Lahat ng Kabanata ng 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む: Kabanata 51 - Kabanata 60

65 Kabanata

第五十一話 許されない者の祈り

 決戦から七日が過ぎた朝。 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。「エドガー・ハインツ」 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。「北方第三鉱山、運搬員」 紙をめくる。「妻と、二人の子供……」 セドリックはそこで言葉を止めた。 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。 年齢。 職業。 家族。 行方不明になった日。 遺体が発見された場所。 判明している限りの情報が記されている。 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。 エドガー・ハインツ。 三十九歳。 妻と子供を養うため。 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。 黒鴉会の者たちに拉致され。 術式の実験体として王都へ送られた。 帰りを待っていた家族へ。 遺体すら返らなかった。 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。「……次を」 向かいに立つ記録官が戸惑う。「殿下」「次を読め」「しかし、すでに二刻以上」「読め!」 声を荒らげた瞬間。 胸に激痛が走った。「ぐっ……!」 セドリックは身体を折り曲げる。 包帯の下。 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。「呼ぶな」「ですが」「この程度で止めれば」 息を切らしながら。 セドリックは名簿を見る。「私はまた、逃げる」「殿下はまだ治療中です」「だから何だ」「倒れてしまえば、裁判へも」「倒れれば起こせ」
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第五十二話 忘却の海への扉

「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見
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第五十三話 名前のない恋

 最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。 誰かの名前。 誰かの声。 誰かが確かに生きていたという証。 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。「……レオン様」 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。 返事はない。 胸の奥が急速に冷えていく。「レオン様!」 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。 第一王子も、ノクスもいない。 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。『誰だ』 たった一言だった。 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。 それでも怖かった。 今までは、自分が忘れる側だった。 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。 けれど今度は、レオンが忘れた。 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。「今度は、私が呼ぶ番ですね」 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。 その
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第五十四話 帰れなかった記憶たち

 黒い波は、もはや海というより巨大な壁だった。 リリアとレオンの前で空を覆い尽くすほど高く盛り上がったその波の中には、数え切れないほどの声と記憶が混ざり合っている。誰にも名前を呼ばれず、思い出されることもなく、帰る場所を失ったまま長い時間を漂い続けてきたものたちが、怒りと悲しみを抱えて二人へ押し寄せていた。「リリア、本当に戦わないのか」 レオンは剣を構えたまま、視線だけを彼女へ向けた。刃の上には銀色と藍色の光が重なり、迫り来る黒い海を迎え撃てるだけの力が満ちている。「はい。少なくとも、最初から斬るつもりはありません」 答えながらも、リリアの身体は僅かに震えていた。 目の前の光景だけを見れば、逃げ出したいと思うのが当然だった。波に呑まれれば自分がどうなるのか分からず、月華の力でさえ耐えられる保証はない。 それでも、耳に届いてくるものを無視することができなかった。『お母さん』『帰りたい』『寒い』『痛い』『僕の名前を、忘れないで』 それは敵が発する声ではなかった。 ずっと誰かに聞いてほしかった人たちの声だった。「この人たちは、私たちを傷つけたいだけじゃないんです」 リリアは胸元へ手を当てた。「ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。自分がいたことを、知ってほしかったんです」「それでも、お前を呑み込もうとしていることは変わらない」「分かっています」「なら――」「だからこそ、もう一人で全部受け取ろうとはしません」 リリアはレオンの手を取った。 その言葉に、レオンの瞳が僅かに揺れる。「話は聞きます。でも、全部を私の中へ入れるんじゃなくて、この人たちがそれぞれの記憶のままでいられる場所を作ります」「そんなことができるのか」「分かりません。でも、やってみます」 以前の自分なら、きっと「できます」と言い切っていただろう。 誰かを救うた
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第五十五話 何度でも、あなたのもとへ

