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All Chapters of 十年後の初恋: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話 卒業式前夜

体育館の裏、桜の蕾もまだ固い三月の夜だった。 早坂有紗《はやさかありさ》は、コートの前をかき合わせながら、校舎の非常階段に座っていた。明日には卒業式がある。制服を着るのも、あと一度きりだ。 「こんなところにいたのか」 声に振り返ると、桐生篤《きりゅうあつし》が息を切らして立っていた。前髪が汗で額に張りついている。きっと教室から探し回ってくれたのだろう。 「……何か用?」 有紗は、努めて何でもない声を出した。篤が何を言おうとしているのか、わかっていた。わかっていたからこそ、逃げてきたのだ。 篤は階段を三段のぼり、有紗より少し高い位置で足を止めた。夜風が二人のあいだを通り抜けていく。 「有紗、俺──」 「篤くん」 有紗は先に言葉を挟んだ。続きを言わせてはいけない、と思った。もし篤が想いを口にしてしまえば、自分はきっと頷いてしまう。頷いてしまえば、後戻りできなくなる。 母の病気のことは、誰にも話していなかった。話せば「かわいそうな子」になる。同情されるくらいなら、いっそ誰にも知られたくなかった。そしてもし篤と付き合うことになれば、いずれ知られてしまう。母を支えながら誰かと恋をする余裕なんて、自分にはない。そう思い込んでいた。 「わたし、進路変えたの。東京の専門、やめた。地元の花屋さんで働くことにした」 用意していたわけではない言葉が、するりと口から出た。篤の表情が固まる。 「……急だな。何かあったのか」 「別に。ただ、地元の方が向いてる気がしただけ」 嘘だった。篤はしばらく有紗の顔を見つめていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。誠実な人だから、有紗が「それ以上聞かないで」と背中で語っているのを、感じ取ってしまったのだろう。 「そっか」 短い言葉だけを残して、篤は階段を下りていった。振り返ることはなかった。 有紗は、篤の背中が見えなくなるまで動けなかった。言えなかった。母のことも、本当は自分がどう思っているかも。 ──ごめんね。 声にならない謝罪だけが、三月の夜に溶けていった。 十年後。 「有紗ちゃん、そこの薔薇、もう少し前に出したほうが目立つんじゃない?」 「あ、ほんとだ。ありがとう沙織《さおり》」 早坂有紗は花束の位置を直しながら、開店準備の手を止めなかった。商店街の一角
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第2話 ぎこちない再会

名刺を持つ手が、少し汗ばんでいた。 「都市開発一課……篤くん、そういう仕事してたんだ」 有紗はどうにか声を絞り出した。店の奥から様子をうかがっていた沙織が、気を利かせたのか、「じゃあ有紗ちゃん、あたし戻るね」と小声で言って美容室に消えていった。残されたのは、十年ぶりに向き合う二人と、開店したばかりの静かな店内だけだった。 「うん。設計事務所に入って、今は再開発プロジェクトの担当をしてる。今日はこの通り一帯の現地調査で」 篤は言葉を選びながら話した。有紗の店の中を、ちらりと見回す。棚に並んだ花たちに、少しだけ表情が緩んだ。 「有紗が花屋になるとは、思わなかった」 「わたしも、篤くんがこの仕事してるとは思わなかったよ」 あ有紗は苦笑しながら、カウンターの内側に戻った。何か作業をしていないと、落ち着かなかった。花鋏を手に取り、余分な葉を落とす作業を続ける。 「あの……この店主って、有紗、なんだよな」 「そう。三年前から」 「一人で?」 その一言に、有紗の手が一瞬止まった。 「一人で、というか……母と、ときどき パートさんに手伝ってもらいながら」 「お母さん、元気にしてる?」 何気ない問いのはずだった。だが有紗は、どこまで話すべきか一瞬迷った。十年前、篤には何も話さなかった。今さら詳しく話す必要もない。 「元気だよ。ちょっと、体調崩しやすいけどね」 曖昧に濁して、有紗は笑った。篤はそれ以上聞かなかった。昔から、そういうところがある人だった。踏み込みたいのに、踏み込めない。有紗が壁を作れば、そっと引く。十年前の階段の夜と、同じだった。 「今日は、その……調査だけ?」 「うん。区域の店舗を一軒ずつ回って、簡単な聞き取りをしてる。近いうちに住民説明会があるんだけど、案内、届いてる?」 「あ……回覧板で見た気はする。ちゃんと読んでなくて」 「時間あるときでいいから、目を通しておいてもらえると。この商店街、正直、対象区域の中心に近いから」 篤の口調が、少しだけ仕事の顔に戻った。有紗はその変化に、かすかな違和感と同時に、妙な安心も覚えた。個人的な感情のまま踏み込まれるより、今はそのほうが楽だった。 「わかった。読んでおく」 「じゃあ、また」 篤は小さく頭を下げ、店を出て行った。ドアベル
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第3話 事業者と住民代表

