جميع فصول : الفصل -الفصل 38

38 فصول

第31話 共犯者

 華怜から送られてきた写真を、卓臣は三度拡大した。 海辺のビジネスホテル。  宿泊日。  利用人数、二名。 画面の数字は変わらない。 自宅の駐車場に停めた車の中で、卓臣はエンジンも切らずに携帯電話を握っていた。冷房の風がネクタイの端を揺らし、ダッシュボードの時計は午後十一時十九分を示している。 数時間前、久世家で顔を合わせたばかりだった。 紬はいつもと同じ地味な服を着て、台所と食卓を何度も行き来していた。律が椅子を持ってくるまでは、当然のように立ったまま食事をさせるつもりだった女。 そんな紬が。 自分に逆らい始めた女が。 別の男とホテルへ行ったかもしれない。 卓臣の奥歯が強く噛み合った。 胸の奥に湧いたものを、悲しみとは思わなかった。 裏切られたという痛みですらない。 腹が立った。 ただ、それだけだった。 紬は逃げない女だった。 何を言っても謝る。金を渡さなくても何とかする。夜遅く帰っても待っている。女の匂いをつけて帰れば黙って洗濯する。嫌だと言っても、最後には声を出さなくなる。 そういう女だったはずだ。 それが自分の知らないところで、誰かに会い、自分から携帯の履歴を消し、自分の知らない顔で笑っている。 そのことが、許せなかった。 卓臣は華怜へ電話をかけた。 三回目の呼び出しで、甘い声が出る。『もしもし』「今から出られるか」『今?』「話がある」 数秒の沈黙。『いつものところ?』「ああ」『三十分で行く』 通話が切れた。 卓臣は携帯を助手席へ投げた。 その画面には、まだホテルの領収書が表示されていた。 町外れのホテルは、これまでにも二人が何度か使ってきた場所だった。 幹線道路から少し入った先にあり、入り口には背の高い植え込みが並ぶ。駐車場から直接部屋へ入れるため、人目を避けやすかった。 卓臣が部屋へ入って十分ほどして、華怜が現れた。 薄いカーディガンに、昼間とは違う黒いワンピース。髪にはまだ金木犀の香りが残っている。「急に呼ばないでよ」 そう言いながらも、華怜の口元には笑みがあった。 卓臣は返事をせず、テーブルへ携帯を置いた。 画面には華怜が送った領収書の写真がある。「これ、間違いないんだな」「律の上着から出てきた」「いつのだ」「ちゃんと見れば分かるでしょ」 華怜はソファへ腰を
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第32話 失くしたボタン

 洗濯機へ入れる前に、紬は仕事用のエプロンのポケットを裏返した。 レシートが一枚。  輪ゴムが二本。  売場で使った短い鉛筆。 それから、黒いものが床へ落ちた。 からん、と洗面所の床を一度跳ねる。 紬は屈み、指先で拾った。 黒いボタンだった。 直径は二センチほど。縁に細かな筋があり、表面にはうっすらと艶がある。量販店で売られている服のものより、少し厚みがあった。 何のボタンだっただろう。 そう考えた瞬間、地下駐車場の白い蛍光灯が記憶に浮かんだ。 律と会った夜。 車を降りたあと、足元で小さな音がした。 タクシーの到着通知に気を取られ、何も考えず拾ってポケットへ入れた。「……律の」 声に出した途端、心臓が大きく鳴った。 紬は洗面所の扉を見た。 閉まっている。 廊下から八重の声が聞こえる。「嫁! 洗濯まだ終わらないのかい!」「今やってます」「午前中から何してるんだか」 返事をしながら、紬は黒いボタンを掌へ隠した。 捨てるべきだと思った。 律へ返すなら、連絡しなければならない。 電話をする。  会う時間を決める。  また顔を見る。 返すだけ。 そう言えば、いくらでも理由になる。 弁当箱を返すだけだった日も、二人は口づけた。終わりにするために会った日も、次に会う約束が残った。 物を返すという行為は、二人にとってもう安全な理由ではなかった。 紬はゴミ箱を開けた。 濡れたティッシュや、空になった洗剤の詰め替え袋が見える。 ボタンをその上へ持っていく。 指が開かなかった。「何してるんだろ……」 自分でも分からない。 ただのボタンだ。 名前が刻まれているわけでもない。宝石でもない。これを持っていなければ困る物でもなかった。 それでも、捨てることを考えると胸の奥に小さな抵抗が生まれた。 誰にも渡したくない。 そんな感覚だった。 紬はゴミ箱の蓋を閉めた。 掌を開く。 黒いボタンが、汗で湿った皮膚の上に乗っている。 自分のものではない。 本当なら返さなければいけない。 それなのに、紬は長いこと、その小さな円を見つめていた。 昔から、手元に残ったものは少なかった。 幼い頃、誕生日にもらった人形があった。 華怜が欲しいと言って泣いた。『お姉ちゃんなんだから貸してあげなさい』 静江に言われ
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第33話 書き換えられた勤務表

