All Chapters of 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む: Chapter 51 - Chapter 52

52 Chapters

第五十一話 許されない者の祈り

 決戦から七日が過ぎた朝。 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。「エドガー・ハインツ」 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。「北方第三鉱山、運搬員」 紙をめくる。「妻と、二人の子供……」 セドリックはそこで言葉を止めた。 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。 年齢。 職業。 家族。 行方不明になった日。 遺体が発見された場所。 判明している限りの情報が記されている。 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。 エドガー・ハインツ。 三十九歳。 妻と子供を養うため。 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。 黒鴉会の者たちに拉致され。 術式の実験体として王都へ送られた。 帰りを待っていた家族へ。 遺体すら返らなかった。 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。「……次を」 向かいに立つ記録官が戸惑う。「殿下」「次を読め」「しかし、すでに二刻以上」「読め!」 声を荒らげた瞬間。 胸に激痛が走った。「ぐっ……!」 セドリックは身体を折り曲げる。 包帯の下。 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。「呼ぶな」「ですが」「この程度で止めれば」 息を切らしながら。 セドリックは名簿を見る。「私はまた、逃げる」「殿下はまだ治療中です」「だから何だ」「倒れてしまえば、裁判へも」「倒れれば起こせ」
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第五十二話 忘却の海への扉

「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見
last updateLast Updated : 2026-09-17
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