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第40話 先生は三十一人と言った

 榊原澄江の家は、楢守小学校から車で二十分ほど離れた古い住宅街にあった。 午後二時過ぎ。 低い塀の向こうに、小さな平屋が見える。庭には朝顔の支柱と植木鉢が並び、軒下では洗濯物が風に揺れていた。 閉鎖校舎の湿った空気とは正反対だった。 どこにでもある、老人の住む家。 鬼束美怜は門柱の表札を確認する。 榊原。「本当にここ?」 茅森イオが小声で訊いた。「住所は合ってる」 津守怜吾がスマートフォンを確認する。 二十三年前。 楢守小学校六年二組担任。 榊原澄江。 当時五十歳。 現在七十三歳。 学校広報や地域活動の古い資料を辿り、ようやく住所まで辿り着いた。「配信は?」 美怜が訊く。「しない」 怜吾は即答した。「何で」「元教員とはいえ一般人だ。まず取材だけ」「録画はするんでしょ」「許可が出れば」 轟木燈夜が門の外から家を眺めた。「七十三って、まともに覚えてんのかよ」「宇佐見さんは三十四でも忘れた」 斑鳩ちとせの言葉に、燈夜が顔を向ける。「それ本気で記憶消されたと思ってんの?」「今その話する?」「お前が振ったんだろ」 美怜は二人を無視し、呼び鈴を押した。 玄関の奥で音が鳴る。 一度。 二度。 しばらくして、室内から足音が近づいてきた。 ゆっくり。 すり足に近い。「どちらさま?」 扉越しの女性の声。 怜吾が名乗り、楢守小学校について話を聞きたいと告げた。 短い沈黙。「楢守?」 声の温度が僅かに変わった。「はい。六年二組についてです」 さらに長い間。 鍵が外れる。 扉が細く開いた。 榊原澄江は、小柄な女性だった。 白髪を耳の下で切り揃え、薄い灰色のカーディガンを羽織っている。背は少し曲がっていたが、目元には教職に長くいた人間らしい強さが残っていた。 五人を見る。 最初に美怜。 燈夜。 イオ。 怜吾。 最後にちとせ。 ちとせを見た瞬間だけ、澄江の目が止まった。「あなた……」 ちとせの肩が僅かに強張る。「はい?」 澄江は目を細めた。 何かを探すように、ちとせの顔を見つめる。 やがて首を横へ振った。「ごめんなさい。知っている方に似ていた気がして」「誰に?」 美怜がすぐ訊く。 澄江は答えなかった。「学校のことでしたね」 扉を開く。「長くは話せませんけど
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第40話 先生は三十一人と言った

 榊原澄江の家は、楢守小学校から車で二十分ほど離れた古い住宅街にあった。 午後二時過ぎ。 低い塀の向こうに、小さな平屋が見える。庭には朝顔の支柱と植木鉢が並び、軒下では洗濯物が風に揺れていた。 閉鎖校舎の湿った空気とは正反対だった。 どこにでもある、老人の住む家。 鬼束美怜は門柱の表札を確認する。 榊原。「本当にここ?」 茅森イオが小声で訊いた。「住所は合ってる」 津守怜吾がスマートフォンを確認する。 二十三年前。 楢守小学校六年二組担任。 榊原澄江。 当時五十歳。 現在七十三歳。 学校広報や地域活動の古い資料を辿り、ようやく住所まで辿り着いた。「配信は?」 美怜が訊く。「しない」 怜吾は即答した。「何で」「元教員とはいえ一般人だ。まず取材だけ」「録画はするんでしょ」「許可が出れば」 轟木燈夜が門の外から家を眺めた。「七十三って、まともに覚えてんのかよ」「宇佐見さんは三十四でも忘れた」 斑鳩ちとせの言葉に、燈夜が顔を向ける。「それ本気で記憶消されたと思ってんの?」「今その話する?」「お前が振ったんだろ」 美怜は二人を無視し、呼び鈴を押した。 玄関の奥で音が鳴る。 一度。 二度。 しばらくして、室内から足音が近づいてきた。 ゆっくり。 すり足に近い。「どちらさま?」 扉越しの女性の声。 怜吾が名乗り、楢守小学校について話を聞きたいと告げた。 短い沈黙。「楢守?」 声の温度が僅かに変わった。