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第20話 骨が一本足りない

第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第21話 燃やしてはいけない

 夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第22話 煙の中の女の子

 青い煙は、風に流されなかった。 燃え崩れた白い人形の上で、煙だけが逆さの水のようにゆっくり集まり、ひとつの輪郭を作っていた。肩、細い首、垂れた髪。腰から下は輪郭を失い、雑草の上へ薄く這っている。 湿った夕気の中、焦げた布の臭いと、灯油の刺すような臭いが混ざっていた。その奥に、井戸から吹き上がった時と同じ甘い腐臭がある。古い血を水で薄めたような匂いだった。 鬼束美怜は口元を押さえた。 煙を吸うな、と森部が言った。 だが、もう遅い。喉の奥には冷たいものが貼りつき、息をするたび舌の根元へ細い髪が触れるような感触があった。「四人だったのに。どうして、今は五人いるの?」 青白い少女がそう言ったあと、庭は異様なほど静かになった。 誰も答えなかった。 轟木燈夜でさえ、すぐには笑わなかった。 彼の右腕には五本指の痣が濃く浮き、袖の内側で何かが小さく蠢いている。茅森イオは失った奥歯の場所を舌で押さえ、津守怜吾は布を巻いた小指を胸元へ寄せていた。 斑鳩ちとせだけが、少女から目を逸らさなかった。 袖口の下で、赤白の組紐が脈打っている。「……何のこと?」 美怜がようやく言った。 喉が乾いていた。「四人って誰?」 少女は答えない。 口元だけが笑った。 その身体が、ふっと崩れる。 人の形を保っていた青い煙がほどけ、細い筋となって庭へ広がった。「来るな」 森部忠一が掠れた声を上げた。 地面へ片膝をついたまま、両手で胸元を押さえている。「屋敷へ入れるな」「煙をどうやって止めんだよ」 燈夜が吐き捨てる。「燃やすなって言った。器がなくなれば、戻る場所を探す」「じゃあ、あのボロ屋に戻るだけだろ」「違う。あそこは家じゃない」 森部の息が乱れる。「集めたものを置く場所だ」 青い煙が足元を通り抜けた。 冷たい。 炎から出たものとは思えないほど冷えている。 美怜の足首を撫でた一筋が、そのまま屋敷の方角へ向かった。 続いて別の筋。 さらに別の筋。 煙は細い川のように庭を横切り、開いたままの玄関へ流れ込んでいく。 戸口の暗闇が煙を吸った。 途端に屋敷の奥で、複数の戸が一斉に開く音がした。 ばん。 ばん。 ばん。 二階からも、一階からも響く。 誰もいないはずの部屋を、何人もの人間が走り回り始めた。 裸足の足音。 爪で壁を
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第23話 灰から生えた髪

 白い人形は、朝までに形を失った。 繭守邸の庭へ戻った五人の前に残っていたのは、黒く焼けた鉄製の台と、湿った灰の山だけだった。 前夜、青白い炎の中で最後まで燃え残っていた幼い肋骨も、歯も、髪も見当たらない。灰は雨上がりの湿気を吸い、泥のように重く地面へ張りついている。 ところどころに白い粒が混じっていた。 骨なのか。 歯なのか。 それとも、ただの石なのか。 津守怜吾は手袋をした指で一粒を摘み、透明な試料袋へ入れた。「完全に燃えたな」 轟木燈夜が言った。 声には疲れがあった。 それでも口元には笑みが残っている。「ほら。やっぱ壊せば終わるんだよ」 鬼束美怜は返事をせず、灰の山を見下ろした。 昨夜ここで、森部忠一が倒れた。 草の上へ横たわり、口から黒髪を吐きながら胸を押さえていた。 救急車の中で一度だけ意識を取り戻し、 五人ではない。 見ている者まで数えろ。 そう言い残して死んだ。 その記憶と、目の前のただの灰とが、美怜の中でうまく繋がらなかった。「本当に終わったと思う?」 イオが訊いた。 蜂蜜色の髪を耳へ掛けた時、唇の隙間から左下の奥歯が欠けた空間が見える。「何、終わってほしくないの?」 美怜が返す。「そういう意味じゃないけど」「人形はもうない。女の子もいない。煙も消えた」 燈夜は靴先で灰を蹴った。 黒い塊が崩れ、細かな粉になって舞う。 斑鳩ちとせが鋭く顔を上げた。「蹴らないで」「灰だろ」「吸わない方がいい」「昨日あんだけ吸ったあとで言う?」 燈夜が笑う。 灰色の粉が、朝の薄い光の中へ浮かんだ。 五人は反射的に顔を背けた。 しかし、すべてを避けることはできない。 美怜の鼻先へ細かな粉が触れる。 咳が出た。「ほら」 ちとせが袖で口を覆う。「だから言ったのに」「何でも呪い扱いすんなよ」 燈夜はそう言って、さらに灰の中央を靴底で押し潰した。 その下から、小さな金属片が出た。 人形の内部に使われていた針金らしい。 焼けて曲がり、先端が輪になっている。 輪の中には、赤い糸が一本だけ残っていた。 火を浴びたはずなのに焦げていない。 ちとせの手首に沈んでいるものと、同じ赤だった。 美怜は見なかったことにした。 怜吾だけがカメラへ収めた。 そして何も言わず、撮影を止めた。  
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第24話 五人分の箱

