All Chapters of 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む: Chapter 31 - Chapter 40

52 Chapters

第三十一話 夜啼き薬房

 翌朝、リリアはいつもより早く目を覚ました。 昨夜の紙片の文字が、ずっと頭から離れなかった。 ――月華の代償を消す方法は存在する。 ――ただし、それは銀狼の呪いを解くことと同じではない。 その一文が、胸の奥に棘のように刺さっている。 代償を消す方法。 それは望んでいたものだ。 リリアが命を削らずに、月華を使えるようになるかもしれない。 けれど、銀狼の呪いを解くことと同じではない。 つまり、自分が助かる道と、レオンが助かる道は別なのかもしれない。 その可能性が怖かった。「……駄目」 リリアは寝台の上で首を振った。 一人で考えない。 一人で結論を出さない。 約束した。 レオンと。 だから今は、まず知る。 真実を。 どれだけ残酷でも。 ◇ 朝食室へ向かうと、レオンはすでに席についていた。 黒い上着を羽織り、いつも通り背筋を伸ばしている。 だが顔色はまだ悪い。 昨夜の白月塔での戦いが響いているのだろう。「おはようございます」「おはよう」 返事は短い。 けれど、以前より自然だった。 リリアは席につき、まず彼をじっと見た。 レオンが眉を寄せる。「何だ?」「顔色が悪いです」「悪くない」「言い直してください」「……少し悪い」「正直でよろしいです」 レオンはわずかに不満そうな顔をした。「子供扱いするな」「患者扱いです」「便利な言葉だな」「便利です」 リリアがそう答えると、彼は諦めたように小さく息を吐いた。 そのやり取りを見ていたミアが、背後で口元を押さえている。 笑っている。 グレイも表情は変えないが、どことなく満足そうだった。
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第三十二話 忘れないための手紙

 公爵邸へ戻った時、夜はすでに深かった。 王都の喧騒も遠ざかり、屋敷の廊下には静かな灯りだけが落ちている。 リリアは外套を脱ぎながら、まだ指先に残る冷たさを感じていた。 夜啼き薬房。 闇薬師マルタ。 月華の代償は命だけではなく、記憶。 その事実が、頭の中で何度も繰り返される。 ――愛した男の名を忘れた。 その言葉を思い出すたび、胸が痛んだ。 もし、自分がレオンを忘れたら。 あの銀色の瞳も。 不器用な優しさも。 苦い薬を嫌がる顔も。「離れたくない」と言ってくれた声も。 全部、失ってしまうのだろうか。「リリア」 低い声で呼ばれる。 顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。「また一人で考えている」「……すみません」「謝るな」 彼はそう言うと、少しだけ迷ったように手を伸ばした。 そして、リリアの手を取る。 温かい。 それだけで、息がしやすくなった。「怖いなら言え」 リリアは一瞬だけ唇を噛んだ。 それから、正直に頷いた。「怖いです」「俺もだ」 即答だった。 その声に、胸が震える。 レオンは逃げなかった。 怖いと言ってくれた。「あなたを忘れるのが怖いです」 リリアは言った。「あなたに忘れられるのも、怖いです」 レオンの手に力がこもる。「忘れない。でも、もし忘れたら」 彼は静かに遮った。「お前が話すと言った」「……はい」「俺も話す」 銀色の瞳が、まっすぐリリアを見つめていた。「何度でも」 その言葉に、リリアは泣きそうになった。 ◇ 翌朝。 リリ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第三十三話 黒鴉会

