All Chapters of 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む: Chapter 21 - Chapter 30

52 Chapters

第二十一話 黒霧の村

 北へ進むほど、空気は冷たくなった。 草原の緑は少しずつ色を失い、道端には灰色の岩が増えていく。 王都では春の終わりだったはずなのに、北方の風はまるで冬の名残を抱えているようだった。 馬車の窓ガラスが白く曇る。 リリアは指先でそれを拭い、外を見た。 遠くの空が黒い。 雲ではない。 黒霧だ。 昨日よりも、はっきり見える。「近づいていますね」 リリアが呟くと、向かいに座るレオンが頷いた。「ああ」 彼の声は低い。 昨夜よりも表情が硬い。 公爵として、北方を守る者としての顔だった。 けれどリリアには分かる。 その冷静な表情の奥に、焦りがあることを。「体調は?」 リリアが尋ねる。 レオンは一瞬だけ黙った。「……悪くない」「今、少し迷いましたね」「迷っていない」「嘘が下手です」「お前もな」 言い返されて、リリアは口を閉じた。 確かに、朝から胸の奥がざわついている。 月華が黒霧に反応しているのだ。 指先が時々、淡く銀色に光る。 熱いような、冷たいような、不思議な感覚。「辛いなら言え」 レオンが言った。「約束ですから、言います」「本当だな」「本当です」「ならいい」 短いやり取り。 それだけで、少し安心する。 以前なら、この人は自分の不調を隠した。 リリアもきっと、無理を隠そうとした。 けれど今は違う。 互いに不器用ながら、ちゃんと引き止め合おうとしている。 それが、少し嬉しかった。 ◇ 昼前、一行は北方の砦町ルドヴィクに到着した。 高い石壁に囲まれた町。 門には銀狼の紋章が掲げられている。 ヴァルハルト公爵領。 
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二十二話 黒霧の中へ

 夜の北方は、息が白くなるほど冷たかった。 砦の門が開く。 重い鉄の音が闇に響き、騎士たちが松明を掲げて外へ出る。 その中央で、リリアは外套の前を強く握った。 風が冷たい。 頬を刺す。 けれど、それ以上に胸の奥が冷えていた。 黒霧が近い。 見えない手で心臓を撫でられているみたいな、不快な感覚。 指先には淡い銀色の光が宿っている。「リリア様」 オーウェンが馬上から声をかける。「少しでも異変を感じたら、すぐにお知らせください」「はい」「そして、月華の使用は最小限に」「……はい」 返事が一瞬遅れたことを、オーウェンは見逃さなかった。 けれど責めなかった。 ただ、苦しそうに眉を寄せる。「閣下は、あなたを守れと命じられました」「分かっています」「ですが私は今、あなたを危険な場所へ連れて行こうとしている」 その声には葛藤があった。 リリアは小さく首を振った。「私が頼んだんです」「それでもです」「なら、私も約束します」 リリアはまっすぐ彼を見る。「無茶をする前に、必ず声をかけます」「……無茶をしない、ではないのですね」「嘘はつきたくありません」 オーウェンは一瞬だけ目を見開いた。 それから、困ったように笑った。「閣下が手を焼くはずです」「よく言われます」「でしょうね」 ほんの少しだけ、空気が和らいだ。 けれどすぐに、前方から吹きつける冷たい風が現実を思い出させた。 黒い霧。 闇の奥に、ゆっくりと蠢いている。 ◇ ミルカ村へ近づくにつれ、周囲の景色は変わっていった。 木々は葉を落とし、地面には黒い霜のようなものが張りついている。 草は枯れ、土は湿ってい
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第二十三話  銀狼の傷