「はい。六年二組についてです」 さらに長い間。 鍵が外れる。 扉が細く開いた。 榊原澄江は、小柄な女性だった。 白髪を耳の下で切り揃え、薄い灰色のカーディガンを羽織っている。背は少し曲がっていたが、目元には教職に長くいた人間らしい強さが残っていた。 五人を見る。 最初に美怜。 燈夜。 イオ。 怜吾。 最後にちとせ。 ちとせを見た瞬間だけ、澄江の目が止まった。「あなた……」 ちとせの肩が僅かに強張る。「はい?」 澄江は目を細めた。 何かを探すように、ちとせの顔を見つめる。 やがて首を横へ振った。「ごめんなさい。知っている方に似ていた気がして」「誰に?」 美怜がすぐ訊く。 澄江は答えなかった。「学校のことでしたね」 扉を開く。「長くは話せませんけど
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第41話 倉庫から聞こえた返事

 榊原澄江の家を出た時には、空がもう薄く暮れ始めていた。 門を閉めても、美怜の耳にはまだ少女の声が残っていた。「ここにいます」 畳の上へ残った二つの裸足跡。 固定電話の向こうから聞こえた、二十三年前の澄江自身によく似た教師の声。 そして、ようやく澄江が口にした深町ことはの名前。 車へ戻っても、誰もすぐにはエンジンをかけなかった。 運転席の怜吾はハンドルへ両手を置き、正面を見ている。 助手席の燈夜は右腕を窓際へ押しつけたまま、何度も指を開閉していた。 後部座席。 美怜とイオの間に座るちとせは、膝の上で両手を組んでいる。「先生、最後に何て言ってた?」 美怜が口を開いた。「ことはが学校へ戻ったところを見たのは用務員」 怜吾が答える。「そこじゃなくて、そのあと」「体育倉庫」 ちとせが言った。 美怜が横を見る。 返事が早かった。「聞いてたんだ」「同じ部屋にいたでしょ」「そうだけど」 澄江は、五人が帰ろうとした直前、もう一つだけ話した。 ことはが最後に目撃された場所は六年二組ではない。 体育館裏の旧体育倉庫。 卒業式で使う折り畳み椅子を片づけるよう頼まれ、一人で倉庫へ向かう姿を用務員が見ている。 ただし、それを澄江が知ったのは翌朝だった。「教師が小学生一人に椅子片づけさせたの?」 イオが顔をしかめる。「当番だったって」「三十脚とかあるでしょ」「全部じゃない。数脚だけらしい」「それでも夕方一人で?」「当時のことまで知らない」 美怜はスマートフォンを開いた。 楢守小学校の平面図。 体育館は校舎西側。 その裏へ細長い倉庫がある。 図面上の表記は《体育器具庫》。「これ?」「そこだ」 燈夜が覗く。「解体図面にもある。体育館と一緒に潰す予定」「鍵は?」「倉庫まではマスターで開くか分からねえ」「開かなかったら?」 美怜が訊く。 燈夜が笑った。「開ける」 その言い方だけで十分だった。 怜吾がエンジンをかけた。 車内へ低い振動が広がる。「今日は配信しない」 美怜が眉を上げる。「何で?」「まず確認する」「また?」「澄江さんの証言が出た直後だ。場所を公開したら、先回りされる可能性がある」「人間の犯人に?」「その可能性も含めて」 燈夜が助手席で鼻を鳴らした。「なら余計、捕まえや
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第42話 壁の向こうは外

 白い上履きが、三度目の「はい」と同時に止まった。 旧体育倉庫の奥。壊した小部屋の入口から差し込む懐中電灯の光が、黄ばんだ布地とひび割れたゴムを細く照らしている。 誰も履いていない。 それでも、上履きは先ほどまで二歩、確かに前へ進んだ。 鬼束美怜は喉の奥に溜まった息を、ゆっくり吐いた。 壁の向こうからは、もう返事がしない。 代わりに、何かが爪で硬い面を擦る音が続いている。 かり。 かり、かり。 コンクリートの壁。 図面上では、その先は校庭だった。「壊す」 轟木燈夜が言った。 斑鳩ちとせが顔を上げる。