土曜日の午後、公民館の大会議室には、思った以上の人数が集まっていた。商店街の店主たちだけでなく、近隣の住民らしき顔ぶれも多い。パイプ椅子が隙間なく並べられ、正面のスクリーンには「〇〇駅前地区再開発事業 住民説明会」の文字が映し出されている。 有紗は、商店街組合の役員に頼まれ、急遽「若手代表」として前列に座らされていた。隣には、乾物屋の三代目である幼なじみの健太が、腕組みをして眉根を寄せている。 「有紗ちゃん、これマジで店なくなるかもって話だぞ」 「え、そこまで決まってるの?」 「いや決まってはないけど……とにかく雲行き怪しいって、うちの親父が言ってた」 ざわめきが収まらないまま、スクリーンの前に数人の担当者が並んだ。その中に、篤の姿があった。スーツにネクタイ、資料を抱えた立ち姿は、店で見たときとはまるで別人のように見えた。 「本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます」 司会役の年配の男性が挨拶を始め、続いて事業概要の説明に移った。駅前から続く商店街一帯を含む区域を、歩行者中心の再開発地区として整備する計画。老朽化した建物の建て替え、道路の拡幅、新しい商業施設の誘致──スライドが次々と切り替わっていく。 「対象区域には、皆さまの店舗も含まれております。詳細な補償や移転のスケジュールについては、今後個別に説明の機会を設けさせていただきますが……」 篤がマイクを受け取り、説明を引き継いだ。 会議室の空気が、一段と張り詰めた。 「補償って言うけど」 会場の後方から、誰かが声を上げた。 「うちは先代から五十年続けてる店だぞ。金で片付けられても困るんだよ」 「その通り!」 同調する声があちこちから上がる。篤は一瞬言葉に詰まったが、すぐに姿勢を正した。 「おっしゃる通りです。長く続けてこられた 店舗があることは、私たちも重々承知しています。ですから今回の計画では、可能な限り現在の営業を継続しながら──」 「口ではなんとでも言えるだろう」 健太が思わず立ち上がりかけたのを、有紗はとっさに袖を引いて止めた。 「健太、まだ話の途中だから」 「でも有紗ちゃん……」 「座って。聞いてから言おう」 有紗自身、内心は穏やかではなかった。フルール・アリサも対象区域に含まれている。母の入
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第4話 雨宿り