 霧狼の咆哮が、黒霧の村に響き渡った。 崩れた家々が震え、井戸の水面が黒く波立つ。 霧そのものが生き物のように蠢き、リリアの足元へ絡みついた。 冷たい。 痛い。 けれど、彼女は下がらなかった。「リリア、光を弱めるな!」 レオンの声が飛ぶ。「はい!」 リリアは両手を胸の前で握り、月華の光を保つ。 淡い銀色の光が広場を照らす。 その範囲だけ、黒霧がわずかに薄れる。 霧狼の身体が揺らぎ、輪郭が浮かび上がる。 そこへ、レオンが踏み込んだ。 銀の剣閃。 一撃。 霧狼の肩を裂く。 黒い霧が血のように噴き出した。 だが、傷口はすぐに塞がり始める。「再生が早い……!」 オーウェンが叫ぶ。 騎士たちは村人を守りながら後退していた。 老人。 子供。 負傷した村人。 全員を霧の外へ逃がさなければならない。 リリアは一瞬だけそちらを見る。 まだ退避は終わっていない。 なら、ここで霧狼を止めるしかない。「レオン様、左!」 霧狼の尾が黒い槍のように伸びる。 レオンは身体を捻り、紙一重でかわした。 だが完全には避けきれない。 外套が裂け、腕に赤い線が走る。「っ……」「レオン様!」「見るな!」「見ます!」「本当に言うことを聞かない!」「今さらです!」 怒鳴り返すと、レオンは一瞬だけ口元を歪めた。 笑ったのだと分かった。 こんな状況で。 ほんの一瞬でも。  それがリリアの胸を強く支えた。 ◇ 霧狼は賢かった。 最初は本能のまま襲っているように見えた。 だが違う。 リリ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第二十四話 月明かりの帰還

 黒霧が晴れたあとの村は、静かだった。 あれほど濃く広がっていた霧は、嘘のように薄れている。 崩れた家々 割れた井戸 折れた柵 爪痕の残る地面 失われたものは多すぎた。 それでも、空には月があった。 冷たい北方の空に浮かぶ月は、淡く銀色に輝いている。 リリアはレオンの腕の中で、その月をぼんやり見上げていた。「……綺麗」 声が掠れる。 身体に力が入らない。 月華を使いすぎたせいだ。 胸の奥が空っぽになったようで、指先が冷たい。 レオンはリリアを抱えたまま、低く答えた。「ああ」 その声もひどく疲れていた。 彼も傷だらけだ。 背中 脇腹 腕 黒霧による侵食もまだ残っている。 本当なら、彼が誰かに支えられるべきなのに。 それでもレオンは、リリアを手放そうとしなかった。「下ろしてください」「却下だ」 即答だった。「怪我人に抱えられているのは、非常に心苦しいです」「なら黙っていろ」「返事になっていません」「黙っていろと言った」 声は乱暴だった。 けれど、抱える腕は怖いほど優しい。 まるで少しでも力を入れたら壊れてしまうと思っているみたいに。 リリアは小さく息を吐いた。「……怒っていますか?」「怒っている」「ですよね」「今までで一番怒っている」「そんなに」「ああ」 レオンは前を見たまま言った。「お前は俺の命令を聞かず、危険な黒霧の中へ来て、月華を使い、倒れかけた」「倒れてはいません」「屁理屈だ」「薬師なので」「薬師は屁理屈を言う職業ではない」「では性格です」「知っている」
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第二十五話 帰還命令

 北方砦に朝が来た。 灰を含んだ薄い雲の隙間から、弱い陽光が差し込んでいる。 窓の外では、兵士たちが慌ただしく動いていた。 救出された村人たちの手当て 黒霧の残滓の調査 ミルカ村周辺の封鎖 霧狼が消えたとはいえ、すべてが終わったわけではない。 むしろ、これから始まることの方が多かった。 リリアは医療室の寝台で上体を起こし、窓の外を見つめていた。 身体はまだ重い。 胸の奥が空っぽになったような感覚も残っている。 けれど、昨夜よりはましだった。「……動けそう」 小さく呟いた瞬間。 隣の寝台から低い声がした。「動くな」 リリアはぎくりと肩を揺らした。 見ると、レオンが目を開けていた。 包帯を巻かれた上半身に黒い上着を羽織り、寝台の上で半身を起こしている。 顔色は悪い。 だが、瞳はいつも通り鋭かった。「おはようございます」「起き抜けに逃げようとするな」「逃げようとはしていません」「動こうとしていた」「少しだけです」「却下だ」「まだ何も申請していません」「顔が申請していた」 リリアは唇を尖らせた。 最近、ますますこちらの考えを読まれる。 腹立たしい。 けれど少し嬉しい。 自分でも面倒な感情だと思う。「レオン様こそ、起き上がっていいんですか」「問題ない」「その台詞は禁止です」「……悪くない」「よろしい」 レオンは少し不満そうに眉を寄せた。「子供扱いするな」「薬を嫌がる方に言われましても」「……苦いものは苦い」「今日の薬はもっと苦くしてもらいます」「なぜだ」「昨日の罰です」「お前も罰を受けるべきだ」
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第二十六話 王都への道

