All Chapters of 名前を呼ばれない妻〜地獄の義家族ごと捨て去り、五人の子を置いて既婚初恋と禁断の愛に堕ちる〜: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 戻ったレジ

 開店前のスーパーには、客の声がなかった。自動ドアはまだ停止したままで、売場の照明だけが白く床へ落ち、品出し用の台車が遠くで低い音を立てている。紬は従業員入口の前で社員証をかざしたあと、扉が開いてもすぐには中へ入れなかった。昨日まで何度も通ったはずの通路なのに、自宅待機を挟んだだけで、自分の知らない場所になったように見えた。 最初に確認したのはロッカーだった。鍵を差し込む前に扉の隙間を見て、誰かが無理に開けた跡がないか確かめる。中には替えの制服、タオル、記録をまとめたファイルが、前に置いた位置のまま残っていた。奈津子の財布が仕事着の下から出てきた日の感覚が指先へ戻り、紬は制服を持ち上げて奥まで一度確認してから、ようやく息を吐いた。 次に掲示板を見る。 勤務表は昨日と同じ場所へ貼られていた。 〈御厨 紬〉 始業時刻、休憩予定、退勤予定。その横に、自分の名前が黒い印字で残っている。昨日も見た。写真にも撮った。それでも、朝になれば消えているのではないかと考えていた自分に気づき、紬は唇を結んだ。「御厨さん」 後ろから声をかけられ、肩がわずかに跳ねた。 佐和が、サービスカウンター用の鍵束を持って立っている。「おはようございます」「おはよう。四番、釣り銭確認お願いできる? そのあとレジ袋とロール紙も補充しておいて」「はい」 それだけだった。 昨日の調査結果についても、自宅待機についても、奈津子の異動についても触れない。「無理しないで」「大変だったね」と声を落として慰めることもなかった。 紬は少しだけ驚き、それから胸の奥がゆっくり温かくなるのを感じた。 佐和にとって自分は、今日もレジを準備する同僚なのだ。 特別に守らなければならない人でも、触れれば壊れる人でもない。問題が起きれば一緒に事実を見てくれた。それでも仕事へ戻れば、仕事を頼む。その扱いが、紬には何よりありがたかった。「村瀬さん」 佐和が振り返る。「昨日は……ありがとうございました」「昨日?」「いろいろ」 佐和は一度考えるような顔をしてから、小さく笑った。「だったら今日は、釣り銭間違えないでね」「はい」 紬も少しだけ笑った。 四番レジの端末を立ち上げ、自分の担当番号を入力する。画面へ〈御厨紬〉と表示された。金種ごとの枚数を確認し、千円札、五千円札、一万円札を数える。以前
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第62話 二脚の椅子

 勤務を終えた紬が駅前の雑居ビルへ入ったのは、午後七時四十二分だった。スーパーでは復職後の勤務説明があり、閉店作業の手順や本部へ報告する際の連絡経路について、通常より長い確認が行われていた。卓臣にはその説明があるため帰宅が遅くなるとだけ伝えてある。嘘ではない。ただ、本来なら説明終了後に家へ戻るはずの時間を、一時間だけ別の場所へ持ってきた。 三階へ上がる階段は細く、壁には会議室や自習室の案内がいくつも貼られている。廊下の向こうでは複数人が何かの打ち合わせをしているらしく、時折椅子を引く音と笑い声が漏れていた。紬は携帯の位置情報を一度確認し、駅前の商業区域から大きく外れていないことを確かめてから、指定された部屋の前へ立った。 扉を開けると、以前と同じ二脚の椅子が見えた。小さな机、壁際の古いソファ、白いブラインド。蛍光灯の光まで前に来た時と変わらないように見える。律はすでに到着しており、窓側の椅子から立ち上がったところだった。紬が中へ入っても、彼はすぐには近づいてこなかった。「お疲れさま」 それだけだった。 紬は扉を閉めたまま、しばらく律を見た。会いたかった、と言おうと思えば言えたはずなのに、喉の奥で言葉が止まる。この数週間、律とは必要最低限しか会わなかった。レジ越しに短い言葉を交わすか、相談のために記録を預けるか、それくらいだった。前へ出ないでほしい、卓臣と話さないでほしい、会社へ乗り込まないでほしい、金も渡さないでほしい、助けてと自分が言った時だけ動いてほしいと頼んだのは紬自身だった。その願いを律は守り、だからこそ紬の内側には、安心とは別の寂しさまで残った。 痣が増えた夜も、退職届へ名前を真似された日も、始末書を破られた時も、紬は自分で記録を残した。相談窓口へ電話をかけ、自宅待機の条件を確認し、退職勧奨書へ署名しなかった。必要だったし、自分でそうしたかった。それでも、誰にも頼らないことと、誰にも寄りかかりたくないことは同じではなかった。律はその矛盾へ勝手に答えを出さず、何も言わずに待っている。 紬は鞄を椅子の背へ掛けた。その時、机の上に置かれた二人分の食事へ気づいた。紙容器に入ったスープと、小さな丸パン。前にも同じ場所で、よく似た食事をした。「またスープ?」「嫌だった?」「違う」「今日は鶏肉と野菜。前の店とは別」「そこまで説明しなくても」 
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第63話 十五歳の手紙