 朝礼が始まる前から、休憩室の空気がおかしかった。 紬が従業員用の扉を開けた瞬間、いつもなら挨拶を返すパート従業員が、不自然に視線を落とした。ロッカーの前で髪を結んでいた若いアルバイトも、鏡越しに紬を見てから慌てて顔を背ける。 誰かが小声で話している。 紬が近づくと止まる。 冷房の効いた室内なのに、制服へ着替える背中に汗が滲んだ。「御厨さん」 奈津子が事務所の入口から呼んだ。 片手に白い封筒を持っている。「朝礼、早めに始めるから」「はい」 紬は名札を胸元へ留めた。 安全ピンがうまく刺さらず、二度やり直す。 何かあった。 分かっていても、尋ねることができなかった。 午前八時四十分。 レジ担当と品出し担当、惣菜部門の従業員までがバックヤードへ集められた。 奈津子は全員の前へ立つ。 鴨志田は少し離れたところにいた。腕を組み、面倒そうに時計を見ている。「今日は、ちょっと皆さんにも聞いておいてほしいことがあります」 奈津子が白い封筒から一枚の紙を取り出した。 紬の喉が乾く。「お客様から、匿名でご意見をいただきました」 奈津子はそこで一度、紬を見た。 視線が集まる。「ある女性従業員が勤務中、休憩時間を利用して既婚男性と会っている。従業員駐車場付近で、親密な様子を何度か見かけた、とあります」 誰かが小さく息を呑んだ。 紬の指先が冷たくなった。 奈津子は読むのをやめない。「男性は背の高いスーツ姿。黒い車を使用。女性従業員はレジ勤務で、年齢は三十代後半から四十代前半と見られる――」 そこまで具体的なら、誰のことか分からない者はいなかった。 隣にいた女性が一歩だけ距離を取った。 紬は床の継ぎ目を見た。 律の名前はない。 それでも、律だった。 従業員駐車場の外。 黒い車。 スーツ。 休憩時間。「勤務時間中に不適切な行動があるのであれば、店全体の信用に関わります」 奈津子は紙を下ろした。「御厨さん」「はい」「心当たりある?」 全員の前だった。 質問ではない。 奈津子の目は、もう答えを決めている。「休憩時間に知人と会ったことはあります」 ざわめきが起きた。 奈津子の口元がわずかに上がる。「ほら」「でも、勤務時間中に仕事を抜けたことはありません」「休憩中なら何してもいいって言いたいの?」「
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第34話 家族用アプリ