 白月塔の最上階に開かれていた光の扉が、少しずつ細くなっていく。 その向こうに最後まで見えていたのは、かつて忘却の海と呼ばれていた場所だった。 誰にも迎えられず、名前を失い、帰る場所さえなくした無数の記憶が沈んでいた黒い海は、もう以前の姿をしていない。水面を覆っていた闇は静かな大地へ変わり始め、その上には月白花によく似た白い花が咲き、深い藍色の夜空には無数の星が浮かんでいた。 そして庭の中央では、小さな姿をしたメモリアが、離れていこうとするリリアたちを見つめている。『リリア』 呼ばれて、リリアは扉をくぐる直前に振り返った。「はい」『また来る?』 その問いには、名前を得たばかりの存在が抱える不安が滲んでいた。 メモリアにとって、忘れられることは存在を失うこととほとんど同じ意味を持っていたのだろう。長い時間、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所をなくした記憶たちと共にいたからこそ、誰かが自分のもとを去っていくことを、まだ素直に受け入れきれないのかもしれない。 リリアはそんなメモリアへ向けて、できるだけ安心させるように微笑んだ。「もちろんです。また来ます」『忘れない?』 その言葉に、リリアは一瞬だけ迷った。 以前なら、きっと「忘れない」と答えただろう。 大切なものを守るためには、何一つ失ってはいけないと思っていたし、忘れることそのものが裏切りのように感じられていた。 けれど今は、少し違う。「もしかしたら、忘れることはあるかもしれません」 メモリアの表情がたちまち曇ったため、リリアは慌てずに続きを口にした。「でも、もし忘れてしまったら、その時はまた思い出しに来ます。忘れないことだけが大切なんじゃなくて、忘れたあとでもう一度見つけることの方が大切な時もあるって、私たちはここで教えてもらいましたから」 メモリアはしばらく何も言わなかった。 やがて、その小さな顔にほんの少しだけ安堵が浮かぶ。『分かった。待っている』 そ
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第五十六話 幸せになるための準備

 求婚から一週間が過ぎた頃、公爵邸には、これまでとはまったく種類の違う慌ただしさが訪れていた。 黒霧が現れたわけでもなければ、王宮から緊急の命令が届いたわけでもない。もちろん深淵が暴れたわけでも、忘却の海から異変の知らせが届いたわけでもなかった。それでも朝から使用人たちは屋敷中を行き交い、応接室では書類が積み上がり、廊下では仕立て職人や料理人、庭師たちが忙しそうに打ち合わせを続けている。 その原因は、三か月後に予定されているリリアとレオンの婚礼だった。「ですから、招待状の封蝋はヴァルハルト公爵家の銀狼紋で統一すべきです。正式な婚礼である以上、家格を示す意匠は外せません」「銀狼紋だけではリリア様らしさがありません。月白花の意匠も入れてください」「公爵家の正式文書ですので、あまり装飾を増やすのは――」「格式だけで結婚するわけではないでしょう!」 朝から応接室では、グレイとミアが真剣な顔で招待状の意匠について議論していた。 大きなテーブルの上には十種類を超える見本が並べられており、銀狼、月、花、星、夜空といった意匠が、それぞれ少しずつ違う組み合わせで配置されている。その横の机には衣装用の布地や宝石、食器、装花の候補、引き出物の見本、料理の献立まで置かれ、さらに壁際には、いつ誰が用意したのか分からないほど巨大な婚礼準備表まで立てかけられていた。 部屋の入口に立ったリリアは、その光景をしばらく眺めた後、思わず隣のレオンへ顔を向けた。「……戦争の作戦会議みたいですね」「王宮地下へ潜る時より複雑に見える」「私もそう思います」「聞こえておりますよ」 グレイが振り返り、いつも通りの冷静な表情でレオンへ一礼した。「旦那様、本日はまず招待状の意匠を――」「まだ旦那様ではない」 レオンが即座に訂正すると、グレイは一瞬も表情を崩さなかった。「失礼いたしました。未来の旦那様」「それもやめろ」「では、いつも通り閣下とお呼びいたします」
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第五十七話 罪の名前を呼ぶ日