 レンタルルームの扉を開けると、律はいつもの二脚の椅子のうち、窓際ではない方へ座っていた。机の上には温かい飲み物が二つと、見慣れない茶色い封筒が一通だけ置かれている。前に資料を並べた時のようなファイルもなく、食事の紙袋もない。その封筒だけが、狭い机の中央で妙に古びて見えた。「それ、何?」 紬が鞄を椅子へ掛けながら尋ねると、律はすぐには答えなかった。封筒へ手を伸ばし、裏返してから紬の方へ向ける。差出人も宛名も書かれていない。ただ、右下へ小さく日付だけがあり、その数字を見た瞬間、紬の胸が強く鳴った。二十三年前。二人が十五歳だった年だった。「実家の机を片づけてたら出てきた」「律の?」「ああ。昔の机」 律は封筒の端を指で押さえた。紙は長くしまわれていたせいで少し黄ばみ、角が丸く擦れている。新しい物を大切に保管してきたというより、捨てる機会を逃したまま時間だけが積み重なったような古び方だった。「重く受け取らなくていい」 律が先に言った。「何が書いてあるの」「紬と別れた後に書いた手紙」 紬の指が膝の上で止まった。律はすぐに続ける。「何度も書き直した。でも結局渡さなかった。別れた相手に手紙まで渡したら迷惑だと思ったし、そのうち捨てようと思って実家の机に入れた。結婚してからも机を片づけることがなくて、残ってただけだ。ずっと大事に持ち歩いてたとか、そういう話じゃないから」「そんなに説明しなくても」「説明しないと、二十三年も保存してたって重いだろ」 紬は思わず少し笑った。律も口元を緩めたが、その目には落ち着かない色が残っている。渡すべきか迷っているのだと分かった。「読んでもいい?」「紬が読みたいなら」「嫌なら?」「捨ててもいい」 律は封筒を押しつけなかった。机の中央へ置いたまま、自分の手を離す。紬はしばらくそれを見つめてから、両手で持ち上げた。軽い。たった数枚の便箋しか入っていないはずなのに、十五歳の自分へ近づくようで、封を切る指が震えた。 中には罫線の入った便箋が三枚あった。文字は今の律より少し丸く、ところどころ力が入りすぎている。何度も書き直した跡があり、一行だけ消しゴムで擦った部分も薄く残っていた。最初の一文を読んだだけで、紬は呼吸を止めた。 嫌いになったのなら、仕方がないと思う。 責める言葉ではなかった。どうして急に別れるのか、何
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第64話 食べたいもの

