LOGIN北の果てを守る英雄――『銀狼公爵』。 誰もが憧れ誰もが恐れるその男レオンヴァルハルトとの結婚を命じられた日、没落伯爵令嬢リリア・エヴァレットの人生は一変した。 「私は道具じゃありません」 「分かっている」 決して交わらないはずだった二人の距離は、少しずつ変わり始める。 不器用な優しさ。 時折見せる独占欲。 守られるたび、知らなかった彼を知るたび、凍りついていた心がほどけていく。 けれど、彼を救うには大きすぎる代償があった。 彼を生かせば、自分が失われる。 たとえ、この想いがすべてを壊すとしても。 これは、愛を知らなかった英雄と、誰かのために生きてきた少女が、滅びの運命に抗いながら、本当の幸せを見つける物語。
View More春の終わりを迎えた王都アルヴェリアは、朝から雨だった。
石畳を濡らす雨音を聞きながら、リリア・エヴァレットは診療所の棚に薬瓶を並べていた。 乾燥させた月見草。 止血用の赤根草。 熱冷ましの白花樹皮。 薬草独特の青臭い匂いが室内を満たしている。「リリア先生ー!」
入口の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのは七歳くらいの少年だった。 ズボンの膝が破れ、泥だらけになっている。「ああ、トーマス。また転んだの?」
「ころんでない! 戦った!」 「何と?」 「階段!」 「階段が勝ったみたいね」少年がむっと頬を膨らませる。
リリアは思わず笑った。「見せて」
膝を確認する。
擦り傷。 大した怪我ではない。「少し染みるわよ」
薬を塗る。
「うわっ、いたっ」
「我慢」 「リリア先生、冷たい!」 「薬師は優しくないの」 「うそだ!」 「はい終わり」包帯を巻く。
少年は足を動かし、嬉しそうに笑った。「ありがとう!」
「次は階段に負けないで」 「今度は勝つ!」元気よく飛び出していく。
それを見送り、リリアは小さく息を吐いた。「……元気ね」
「お前が甘やかすからだ」奥から低い声が聞こえる。
白髪混じりの老人。 診療所の主、医師のエドガーだ。 「甘やかしてません」 「甘やかしてる」 「してません」 「してる」 「子供みたいな喧嘩やめません?」 「お前が始めた」いつものやり取りだった。
リリアが十六の頃から働いている診療所。 没落した伯爵家の娘が生活のために働くなど、本来なら許されない。 けれどエヴァレット家には、もはや体面を守る余裕などなかった。 父は病で亡くなった。 母も三年前に。 残った屋敷は広いだけの古い建物。 使用人は一人もいない。 爵位だけが残った、空っぽの貴族。 それが今のエヴァレット家だった。「そういえば」
薬草を刻みながらエドガーが言った。
「借金の返済はどうした」
「……聞きます?」 「聞く」 「聞かないでください」 「いくらだ」 「銀貨六十枚」 「増えたな」 「増えました」胃が痛い。
屋敷の修繕。 薬の仕入れ。 税金。 生きるだけで金が消える。「嫁に行くか」
「嫌です」 即答だった。「金持ちの男を捕まえろ」
「嫌です」 「顔は悪くない」 「褒めてるんですかそれ」 「性格は少し問題だが」 「帰りますよ」 「ここがお前の職場だ」リリアはため息をついた。
そんな簡単な話なら苦労しない。 それに。「……誰かに養ってもらう人生なんて嫌です」
ぽつりと漏らした言葉。
エドガーは何も言わなかった。 しばらく沈黙が落ちる。 雨音だけが響く。 その時。 外から馬の足音が聞こえた。 止まる。 複数。 しかも高級馬車。 こんな平民街に来るような代物ではない。「……誰かしら」
扉が開く。
入ってきたのは黒い軍服を着た男たち。 王国騎士団。 胸元に刻まれた銀の紋章。 空気が張り詰める。 先頭の男が口を開いた。「リリア・エヴァレット伯爵令嬢」
「……はい」 「王命です」王命――
その言葉だけで背筋が冷える。 男は羊皮紙を差し出した。 赤い封蝋。 王家の紋章。 嫌な予感がした。 ひどく。 嫌な予感が。 封を切る。 読む。 そして。 数秒後。「…………は?」
人生で最も間抜けな声が出た。
もう一度読む。 読み間違いかもしれない。 いや。 何度読んでも同じだった。『リリア・エヴァレットを、北方公爵レオン・ヴァルハルトとの婚約者と定める』
沈黙。
長い沈黙。「……え?」
「正式な王命です」 「いや」 「明日、公爵邸へ」 「いやいやいや」 「拒否権はありません」 「待ってください」頭が追いつかない。
北方公爵。 レオン・ヴァルハルト。 銀狼公爵。 王国最強。 戦争の英雄。 そして――最も恐れられる男。
「……私、何か悪いことしました?」