「待って」「またかよ」「外壁なんでしょ」「だから壊せば分かる」「建物自体が古い。下手に崩したら――」「一面ぶっ壊すなんて言ってねえよ」 燈夜は倉庫の入口近くへ置いていた工具袋を引き寄せた。 父親の会社から持ち出したらしい小型のハンマーとバール。解体予定の施設へ入るたび、彼は持ち込む道具を増やしていた。「人間が仕込んでんなら、この壁のどっかにスピーカーか空洞がある。穴開けりゃ終わりだ」 津守怜吾が図面へ視線を落とす。「構造壁の可能性は低い。倉庫の外周だが、この部分だけ補修材が違う」 ライトを横から当てる。 確かに、声がする辺りだけコンクリートの色が微妙に薄かった。 周囲はざらついて灰色に黒ずんでいるのに、縦一メートル、横七十センチほどの部分だけ表面が平らだ。「後から埋めた?」 茅森イオが訊く。「可能性はある」「じゃあ、やっぱ中に何かあるじゃん」 美怜はスマートフォンを構え直した。「撮るよ」「配信は?」 イオが見る。「まだしない。怜吾が警察とか言い出すから」 皮肉っぽく笑う。 怜吾は何も返さなかった。 上履きは透明な袋へ入れず、その場に置いたままだった。二十三年前の失踪事件と結びつくなら、本来は誰も触るべきではない。 だが、壁の向こうから聞こえた三度の返事が、五人の判断を曖昧にしていた。 燈夜がハンマーを握る。「離れろ」 一撃。 ごん。 重い音が倉庫へ響いた。 壁の表面に小さな亀裂が走る。 同時に。 壁の向こうから、 どん。 と同じ強さの音が返った。 燈夜の腕が止まる。「今の」 イオの声が細くなる。「反響」 燈夜はすぐに言った。「外壁に当たった音が返っただけだ」
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第43話 仕掛けたカメラ

 壁から浮き出た小さな手形は、五人が見ている前で少しずつ沈んでいった。 指。 掌。 爪先。 柔らかな粘土へ押しつけられたように盛り上がっていた輪郭が、硬いコンクリートの中へ戻っていく。 最後に残ったのは、歪んだ四文字だけだった。 あけて。 鬼束美怜は自分の頬へ触れた。 人形の怪異が始まって以来、薄くなったり熱を持ったりする舐め跡が、今は火傷のように熱い。「これも撮れてる?」 声を出すと、思った以上に掠れていた。「全部」 津守怜吾は壁から接触式マイクを外さずに答えた。 録音機の画面では、少女の声と打撃音の波形が残っている。 せんせい。 ここ。 暗い。 開けて。 その合間に、内側から壁を叩く音。 だが壁の向こうは校庭だった。 轟木燈夜が開けた穴から、夕闇に沈み始めた地面が見えている。 人間が立てる空間など存在しない。「壁の中に配管でも通ってんだろ」 燈夜が言った。 右手にはまだハンマーを握っている。「そこにスピーカー突っ込んで、振動板か何か仕込めばできる」「手形は?」 茅森イオが訊く。「薄い樹脂貼って、裏から押す」「コンクリートに?」「見た目だけだろ」「さっき燈夜が叩いたとこ、普通に硬かったじゃん」「全部同じ材質とは限らねえ」 燈夜の声が荒くなる。 説明というより、自分自身へ言い聞かせている。 美怜はそれを笑わなかった。 自分も同じだった。 同じ誰かが仕込んでいる。 繭守邸も。 人形も。 楢守小学校も。 そう考えれば、まだ足元がある。 人間なら捕まえられる。 顔を晒せる。 笑いものにできる。 それで終わる。「一回、中戻ろ」 イオが両腕を擦った。「外、寒い」「寒いのは壁の近くだけだ」 斑鳩ちとせが小さく言った。 美怜が彼女を見る。「何?」「離れると普通」 確かにそうだった。 壁から三歩も離れれば、湿った夕方の空気へ戻る。 手形の浮かんだ場所だけが、冷蔵庫の扉を開いた前のように冷えていた。「だから中に何かあるんだろ」 燈夜はまた同じ結論へ戻した。「全部剥がせば――」「待て」 怜吾が急に言った。 壁ではない。 体育倉庫の屋根付近を見ている。「何」 美怜も振り向く。 倉庫の軒下。 錆びた雨樋。 コンクリートの継ぎ目。 夕方の光を受け、一瞬だ