 呼び鈴が鳴ったのは、午前七時六分だった。 鬼束美怜は洗面所の前で足を止めた。 つい数分前まで、排水口から伸びた黒髪と、勝手に始まった〈KOWASU〉の生配信を見ていた。画面の中には五人の自室を模した小さな部屋が並び、その中央にだけ、誰もいない六つ目の部屋があった。 その映像は、白い文字を残したまま突然途切れた。 ひとりぶん、あいた。 消えた画面を見つめている間に、玄関からもう一度呼び鈴が鳴る。「美怜、出て」 台所から沙和の声がした。 美怜は返事をせず、頬へ張りついていた黒髪を指先で摘んだ。歯茎の奥から伸びていたはずの髪は、いつの間にか抜け落ちている。 掌には、黒い水の筋だけが残っていた。「今行く」 玄関へ向かう。 廊下を歩くたび、床へ小さな泥の跡がついた。 裸足ではない。 足も汚れていない。 それでも、美怜の歩いたあとへ黒い足跡が一つずつ増えていく。 気づかないふりをした。 玄関のモニターを見る。 誰も映っていない。「何?」 沙和が台所から顔を出す。「宅配じゃないの?」「人いない」 美怜が扉を少しだけ開ける。 朝の湿った空気が入り込んだ。 共用廊下にも、人影はない。 足音も、エレベーターの動く音も聞こえなかった。 扉の前に、木箱が置かれている。 四十センチほどの細長い箱。 古い木で作られ、角には黒い金具が打ちつけられている。宅配便の伝票も、送り状もない。 蓋の中央へ、美怜の名前だけが書かれていた。 鬼束美怜様。 黒い墨。 まだ乾き切っていないように、文字の表面が濡れて光っている。「何それ」 沙和が背後から覗く。「知らない」「最近の撮影の物じゃないでしょうね」「違うって」「だったら触らないで。警察へ――」 美怜は箱を持ち上げた。 思ったより軽かった。 中で、かち、と硬いものが鳴る。「美怜」「私宛てなんだから見るだけ」「送り主も分からない物を家へ入れないで」「うるさいな」 言葉が強くなる。 沙和の眉が寄った。 美怜はその表情から目を逸らし、自室へ箱を運んだ。 扉を閉める。 床へ箱を置く。 金具には鍵がなかった。 蓋へ指をかける。 冷たい。 木箱なのに、冷蔵庫から出したばかりの金属へ触れたような冷気が指へ染みた。 一度だけ息を止め、開く。 中には赤い布が敷
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第25話 箱の中の視聴者