 翌朝、リリアは日記を閉じたまま、しばらく机の前に座っていた。 表紙に触れる。 そこには昨夜、自分で書いた言葉が眠っている。 ――私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う。 思い出しただけで顔が熱くなった。「……たぶん、って何」 自分で書いたくせに、曖昧すぎる。 けれど、はっきり「好き」と書くには勇気が足りなかった。 それでも、書いた。 記憶を失うかもしれない未来の自分へ。 レオンを忘れてしまうかもしれない自分へ。 この人を大切に思っていたのだと、残すために。「……忘れたくないな」 ぽつりと呟く。 その言葉は、朝の静かな部屋に溶けた。 窓の外では、王都がいつも通り動き始めている。 馬車の音。 人々の声。 遠くで鳴る鐘。 何も知らない街。 その地下で、黒霧魔石が流通している。 王宮が見捨てた黒霧汚染者がいる。 そして、夜啼き薬房の周辺には黒鴉会という闇組織が潜んでいる。「今日は、行く日ね」 リリアは立ち上がった。 怖い。 けれど、逃げるつもりはなかった。 ◇ 朝食室へ行くと、レオンはすでに席についていた。 いつものように静かで、姿勢がいい。 けれど、どこか眠れていない顔をしている。「おはようございます」「おはよう」 声は普段通り。 だが、リリアはすぐに眉を寄せた。「寝不足ですね」「……少し」「珍しく正直です」「嘘をつくと怒るだろう」「怒ります」 レオンは小さく息を吐いた。 その横顔を見て、リリアは少しだけ胸が痛んだ。 彼も眠れなかったのだろうか。 月華の代償。 記憶を失う恐怖。
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第三十四話 王都の鐘

 旧市街の地下市場を出た時、空はすでに夕暮れへ傾いていた。 王都の屋根が赤く染まり、遠くの王宮の尖塔が炎のように光っている。 その美しさが、今は恐ろしかった。 今夜、王都の鐘が鳴る。 その時、黒鴉が羽ばたく。 黒鴉会の男が残した言葉が、リリアの頭の中で何度も響いていた。 鐘楼に黒霧魔石が仕込まれているのだとしたら。 王都全体に黒霧が広がる。 平民街も、貴族街も、診療所も、市場も、すべて。「急ぐぞ」 レオンの声。「はい」 リリアは外套の裾を握り、彼の後を追った。 レオンの足取りは速い。 だが、怪我が完全に癒えていないことをリリアは知っている。 脇腹。 背中。 白月塔での消耗。 それでも彼は止まらない。 止まれない。 王都の人々を守るために。「レオン様、傷は」「悪くない」「今は嘘をつかないでください」 彼の足が一瞬だけ鈍る。「……痛む」「ですよね」「だが走れる」「無茶です」「お前も同じことをする」「否定できません」「なら行く」 言い返せなかった。 リリアは彼の横に並ぶ。「なら、せめて一人で走らないでください」 レオンがこちらを見る。 銀色の瞳が夕暮れに淡く光る。「……ああ」 短い返事。 けれど確かだった。 ◇ 第一王子への連絡は、グレイの情報網を通じて行われた。 公爵邸へ戻る時間はない。 旧市街の裏路地にある小さな伝令所から、暗号化された伝書鳥を飛ばす。 手紙を書いたのはレオンだった。 文字は短い。『黒鴉会、王都鐘楼に黒霧魔石を設置した疑いあり。至急、鐘楼封鎖を』「これで間に合
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第三十五話 失われたひとつ

 王都の夕鐘が鳴り終わっても、広場の混乱はすぐには収まらなかった。 王宮衛兵たちが人々を誘導し、第一王子の命令を受けた騎士たちが中心鐘楼を封鎖していく。 拘束された黒鴉会の者たちは、次々と王宮地下の牢へ連行されていた。 砕けた黒霧魔石の破片は、厚い封印布に包まれ、術師たちの手で慎重に運び出される。 夕焼けはすでに消えかけていた。 空に残る橙色の光の下、王都は何事もなかったように静けさを取り戻そうとしている。 けれどリリアには分かっていた。 何事もなかったわけではない。 あとほんの少し遅ければ、王都全体が黒霧に包まれていた。 広場にいた子供も。 市場で働く人々も。 平民街の診療所にいるエドガーも。 公爵邸のミアやグレイも。 すべてが失われていたかもしれない。「リリア」 レオンの声がした。 気づけば彼の腕に支えられていた。 自分では立っているつもりだったが、どうやら身体の半分ほどを預けているらしい。「歩けるか?」「はい」 答えて、一歩踏み出す。 膝から力が抜けた。「……たぶん」「歩けていない」「少し休めば」「却下だ」 次の瞬間、身体が浮いた。「えっ」 レオンに抱き上げられている。 広場の真ん中で。 第一王子も。 王宮騎士も。 大勢の人々も見ている中で。「レオン様、下ろしてください!」「歩けないだろう」「人が見ています!」「だから何だ」 本気で気にしていないらしい。 リリアの顔が熱くなる。「公爵様が令嬢を抱えているんですよ!」「婚約者を運んでいるだけだ」「そういう問題では……!」「暴れるな。落とす」「落とさないでください!」 思わ
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第三十六話 忘れた恋の行方