 レンタルルームへ向かう途中、律は駅前の食品売り場へ入る手前で足を止めた。復職してから数日が過ぎ、紬の勤務はようやく以前に近い形へ戻りつつあったが、家では卓臣と八重の妨害が続いている。今日も待ち合わせの時間を作るため、紬は朝から十人分の食事を整え、岩蔵の介助を済ませ、仕事を終えたあとに駅前まで歩いてきた。律はそんな事情を知っていても、急かすように部屋へ向かおうとはしなかった。「何か食べてから行こう」「スープ?」「今日は紬が食べたいもの」 その言葉に、紬は足を止めた。食品売り場の入口では、夕食を買う人たちが次々に出入りし、焼き魚や揚げ物、パンの匂いが冷房の風に乗って流れてくる。壁際の時計を見れば、部屋を借りている時間までまだ二十分ほど余裕がある。それでも紬の頭に最初に浮かんだのは、早く決めなければ律を待たせるということだった。「何でもいいです」「それは答えになってない」「本当に何でもいいの」「じゃあ、今日は決まるまで見よう」 律は笑わなかった。困らせるつもりでも、意地悪で言っているわけでもないと分かる。紬は反射的に「面倒じゃない?」と尋ねかけたが、飲み込んだ。誰かが自分のために時間を使うことへ、いちいち許可を取りたくなる癖がまだ抜けていない。 最初に通ったのは精肉売り場だった。照明の下に牛肉の薄切り、豚肉、鶏肉が整然と並び、夕方の値引きシールが貼られ始めている。紬の目は無意識に価格と内容量へ向かい、百グラムあたりの金額を計算した。十人分なら何パック必要か、もやしと豆腐を足せば何皿になるか、そんな数字ばかりが頭に浮かぶ。「肉は?」「高い」「値段じゃなくて」「……鶏むね肉なら安いよ」「それも値段だな」 律の指摘に、紬は口を閉じた。肉を見ても、食べたいかどうかという感覚が出てこない。家では八重が脂身の少ない肉は貧乏くさいと言い、卓臣は牛肉を要求し、凌雅は量が少ないと文句を言う。紬自身がどの肉を好きなのか、考えた記憶がなかった。 鮮魚売り場へ進んでも同じだった。鮭を見ると弁当の数を考え、鯖を見ると八重が骨を嫌がることを思い出し、刺身の盛り合わせを見れば十人へ分けた時に一人何切れになるかを計算する。総菜売り場では、揚げ物の値引率を確認し、コロッケを見れば結莉が好きだったと思い出した。自分の舌だけが、買い物籠の外へ置き去りにされているようだった
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第65話 夫の傷、妻の傷

 律がレンタルルームへ入ってきた時、紬は最初に彼の右手を見た。扉を閉め、鞄を椅子へ置くまで、右手だけがスラックスのポケットへ入ったまま出てこない。普段なら鍵を机へ置いたり、買ってきた食事の袋を両手で持ち直したりするのに、今日は左手だけで全部済ませていた。紬は向かいの椅子へ座る前に、その不自然さを確かめるように律の顔を見た。「右手、どうしたの?」「仕事中にぶつけただけ」「どこへ?」「机の角」 律の返事は早かった。目を逸らしたわけでもない。それでも、紬には嘘だと分かった。仕事で机へ手をぶつけただけなら、右手をポケットへ入れたまま隠し続ける理由がない。以前なら相手が話したくないのなら聞かない方がいいと思ったかもしれないが、今日は何も言わず椅子へ座ることができなかった。「見せて」「大したことない」「大したことがあるかは、見てから決めたい」 自分の言葉に、律が少しだけ困った顔をした。紬はそこで強引に手を取らず、ただ待った。律はしばらく黙ったあと、右手をポケットから出した。掌から手首にかけて白い包帯が巻かれ、端には薄く赤い染みが浮いている。「机じゃないでしょう」「ああ」「何があったの」 律は食事の紙袋を机へ置いた。今日は温かいスープと小さなサンドイッチが二人分入っているらしく、容器を開けようとして右手を使った瞬間、包帯の下で痛みが走ったのか眉がわずかに寄った。紬はすぐに手を止めさせ、左手だけで座るよう促した。「華怜?」 名前を出すと、律は否定しなかった。「携帯を見ようとしてきた」「また?」「ああ。寝てる時じゃなくて、帰った直後に。渡したくないって言ったら、取り合いになった」「それで?」「華怜が携帯を投げた。画面が割れて、拾おうとした時に手を切った」 紬は黙った。律はそこで「でも俺も悪かった」と続けかけたように見えたが、言葉が口元で止まる。紬はその続きを待たずに尋ねた。「華怜に押されたの?」「腕をつかまれた。離そうとしたら、別の物も投げられた」「律は?」「腕で防いだだけ。押し返してはいない」「どうして」「自分から手を上げたくないから」 律らしい答えだった。だからこそ、紬は胸の奥が重くなるのを感じた。華怜から何を投げられても、腕をつかまれても、律は自分の方が強いからと押し返すことを避ける。その結果、傷つくのはいつも自分の身体
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第66話 午前六時四十二分

 午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第67話 二人で迎える誕生日

 八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第68話 妹だけのろうそく

 午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第69話 名前で呼んで

 誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第70話 夫婦を演じる日

 卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
last updateLast Updated : 2026-09-15
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