 六つ目の木箱は、誰も触れていないのに呼吸していた。 大学の部室。その隅へ置かれた箱の蓋が、ごくわずかに持ち上がっては沈む。木材が擦れるたび、き、と細い音がした。内側へ生き物が横たわり、胸を上下させているようだった。 正面には黒い文字。 見ていた人へ。 鬼束美怜は、その文字から目を離せなかった。 先ほどまで《視聴者様》とだけ記されていたはずだ。配信画面が暗転し、黒い髪がレンズへ触れたあと、文字は変わっていた。 机の上には五つの箱が並んでいる。 美怜。 燈夜。 イオ。 怜吾。 ちとせ。 それぞれに届いた、自分たちを模した小型人形。 そして部室の隅には、誰にも届かなかった六つ目。「開けようよ」 美怜が言った。 斑鳩ちとせがすぐに顔を上げる。「本気?」「ここまで見せて開けない方が変でしょ」「さっき中から音してたじゃん」「だからだよ」 美怜はスマートフォンへ表示されている数字を見た。 配信は一度切った。それでも通知欄には、再開を待つ書き込みが途切れず増えている。六箱目が現れた場面はすでに切り取られ、拡散され始めていた。 見ていた人へ。 その文字だけを大きく抜いた画像が、短い時間で何千回も共有されている。 胸の奥に残っていた森部の死への重さが、数字を見るたび薄くなる。 忘れたわけではない。 ただ、恐怖も後悔も、画面へ映せば別のものになる。 数字になる。 それなら、まだ扱える。「特別配信にする」 美怜は髪を耳へ掛けた。「六個目だけ開ける。今度は最初から最後まで固定でも撮る」「燃やした結果があれだったのに、まだ開けるの?」 ちとせの声は低かった。「燃やしたから箱が来たって決まったわけじゃない」「でも――」「怖いなら外で待ってれば?」 美怜が笑う。 ちとせの口が閉じた。 ほんの一瞬、その目に怒りが浮かんだ。以前なら、そのまま冗談へ流したはずだった。だが今のちとせは笑わない。「私は残る」「じゃあ決まり」 轟木燈夜はソファの背へもたれ、面倒そうに六箱目を見ていた。「開けるなら早くしろよ。俺はこんな箱より、送り主を見つける方が先だと思うけどな」「送り主が分かるもの入ってるかもしれないじゃん」 茅森イオが言う。 いつもの明るさを作ろうとしていたが、右手は自分の人形の箱から離れたままだった。「住
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第26話 六時六分に返事をするな

 森部忠一が死んでから三日で、〈KOWASU〉の登録者は二十二万人増えた。 数字だけを見れば、過去最高の伸びだった。 鬼束美怜はノートパソコンの画面へ肘をつき、右手の人差し指で更新ボタンを押した。数字がまた増える。数十。更新する。さらに増える。 画面の脇では、批判の投稿が雪崩のように流れていた。 救急車を呼ぶのが遅い。  倒れた老人の横で笑っていた。  人として終わっている。  あの映像を警察へ提出した。  配信をやめろ。 美怜は唇の端を上げた。「すご。まだ増えてる」 大学近くの編集部室には、昼間だというのにカーテンが閉じられていた。机の上には飲みかけのペットボトル、ケーブル、外付けの記憶媒体、そして誰も触らなくなった五体の小型人形が並んでいる。 燃やしたはずの白い人形と同じ顔。 五人それぞれの服を着た、小さな自分たち。 美怜の人形の口には、母・沙和の奥歯が戻ったままだった。 見ないようにしている。「謝罪動画、出した方がいいんじゃない?」 茅森イオがスマートフォンを弄りながら言った。 以前なら笑いながら口にしただろう。今は、失った左下の奥歯を舌で確かめる癖がついている。唇がそちら側だけ不自然に動く。「何に謝るの?」 美怜が訊く。「森部さんのこと」「私たちが殺したわけじゃないじゃん」「でも、撮ってたし」「撮ってたら死ぬの?」 美怜は椅子を回し、カメラの方へ身体を向けた。 津守怜吾がレンズを調整している。左手の小指には黒い布が巻かれ、その下で子どもの小さな爪が生きたまま伸び続けていた。 轟木燈夜は窓際のソファへ寝そべり、右腕を腹の上へ置いている。五本指の痣は黄色く薄れていたが、時折、腕の内側を何かが移動するたび眉がわずかに寄った。 斑鳩ちとせは、一人だけ机から離れていた。 右手首にはもう赤白の組紐がない。 だが皮膚には、紐を編み込んだような赤と白の筋が残っている。「死人が出たからって幽霊が本物になったわけじゃないでしょ」 美怜は笑った。 怜吾の指が一瞬止まった。 イオも笑わない。 燈夜だけが鼻で笑った。「それ、そのまま使えるな」「何が?」「冒頭」 美怜の口角がさらに上がる。「じゃ、それでいこ」 ちとせが窓の外を見たまま言った。「森部さんが死んだ場所、まだ警察が調べてるよ」「だから繭守
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第27話 閉鎖校舎の六年二組

