開店前のスーパーには、客の声がなかった。自動ドアはまだ停止したままで、売場の照明だけが白く床へ落ち、品出し用の台車が遠くで低い音を立てている。紬は従業員入口の前で社員証をかざしたあと、扉が開いてもすぐには中へ入れなかった。昨日まで何度も通ったはずの通路なのに、自宅待機を挟んだだけで、自分の知らない場所になったように見えた。 最初に確認したのはロッカーだった。鍵を差し込む前に扉の隙間を見て、誰かが無理に開けた跡がないか確かめる。中には替えの制服、タオル、記録をまとめたファイルが、前に置いた位置のまま残っていた。奈津子の財布が仕事着の下から出てきた日の感覚が指先へ戻り、紬は制服を持ち上げて奥まで一度確認してから、ようやく息を吐いた。 次に掲示板を見る。 勤務表は昨日と同じ場所へ貼られていた。 〈御厨 紬〉 始業時刻、休憩予定、退勤予定。その横に、自分の名前が黒い印字で残っている。昨日も見た。写真にも撮った。それでも、朝になれば消えているのではないかと考えていた自分に気づき、紬は唇を結んだ。「御厨さん」 後ろから声をかけられ、肩がわずかに跳ねた。 佐和が、サービスカウンター用の鍵束を持って立っている。「おはようございます」「おはよう。四番、釣り銭確認お願いできる? そのあとレジ袋とロール紙も補充しておいて」「はい」 それだけだった。 昨日の調査結果についても、自宅待機についても、奈津子の異動についても触れない。「無理しないで」「大変だったね」と声を落として慰めることもなかった。 紬は少しだけ驚き、それから胸の奥がゆっくり温かくなるのを感じた。 佐和にとって自分は、今日もレジを準備する同僚なのだ。 特別に守らなければならない人でも、触れれば壊れる人でもない。問題が起きれば一緒に事実を見てくれた。それでも仕事へ戻れば、仕事を頼む。その扱いが、紬には何よりありがたかった。「村瀬さん」 佐和が振り返る。「昨日は……ありがとうございました」「昨日?」「いろいろ」 佐和は一度考えるような顔をしてから、小さく笑った。「だったら今日は、釣り銭間違えないでね」「はい」 紬も少しだけ笑った。 四番レジの端末を立ち上げ、自分の担当番号を入力する。画面へ〈御厨紬〉と表示された。金種ごとの枚数を確認し、千円札、五千円札、一万円札を数える。以前
Last Updated : 2026-09-03 Read more