方がいいということになったの」 鴨志田が紙を紬の前へ向けた。「本部とも相談してね。解雇とか、そういう話じゃない。御厨さん自身の今後も考えて、円満な形で退職することを勧める文書だよ」「退職を勧める?」「そう。あくまで勧奨だから、話し合い」 紬は紙を取った。 一行ずつ読む。 最初に書かれていたのは、複数回の遅刻。 次に、勤務時間および休憩時間をめぐる上司との度重なる対立。 客から複数の苦情が寄せられていること。 レジ精算時の金銭不足。 従業員の私物紛失に関連し、紬のロッカーから当該物品が発見されたこと。 職場内の信頼関係の悪化。 店舗運営へ支障が生じていること。 どれも見覚えのある出来事だった。 だが、書かれ方が違う。 一万円の不足は、計算ミスだったとは書かれていない。 奈津子の財布は、紬が盗んだ事実など確認されなかったことも、佐和が奈津子をロッカールーム付近で見たこともない。 客からの苦情が、防犯映像と一致しなかったこともない。 三度の遅刻の前に、制服が泥水へ落とされ、自転車の空気を抜かれ、鞄が隠されていたことも消えている。 事実の一部だけを抜き出せば、紙の上の御厨紬は、遅刻を繰り返し、
last updateآخر تحديث : 2026-08-30
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第59話 自宅待機

 翌朝、紬がいつもの時間に制服へ着替えなかったことを、八重は食卓に座るより先に見つけた。「今日は行かないのかい?」 紬は味噌汁の鍋を火から下ろし、十人分の椀を並べながら答えた。「会社から自宅待機を命じられています」 八重の顔がぱっと明るくなった。「ほら見なさい。とうとう店にも要らないって言われたんじゃないか」「解雇されたわけではありません」「同じようなもんだろう。仕事に来るなって言われたんだから」 卓臣も新聞から顔を上げずに鼻で笑った。「もう諦めろよ。事実上クビだろ」 紬は湯気の向こうにある夫の横顔を見た。「会社の調査結果を待っているだけです」「調査?」「退職勧奨の根拠と、これまでの勤務記録についてです」「そんなの言い方変えてるだけだ。お前が問題ばっかり起こすから外されたんだろ」 以前なら、その言葉だけで胸の内側へ罪悪感が入り込んだだろう。今も痛くないわけではない。だが、鞄の中には自宅待機命令の文書がある。開始日、当面の期間、勤務扱いであること、会社から連絡があるまで出勤しないことが書かれている。昨日、紬が一つずつ確認した結果、口頭だけではなく紙に残った。「仕事を休んでいるのではありません」 紬は言った。「会社の指示で待機しています」 卓臣が新聞を畳んだ。「言葉遊びしてんじゃねえよ」「違いはあります」 声は小さかったが、紬は引っ込めなかった。 八重はそんなやり取りをどうでもよさそうに手で払った。「まあ家にいるならちょうどいい。今日は父さんの身体を朝昼晩で拭いてやって。布団も全部干しな。客間の床も磨き直して、台所の棚も一度全部出して拭くんだよ」「岩蔵さんの清拭は朝と必要な時にします」「何だって?」「何度も全身を拭く必要はありません。皮膚も荒れます」「私がやれって言ってるんだよ」「必要ならやります」 八重の目が細くなった。 紬は続けた。「でも、必要のないやり直しはしません」 食卓の空気が止まった。 凌雅は携帯を見ながらも、わずかに顔を上げた。茉白は箸を止め、颯真は面白いものを見つけたように口元を曲げる。「母さん、また反抗してる」「反抗ではないよ」 紬は颯真を見た。「必要なことと、やらなくてもいいことを分けてるだけ」「同じじゃね?」「違う」 それだけ答え、紬は湊人の前へ牛乳を置いた。 八
last updateآخر تحديث : 2026-08-31
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第60話 名前の残った勤務表

 本部から連絡が入ったのは、自宅待機が始まって九日目の午後だった。 紬は岩蔵の昼食を終え、食器を洗っているところだった。八重は居間でテレビを見ながら、午前中に一度拭いた廊下をもう一度磨けと何度も言っていたが、紬は汚れている場所を示してほしいとだけ答え、そのまま必要な家事を続けていた。ポケットの携帯電話が震え、画面に見覚えのない番号が表示された瞬間、胸の内側が強く縮む。「はい、御厨です」『本部コンプライアンス担当の相良です。今、お時間よろしいでしょうか』 紬は流しの水を止めた。「はい」 返事をした声が、思ったより小さかった。『先日の面談後、店舗側の記録、勤務表の変更履歴、申告されていた苦情、レジ操作記録などを確認しました。調査がすべて終了したわけではありませんが、御厨さんの勤務について先に決定した事項があります』 紬は濡れた手を布巾で拭き、台所の椅子には座らず、調理台へ手を添えた。御厨家に九脚しかない椅子は、昼間も紬のためには空いていないことが多い。誰もいない食卓を前にしてさえ、座ることへまだどこか遠慮が残っていた。『退職勧奨は撤回します。また、現在命じている自宅待機も終了し、次の所定勤務日から出勤していただくことになりました』 紬はすぐには答えられなかった。「……戻っていいんですか」『はい。自宅待機期間についても会社命令による待機として扱い、所定の給与を支給します。欠勤扱いにはしません』 喉の奥が熱くなった。 自宅待機を命じられた時、無給なのか、有給なのか、欠勤にされるのかを一つずつ聞いた。奈津子には机を叩かれ、鴨志田には前はこんなことを聞かなかったと言われた。それでも確認したから、今、その九日間は勝手に休んだ日ではないと会社の記録へ残る。「ありがとうございます」『それから、店舗側にも対応があります』 相良の声は感情を大きく動かさず、事実を一つずつ読み上げるようだった。『織部主任については、勤務表の変更手続き、本人への通知状況、本部へ上がった報告内容、特定従業員への継続的な指導方法について、追加調査を行います。調査期間中は別店舗へ一時異動となります』 紬は目を閉じた。 奈津子がいなくなる。 その言葉を聞いた瞬間、嬉しいより先に、身体から力が抜けそうになった。長い間、売場のどこにいても背中へ刺さっていた視線を、次の出勤では探
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