 午後六時を告げたはずの正面時計は、五人が昇降口へ駆け込んだあとも動かなかった。 長針は十二。短針は六。 校庭を振り返れば、夕闇の中にその二本だけが白く浮かんで見える。「あと六分」 津守怜吾が腕時計を確認した。 午後六時〇〇分四十二秒。 六年二組は三階。燈夜の持ってきた図面では、正面昇降口から中央廊下を右へ進み、二つ目の階段を上がれば最短だった。「走れば二分もかかんないでしょ」 鬼束美怜は配信用のスマートフォンを持ち直した。 画面の端では、文字が休みなく流れている。 ――今の放送聞こえた  ――「まだ返事しないでね」って誰  ――六時六分まで行くな  ――帰れ  ――昇降口の奥に子どもいる 美怜は最後の一文を指で払い、コメントを流した。「はいはい。見えた人はスクショよろしく」 声を軽くしたつもりだった。 しかし、校舎の中へ一歩入った瞬間、その声は不自然に遠くまで響いた。 靴底が古いタイルを踏む。 こつ。 四人分の足音が続く。 最後にちとせ。 五つ。 そのあと。 ぺた。 裸足の音が一つだけ遅れて返った。 美怜は振り向かなかった。 繭守邸で何度も聞いた音だった。聞こえなかったことにする術だけは、少しずつ身についている。 昇降口には下駄箱が並んでいた。 大半の扉が外され、中身も空になっている。児童名の札も剥がされ、長い年月の埃が灰色の膜を作っていた。 廊下の照明は点いていない。 電気は止められている。 燈夜がそう言っていた。 それなのに、天井近くへ取りつけられた緑色の非常灯だけが等間隔に灯っていた。 青白い光。 一つ。 二つ。 三つ。 廊下の奥まで続いている。「非常電源だけ生きてるとか?」 茅森イオが言った。 蜂蜜色の髪が、暗い廊下では灰色に見えた。失った奥歯の場所を舌で触る癖が出ている。「二か月後に解体なら、最低限残してる可能性はある」 怜吾が壁の分電盤へカメラを向ける。 燈夜が横から言った。「いや、ここは切ってるはずだぞ。図面と一緒に電気設備の停止表もあった」「じゃあ非常灯だけ別系統」「だから、それも落としてるって」 轟木燈夜は苛立たしげに非常灯を見上げた。 薄緑の光が、銀髪の根元を冷たく照らす。「電池式じゃないの?」 美怜が訊く。「知らねえよ。設備屋じゃねえ」
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第28話 誰もいない教室の出席

