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《お前も見ていた》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

22 章節

第10話 骨董屋は触らない

 店の名は、看板のどこにも書かれていなかった。 古い商店街から細い路地へ入り、二度角を曲がった先。隣家との隙間に押し込まれたような木造家屋の軒下へ、錆びた鈴だけが下がっている。 窓は黒い板で塞がれ、中の明かりは外へ漏れていない。「ここ、本当に店?」 イオが顔をしかめた。「予約した人しか入れない」 ちとせは格子戸の前へ立ち、軒下の鈴を鳴らした。 ちりん。 澄んだ音が路地の奥へ消える。 返事はない。 少し待ってから、ちとせは鈴を二度続けて鳴らし、間を置いてもう一度鳴らした。「合図?」 怜吾が尋ねる。「昔、民俗学の聞き取りで教えてもらっただけ」「誰に?」「先生の知り合い」 ちとせはそれ以上答えなかった。 美怜は黒い鞄を足元へ置き、肩を回した。中には、赤黒い布で包んだ白い市松人形が入っている。 夜の間に伸びた髪は、朝になると動きを止めた。 切断した束もケースの周囲で固まり、乾いた髪へ戻っている。首を絞めた一本だけは、ちとせの組紐を避けるように人形の着物の下へ潜り込み、見つからなくなった。 美怜の首には、まだ細い線が残っていた。 ちとせの手首にも変化があった。 赤白の組紐は、髪へ触れた部分だけ白が黒く染まっている。洗っても擦っても落ちず、時間が経つほど繊維の奥へ広がっていた。 美怜がそれも店主へ見せるのかと尋ねると、ちとせは「人形だけ」と答え、袖を下ろした。「買い取るって言ったんだよね?」 燈夜が煙草へ火をつけながら聞く。「見ないと分からないって」「見せたら金になるんだろ。呪いが本物なら高く売れる」「売るために来たんじゃない。何なのか調べるため」 ちとせが言う。「同じことだろ。価値が分かれば売れる」 燈夜は固定具を外していた。右小指は外側へ曲がったままだが、人形へ近づく時だけ疼くことを認めようとしない。 格子戸の奥で、木の擦れる音がした。 細い隙間が開き、片方の目が五人を見た。「何人だい」 老女の声だった。「五人です。電話した斑鳩です」「五人」 目が一人ずつ確かめる。 美怜。燈夜。イオ。怜吾。ちとせ。 最後に、老女の視線は地面の黒い鞄へ落ちた。「本当に、五人かい」「見れば分かるでしょ」 美怜が笑う。 戸が開いた。「入るなら、鈴より後ろを振り返らないことだ」「外に何かいるの?」「振り
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第11話 人の骨でできている