「今日から、全員これ入れろ」 夕食が終わった直後、卓臣は食卓の中央へ自分の携帯電話を置いた。 画面には、淡い色の地図と丸い人物アイコンが並んでいる。 紬は流し台の前で食器を重ねる手を止めた。 八重は爪楊枝を使いながら画面を覗き込み、凌雅と颯真は面白そうに身を乗り出している。茉白も、自分の携帯を片手に椅子へ座った。「何これ?」 結莉が尋ねる。「家族用の位置情報アプリ」 卓臣は答えた。「最近、物騒だからな。お前らがどこにいるか分かるようにする」「え、ずっと見られんの?」 凌雅が露骨に嫌そうな顔をした。「お前は学校から帰るまででいい」「じゃあ別にいいけど」「茉白も同じ。颯真と結莉は外にいる時だけ。湊人はまだ俺か母さんの携帯で見ればいい」 湊人は意味が分からないらしく、床へ座ってテレビを見ている。 紬は濡れた皿を布巾で拭いた。「お義父さんとお義母さんも入れるの?」「母さんは必要ないだろ。親父もほとんど家にいるし」「じゃあ、おじいちゃんは?」 結莉が岩蔵の部屋の方を見る。「徘徊とかあるかもしれないだろ」 卓臣が言った。 紬は振り返った。 岩蔵は一人で玄関まで歩くことさえ難しい。食事も排泄も清拭も介助が必要で、ベッドから車椅子へ移す時には紬が身体を支えている。 徘徊対策。 言葉だけが、理由として置かれた。「岩蔵さん、携帯持ってないでしょう」 紬が言うと、卓臣がこちらを見る。「細かいことはいいんだよ」「でも、それなら」「子どもの安全もあるって言っただろ」 声が少し低くなる。 紬は口を閉じた。 卓臣は人数分の招待用画面を送っていく。 凌雅がすぐに登録し、地図の上に自分の印を出した。「うわ、これ結構細かいじゃん」 颯真が笑う。「コンビニいるとかまで分かんの?」「位置情報が入ってればな」「母さんが仕事サボってどっか行ったら分かるじゃん」 その一言で、紬の指が止まった。 卓臣が口元を歪める。「そういうことだ」 茉白が顔を上げた。「母さんも入れるの?」「当たり前だろ」 卓臣は紬へ手を出した。「携帯」「どうして私も?」 室内が静かになる。 以前なら、理由を尋ねる前に差し出していた。 それを知っている家族ほど、紬が動かないことに違和感を持つ。「家族だからだよ」「凌雅たちは学校から帰った
last updateآخر تحديث : 2026-08-15
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第35話 良い夫の写真

 湊人の授業参観の日、卓臣は朝から鏡の前に立っていた。 白いシャツへ袖を通し、薄い紺色のジャケットを羽織る。寝癖を整え、香水を一度だけ首元へ吹きかける。いつもなら休日の学校行事など面倒だと言い、紬一人に行かせる男だった。「今日、来るの?」 朝食の皿を下げながら紬が尋ねると、卓臣は鏡越しに目を向けた。「行くって言っただろ」「仕事は?」「午後からで間に合う」 声は機嫌がよかった。 紬はそれ以上聞かなかった。 昨夜も、位置情報の履歴を確認された。スーパーを出た時間、途中で立ち寄ったドラッグストア、帰宅までにかかった分数。買った洗剤のレシートまで見せた。 今朝の卓臣は、そんなことなど一度もなかったような顔をしている。 湊人は珍しく落ち着かなかった。「お父さん、本当に来る?」「行くって言ってるだろ」「途中で帰らない?」「お前の授業くらい最後まで見るよ」 卓臣が笑う。 湊人も少しだけ笑った。 その顔を見た時、紬は胸の奥が痛んだ。 七歳の子どもにとっては、父親が学校へ来る。それだけで嬉しいのだ。 紬が知っている卓臣と、湊人が学校で見せてもらう卓臣は、同じ人間ではない。 それでも、どちらも父親だった。 午前九時半。 小学校の昇降口には、保護者の靴が何列も並んでいた。 廊下にはワックスと古い木材の匂いがあり、開け放たれた窓から夏の湿った風が入ってくる。子どもたちが教室で椅子を引く音、教師の声、保護者同士の控えめな挨拶が重なっていた。「御厨さん、おはようございます」 同じクラスの母親が紬へ声をかける。「おはようございます」 紬が頭を下げるより早く、卓臣が柔らかく笑った。「いつも妻がお世話になってます」「あら、ご主人。今日はお休みなんですか?」「ええ。たまには父親らしいことしないと、子どもに忘れられますから」 周囲に笑いが起こる。「そんな。湊人くん、お父さんのことよく話してますよ」「本当ですか? 家じゃ全然寄ってこないんですよ」 卓臣は人当たりよく答えた。 紬は隣で笑顔を作った。 校内用のスリッパを取り出そうと鞄へ手を伸ばす。「持つよ」 卓臣が先に紬の鞄を取った。「大丈夫」「いいから。重いだろ」 声が優しい。 近くにいた母親が目を細める。「優しい旦那さんですね」 紬の唇が引きつった。「……ありが
last updateآخر تحديث : 2026-08-15
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第36話 七日間