説明会から一週間、篤の姿を見ることはなかった。 有紗は店の仕込みをしながら、自分がどこかで彼を待っているような感覚に、時折戸惑った。あんな言い方をしたのだから、気まずくて当然だ。むしろ、もう店に来ないほうが自然なのかもしれない。そう思おうとするたびに、心のどこかがちくりと痛んだ。 その日は、朝から怪しかった空が、昼過ぎに本降りになった。有紗は店先の鉢植えを慌てて軒下に避難させていたところで、傘も差さずに走ってくる人影に気づいた。 「わっ、篤くん?」 「すみません、近くにいたら降られて……ちょっとだけ、いいですか」 篤はずぶ濡れの資料鞄を庇いながら、店先に飛び込んできた。有紗はとっさにタオルを差し出す。 「ばか、風邪ひくよ。奥、上がって」 「いや、店先で大丈夫。仕事中だし」 「濡れたままの人を店に置いとくほうが困るの。座って」 有紗は少し強引に、店の隅にある小さな作業台の椅子に篤を座らせた。タオルで髪を拭く篤を横目に、湯気の立つお茶を淹れる。手を動かしていないと、二人きりの気まずさに耐えられなかった。 「この前は、ごめん」 篤が先に口を開いた。 「有紗の言う通りだった。持ち帰ります、で終わらせるのは、無責任だったと思う」 「……ううん。わたしも、ちょっと言い過ぎたかなって、あとで思った」 「いや、言われて当然のことだった。俺、現場の人の生活のこと、頭ではわかってるつもりで、実は全然わかってなかったんだと思う」 有紗は湯呑みを篤の前に置いた。窓の外では、雨が商店街のアーケードを叩き続けている。 「篤くんって、変わってないね」 「そう?」 「昔からそう。ちゃんと自分が悪いと思ったら、ちゃんと謝る人だった」 篤は少し照れたように視線を逸らした。その仕草も、十年前と同じだった。 「有紗こそ、変わってないよ。というか……前より、はっきり物を言うようになった気がする」 「そうかな。昔は、言いたいこと全然言えなかったから」 言ってから、有紗ははっとした。十年前のことを、思わず 匂わせてしまった。篤の表情がわずかに動いたのを見て、慌てて話を逸らそうとした。 「あ、そうだ、この花、見て」 有紗はカウンターの端に置かれた小さな花瓶を指した。淡い紫色の小花が、いくつも束ねられている。 「これ、忘れな草っていうの。今日ちょうど仕入れたば
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第5話 東京にて

 東京都内、高層ビルの三十二階。窓の外には夕暮れの街並みが広がり、ビルのガラスに橙色の光が反射していた。だが、三浦かすみの視線はノートパソコンの画面に貼りついたままだった。  広報部のオフィスは、金曜の夜だというのにまだ半分ほど人が残っている。資料の締め切りが重なっている時期とはいえ、いつもより静かな空気が漂っていた。キーボードを叩く音が、やけに乾いたリズムで耳に残る。 かすみは資料の最終チェックを終えると、ふと隣の部署──都市開発一課のフロアに目をやった。篤のデスクは、やはり空いていた。  椅子の背もたれに掛けられたジャケットもない。机の端に置かれていたはずの水筒も見当たらない。まるで、ここ数日で彼の痕跡が少しずつ薄れていっているように感じられた。「三浦さん、桐生さんなら今日も現地出張じゃないですか」 通りすがりに声をかけてきた後輩の女性社員が、気遣うように微笑んだ。「ああ、そうだったね。ありがとう」 かすみは頷きながら、胸の奥で小さな違和感が膨らむのを感じていた。  篤が例の駅前地区の担当になってから、もう三週間になる。都市開発の部署では出張自体は珍しくない。だが、最近の篤は、明らかに様子が違っていた。 会話の途中でふと言葉が途切れることが増えた。  休日に連絡をしても、返信が来るまでの時間が少しずつ長くなっている。  先週、二人で会った時も、篤はどこか上の空だった。「ねえ、最近の担当区域、何か問題でも?」 そう尋ねた時、篤は少しだけ視線を逸らした。「いや、特には。ちょっと住民の反発が強くて、対応に苦労してるだけ」 その表情は、以前の彼と変わらないはずだった。  だが、かすみは長年広報という仕事柄、人の些細な変化を見逃さない訓練を積んでいる。  あれは、単なる仕事の疲れの色ではない。 かすみはパソコンを閉じ、コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。  廊下の照明は夜モードに
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第6話 商店街の相談役