 蛍光灯の光は、何もかもを病人の皮膚のような色に見せた。 大学構内の外れにある実習棟は、休日の午後になると、建物そのものが息を潜めているように静かだった。長い廊下には消毒用アルコールの匂いが滞り、磨かれた床の上へ、五人の靴音だけが不揃いに響いている。「ほんとに大丈夫な奴なんだろうな」 轟木燈夜が、前を歩く津守怜吾の背中へ低く言った。 怜吾は振り返らなかった。左手には黒い機材ケース、右手には薄い保冷バッグを提げている。白い人形から切り取った骨片と髪、抜き取った歯は、その中に密封してあった。「大丈夫って、何が」「余計なことしない奴かって聞いてんだよ」「検査を頼む相手に、犯罪を見逃す人格まで要求するなよ」 皮肉はいつも通り平坦だったが、怜吾の指は保冷バッグの持ち手を強く握っていた。黒いマニキュアの端が、昨日から少し剥がれている。 鬼束美怜はその手元を見てから、スマートフォンの画面へ視線を落とした。配信は限定公開にしてある。登録者の中でも有料会員だけが見られる設定だ。 画面の右端を、コメントが絶え間なく流れていた。 ――通報しろ ――本物の人骨なら配信してる場合じゃない ――人形は今どこ 目の前には、薄い曇りガラスのはまった扉がある。脇の札には《形態学実習準備室》と記されていた。扉の向こうで椅子を引く音がし、ややあって錠が外れる。 現れた男は、怜吾より少し背が低かった。短く切った髪は寝癖のように片側だけ跳ね、白衣の胸元には青いボールペンが二本差さっている。細い銀縁眼鏡の奥で、目だけがひどく疲れていた。「遅い」「時間通りだろ」「五人で来るとは聞いてない」 田丸翔は五人を順に見て、最後に美怜のスマートフォンで視線を止めた。「撮ってるのか」「限定配信。顔出し嫌なら映さないよ」「そういう問題じゃない。ここ、大学の設備なんだけど」「でももう準備してくれたんでしょ?」 美怜が親しげに笑うと、田丸は答えず、怜吾へ手を出した。「試料」 怜吾が保冷バッグを渡す。 その瞬間、バッグの内側から、かすかな音がした。 こつ。 硬いものが一度だけ、底を叩いたような音だった。 五人の視線が集まる。田丸も眉を寄せたが、すぐにファスナーを開けた。中には透明の試料袋が三つ、保冷剤の上へ並べられている。骨片、髪、歯。どれも昨夜、怜吾自身が封をしたもの
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第12話 爪を切った名前

 午後四時を過ぎても、部室の窓には白っぽい陽射しが貼りついていた。 大学の旧サークル棟、その三階。もとは写真研究会が使っていたという狭い部屋には、古い暗幕の匂いと、長く染みついた煙草の臭いが残っている。壁際には撮影機材の箱が積まれ、折り畳み机の上には空の缶、スプレー缶、使いかけの除菌シートが無造作に転がっていた。 白い人形は、その中央に座らされていた。 背もたれのない丸椅子へ、細い腰を折るようにして置かれている。昨日までよりも髪が長くなっていた。黒い毛先は椅子の縁を越え、床へ届きかけている。 五人は、誰もそのことを口にしなかった。「でさ、今日これ切ろうと思うんだけど」 茅森イオは、人形の右手をつまみ上げて笑った。 小さな指先から、半透明の爪が伸びている。先端は薄く湾曲し、蛍光灯の光を鈍く弾いていた。人形を屋敷から持ち帰った時には、指先からわずかに覗く程度だったはずだ。それが今は、一番長いもので二センチ近くある。 イオは自分のネイルと並べるように、人形の手をスマートフォンのカメラへ向けた。「見て。私のより伸びるの早い」「比べんなよ」 津守怜吾は三脚の高さを調整しながら言った。顔はモニターへ向けたままだったが、声にはわずかな苛立ちが混じっている。「だって本当に爪なんでしょ? 昨日の鑑定、やばかったじゃん。骨も髪も歯も本物。だったら爪も調べようよ」「調べるんじゃなくて切りたいだけだろ」「切るのも調査だって」 イオは机の引き出しを開け、銀色の爪切りを取り出した。以前、誰かが置き忘れたものらしく、刃の脇に黒ずみが浮いている。 鬼束美怜は鏡を見ながら口紅を引き直していた。唇を軽く擦り合わせ、鏡越しに人形を眺める。「配信でやるなら、普通に切るだけじゃ弱くない?」「一本ずつ切って、何か起きるか試す」「何も起きなかったら?」「燈夜の爪も切る」「ふざけんな」 轟木燈夜は窓際のソファへ深く座り、片足を机の端へ乗せていた。銀髪の根元から黒い地毛が覗き、眉のピアスが外からの光を反射している。 その足元には、昨日大学から持ち帰った保冷バッグが置かれていた。 骨片と髪と歯は、怜吾が別の場所へ移したと言っていた。どこへ置いたのか、美怜は聞かなかった。田丸から何度も着信があったことも、五人は話題にしていない。 斑鳩ちとせだけが、人形の指先をじっと見
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第13話 コメント欄の女