騎士は無表情だった。
「詳細は公爵閣下より直接」
「いや意味が分からな――」 「明日の朝、迎えが来ます」言うだけ言って騎士たちは帰っていった。
雨音だけが残る。 静かだった。 あまりにも。 静かすぎた。「……夢?」
「現実だな」 「いや」 「現実だ」 「夢ですよね」 「現実だ」 「帰ります」 「だからここがお前の職場だ」リリアは椅子へ座った。
力が抜ける。 銀狼公爵。 レオン・ヴァルハルト。 知らない人間はいない。 北の魔物討伐を一人で覆した英雄。 氷のように冷酷。 敵には容赦がない。 感情がない。 笑わない。 近づけば殺気で震える。 社交界ではそんな噂ばかり聞く。「……なんで」
理解できない。
没落伯爵家。 借金まみれ。 平民街で働く令嬢。 釣り合うはずがない。「エドガー先生」
「なんだ」 「私、死ぬんでしょうか」 「まだ結婚もしてないだろう」 「結婚したら死ぬかも」 「英雄に失礼だぞ」 「怖いんですよ!」叫んだ。
心臓がうるさい。 なぜ。 どうして。 意味が分からない。その夜。
家へ戻っても眠れなかった。古い屋敷。
誰もいない食卓。 冷めたスープ。 静かな部屋。 ベッドへ入る。 眠れない。 考えてしまう。銀狼公爵。
英雄――
冷酷――
結婚――
王命――
嫌だ!
怖い!
嫌だ!?
窓の外。
雨はまだ降っていた。 眠れないまま夜が更ける。 知らなかった。 明日。 その男と出会うことで、自分の人生が、運命ごと変わってしまうことを。そして、誰より孤独な英雄が、静かに壊れていく最中だったことを。
それから、三年の月日が流れた。 王都の朝は、かつてより少しだけ騒がしく、そして少しだけ開かれたものになっていた。 大通りの一角には王国公共記録院へ向かう人々の列ができ、地方から訪れた商人や旅人の姿に混じって、古い書類を胸に抱えた老人や、家族の手を引く若者たちが行き交っている。以前なら王宮の許可がなければ閲覧できなかった記録の多くも、いまでは定められた手続きを踏めば、身分にかかわらず確認できるようになっていた。 王家にとって都合の悪い歴史も、黒霧事件の記録も、銀狼公爵家へ長年押しつけられてきた役割も、少しずつ人々の目に触れるようになっている。 もちろん、それですべてが上手くいったわけではない。 新たな記録が公開されるたびに怒りが生まれることもあった。過去を掘り返すべきではないと主張する者もいれば、まだ何か隠されているのではないかと疑う者もいる。新王の改革を急ぎすぎだと批判する貴族もいれば、逆に遅すぎると声を上げる民もいた。 国というものは、誰か一人が正しいと決めた瞬間に美しく変わるものではないのだろう。 それでも、以前とは確かに違う。 王が一言命じれば記録そのものを消せた国ではなくなった。間違いがあれば誰かが声を上げ、その声は記録に残り、残されたものを未来の誰かが確かめることができる。 忘れない国ではない。 忘れてしまっても、思い出せる国。 リリアたちが忘却の海から持ち帰ったその考え方は、三年かけて少しずつ王国の形になり始めていた。 ◇「リリア先生、次の患者さんです」「はい。どうぞ」 公爵邸の一角に作られた診療所で、リリアは手元の診療記録を閉じた。 もともとは来客用として使われていた小さな別棟を改装し、診察室と調薬室、それに薬草研究室を作ったのは、結婚して半年ほど経った頃のことだった。 公爵家の施設ではあるものの、利用できるのは貴族だけではない。領民であれば誰でも診察を受けることができ、事情によっては診療費も減免される。 窓の向こうには薬草園が広がっていた。
婚礼の日の朝、リリアは目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなった。 見上げた天井は、もうすっかり見慣れた公爵邸のものだった。窓の外から聞こえてくる鳥の声も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、普段と何ひとつ変わらない。 それなのに、胸の鼓動だけが妙に速かった。 寝台の上で何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭が現実に追いついた時、リリアは思わず布団を握りしめた。「……今日なんだ」 声に出した途端、急に実感が押し寄せてくる。 今日、自分はレオン・ヴァルハルトと結婚する。 王命で決められた婚約でもなければ、深淵を封じるための契約でもない。月華の力を利用するためでも、誰かを救うためでもない。 自分が望んだから。 そして、レオンも望んだから。 ただそれだけの理由で、二人は夫婦になる。 