 会わないと決めてから、七日が過ぎた。 七日という時間は、紬の生活を何も変えなかった。 午前四時二十分に起きる。 米を研ぐ。 五つの弁当箱を並べる。 卵を焼き、昨夜の煮物を詰め、凌雅には量を多めに、結莉には野菜を細かく切る。湊人の弁当だけは、蓋を閉める前に一度中身を確かめた。 食べてもらえるかどうかは分からない。 それでも作る。 午前五時を過ぎれば岩蔵が目を覚ます。身体を起こし、着替えを手伝い、濡れたタオルで顔を拭く。機嫌が悪い日は腕を振り払われ、爪が皮膚を掠める。 六時になれば八重が起きてくる。「嫁、味噌汁」「はい」「お前、今日ゴミの日だろ」 卓臣が新聞から顔も上げずに言う。「もう玄関に出してあります」「なら最初から言えよ」 以前と同じ朝。 以前と同じ声。 なのに、「お前」と呼ばれるたび、今までとは違う場所が痛んだ。 律に名前を呼ばれる前なら、それほど意識しなかった。 御厨さん。 母さん。 嫁。 お前。 あんた。 家族の中で役割さえ分かれば、それでいいのだと思っていた。 けれど今は知っている。 紬。 たった二文字で、自分の方を向いて呼ばれる感覚を。「お前、聞いてんのか」 卓臣の声に、紬ははっとした。「ごめんなさい。何?」「水」 目の前にグラスがある。 卓臣は自分で手を伸ばせば届く距離にいる。 紬は一瞬だけそれを見た。 以前なら考えるより先に取った。 今も結局、手を伸ばした。「はい」 グラスへ水を注ぐ。 卓臣は礼を言わない。 それも以前と同じだった。 違うのは、紬の中だけだった。 誰かに大切にされたから、急に強くなったわけではない。 むしろ逆だった。 大切に扱われるとはどういうことなのかを知ったせいで、それまで耐えられていたものの輪郭が鮮明になった。 傷ついていたのだと、あとから分かる。 そのことが苦しかった。         * 律もまた、七日間を仕事で埋めた。 朝七時前には家を出る。 移動中も資料を読み、昼食は会議室で済ませる。予定を隙間なく入れてしまえば、余計なことを考える時間が減る。 それでも、信号待ちでスーパーの看板が遠くに見えれば、視線が向いた。 この時間なら紬は何をしているのか。 考えたところで確かめられない。 確かめない方がいい。 分かっ
last updateآخر تحديث : 2026-08-16
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第37話 回り続ける洗濯機