 配信を始める前から、コメント欄だけが動いていた。 映像学科棟の四階にある編集部室は、旧サークル棟の部室よりも狭く、窓も一つしかない。昨夜の停電後、怜吾が機材の一部をこちらへ移したのだ。壁一面に吸音材が貼られ、窓には黒い遮光カーテンが掛けられている。空調を切っているせいで、室内には人の体温と機材の熱が籠もっていた。 中央の長机に、五台のスマートフォンが並んでいる。 どの画面にも、配信開始までの待機映像が表示されていた。 白い人形は映していない。 右手の爪を切ったあと、人形は旧サークル棟に残してきた。燈夜が持ち出そうとしたが、怜吾が止めた。移動させるたびに髪や歯が増えるのなら、せめて一晩だけでも場所を固定しておくべきだという、彼なりの判断だった。 だが、人形がここにないからといって、五人が何も連れてきていないわけではない。 美怜は机の下で、右手の親指を擦った。 爪の裏へ入り込んだ赤い糸は、朝になっても消えなかった。引けば鋭く痛み、爪の奥で脈打つ。病院へ行こうとしたが、受付で説明する言葉が見つからず、そのまま引き返した。 今は黒いテープを爪へ巻いて隠している。 燈夜も、右手をパーカーのポケットへ入れたままだった。イオは両手に手袋をしている。怜吾は黒いマニキュアを厚く塗り直し、ちとせだけが何も隠さず、赤白の組紐を指で弄んでいた。「まだ始めてないよね?」 イオが待機画面を覗き込む。「見れば分かるだろ」 怜吾はノートパソコンの時計を確認した。 二十一時五十八分。 配信開始は二十二時の予定だった。 コメント欄には、すでに百件近い投稿が並んでいる。待機画面が公開された時点から書き込めるため、それ自体は不自然ではない。問題は、一番上へ固定されたように残っている、見覚えのないアカウントだった。 〈つむぎ_ねてる〉 プロフィール画像は、白く霞んだ集合写真になっていた。 投稿は三件。 午後九時四十一分。 ――22時13分、美怜が口から血を出す 午後九時四十三分。 ――22時17分、燈夜が右手を隠す 午後九時四十六分。 ――22時21分、六人目が窓に立つ「くだらねえ」 燈夜が吐き捨てた。 だが、右手はポケットから出さない。 美怜は三件の投稿を何度も読み返していた。喉の奥に、昨日から鉄のような味が残っている。舌で歯茎をなぞっても、
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第14話 六人目の足音

 繭守邸の門は、五人が閉めた時よりもわずかに開いていた。 錆びた鉄扉の隙間から、庭へ続く石畳が細く覗いている。夕方まで降っていた雨は止んでいたが、空には濁った雲が垂れ込め、湿った土と腐葉土の匂いが辺りを覆っていた。 鬼束美怜は門柱へ片手をつき、暗い屋敷を見上げた。 二階の窓はすべて黒い。 その中で、中央の一枚だけが薄く曇っていた。 内側から、誰かが長い息を吹きかけたように。「本当に戻る必要あった?」 茅森イオが、美怜の背中越しに言った。 蜂蜜色の髪は湿気を吸い、頬へ張りついている。手には薄い革手袋をはめていた。爪の裏へ入り込んだ赤い糸を、誰にも見せたくないらしい。「向こうから次は井戸って言われたんだから、来るしかないでしょ」 美怜は門を押し開けた。 蝶番が軋み、夜気を裂くような音を立てる。「言われた通り動くの、負けた感じしない?」「逃げる方が負けじゃん」 美怜は笑ってみせたが、門柱へ置いていた指は冷たく強張っていた。 井戸は繭守邸の裏庭にある。 最初に侵入した夜、森部忠一が屋敷の奥へ入るなと怒鳴った。その時、ちとせだけが裏庭の方角を何度も見ていたことを、美怜は今になって思い出していた。 斑鳩ちとせは、今日も赤白の組紐を手首へ巻いている。 屋敷を見上げる横顔は、怯えているようには見えなかった。ただ、唇を閉じる力だけがいつもより強い。「井戸へ直行するのか」 轟木燈夜が訊いた。 右手の小指には黒い包帯が巻かれている。剥がれた爪の下はまだ生々しく、赤い糸は傷口の奥へ潜ったままだという。「その前に、足音を調べる」 津守怜吾が機材ケースを地面へ置いた。「コメントで何度も言われてる。俺たちが廊下を歩く時、足音が一つ多いって」「編集ミスじゃなかったの?」 イオが訊く。「そう思ってた。音声を分離するまでは」 怜吾はタブレットを取り出し、保存しておいた波形を表示した。 細い線が等間隔に並んでいる。「前にここで撮った素材だ。五人で玄関から人形の部屋まで歩いた。映像にいるのは五人。でも音は、途中から六つに分かれてる」「誰かが外で歩いてたとか」「床材が違う。屋敷の中の音だ」 燈夜が鼻で笑った。「じゃあ今日、はっきりさせりゃいい」「そういうこと」 怜吾は門の内側へ小型カメラを設置した。 そこから玄関まで、五人の動線を追
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第15話 井戸の底から見上げる