 翌朝、北方砦はまだ薄い霧に包まれていた。 黒霧ではない。 ただの朝霧。 それなのに、リリアは一瞬だけ身構えてしまった。 身体が覚えている。 あの冷たさを。 肌に絡みつく嫌な感触を。 命を吸い上げられるような痛みを。「……大丈夫」 小さく呟く。 自分に言い聞かせるように。 外套の前を留め直し、荷物を確認する。 薬箱。 月華に関する記録。 ミルカ村の避難民の治療記録。 霧狼の核についての簡易報告。 そして、レオンから渡された小さな護身用の短剣。「使う機会がないことを祈ります」 そう言うと、レオンは真顔で答えた。「祈るだけでは足りない」「現実的ですね」「現実的でなければ守れない」 言い返せなかった。 彼はいつもそうだ。 優しさを言葉で飾らない。 ただ、必要なものを差し出す。 不器用に。 まっすぐに。「……ありがとうございます」 リリアが短剣を胸元にしまうと、レオンはわずかに目を細めた。「俺のそばを離れるな」「はい」「王都に着いてもだ」「はい」「王宮では特にだ」「分かっています」「セドリック殿下と二人きりになるな」「三回目です」「十回言っても足りない」「過保護です」「そうだ」 もう否定しない。 その堂々とした返事に、リリアは思わず笑ってしまった。 ◇ 砦の中庭には、出立を見送る人々が集まっていた。 騎士たち。 兵士たち。 救出された村人たち。 負傷者の中には、まだ立つのも辛そうな者もいる。 それでも、彼らはレオンとリリアを見送るために外へ出てきていた。
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第二十七話 王都の檻

 王都の城壁が見えたのは、翌日の昼過ぎだった。  高く白い壁。 尖塔。 遠くに輝く王宮の屋根。 かつてリリアにとって王都は、生活の場所だった。 平民街の診療所。 古びた屋敷。 薬草の匂い。 借金の重さ。 それが今は、まるで別の場所のように見える。 美しく、華やかで。 そして、息苦しい。「……戻ってきましたね」 馬車の窓から外を見つめながら、リリアは呟いた。 向かいのレオンが静かに頷く。「ああ」 彼の顔色はまだ完全には戻っていない。 包帯の下には深い傷が残り、呪いの侵食も薄くはなったが消えていない。 それでも背筋は伸びていた。 王都へ戻る以上、弱さを見せるつもりはないのだろう。「痛みますか」「少し」 隠さず答えるようになった。 リリアはそれだけで少し安心する。「薬は?」「飲んだ」「本当に?」「グレイが確認した」「なら信じます」「俺は信じられていないのか」「苦い薬に関しては」 レオンは黙った。 否定できないらしい。 リリアは少しだけ笑う。 けれど、その笑みは長く続かなかった。 王宮が近づくにつれて、胸の奥が重くなる。 セドリック。 白月塔。 月華の代償を消す方法。 罠だと分かっている。 それでも、その言葉は心に刺さったままだった。「リリア」 名前を呼ばれる。 顔を上げると、銀色の瞳がこちらを見ていた。「一人で考えるな」「……顔に出ていました?」「ああ」「そんなに?」「かなり」 リリアは困ったように笑った。「隠しごとはできませんね」
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第二十八話 白月塔の影