 『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』 日記に書かれた一文を前に、時間が止まったようだった。 間違いなくリリアの字だった。 少し右へ傾く癖。 考えながら書いた時にできる、インクの小さな滲み。 誰かが偽造したものではない。 昨夜の自分が。 自分の手で。 自分の気持ちを書いたのだ。 それなのに、覚えていない。 文章を書いた瞬間も。 そこへ至るまでに、何を考えていたのかも。 胸の中にあったはずの感情を、言葉として認めた記憶だけが、綺麗に切り取られている。「……これを書いたことを、覚えていません」 声が震えた。 レオンは何も言わなかった。 日記へ落としていた視線を、ゆっくりリリアへ向ける。 銀色の瞳。 そこに浮かんでいたのは、喜びではなかった。 驚きでもない。 痛み。 深い痛みだった。「レオン様」 呼びかけても、彼は答えない。 日記の一文を見つめたまま、まるで息の仕方すら忘れたように動かなかった。「……昨日」 ようやく、低い声が落ちた。「この言葉を書いた時のことを、何も覚えていないのか?」「はい」 嘘をつくことはできなかった。 レオンの指が震えた。 ほんのわずかに。 剣を握る時には決して揺れない手が。「では」 声が掠れる。「今は?」 リリアは息を呑んだ。「今も、俺を……」 言葉が途切れる。 彼は最後まで言えなかった。 好きなのか? そう聞きたいのだろう。 でも、聞くのが怖い。 答えを知るのが怖い。 リリアは日記を胸元へ抱き寄せた。 今の気持ち。 レ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第三十七話 奪われる銀狼

 朝食室へ向かう途中、リリアは何度も自分の左手を見ていた。 正確には、左手そのものではない。 その手を、少し前までレオンが握っていたことを思い出していた。『俺は、お前を愛している』 思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。 言葉はきちんと覚えている。 今朝のことだ。 忘れていない。 何度確かめても、記憶はそこにある。 銀色の瞳。 震えていた声。 強く抱きしめられた時の体温。 指先へ落とされた口づけ。「……っ」 最後の記憶で、顔が一気に熱くなった。 リリアは廊下の途中で両手を頬へ当てる。「何を思い出しているんですか、私は……」 もちろん分かっている。 分かっているから困っている。 婚約者として同じ屋敷に暮らしていた時とは違う。 互いに想いを伝えた。 愛していると言った。 つまり、今の二人は。「恋人……ということになるのよね」 小さく呟く。 その単語が口から出た瞬間、余計に恥ずかしくなった。「リリア様?」 背後から声をかけられ、リリアは飛び上がりそうになった。 振り返る。 ミアが立っている。 栗色の瞳が、妙に輝いていた。「な、何?」「いえ」 ミアはにこにこと笑う。「とても幸せそうなお顔でしたので」「そんな顔してないわ」「していらっしゃいました」「してない」「閣下のことを考えておられましたか?」「どうしてそうなるの!」 声が大きくなる。 完全に図星だと自白したようなものだった。 ミアの笑顔が深くなる。「やはり」「ミア」「はい」「屋敷中に言いふらしていないでしょうね?」
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第三十八話 封印された地下回廊