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第44話 写真を貼り替えた人間

 職員室の壁へ掛けられた卒業写真は、右下だけがわずかに浮いていた。 津守怜吾が気づいたのは、フードを被った人物の監視映像を一通り確認したあとだった。 夕方の職員室。 窓の外は暗く、非常灯の青白い光がガラスへ五人の姿を薄く映している。机の上には回収した八台の小型カメラと、新品のワイヤレススピーカー。どれも手で触れられる、人間が設置した物だった。 そのせいか、美怜たちの緊張は少し緩んでいた。「これ、傾いてない?」 怜吾が壁を照らす。 古い額縁。 二十三年前の卒業生たちが学年ごとに並ぶ大判写真。 その中に、六年二組もいる。 鬼束美怜が近づいた。「元からじゃない?」「左は壁についてる。右だけ浮いてる」 怜吾は手袋を替えた。 額縁の下へ指を入れる。「外すぞ」「何か出る?」 茅森イオがスマートフォンを構える。「出たら撮る」 轟木燈夜が先に額縁の片側を持った。「重っ」「落とすな」「分かってる」 二人で持ち上げる。 壁の金具から外した瞬間、裏側で粘着質な音がした。 べり。 五人の動きが止まる。「今の何」 美怜が額縁の裏へ回る。 壁紙へ、透明なものが残っていた。 両面テープ。 しかも古くない。 粘着面はまだ透明で、埃もほとんど噛んでいない。「新しいじゃん」 イオが言った。「少なくとも二十三年前の物じゃないな」 怜吾はピンセットで端を持ち上げる。 柔らかい。 粘着力も残っている。 燈夜の顔へ笑みが戻った。「ほら」「まだ何も――」「いや、これで十分だろ」 燈夜は額縁を机へ寝かせる。「誰か最近ここに入って、写真触ってんじゃねえか」 美怜も額縁を覗く。 裏板。 四隅の留め具。 そのうち二つだけ、金属の色が違った。 新しい。「開けて」「記録してから」 怜吾が全体を撮影する。 ネジ。 テープ。 壁側の跡。 指紋が残っている可能性のある箇所には触れない。 撮影を終えると、燈夜が待ち切れないように裏板を外した。 厚紙。 その下。 写真。 だが、一枚ではなかった。「二枚重なってる」 美怜が声を上げる。 表側へ見えていた卒業写真の下に、薄い複製紙が貼られている。 怜吾が慎重に剥がす。 紙の裏には、家庭用ではない高精細プリンター特有の印刷痕。「コピー?」 イオが訊く。
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第45話 イオの顔が映らない

 最初に異変へ気づいたのは、五人ではなかった。 職員室の中央へ置いた配信用モニター。 流れ続けていた文字が、ある瞬間から同じ内容で埋まり始めた。 ――イオどこ? ――イオいないじゃん ――さっきまでいたよね ――服だけ映ってる ――何これ「は?」 茅森イオはカメラの真正面に立っていた。 両手を腰へ当て、わざと大きく首を傾げる。「いますけどー?」 明るい声。 蜂蜜色のボブ。 左右で色の違うカラーコンタクト。 黒いパーカーの袖を肘まで捲り、短いスカートの下には厚底のスニーカー。 鬼束美怜の目には、いつものイオがはっきり見えている。 頬も。 目も。 唇も。 失った奥歯を気にして、笑う時だけ左側の口元を少し狭くする癖も。「何、また釣ってんの?」 美怜がコメントへ笑いかける。「普通に横にいるけど」 だが津守怜吾は笑わなかった。 固定カメラの確認画面を見つめている。 右手がマウスの上で止まっていた。「イオ」「何?」「動くな」「だから何なの」「そのまま」 怜吾が映像を拡大する。 職員室全体。 古い事務机。 窓。 卒業アルバムを置いた棚。 鬼束美怜。 轟木燈夜。 津守怜吾。 斑鳩ちとせ。 そして茅森イオ。 身体は映っている。 黒いパーカー。 脚。 蜂蜜色の髪。 首。 だが、顔の中央だけが見えない。 白く消えているのではなかった。 激しく焦点がずれている。 目や鼻や口の位置だけ、濡れた硝子越しに見ているように輪郭が混ざり、肌色の霞へ溶けている。