それが、今のリリアには何よりも不思議だった。 銀狼公爵との婚約を初めて知らされた日の自分に、この未来を教えてやったらどうするだろう。 きっと信じない。 それどころか、全力で逃げ出そうとするに違いない。 そんなことを考えていると、勢いよく扉が開いた。「リリア様!」 飛び込んできたミアの声に、リリアは思わず肩を跳ねさせた。「起きていますね!? 寝坊していませんね!? 体調は大丈夫ですか!? 熱はありませんか!? お腹は痛くないですか!?」「だ、大丈夫です」「本当に?」「本当です」 疑うような目を向けながら、ミアはリリアの額へ手を当てた。熱がないことを確かめると、ようやく胸を撫で下ろす。「よかった……。もし今日リリア様が熱でも出されたら、旦那様が結婚式そのものを延期しかねませんから」「まだ旦那様ではありませんよ」「あと数時間です!」 間髪入れずに返され、リリアは思わず笑ってしまった。 その後ろから、ゆっ
王国公共記録院が正式に開院してから三日後、王都はまたひとつ、大きな節目の日を迎えていた。 朝早くから大通りには王国旗が掲げられ、石造りの家々の窓辺には祝いの布が垂らされている。広場へ向かう道には花が飾られ、王宮の方角へ歩いていく人々の姿が絶えなかった。 ただ、その表情は一様に明るいわけではない。 期待している者もいれば、不安を隠せない者もいる。新しい王に希望を託す者もいれば、王家そのものをまだ信じられない者もいた。 今日、国王が退位し、第一王子が新たな王として即位する。 それは祝うべき出来事であると同時に、王国がこれまでの在り方から本当に変わるのかを、多くの民が見極める日でもあった。「……すごい人ですね」 王宮へ向かう馬車の窓から外を眺めながら、リリアは小さく呟いた。 通りには地方からやって来たらしい人々の姿も多い。家族連れもいれば、杖をついた老人もいる。「王が替わるからな」 隣に座るレオンが答える。 今日は彼も正式な礼装を身につけていた。濃紺の生地には銀狼公爵家を示す銀糸の刺繍が施され、胸元には古い封印の紋章ではなく、ノクスとの新しい契約を示す銀狼と藍色の月の意匠がある。「みんな、祝うために来ているんでしょうか」「それだけではないだろう」 レオンは窓の向こうへ視線を向けたまま言った。「新しい王が何を言うのか、自分たちを見ているのか、それを確かめたい者もいる」「そうですよね」 リリアは静かに頷いた。 新しい王が即位したからといって、王国の傷が消えるわけではない。 セドリックが起こした事件で家族を失った者たちはいる。 黒霧によって人生を変えられた者もいる。 銀狼公爵家が長い間背負わされてきた犠牲も、王家が隠してきた記録も、明るみに出たからといって終わるものではない。 むしろ、知ったからこそ怒る者もいるはずだ。「陛下になるの、緊張しているでしょうね」 リリア
王国公共記録院の開院日、王都にはまだ朝霧が残っていた。 白い石造りの建物は、王宮から少し離れた場所に建てられている。あえて王宮の敷地内ではなく、市井に近い位置が選ばれたのは、この施設が王家の所有物ではないことを形として示すためだった。 正面には王国の紋章ではなく、開かれた本と小さな灯火を組み合わせた新しい記章が掲げられている。 忘れられたものを探し、残されたものを守り、必要とする誰かがもう一度辿り着けるようにする。 そのための場所だった。 朝早くから多くの人々が集まっている。記録官や研究者だけではない。黒霧事件の被害者やその家族、行方不明になった者を探す人々、王家が公開した過去の記録を確かめたい者たちの姿もあった。 リリアは建物の前に立ちながら、静かに息を吐いた。「本当に、できたんですね」「ああ」 隣に立つレオンが答える。「随分と騒がしい場所になりそうだがな」「記録院ですから、それくらいの方がいいと思います」「静かすぎる記録院よりはましだ」 レオンの言葉に、リリアは少し笑った。 以前なら、記録というものは閉ざされた場所にあるイメージだった。 王宮の地下。 研究局。 許可された者しか入れない書庫。 王族にとって都合が悪ければ消され、人に知られなければ存在しなかったことにされる。 けれど、ここは違う。 少なくとも、違う場所にしようとしている。「リリアさん!」 背後から聞き慣れた声がして振り返ると、ユリウスがこちらへ駆けてきた。 髪は少し乱れ、目の下には明らかな隈がある。「おはようございます」「おはようございます……」 リリアは少し心配そうに顔を覗き込んだ。「寝ました?」「二時間ほど」「寝たうちに入りません」「でも大丈夫です! 今日だけは!」「今日だ