 雨は、夜が明ける前から降っていた。 午前四時四十七分。 紬は玄関の引き戸をできるだけ音を立てずに閉めた。肩には大きな洗濯袋を二つ提げている。 ひとつには、夜中に岩蔵が汚したシーツと防水パッド。もうひとつには、凌雅たちの制服、タオル、部活動で使った衣類。湿り気を含んだ布の重さが腕へ食い込む。 家を出る前に、朝食の味噌汁は作った。 炊飯器も予約してある。 五人分の弁当のおかずは冷蔵庫へ入れ、卵焼きだけは帰宅してから焼けばいい。 紬自身は、何も食べていなかった。 そんなことは珍しくない。 毎週木曜日の朝と同じだった。 違うのは、エプロンのポケットに五百円硬貨が一枚入っていることだけ。 六日前、律がレジの横へ落としたものだった。 雨粒が傘を細かく叩く。 自転車の前籠へ洗濯袋を積み、紬は携帯電話の画面を一度だけ確認した。 地図の中央に、自分を示す丸い印がある。 御厨家。 走り出せば、それがゆっくり移動する。 いつもの道。 いつもの木曜日。 いつもの午前五時前。 卓臣が履歴を確認したとしても、そこに残るのは毎週繰り返されている家事の経路だけだった。 そう考えてしまう自分に、紬は胸の奥がざらつくのを感じた。 家族を欺く方法を覚えたかったわけではない。 それでも、会いたかった。 その感情を消せないまま一週間を過ごした。 コインランドリーの白い看板が雨の向こうに浮かぶ。 午前四時五十八分。 紬は軒下へ自転車を停めた。 店内には誰もいない。 蛍光灯の白い光。洗剤と乾いた布の混じった匂い。壁際に並ぶ銀色の機械。 大型洗濯機の丸い扉を開け、シーツから順番に押し込んでいく。 岩蔵のものと子どもたちの衣類は分ける。 洗剤を入れる。 五百円玉を投入する時、昨日まで握っていた硬貨とは別のものを財布から出した。 律から渡された一枚は使えなかった。 機械が低く唸る。 水が流れ込み、白いシーツがゆっくり持ち上がった。 回る。 落ちる。 また回る。 残り時間、三十二分。 紬は窓の外を見た。 道路側からは見えない建物の裏手。 そこに黒い車が停まっている。 心臓が一度、大きく打った。 いた。 約束したのだから、いるのは当然だった。 それなのに、本当に律の車を見つけた瞬間、膝から力が抜けそうになった。 七日間。
last updateآخر تحديث : 2026-08-17
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第38話 妹の血

 玄関の時計は、午後十時十二分を示していた。 律が鍵を回した瞬間、暗い廊下の奥で照明がついた。「遅かったね」 華怜が立っていた。 薄い部屋着の上にカーディガンを羽織り、裸足のまま廊下へ出ている。髪はきれいに下ろされ、化粧も落としていなかった。「ただいま」 律は靴を脱いだ。「今日、九時半には帰るって言ったよね」「仕事が延びた」「十時十二分」 華怜は壁の時計を見る。「四十二分も違う」「道路も混んでた」「いつもの木曜日は混まないでしょう」 律の手が止まった。 華怜は笑っている。 その笑顔が、今夜はひどく静かだった。「朝も早かったよね」「何が」「車」 律は顔を上げた。「五時前に家を出たでしょう」「眠れなかったから、少し走った」「どこへ?」「適当に」「適当ってどこ?」「華怜」 律は声を低くした。「疲れてる。尋問なら明日にしてくれ」「尋問?」 華怜の唇がわずかに震える。「妻が夫に聞いてるだけなのに?」 律は返事をせず、上着を脱いだ。 華怜の目がそこへ吸い寄せられる。「それ」「何」「まだ直してないんだ」 コートの一番下。 黒いボタンが一つ欠けている。「必要になったら直す」「どこで落としたか思い出した?」「言っただろ。分からない」「通勤途中?」「たぶん」「本当に?」 律はコートをハンガーへ掛けた。 華怜が近づく。 鼻先が袖へ触れそうなほど距離を詰めた。「洗剤の匂い、違う」 律の呼吸が一瞬だけ止まる。「何の話だ」「いつもの柔軟剤じゃない」「会社で何かついたんじゃないか」「会社で洗濯するの?」「知らない」「コートに洗剤の匂いがつく仕事って何?」 華怜の声はまだ穏やかだった。 律は腕時計を外し、棚へ置いた。「もうやめよう」「何を?」「こういうのを」「こういうのって?」「帰宅時間を分単位で確認して、服の匂いを嗅いで、携帯を見ることだ」 華怜の顔から笑みが消えた。「やましいことがないなら困らないでしょう」「困る」「どうして?」「監視されているみたいだからだ」「監視されるようなことしてるからじゃない!」 声が廊下へ響いた。 律は目を閉じる。「近所に聞こえる」「気にするんだ」「華怜」「私が苦しいことより、近所の方が大事?」「そういう話じゃない」
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