「……何これ」 美怜の笑みが少し薄くなる。 イオがモニターへ寄る。 画面の中の黒いパーカーも近づいた。 蜂蜜色の髪も揺れる。 顔だけ。 どれほど近づいても、ぼやけたまま。「カメラ壊れた?」 イオは笑った。「顔認識できてないとか?」「顔認識は使ってない」「じゃ、レンズ」「美怜は映ってる」 怜吾が美怜へカメラを振る。 顔。 はっきり。 燈夜。 問題なし。 ちとせ。 問題なし。 イオへ戻す。 ぼやける。「面白」 イオが自分の頬を両手で挟んだ。「私だけ加工入ってるじゃん。勝手に美肌フィルター?」「笑えない」 ちとせが言った。「何で?」「別ので撮って」 怜吾はすでに動いていた。 撮影バッグから
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第46話 出席した者から消える

 茅森イオのスマートフォンは、床へ落ちたまま配信を続けていた。 画面の中には四人がいる。 鬼束美怜。 轟木燈夜。 津守怜吾。 斑鳩ちとせ。 そして四人の中央に、黒いパーカーだけが立っていた。 中身が空なのではない。 肉眼では、そこにイオがいる。 蜂蜜色の髪。 左右で色の違う瞳。 涙で濡れた頬。 荒く上下する肩。 失った奥歯の側を歪め、唇を震わせている。 美怜はその手を握っていた。 温かい。 脈もある。 爪が掌へ食い込む痛みも伝わる。「イオ」 呼ぶ。 イオの目が美怜へ向いた。「いるよね」「いる」「ちゃんと見えてる?」「見えてるって」「顔も?」「見えてる」「嘘じゃない?」「何で嘘つくの」 美怜は強く言った。 けれど視線を床のスマートフォンへ落とすことができなかった。 画面の中で、イオの黒いパーカーだけが震えている。 袖の先には手が映っていた。 脚もある。 だが首から上。 何もない。 蜂蜜色の髪まで消えていた。 校内放送。「出席を確認しました」 女教師の声が繰り返す。「茅森イオさん」 イオが両耳を塞いだ。「もう返事しない」 泣きながら首を振る。「もう絶対しないから」「出よう」 ちとせが言った。「今すぐ学校の外へ」 燈夜が昇降口の扉へ手を掛ける。「開くぞ」 重いガラス戸。 がらり。 夜気が入る。 外は普通だった。 校庭。 校門。 その向こうを走る車の灯り。「行く」 美怜はイオの腕を引いた。 一歩。 外へ。 イオの足が敷居を越えた瞬間。 学校中で机を引く音がした。 ぎい。 一つではない。 何十。 何百。 各教室の椅子が一斉に引かれたような音。 美怜は振り返った。 廊下には誰もいない。「見るな」 怜吾が言う。「車まで行く」 五人は校庭を横切った。 イオは自分の顔を何度も触っている。 頬。 鼻。 目。 髪。「ある」 小さく呟く。「ちゃんとある」 美怜は隣を歩いた。「あるよ」「でも映らない」「機械がおかしいだけ」「鏡もだった」「学校の中の鏡だったじゃん」「じゃあ外なら戻る?」「戻る」 美怜は断言した。 根拠はなかった。 イオが今にも崩れそうだったから。 校門を越える。 怜吾が車のサイドミラーを指
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第47話 六時六分を止める

 六時六分という時刻そのものを、この学校からなくせばいい。 津守怜吾がそう言った時、最初に笑ったのは美怜だった。「何それ。時計全部ぶっ壊すってこと?」「正確には、六時六分を表示できる物を止める」 大学の編集部室。 机の上には楢守小学校の平面図と、電気設備図、それから校内各所で撮影した映像の静止画が並べられていた。 壁掛け時計。 職員室。 体育館。 保健室。 家庭科室。 図書室。 各階廊下。 正面玄関の大時計。 閉校後に撤去された物も多い。それでも校内には十数個が残っている。「六時六分になるたび、出席が始まる」 怜吾はペンで図面へ丸をつけていった。「最初に正面時計が動いた。教室の時計。体育館。放送設備。全部時刻と連動してる」「だから時計を壊す?」 