 翌朝の王都は、眩しいほど晴れていた。 青い空。 白い雲。 王宮へ続く大通りには馬車が行き交い、貴族たちは何事もなかったように優雅に笑っている。 北方で黒霧に飲まれた村があったことも。 霧狼が現れたことも。 レオンが傷だらけで帰還したことも。 リリアが月華の力で倒れかけたことも。 この街では、まだ遠い噂でしかないのだろう。 リリアは馬車の窓から外を見ながら、胸の奥に冷たいものを感じていた。「……平和ですね」 向かいのレオンが静かに言う。「王都はいつもこうだ」「北方とは全然違います」「ああ」 その声に責める響きはなかった。 けれど、諦めにも似た重さがあった。 北方の苦しみは、王都には届きにくい。 だからこそ、レオンはずっと一人で背負ってきたのだ。 リリアは膝の上で手を握る。「今日は、白月塔の情報を探るだけ」 レオンが確認するように言った。「はい」「セドリック殿下に誘われても応じるな」「はい」「何か渡されても触るな」「はい」「俺のそばを」「離れません」 先に答えると、レオンは少しだけ黙った。「……分かっているならいい」「もう何度も聞きましたから」「十回言っても足りない」「昨日も聞きました」「今日も言う」 本気だった。 リリアは少し笑ってしまう。 けれど、その笑みはすぐに消えた。 昨夜の月白花。 窓の外から聞こえたセドリックの声。 監視されていたかもしれないという事実。 王宮へ近づくほど、白い街並みが檻のように見えた。 ◇ 王宮に到着すると、二人はすぐに黒霧対策会議へ通された。 高い天井。 長い円卓。 壁には王
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第二十九話 魂縛の間

 白月塔の中は、外から見た印象よりもずっと広かった。 螺旋階段は塔の内壁に沿って上へ伸び、その中央には吹き抜けのような空間がある。 頭上から差し込む月明かりが、白い石床に淡い光の筋を落としていた。 静かだった。 あまりにも静かで、自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。 リリアはレオンの手を握ったまま、一歩ずつ進んだ。「寒いですね」「黒霧の気配は?」「少しあります。でも……違います」「違う?」「黒霧そのものというより、古い呪いの残り香みたいな……」 自分で言って、妙な表現だと思った。 けれど、それが一番近かった。 肌にまとわりつく冷たさ。 胸の奥を撫でるような不快感。 だが、北方で感じた黒霧の生々しい悪意とは違う。 もっと古く。 もっと静かで。 眠っていたものが、ゆっくりこちらを見ているような感覚だった。「気分が悪くなったらすぐ言え」「はい」「本当だな?」「本当です」「今は信じる」「今だけですか」「過去の実績がある」「……返す言葉もありません」 レオンの手がわずかに強くなる。 からかっているようで、心配しているのが分かった。 その温もりに、リリアは少しだけ息をつく。 塔へ入る前よりも、怖さが薄れた。 ◇ 階段を上る途中、壁に古い壁画が描かれていることに気づいた。 月を背負う女性。 黒い霧に覆われた大地。 倒れる兵士たち。 そして、銀色の狼。 リリアは足を止めた。「これ……」 レオンも壁画を見る。「月華の聖女か」「たぶん」 女性の髪は銀色に描かれていた。 夢で見た女に似ている。 長い銀髪。
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第三十話 手放せない想い

 白月塔の最上階には、砕けた魔術陣の光だけが残っていた。 白銀の線は床のあちこちで途切れ、黒い核には大きな亀裂が走っている。 夜風が吹き抜けるたび、月白花の花弁が石床を滑った。 リリアはレオンの手を握ったまま、しばらく動けなかった。 身体が重い。 胸の奥が熱く、指先は冷たい。 月華を使った。 けれど、これまでとは違う。 ただ命を削られるだけではなかった。 何かが巡った。 レオンの呪いを一方的に引き受けるのではなく、彼の力と自分の力が一瞬だけ繋がり、支え合ったような感覚。 あれは何だったのだろう。「リリア」 低い声。 顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。 銀色の瞳には、不安がはっきりと浮かんでいる。「気分は」「少し、だるいです」「少しではない顔だ」「倒れてはいません」「それを基準にするな」 怒られた。 けれど、その声は震えていた。 リリアは小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。「……怒っていますか?」「怒っている」「ですよね」「怖かった」 その言葉に、リリアは息を呑んだ。 レオンはもう隠さなかった。 怖い時に、怖いと言ってくれるようになった。 それが嬉しくて、同時に胸が痛かった。 「俺の目の前で、お前が術式に飲まれそうになった」 彼の手が、リリアの指を強く握る。「呼べと言われたから呼んだ。戻れと言った。それでも、もし戻らなかったらと……」 言葉が止まる。 レオンは目を伏せた。「……心臓が止まるかと思った」 リリアは何も言えなくなった。 この人は本当に変わった。 最初に会った時は、氷みたいな男だった。 感情を見せず、誰にも頼らず、自分が壊
last updateLast Updated : 2026-08-26
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