 車の窓へ書かれた「あけて」の文字は、ワイパーを動かしても消えなかった。 白い指先が曇りをなぞっただけのはずなのに、文字の部分だけがガラスの内側へ沈み込み、細い傷となって残っている。エンジンをかけたままの車内には暖房の生ぬるい風が流れていたが、五人の指先は冷え切っていた。 美怜は親指を押さえたまま、繭守邸の裏手を見た。 屋敷は闇の中へ沈んでいる。 そのさらに奥。藪と崩れた石垣の向こうから、土を爪で掻くような音が続いていた。 かり。 かり、かり。 車の屋根にいたはずの足音は、いつの間にか遠ざかっている。 逃げたのではない。 呼んでいる。「行くぞ」 燈夜が後部座席の扉を開けた。「本気?」 イオが振り向く。「ここまで来て帰れるかよ。井戸を見つけて、蓋を開けりゃ終わる」「終わるって、何が」「知らねえよ。向こうが開けろって言ってんだから、開けてやる」 燈夜は右手を庇いながら外へ出た。包帯の下では、爪のない小指が脈打っている。傷口へ入り込んだ赤い糸は、屋敷の奥へ引かれるたびに、手首の皮膚を内側から持ち上げていた。 怜吾はノートパソコンを閉じ、固定カメラの受信機を機材ケースへ押し込んだ。「カメラは回す」「まだ撮るの?」 イオの声に、怜吾は顔を上げない。「何が起きてるか残さなきゃ、誰かが作った映像か本物かも分からない」「さっき映ってたのに?」「だからだ」 ちとせは最後まで車から降りなかった。 手首の赤白の組紐へ、爪の裏から伸びた赤い糸が細く食い込んでいる。暗がりの中で見ると、二本は最初から一本だったように繋がっていた。「ちとせ」 美怜が呼ぶ。「井戸の場所、知ってるんでしょ」 ちとせはゆっくり顔を上げた。「だいたいの方角だけ」「何で今まで黙ってたの」「森部さんが、近づくなって言ってたから」「いつ聞いたの?」「最初に来た夜。みんなが人形の部屋を探してる時」 美怜の胸の奥で、薄い疑いが形を持った。「二人で話したの?」「少しだけ」「何を?」「井戸に蓋があること。絶対に開けるなってこと」 燈夜が車の外から舌打ちした。「知ってて黙ってたのかよ」「言ったら、あんたが開けると思ったから」「今も開けるけどな」「だから黙ってた」 ちとせの声は静かだった。 しかし、膝の上で握った手は震えている。 美怜はそれ
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第16話 人形師の帳面

 井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに
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第17話 壁の中の子守唄

第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
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第18話 爪の下の土

 頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
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第19話 掘り返した赤い糸

 昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
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