 雨宿りの一件から、篤は以前より頻繁に商店街へ顔を出すようになった。表向きの理由は「現地調査の一環」だったが、その頻度は、明らかに業務の必要以上だった。  商店街の人々もそれに気づき始めていた。篤が歩けば、誰かしらが声をかけてくる。まるで、昔からここに住んでいた住人のように自然に溶け込んでいた。「篤さん、また来たの。今日は何の用?」 乾物屋の健太が、店先で竹ぼうきを使いながら、からかい半分に声をかけた。  篤は苦笑いを浮かべる。「いや、店舗ごとの意見を、もう少し丁寧に聞き取っておきたくて」「ふうん。まあ、有紗ちゃんの店にはよく寄ってるみたいだけどな」 健太の言葉に、篤は返事に詰まった。  健太はニヤリと笑うと、それ以上は追及せず竹ぼうきを動かし続けた。  商店街の人間は、からかいながらも、どこか温かい。篤はその空気に触れるたび、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。 その日の夕方、篤はフルール・アリサに立ち寄った。  閉店間際で、有紗は明日の仕込みのために花材を整理していた。店内には花の香りが満ち、外の蒸し暑さとは違う、柔らかな空気が漂っている。「篤くん、また来たんだ」「近くまで来たから」「そのセリフ、もう三回目だよ」 有紗はくすりと笑いながら、花材の箱を篤のほうに押しやった。「せっかく来たなら、ちょっと手伝って。明日、お祭りの装飾を頼まれてて」「お祭り?」「うん。商店街の夏祭り。毎年うちが会場のアーチを飾ってるの。今年はどうしようか迷ってて」 篤は資料鞄を椅子に置き、袖をまくった。  ふだんスーツ姿しか見せない彼が、花材を不器用に扱う姿は、有紗にとって新鮮だった。  花の茎を折らないように慎重に触る篤の手つきは、どこかぎこちなく、それがまた可笑しかった。「これ、こうでいいのか?」「ううん、そっちの向き
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第7話 保留

 約束の週末、篤とかすみは、都心のレストランで向かい合っていた。  窓際の落ち着いた個室。柔らかな照明がテーブルを照らし、外には夕暮れの街並みが広がっている。  かすみは以前から気になっていた店を選んでいた。特別な話をするなら、ふさわしい場所にしたかった。  それは、二人の未来を一歩進めるための「節目」になるはずだった。「篤、最近ちょっと元気ないみたいだけど、大丈夫?」 メニューを閉じながら、かすみは静かに尋ねた。  篤はグラスに口をつけ、視線をやや落とした。「ああ、うん。現場の対応がなかなか難航してて」 その言い方は、いつもの篤らしい誠実さを含んでいるはずだった。  だが、かすみにはどこか「距離」を感じられた。  仕事の話をしているのに、心は別の場所に置いてきたような──そんな違和感。 かすみはその様子を見つめたまま、しばらく黙っていた。  そして、意を決したように口を開いた。「ねえ。前から思ってたんだけど……そろそろ、ちゃんと将来のこと、話したくて」 篤の手が、グラスの縁で止まった。「将来のこと」「うん。わたしたち、もう五年でしょ。お互いの親にも紹介済みだし……結婚、そろそろ具体的に考えてもいいんじゃないかなって」 かすみの声は落ち着いていたが、その奥にわずかな緊張が滲んでいた。  この話題を出すまでに、何度も言葉を選び直した。  「重く」ならないように、「急かす」ように聞こえないように。  それでも、言わなければ前に進めない──そう思った。 篤はグラスを置き、少しの間、答えを探すように視線を泳がせた。「……そうだな。俺も、そろそろちゃんと考えないといけないと思ってる」「思ってる、ってことは、まだ決めてないってこと?」「いや、そうじゃなくて」 篤
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第8話 病院にて

 タクシーを降りた篤は、救急外来の入口へ駆け込んだ。  夜の病院は静かで、蛍光灯の白い光だけが、やけに際立って見えた。  消毒液の匂いが鼻を刺し、遠くで機械の電子音が規則的に鳴っている。  その無機質な空気の中で、篤の心臓だけがやけに速く鼓動していた。「有紗!」 待合の長椅子に座っていた有紗は、篤の声に顔を上げた。  目が赤く腫れている。隣には沙織が付き添い、有紗の背中をさすっていた。「篤くん……来てくれたの」「お母さん、大丈夫なのか」「今、検査中……先生は、意識はあるから大丈夫って言ってくれたけど」 有紗の声は震えていた。  篤は隣の椅子に腰を下ろし、それ以上は何も聞かなかった。  ただ、有紗の隣にいることしかできなかった。 沙織が小さく頭を下げ、「あたし、飲み物買ってくる」と席を外した。  気を利かせたのだと、篤にもわかった。「今日、お母さん、いつもと変わりなかったんだけど……夕飯の後、急に呂律が回らなくなって。慌てて救急車呼んで」 有紗は膝の上で手を握りしめていた。  指先が白くなるほど強く。「十年前と、同じだった。あの時も、こうやって待ってた」「有紗……」「あの時、わたし十八だった。母が倒れて、父はもういなかったから、一人で全部決めなきゃいけなくて。進路のこと、お金のこと……篤くんに何も言えなかったのも、あの時のことが頭から離れなかったからなの」 有紗は、これまで誰にも詳しく話していなかったことを、堰を切ったように話し始めた。  篤は黙って聞いていた。  今この瞬間だけは、事業者としてでも、昔の同級生としてでもなく、ただ有紗の隣にいる人間として、そこにいたかった。「母を一人にできなかった。誰かと恋をする資格なんてないって、あの頃、本気で思ってた」
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第9話 検査結果