イオが自分の右手首を見た。 赤白の組紐。 ちとせが巻いたあと、一度はカメラにも鏡にも顔が戻った。 だが完全ではない。 ときどきスマートフォンの画面で、イオの目元だけが一瞬ぼやける。 そのたび彼女は何も言わず、自分の頬へ触れていた。「時計壊したら、本当に止まるの?」「分からない」 怜吾は即答した。「でも検証できる」「また検証」 イオは乾いた笑いを漏らす。「私、次に失敗したら顔だけじゃ済まなそうなんだけど」 美怜が隣から肩を軽く叩いた。「今回は返事しなきゃいいじゃん」「この前、それでどうなったか忘れた?」 本人たちは黙っていた。 それでも五人分の声が、勝手に「はい」と返した。 斑鳩ちとせは窓際に立ったまま、図面を見ていなかった。「時計を壊す必要はないと思う」 轟木燈夜が顔を上げる。「何で」「止めるだけでいい」「壊した方が確実だろ」「解体予定でも、まだ学校の物だよ」「今さら器物損壊気にしてんの?」 燈夜が鼻で笑う。「廃校入って、黒板に落書きして、壁までぶっ壊したあとで?」「そういう意味じゃない」「じゃあ何」 ちとせは少し黙った。「壊すって、形を変えることでしょ」「だから?」「時間がなくなるわけじゃない」 美怜が笑った。「急に詩人?」「違う」「じゃあ普通に言って」 ちとせは右手首を押さえた。 かつてそこへ食い込んでいた組紐の跡が、赤と白の細い筋として残っている。「時計を壊しても、六時六分そのものは来る」 怜吾が彼
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第48話 卒業式を始めます

 女教師が出席簿を開く音が、暗い校舎の奥から響いた。 ぱら。 紙を一枚めくる。 ぱら。 もう一枚。 鬼束美怜は、壊れた正面時計から目を離せなかった。 文字盤は割れている。 長針も短針も、燈夜がバールで叩き落とした。二本の針は足元のコンクリートへ転がったままだ。 それなのに、文字盤には二本の影がある。 短い影は六。 長い影は六分。 午後六時六分。 美怜の手の中のスマートフォンも、同じ時刻で止まっている。 18:06。 秒表示は〇〇から進まない。「帰ろう」 イオが掠れた声で言った。 右手首の赤白の組紐を左手で強く握っている。「もう十分じゃん。時計壊しても駄目だった。今日もう――」 言葉の途中で、校舎の西側が真昼のように明るくなった。 ばっ、と白い光が地面へ落ちる。 五人が同時に振り向く。「体育館」 怜吾が言った。 体育館の窓という窓から、白い照明が溢れている。「電気、切れてるんじゃなかったの」 イオが後ずさる。「切れてる」 燈夜が答えた。「だからさっきから、それ何回――」 美怜は言いかけて、口を閉じた。 体育館から音楽が聞こえてきた。 古い電子オルガン。 ゆっくりした和音。 学校行事で流れるような、妙に厳かな曲。 怜吾がカメラを向ける。「録る」「行くの?」 ちとせが訊く。「確認だけ」「中に入る必要ない」「窓から見ても分からない」「分からなくていい」 ちとせの声は強かった。 燈夜が顔をしかめる。「お前、何しに来てんだよ」「帰るため」「じゃあ一人で帰れ」「燈夜!」「こっちは犯人捕まえるために来てんだよ。スピーカーもカメラも写真の貼り替えも見つかった。ここで逃げたら、あいつの思う壺だろ」「まだ人間の犯人を捕まえる話してるの?」「人間の証拠が出てんだろ!」「人間がやったことと、今起きてることが全部同じだって証拠はない!」 二人の声が校庭へ響く。 体育館の音楽が止まった。 静寂。 燈夜とちとせも黙る。 数秒後。 体育館のスピーカーから、老人の男の声が流れた。「卒業生、入場」 美怜の背筋が粟立った。 午前零時の自動配信で聞いた校長の声。 卒業できなかった児童がいます。 一緒に卒業してください。「始まった」 イオが呟く。 体育館の扉が、ひとりでに開いた
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