 公開裁判の日、王都には朝から冷たい雨が降り続いていた。 強く地面を叩きつけるような雨ではなく、細く静かな雨だった。それでも途切れる気配はなく、石畳を濡らし、王宮の屋根を灰色に染め、中央司法院の前に集まった人々の肩にも容赦なく降り注いでいる。その景色は、まるで王国が長いあいだ隠し続けてきた罪を、今日という一日をかけて洗い流そうとしているようにも見えた。 もっとも、どれほど雨が降ったところで、起きたことそのものを消せるわけではない。 王宮に隣接する中央司法院の前には、夜が明けるより前から大勢の人々が集まっていた。北方で黒霧事件に巻き込まれた者、王宮研究局による実験の犠牲者やその家族、黒鴉会に大切な者を奪われた者、そして王国で本当は何が行われていたのかを自分の目で確かめようとする民衆まで、その顔ぶれはさまざまだった。 誰一人として晴れやかな顔をしていない。 怒りを隠そうともしない者がいれば、何年も泣き続けてきたのだろうと思わせるほど疲れた顔をした者もいる。自分でも何を感じればいいのか分からず、ただ司法院の建物を見上げている者もいた。 馬車の窓越しにその光景を見つめながら、リリアは膝の上で両手を重ね、指先へ無意識に力を込めていた。「……すごい人ですね」「ああ」 隣に座るレオンが短く答えた。 今日は普段の黒い軍服ではなく、銀狼公爵として正式に証言台へ立つための濃紺の礼装を身につけている。胸元にはヴァルハルト公爵家の紋章があり、その下には銀狼と藍色の月を重ねた小さな飾りがつけられていた。 それは、かつて深淵と呼ばれていたノクスとの新しい契約を示す意匠だった。 王国が長く恐れ、銀狼公爵家が代々その身に封じ込めるしかなかった存在を、今のレオンは隠そうとはしていない。それもまた、今日ここで語られるべき歴史の一部なのだろう。「怖いか」 レオンに尋ねられ、リリアは少し考えてから頷いた。「はい。正直に言えば、かなり怖いです」「セドリックの裁判だからか」「それもあります。でも、今日はセドリ
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第五十八話 幸せを選ぶということ

 王都に穏やかな朝が訪れる頃、公爵邸の庭では、昨夜降った雨を含んだ月白花が柔らかな陽射しを受けていた。白い花弁の先に残った雫は風が吹くたびに小さく揺れ、そこへ朝の光が差し込むと、まるで花そのものが淡い光を宿しているように見える。リリアは窓辺に立ったままその景色を眺めていたが、やがて小さく息をつくと、机の上に広げた三枚の衣装画へ視線を戻した。 婚礼衣装の候補は、最初こそ三十一着もあった。それだけの数を前にした時には、さすがに多すぎるのではないかと思ったものの、ミアと仕立て職人たちは「一生に一度ですから」とまったく譲らなかった。その結果、十二着まで絞り込むだけで数日を費やし、昨日になってようやく三着まで候補を減らすことができたのだが、残った三着はどれも魅力的で、むしろここから一つに決める方が難しく思えてきた。 一着目は華やかなものだった。純白の生地に銀糸が細かく縫い込まれ、胸元や裾には控えめな真珠が散りばめられている。二着目は装飾を抑え、布そのものの柔らかさを生かした意匠で、月白花を模した刺繍が袖口から裾へ静かに続いていた。そして三着目は、白を基調にしながら銀と淡い藍色を取り入れたものだった。 視線は、どうしても最後の一着へ戻ってしまう。 婚礼衣装として考えれば、藍色が入っているものは少し珍しい。けれど、だから嫌なのではなく、むしろその色にだけ自分でも説明しづらい特別なものを感じていた。「まだ決めていないのか」 背後から声をかけられ、リリアが振り返ると、いつの間にかレオンが部屋の入り口に立っていた。すでに朝の執務を始めていたのか、片手には数枚の書類があり、表情にはいつものように仕事の名残があった。「三着まで減らしたんですけど、ここからが難しいんです」「俺には全部同じに見える」「それ、ミアの前で絶対に言わないでくださいね」「なぜだ」「怒られるからです」 リリアが真顔で答えると、レオンは納得できないような表情のまま机の前まで歩いてきた。三枚の衣装画を順番に見比べてはいるものの、どうやら本当に違いが分からないらしく、しばらくすると眉間に皺を寄せる。「やはり全部白いな
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第五十九話 あなたが歩いてきた色