 深夜二時を過ぎたころ、有紗が診察室から戻ってきた。  歩く足取りは重く、肩は落ち、表情は疲れ切っていた。  それでも、先ほどまでの張り詰めた様子は少し和らいでいた。  待合室の蛍光灯の白い光が、有紗の頬を淡く照らす。「軽い一過性の発作だったみたい。命に別状はないって。でも、しばらく入院して、詳しい検査をすることになった」「そうか……よかった」 篤は思わず息を吐いた。  胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩む。  有紗も、椅子に崩れるように座り込んだ。「篤くん、まだいたんだ」「有紗が戻ってくるまでは、いようと思って」 有紗は少しの間、篤の横顔を見つめていた。  その視線には、安堵と戸惑いが入り混じっていた。  やがて、ふっと肩の力を抜くように笑った。「ありがとう。本当に、助かった」「送っていくよ。もう遅いし」「ううん、大丈夫。もう少しここにいて、母の様子見てから帰るから」「じゃあ、俺も一緒に待つ」 篤の言葉に、有紗は一瞬迷ったような顔をした。  その迷いは、篤との距離をどう保つべきかを探るような、複雑な色をしていた。  それでも、結局「うん」と小さく頷いた。 その後、二人はしばらく無言で座っていた。  夜の病院は静かで、時折、遠くのナースステーションから書類をめくる音が聞こえるだけだった。  篤は、有紗の肩が時折小さく震えるのを見て、そっと隣に寄り添った。 翌朝。  意識のはっきりした由美子は、病室のベッドで娘の顔を見て、ほっとしたように微笑んだ。「有紗、心配かけてごめんね。もう平気だから」「平気じゃないでしょ。先生が、しばらく検査入院だって」「そんな大袈裟な。ち
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第10話 両立

 由美子の入院から一週間、有紗の生活は目まぐるしく変わった。  朝は開店前に病院に寄り、検査の付き添いや着替えの世話をする。  昼は店を開け、常連客の対応をしながら合間に発注や仕込みをこなす。  夕方は再び病院へ向かい、夜の消灯時間まで由美子のそばにいる。  それが終わってようやく、翌日の花材の準備に取りかかる。 睡眠時間は削られ、食事もまともに取れない日が続いた。  それでも有紗は、誰にも弱音を吐かなかった。  十年前と同じように、「自分がやらなければ」という思いが、体の奥に根を張っていた。「有紗ちゃん、ちょっと休んだほうがいいよ。目の下、真っ黒じゃん」 沙織が見かねて声をかけたのは、火曜の昼下がりだった。  有紗はレジ横で伝票を整理する手を止めずに、力なく笑った。「大丈夫、慣れてるから」「慣れてる、って言葉、あたし嫌いなんだよね。慣れなくていいことだってあるでしょ」 沙織の言葉に、有紗は一瞬手を止めた。  その言葉は、胸の奥のどこか柔らかい部分に触れた。「うん……わかってる。でも、今は動いてないと、逆にしんどくて」「それ、逃げてるだけかもよ」 沙織の指摘は、いつもより鋭かった。  有紗は何も言い返せなかった。  逃げている──その言葉が、心の奥で静かに響いた。 その日の夕方、篤が店に顔を出した。  以前より短い滞在時間で、有紗の様子を確認するように立ち寄るのが、いつの間にか習慣になっていた。「お母さん、調子どう?」「検査の結果待ち。先生は、大きな心配はないだろうって」「そうか、よかった」 篤は店内を見渡し、有紗の動きを目で追った。  その視線は、仕事の確認ではなく、彼女の体調を気遣うものだった。「篤くん
last updateLast Updated : 2026-08-05
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