 王宮の地下へ続く扉は、王族ですら滅多に使うことのない場所だった。 深夜。 王都を包む喧騒はすでに消え、王宮の中庭には月明かりだけが静かに降り注いでいる。 リリアは黒い外套の襟元を握りしめながら、石畳を歩いていた。 隣にはレオン。 そのさらに前を、第一王子とユリウス、直属騎士が四名進んでいる。 誰一人として無駄な会話はしない。 張りつめた空気だけが、夜気よりも冷たかった。 昼間、マルタから聞かされた話が何度も頭を巡る。 銀狼の器。 深淵。 初代銀狼公。 そして――セドリックが狙っているもの。 無意識にレオンの横顔を見る。 銀色の髪は月光を受けて淡く輝いていた。 けれど、その表情は固い。 王宮で暴走しかけたことを、彼自身がまだ引きずっているのだろう。「……レオン様」 小さく呼ぶ。「どうした」「寒くありませんか?」「寒くない」 短い返事。 嘘だと分かった。 レオンは寒い時ほど、感覚が鈍る。 痛みも隠そうとする。 だからリリアは歩調を少しだけ近づけた。 袖と袖が触れる。 レオンがこちらを見た。「何だ?」「隣にいるだけです」「そうか」 それだけ言って、彼は歩き続けた。 だが少しだけ肩の力が抜けたように見えた。 王宮本館の裏手。 蔦に覆われた古い礼拝堂の前で、第一王子が立ち止まる。「ここだ」 古びた石造りの礼拝堂。 王宮の中にありながら、長い年月使われていないことが一目で分かった。 祭壇には埃が積もり、色褪せたステンドグラスにはひびが入っている。 第一王子は祭壇の前へ進み、燭台を時計回りに九十度回した。 ごごご…… 重い音とともに祭壇が横へ滑る。 地下へ続く
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第三十九話 黒霧の研究者たち

 「――器を返せ」 その声は、人間のものとは思えなかった。 喉が潰れたような掠れた声。 それが地下回廊いっぱいに響く。 白衣をまとった男たちはゆっくりと歩いてくる。 足取りは不自然だった。 関節が軋み、糸で操られる人形のようにぎこちない。 けれど、その数は二十人を超えていた。 誰もが王宮研究局の紋章を胸につけている。「全員……研究員なのか」 第一王子が険しい表情で呟く。 ユリウスは魔石灯を掲げ、一人の顔を照らした。 そして息を呑む。「この方は……」「知っているのか?」「はい……王宮魔導研究局局長、エルバート卿です」 リリアもその顔を見た。 年配の男性。 髪は白く、頬は痩せこけている。 しかし、その瞳には理性がない。 黒く濁った瞳孔。 首筋には黒霧の紋様が脈打っていた。「五年前に失踪したはずです」 ユリウスの声が震える。「研究中の事故で死亡したと……」 第一王子は低く呟いた。「死亡ではなかったか。王宮が隠した」 レオンの言葉に、誰も反論できなかった。 リリアは胸が締めつけられる。 彼らは黒霧を研究していた。 そして実験に利用され、失敗し、人ではなくなった。 それでもまだ生きている。 いや――。 生かされている。「助けられますか……?」 リリアは小さく尋ねた。 マルタなら何と言うだろう。 薬師として。 人を救う者として。 レオンはしばらく彼らを見つめていた。 そして静かに首を横へ振る。「……分からない。」 その答えが一番辛かった。
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第四十話 深淵の鼓動

 どくん どくん どくん 地下深くから響く鼓動は、生き物の心臓のようだった。 そのたびに地下回廊の石壁が微かに震え、黒霧が渦を巻く。「……っ!」 レオンが片膝をついた。 胸を押さえる右手に力が入り、軍服の上からでも銀色の紋様が浮かび上がっているのが分かる。 それは星印とも違う。 銀牙とも違う。 まるで血管そのものが銀色に光っているようだった。「レオン様!」 リリアはすぐに駆け寄る。「触るな!」 第一王子が鋭く叫んだ。「まだだ!」 リリアは動きを止める。「殿下?」 第一王子はレオンを真っ直ぐ見つめた。「今、深淵は銀狼を呼んでいる。ここで不用意に月華を流せば、共鳴が暴走する可能性がある」 その言葉にリリアは唇を噛んだ。 助けたい。 今すぐ抱きしめたい。 でも、それが逆にレオンを苦しめるかもしれない。「ぐっ……!」 レオンが息を荒くする。 銀色の瞳がわずかに赤く染まり始めていた。「閣下!」 直属騎士たちが一歩前へ出る。 だがレオンは片手を上げて制した。「来るな」 低い声。 しかし、その声には微かな苦痛が混じっていた。「まだ……制御できる」 その時だった。 地下全体へ響くように、あの仮面の男が笑った。「素晴らしい」 乾いた拍手が響く。「器は本当に美しい。深淵の呼び声へ応えている」 レオンはゆっくり立ち上がる。 まだ苦しそうだ。 それでも剣を構える。「……黙れ。お前たちは、何人犠牲にした?」 仮面の男は肩を竦める。「数えたこ
last updateLast Updated : 2026-09-05
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