 王都の朝は、薄い雲を透かした柔らかな光に包まれていた。公爵邸の庭では、夜露を残した月白花が風に揺れ、白い花弁の先に小さな雫をきらめかせている。リリアは窓辺に立ったまま、その光景をしばらく眺めていた。 今日は、婚礼衣装を最終的に決める日だった。 最初に候補として用意された衣装は三十一着もあり、そこから十二着に絞り、さらに昨日ようやく三着まで減らした。数字だけを聞けば順調に進んでいるように思えるが、実際に何度も着替え、布地や刺繍を見比べ続けたリリアにとっては、すでに一つの大仕事を終えたような気分だった。 どの衣装も美しかった。王都でも名の知られた職人たちが仕立てたものばかりで、布地も刺繍も装飾も文句のつけようがない。だからこそ、単純に一番豪華なものを選べばいいというわけではなく、最後まで迷ってしまったのだ。 婚礼の日、自分はレオンの隣に立つ。 そう考えた時、ただ美しいだけではなく、自分自身が納得できる一着を選びたいと思った。「朝からずいぶん真剣な顔をしているな」 背後から聞こえた声に振り返ると、レオンが扉のところに立っていた。すでに身支度を整えているが、髪はいつもより少しだけ無造作で、どうやら朝の書類仕事を切り上げてこちらへ来たらしい。「そんな顔をしていました?」「ああ。薬の配合を間違えた時と同じくらい深刻だった」「それはかなり深刻ですね」 リリアが苦笑すると、レオンは窓辺まで歩いてきた。「衣装のことか」「はい。今日こそ決めようと思って」「昨日、三着まで減らしたと言っていただろう」「三着だから迷ってるんです。どれも素敵なんですよ」「俺には違いが分からない」「見れば分かりますよ」「本当に?」 心から疑っているらしい顔をされ、リリアは少し頬を膨らませた。「昨日だって、ちゃんと違いが分かっていたじゃないですか」「全部白かった」「婚礼衣装なんですから基本的には白です」「なら、やはり難しい」 真
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第六十話 王冠を受け取る覚悟

 朝の光が公爵邸の食堂へ差し込む頃、リリアは湯気の立つスープを前にしながら、向かいに座るレオンの顔を何度目か分からないほど見つめていた。 窓の外では、春の終わりを告げるような淡い風が庭木を揺らし、その合間を縫うように月白花の花びらが舞っている。いつもと変わらない朝だった。焼きたてのパンがあり、卵料理があり、使用人たちの静かな足音が廊下から聞こえてくる。その穏やかさとは裏腹に、リリアの胸の内には朝から薄い緊張が張りつめていた。「いよいよ、明日ですね」 リリアが口にすると、レオンは手にしていたカップを静かに置いた。「ああ」 それだけの返事だったが、彼もまた同じことを考えていたのだろう。 明日、セドリック・アルベルトに対する最終判決が言い渡される。 長く続いた裁判では、黒霧事件をはじめ、王宮研究局で行われた人体実験、誘拐や監禁、記憶操作、魔術を利用した殺傷、そして王都全体を巻き込もうとした大規模な儀式について、多くの証言と記録が提出された。被害者や遺族だけでなく、当時研究局に所属していた者、黒鴉会に関わっていた者、王宮内部の関係者までもが証言台に立った。 何より、セドリック自身がほぼすべての罪を認めていた。 もはや、彼が罪を犯したか否かが争われているわけではない。 問われているのは、その罪に対してどのような刑が下されるのかということだった。「眠れましたか?」 リリアが尋ねると、レオンは僅かに眉を上げた。「なぜ俺に聞く」「何となくです。昨日、いつもより遅くまで起きていたでしょう?」「書類を読んでいただけだ」「本当に?」「お前こそどうなんだ」「私は……」 そこで言葉に詰まった。 レオンがすぐに気づく。「眠れなかったのか」「全然というほどではありません。でも、何度か起きました」 昨夜、目を閉じるたびに裁判で聞いた言葉が蘇った。 セドリックが自分の罪を認めた時の声。
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