 教卓の後ろから聞こえた「ひとり、たりない」という声が消えたあと、六年二組には妙な静けさだけが残った。 鬼束美怜はスマートフォンを握ったまま、教室の最後列を見つめていた。 三十二組の机と椅子。 窓際から六番目だけ、椅子が机の奥へきちんと押し込まれている。先ほどまで床へ落ちていた三十二人分の影も、今は跡形もなく消えていた。 黒板には白い文字。 まだ五人 誰も触れていない。 燈夜が消した名字も、美怜自身が書いた〈KOWASU参上〉もなくなっている。「録れてる?」 美怜が小さく訊いた。 津守怜吾は返事をせず、胸元のカメラを確認した。 赤い録画ランプは点灯している。「映像は残ってる」「じゃあいいじゃん」「何がいいんだよ」 斑鳩ちとせが振り返った。 声には、隠し切れない苛立ちが混じっていた。「今、教卓の後ろから声したよね」「だから撮れてるならいいって意味」「そういう話してない」「じゃあ何。帰る?」 美怜は口元だけで笑った。「せっかく六時六分に間に合ったのに?」「……まだ六時五分だよ」 ちとせの言葉に、全員が止まった。「は?」 燈夜が腕時計を見る。 午後六時五分三十七秒。 怜吾も自分の時計を確認する。「五分三十八秒」 美怜はスマートフォンを見た。 六時五分三十八秒。 数秒前、確かにチャイムが鳴った。 教室の時計は六時六分を示し、黒板へ《まだ五人》と書かれた。 それなのに、携帯端末の時刻はまだ六時五分台を進んでいる。「さっきのチャイム、何だったの」 イオが声を落とした。「予行演習じゃね?」 燈夜が笑った。 笑いは短かった。 教室の掛け時計を見る。 長針は一をわずかに越えた位置。 午後六時六分。 秒針はない。 だが五人の端末では、六時五分四十秒。 時間が一致していない。「こういうの、面白いじゃん」 美怜はカメラへ顔を向けた。「校舎側だけ先に六時六分になってます」 コメントが高速で流れる。 ――帰れ  ――時計ずれてるだけじゃない  ――教卓の下見て  ――出席簿ない?  ――さっきからちとせだけ時計見てない 美怜が最後の文字を読み上げる前に、ちとせが教卓へ近づいた。「これ」 教卓の棚に、分厚い冊子が入っていた。 灰色の表紙。 角が擦れ、布張りの部分には湿気による黒
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第29話 返事は六人分

 閉じた教室の扉は、誰が引いても開かなかった。 轟木燈夜が取っ手を掴み、力任せに横へ滑らせる。 がたん。 古い木枠が震えるだけで、戸は一センチも動かない。「何だよ、これ」 もう一度。 今度は肩を入れる。 がた、がたん。 廊下側から鍵をかけられる構造ではない。そもそも、引き戸に施錠具らしいものは残っていなかった。 津守怜吾は扉を押す燈夜の背中から視線を外し、机の上に置いた録音機を拾った。 小さな液晶では、収録された音声の波形がまだ細く震えている。「先に確認する」「何をだよ」「さっきの返事」「こんなとこで?」「外へ出られないなら同じだ」 怜吾の声は冷静だった。 だが左手の小指に巻いた黒い布が、少しずつ赤く染まっている。内側から伸びた子どもの爪が布地を押し上げ、尖った輪郭を作っていた。 鬼束美怜は最後列を見た。 窓際から六番目。 深町ことはの返事が聞こえた席。 椅子は、先ほど勝手に引かれた位置で止まっている。 肉眼では誰もいない。 しかし座面だけがわずかに沈み、机の天板には湿った手形が二つ残っていた。 黒板には、 出席 五名 欠席 一名 深町ことは 白い文字がそのまま残っている。「返事したのに欠席って、どういう意味なんだろ」 茅森イオが呟いた。「さっき本人が言ってただろ」 燈夜が扉を蹴るのをやめた。「ここにいないって」「じゃあ、あの『はい』は何?」「録音」「でも声、あそこからしたよ」「スピーカー仕込めばできんだろ」 燈夜は最後列を指した。「机の裏でも、床下でも」 斑鳩ちとせは答えず、古い出席簿を胸元へ抱えていた。 指先に力が入り、黄ばんだ紙がわずかに歪んでいる。 美怜はその様子へ目を細めた。「ちとせ、さっきから変だよ」「何が」「ことはって子の名前出るたび」「こんな状況なら誰でも変になるでしょ」「でも、返事するなって最初から言ってた」「昔聞いたって言ったじゃん」「どこで?」「覚えてない」「またそれ」「今、そこ掘る必要ある?」 ちとせの声に鋭さが混じった。 美怜の口元から笑みが消える。 二人の間へ、乾いた電子音が割り込んだ。 怜吾が録音機をノートパソコンへ繋いでいる。「喧嘩はあとにしろ」 彼は床へしゃがみ込み、機材ケースを開いた。 小型のノートパソコン。 
last updateLast Updated : 2026-08-20
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